べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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アヘン専売とフランス植民地税関
アヘン専売とフランス植民地税関

1869年      ワンタイ(Wang-Tai)の大邸宅
1880年 Hôtel Cosmopolitan(ホテルコスモポリタン)
1887年 Hôtel des Douanes(フランス植民地税関)
現在 Hải Quan TPHCM(ホーチミン市税関)
場所 21 Tôn Đức Thanh (トンドゥックタン)

現在のホーチミン市税関の歴史を語るとき、アヘン王
ワンタイ(Wang-Tai 生没年1827年~1900年)の
存在を抜きには成り立ちません。

初期のフランス植民地時代の神秘的な人物の一人とさ
れている広東生れのワンタイは、主にサイゴンの壮大な
建築物の所有者として記憶されていますが、彼が財をな
した裏商売は時のフランス政府と結託した阿片供給で
あったことが判明しており、現在では「アヘン王」と呼ばれ
ています。

1858年
ワンタイは広東で生まれましたが、中国での生活はわか
りません。

1862年
ジャンク船の引渡しのためマカオからサイゴンにやってき
た時、この地で商売をすることを決心します。

チョロン5区のLò Gốm小川(現在のPhan Huy Chú
通り)に自宅と「Briqueterie Wang-Tai」というレンガと
タイルの製造工場を建設し、その後、フランス植民地政
府の公共施設建設のためにレンガやタイルを供給する
契約に成功し、市内の多くのレンガ造りの建物の建築
に携わり、富を築きます。しばらくすると、工場労働者の
社宅も建設し、このチョロン5区は「ワンタイシティー」と呼
ばれるようになります。

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1880年に完成したサイゴン大聖堂にもレンガを供給し
ており、基礎工事用に使用されたようです。
「サイゴン大聖堂のレンガはすべてマルセイユから運ばれ
た」という観光ガイドの説明は、正確にはワンタイ工場で
供給出来なかった建物用のレンガが輸入されたと解釈
されます。

当時のフランス植民地政府はアヘンのフランチャイズ制
度を確立して利益の拡大を図り、植民地経営を安定化
させようとしていました。
それまで生阿片はイギリス領インドからいろいろな商人を
介して輸入され、チョロンの小さな工場で精製され、許可
を得た販売者によって消費者に渡っていました。

1865年頃
ワンタイはフランス植民地政府と結託して生アヘンの輸
入と精製業務を一手に引き継ぐことに成功し、大富豪
になります。

1867年
サイゴン川沿いに居宅兼事務所として3階建てレンガ造
りの大邸宅を建築しました。現在では「Hôtel Wang-Tai」
として知られているホーチミン市税関の原型です。ワンタ
イの大邸宅は1862年に完成したコーチシナ最初の総
督ボナードによって建設された木造政府庁舎よりはるか
に壮大な建物だったので植民地政府上層部の不快感
の原因ともなりました。

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1867年 建設中のワンタイ邸宅

1869年
ワンタイはチョロンに移り、大邸宅はフランス政府に貸し
出されます。

カンボジアのノロドム国王がコーチシナ政府の招きでサイ
ゴンを訪れる際、まだサイゴンには適当なホテルがありま
せんでした。そこでワンタイが所有している「豪華なマンシ
ョン」が国王の滞在先に選ばれました。

1870年代初めまで、フランスの行政官舎として多くの
組織がワンタイのマンションを賃貸しました。1869年に
設置されたサイゴン市評議会も1909年新しい市役所
引っ越すまでワンタイのマンションで業務を行っていました。

1872年
政府機関が移転したため、建物が改装され、「ホテルコ
スモポリタン」として開業します。このホテルがサイゴン最
初の西洋スタイルのホテルであったとされています。

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ホテルコスモポリタン

1874年
「ホテルコスモポリタン」の賃借者は市役所、市長宿舎、
中央警察署、秘密警察、海軍将校、フランス人クラブの
会員などすべてと言っていい程フランス人でした。
宿泊者は西洋式のサービスを好むヨーロッパからの裕福
な観光客で
2階フロアーはフランス人の社交場と化し、ゲームをした
り、ベランダで喫煙しながらサイゴン川を行きかう船を見
ながら時を過ごしていました。

1880年
ワンタイが「広東語会衆のチーフ(バンチュオン)」となると、
彼は中国の利益を声高に主張し始めます。ワンタイは
中国人入植者の中で侮れない人物になっていきます。

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1880年のホテルコスモポリタン(通称ホテルワンタイ)

しかしホテルコスモポリタンの裏側の路地Fleursにはア
ヘン窟のような貧困者のバラックが立ち並び、ホテルの
評判は落ちていきました。

1881年
生アヘンの輸入は通称ワンタイ市場と呼ばれ、その量は
864000テール(中国の重量単位、1テール=約40
g?)になり、精製後1テールを2セントでフランス政府に
売っていました。

ワンタイがアヘン取引で大富豪になっていくと、フランス
政府は彼の独占権を制限しようと動き、政府のコントロ
ール下に置くよう政策を改めます。
ハイバチュン通りにアヘン加工工場が5工場集められ、
新たな国営アヘン精製工場が建設されます。

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ハイバチュン通り74番地に現在も残る阿片工場跡

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フランス政府のアヘン取引改革政策は功を奏し、国営
アヘン工場はフランス植民地政府に多大な利益(860
万フラン)をもたらします。
しかしワンタイも1業者としてアヘン取引を行い続けます。

1882年
フランス植民地政府はホテルコスモポリタンを254000
フランで買い取り、税関と商業港電信事務所の職員が
引っ越してきます。税関の主要業務は阿片や米の取引
にかかる関税を徴収することでした。

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植民地時代の税関

1883年
ワンタイは植民地評議会にチョロンに建設されている5つ
の中国寺院や集会所の土地税をほかの寺院と同じよう
に無税にするよう求め、同胞の支持を得ます。

1885年
植民地評議会のメンバーの一人はワンタイの入札価格
が他の業者よりも高いことをコーチシナ知事や税関長に
報告していますが、ワンタイによって精製された阿片は高
品質であったことから政府との癒着が追求されることは
ありませんでした。

1886年
ワンタイはチョロンの2つのレンガ・タイル工場の他に新た
に米精製の工場を建設し、米の貿易会社を工場近くの
Hải Thượng Lãn Ông通りに構えます。
彼はまたサイゴンの中心街であるグエンフエ通りにも
「Wang-taï père el fils」(ワンタイペールエルフィルス)と
いう貿易会社を設立し、精米ビジネスを展開していきま
す。

1887年
ワンタイが麻薬取引の独占権を失った後、ワンタイの麻
薬事業への関与記録は少なくなり他の事業の記述が
多くなりますが、しかしまだワンタイはコーチシナの麻薬王
としてフランチャイズの名鑑に記載されています。

フランス政府は税関の建物が手狭になったため
100000フランをかけて新築することとし、政府の公共
建築物デザイナーであったAlfred Foulhouxの設計を
依頼し、新しい「Hôtel des douanes」(税関)が完成しま
す。
この建築物が今日残っている税関建物です。

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新しい税関

税関の概観はフランス植民地政府に多大な利益をもた
らしたワンタイに敬意を表してワンタイの「豪華マンション」
とそっくりに建築され、概観装飾には税関の主要な収益
源の象徴である「ケシの花」がデザインされています。

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ケシの花の装飾

1888年
ワンタイ61歳の誕生日(還暦祝い)とサイゴン在住30
周年を記念した祝賀会が彼の家族や同胞、友人によっ
てグエンフエ通りで盛大に行われました。通りではイルミ
ネーションで飾られ、花火が打ち上げられ、演劇が上演
されました。

地元の人々に加えてサイゴンやチョロンからもフランス人
やヨーロッパ人が駆けつけ、「ワンタイは同胞だけでなく、
フランス政府や入植者にすばらしいサービスを提供した
サイゴンに住む最も尊敬すべき著名な中国人であり、
我々はこの平和な祭典に参加することによって彼が行っ
てきた業績に対して報いなければならない」と賛辞を与え
ます。

参加したワンタイの子供達
Wangtai Suon フランス政府の官僚
Wangtai Foo カンボジアで貿易商人
Wangtai Suu サイゴンで貿易商
Wangtai Pio    中国で学生
Wangtai Xuong 中国で学生

Wangtai Khai   (カンボジア在住)とその息子
Wangtai Sing   ?
Wangtai Thang ?

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グエンフエ通りでのワンタイ祝賀会

祝賀会は8日間に渡って開催されました。
三色旗、金漢字、書道芸術、龍、刺繍シルクのカーテン
で飾られた巨大な祝賀看板がグエンフエ通りに立てられ
ました。

祝賀の8日間、ワンタイにはサイゴンやチョロンだけでなく、
カンボジア、タイ、中国からも贈り物が絶えませんでした。
それらは絹作品、真珠が埋め込まれた家具、動物の剥
製、宝石など目を見張る物ばかりでした。

土曜日の夜には祝賀の夜会を開かれました。
夜会は午後9時から始まり、フランス軍音楽隊の演奏の
中、翌午前1時まで続きサイゴン知事夫妻も参列し大
盛況でした。
ワンタイは刺繍された黒い絹の儀式ドレスを着用し、自
分の子供や孫に囲まれていました。

サイゴンの新聞「Saigon Républicain」は1888年11
月10日付け記事でこのイべントを大きく取り上げ、「記
念日」という見出しで詳細に報道しています。

1889年
ワンタイはフランス政府よりシュヴァリエ•デ•ラ•レジオン•
ドヌール勲章( Chevalier de la Légion d’honneur)を
授与されます。
アロヨシノワ河岸(現在のベンゲ運河沿い)に老後のた
めの大邸宅を建築します。

1891年
新聞「Avenir du Tonkin」と「Indépendance
Tonkinoise newspapers」が
「税関長Coquiは中国人トレーダーから「お金や贈り物
と引き換えに密輸に目をつぶるために合意した」。「ワン
タイの幸運はレンガ工場によってもたらされたのではなく、
コーチシナ政府のための阿片の供給者であり、生阿片
の精製者としての役割を担っていた」とワンタイの秘密を
すっぱ抜きます。当時、アヘン取引は専売でしたが、非
合法な活動ではありませんでした。しかし賄賂を渡したこ
とが決定的でした。
ワンタイの名声は一挙に地に落ちます。

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現在の税関

税関はホーチミン主席記念館と並んで、ベランダ方式の
典型的な建物で、建築学的には貴重な建物とされてい
ます。

フランス人の銅像
フランス人の銅像

フランスがサイゴンを直轄植民地としていた時代に、サイ
ゴンのロータリーには4人のフランス人銅像が立てられて
いました。

●ピエール・ジョゼフ・ジョルジュ・ピニョー
(Pierre Joseph Georges Pigneau
通称  アドラン司教
場所  聖マリア教会前

アドラン司教はベトナム最後の王朝グエン王朝の初代
皇帝グエンアインフック(ザーロン帝)を私財を投じて支
援したグエン王朝建国の大恩人です。彼は王朝建国を
見ずに戦地で死去しましたが、遺体は軍令をもって丁重
に葬られました。以前はタンソンニャット空港近くの公園
に墓がありましたが、現在はフランスに返され、外国人宣
教師教会に保管されています。

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アドラン司教

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左はザーロン帝の長男カイン、手に持っているのは
ベルサイユ条約


●リゴール・ド・ジェヌイ(Rigault de Genouilly)
場所  メリン広場 

1859年2月17日、フランスはダナン攻略を諦め、ブンタ
オ岬からサイゴン川を遡上し、現在のルネッサンス・リバ
ーサイド・ホテルの前に上陸、ヤーロン(サイゴンの旧名)
城を攻め落としました。

フランス軍が上陸したこの場所は「メリン広場」と名づけ
られていて、上陸を指揮したフランス・スペイン連合艦隊
の指揮官であったリゴール・ド・ジェヌイの銅像が1907
年市民劇場前から移されてきました。

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リゴール・ド・ジェヌイ

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●フランシス・ガルニエ(Marie Joseph François Garnier)
市民劇場前広場

サイゴンを占領したフランスはメコン川を遡って中国の雲
南に行こうとしますが、探検によって不可能なことがわか
り、北部ベトナムの紅河の通行権を得る為にハノイ城へ
のを攻撃を開始します。

この時の司令官が探検家でもあった海軍大尉フランシ
ス・ガルニエで、彼は戦い途上で戦死しますが、後に北
部ベトナムがフランスの保護領になる先陣でした。

市民劇場前にはジェヌイの銅像が建っていましたが、メリ
ン広場に移され、ガルニエの銅像が置かれます。

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フランシス・ガルニエ

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●レオン・ガンベッタ(Léon Gambetta)
ガンベッタ広場⇒統一会堂前広場⇒タオダン公園内

フランスがベトナムを植民地化していく時にフランス本国
で首相や外務大臣を勤めた政治家がレオン・ガンベッタ
でした。

彼の銅像は当初、旧ベンタン市場の跡地、ガンベッタ広
場と呼ばれていたグエンフエ通り(現在のホーチミン市財
務省)のところに建てられましたが、財務省建設のためノ
ロドム宮殿(現在の統一会堂)前の広場に移動しました。
その後タオダン公園内に移設されます。

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レオン・ガンベッタ

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ガンベッタ広場の銅像

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ノロドム宮殿前の広場

4人の銅像は1954年フランスがディエンビエンフーの戦
いで敗れて撤退する前にすべて取り壊されました

ぺテロリメックス 更新
ぺテロリメックス

植民地時代 Campagnie Franco-Asiatique des Pétroles
(フランコアジア石油会社)
現在 Việt Nam National Petroleum(Petrolimex)
          (ベトナム石油総公社)
場所 15 Lê Duẩn   

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現在のぺテロリメックス社

1920年代
レズアン通りとトンドゥックタン通りの交差点にあるフラン
スコロニアル建築の会社は1920年代に建設されたフラ
ンコアジア石油会社の本社です。

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1940年、フランコアジア石油会社

1954年以降
Shell oil companの本店をなります。会社の中には
「Shell Theatre」が造られ、イギリスの映画が上映され
ていて、一般人にも公開されていました。

1975年以降
ベトナム石油総公社(ぺテロリメックス)となり、国内最大
手の石油製品の供給会社の本社として機能しています。
現在では石油製品のほか、多角的な事業を推し進めて
います。

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上から ガソリン、銀行、保険、ガス、サービス
タクシー会社もあります

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PG銀行。私の感覚ではとても銀行には見えません。
1区の人民委員会(区役所)の隣にあります。

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ペトロリメックス社のタクシー

ベトナムで産出される原油は50%が国内消費、50%が
輸出されますが、石油精製能力が十分でないので、
石油製品は輸入されています。

この会社がベトナムの石油製品売上高の80%を占めて
いるのですが、ベトナムには石油の元売会社が11社も
林立していて、経営は苦しいのだそうです。べトナムの
WTO加盟までは、政府が補助金を与えていました

国営百貨店
国営百貨店

越語   Thương Sá Tax(チュオンサタックス)
英語    Saigon Tax Trade Center (SATRA)
日本語 サイゴン商業総公社
場所    135 Nguyễn Huệ

1880年
グエンフェ通りとレロイ通りの交差点にあるこの建物は最
初は農業会議所が置かれていました。

1914年頃~1922年
Établissements Claudius Perri(自動車のディーラー)
が自動車やミシュランタイヤの販売をしていました。

1922年
Union Commerciale indochinois et Africaineに取得
され、西洋と東洋の建築様式がミックスされた現在の建
物の原型が建築され、1924にデパートGrands
Magazins Charner (GMCとしてオープンします。屋上
にはシンボルとして時計台が取り付けられました。

GMCは外国製品、特にフランスとイギリスからの輸入製
品のバーゲンセールを行ない、サイゴンの上流階級やコ
ーチシナの地主が時計や蓄音機をよく買いに来ていまし
た。

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建築当初の写真

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鳥瞰図

1942年
オーナーはビルのトップにある時計台を取り壊し、増加す
る需要に答えて建物を3階建てから4階建てにしました。

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1960年
Saigon Tax Trade Center (SATRA)の所有となり、
GMCの看板が取り外され、スペースは小売人に対して
貸し出されます。

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1975年
サイゴン陥落後はホーチミン市人民委員会に寄付され,
工業製品や低価格の商品を展示していました。

1978年
サイゴンで初めて子供用品を販売したのもこの百貨店で
した。

1981年
ホーチミン市人民委員会は正式に百貨店として機能さ
せることを決定し、ドイモイ政策後は百貨店として営業が
再開されます。

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2014年現在の国営百貨店

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名盤

国営百貨店内には2階にスーパーマーケット、4階には
お土産店も入居していて、観光の外国人客も多く訪れ
ていました。

2014年9月25日
130年あまりの歴史を誇る国営百貨店はグエンフェ通り
の地下を通る地下鉄1号線工事のため、用地の一部引
渡しを余儀なくされ取り壊されることになりました。

跡地には地上43階、地下5階の高層ビルが米国ゲンス
ラー(Gensler)社の設計で建築され、2019年の完成を
目指しています。
完成後は地下鉄の市民劇場駅と地下で連結されます。

庶民の署名運動や外国機関の要請によって、この歴史
的建造物の一部が保存される計画ですが、具体的な構
想はまだ伝えられていません。

パレスホテル
パレスホテル

植民地時代 Hôtel Coq d’Or (コックドールホテル)
現在      Palace Hotel Saigon
場所      56-66, Nguyễn Huệ (グエンフェ通り)

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2014年

スンワタワーとパレスホテルに挟まれたグエンフェ通りは
埋立てが終わると処刑場としても使用されました。

1900年代
1890年サイゴン刑務所(カムロンサイゴン)が完成して
からは処刑も刑務所内で行われるようになり、跡地には
コックドールホテルという名のホテルが建設されていまし
た。

1968年
建築家Vũ Bá Đính 内装家Lê Quý Phongによって
アメリカンテイストのパレスホテルが建設されます。

1989年
南北統一後、一時Khách sạn Hữu Nghị(Frendship
Hotel)と名称が変更になりましたが、現在は改装され
て13階建ての4つ星ホテルになっています。

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パレスホテルのサービスの良さは欧米人や地元の人々
にも知れ渡っており、植民地時代からのベーカリー
「Brodard Café」やメインダイニングの「レモングラス」
はホテル外にも出店しています。

<Brodard Café>
60年以上に渡ってパイ、ケーキなどの菓子製品をヨーロ
ッパスタイルに特化して販売しています。


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1948年創業

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<レモングラス>

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現在のパレスホテル前のグエンフェ通りは改装され、この
モニュメントも取り壊され、噴水施設が造られています。



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