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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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南沙諸島 ミスチーフ礁(美済礁)

ミスチーフ礁(美済礁)

11

ミスチーフ礁は東西9km、南北5.2Kmの浅瀬の環礁で、南沙
諸島で中国が実行支配する最大規模の基地です。現在も建造
物の増築が行われています

(領有の歴史)
ミスチーフ礁はタガログ語でPanganibanと呼ばれ、過去フィリピ
ンがこの領域を支配下に置いていました。

1995年、ソ連崩壊後、アメリカ軍はフィリピンと共同軍事演習を
行ったのを最後にフィリピンから撤退をしていました。

中国はフィリピン海軍がモンスーン期でパトロールをしていない時、
ここに建築物を建造してしまいます。

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この海域はパラワン州よりおよそ209kmと、フィリピンの排他的
経済水域(EEZ)内であり、フィリピンはすぐさま中国に対して抗議
を行ないましたが、中国はこれに応じず、建造物は「自国の漁師
を守るためのもの」であると主張します。

1998年末から1999年にかけて中国は実行支配のため、港を
備えたコンクリート土台、ヘリポート、3階建ての鉄筋コンクリート
製施設、パラボラアンテナが設け、ミスチーフ礁の軍事要塞化を
進めました。

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2007年、中国農業部南海区漁政局は、漁民を組織し、いけす
養殖のプロジェクトを開始しています。

最近、風力発電装置やヘリポート施設を新設したことが確認され、
周辺には艦船を常駐させています。

南沙諸島(スプラトリー諸島)
南沙諸島(スプラトリー諸島)
Quần Đảo Trường Sa (Spratly Islands) 
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主要な島
太平島(台湾支配、最大の島)、南威島(ベトナム支配、3
番目に大きい)パグアサ島(中業島、フィリピン支配、2番
目に大きい)、ミスチーフ礁と赤瓜礁(中国支配)、インベス
ティゲータ礁(マレーシア支配)があり、一発触発の紛争地
帯です。
どの島(礁)にも原住民はいません。

南沙諸島(スプラトリー諸島)は、南シナ海に浮かぶ約10
0の小さな島々。諸島全体は大変小さな島々で構成され、
互いの距離は十数キロメートルから数十キロメートル程度
で位置しています。

一般の人が普通に居住できる環境ではなく、島そのもの
にはほとんど価値が無いのですが、海洋・海底資源が見
込め、通商路の確保や軍事政策の必要から、周辺各国が
領有権を主張しています。

(領有権をめぐる歴史 )

1.スペインの領有
フィリピンを植民地にしていたスペインが支配していました。

2.アメリカの領有
1898年、南沙諸島はパリ条約でスペインから割譲を受け
たフィリピンを植民地にした米国の支配となります。

3.フランスによる領有
ベトナムを植民地支配していたフランスが1930年からい
くつかの島々を実効支配し、1933年12月21日、バリア
省の一部としました。

4.日本による領有
1938年に日本が領有を宣言し、新南群島と命名。以降
1945年の第二次世界大戦終結まで支配します。
行政区分は1938年12月23日外甲第116号閣議決定
により台湾の高雄市の一部としていました。リン鉱石の採
取が主な産業で従事者が住んでいましたが戦火の拡大に
より撤退しました。

5.中華民国(台湾)による領有
1946年、日本の敗戦後は中華民国が軍艦“太平号”を派
遣して南沙諸島を支配します。

6.フィリピンによる領有
1949年にフィリピンが一部の領有を宣言します。

7.南ベトナムによる領有
1951年のサンフランシスコ講和条約で日本が領有権を
放棄した後、1956年10月22日に南ベトナムが143/NV
号大統領決定により同国のバリアの一部からフォクトイ省
の一部に編入した。

南ベトナム政府が1973年9月に再び、フォクトイ省への
編入を宣言したことに対し、中国も翌年1月に抗議声明を
出して領有権主張を本格化させていきます。

1970年末南ベトナムが南シナ海沖に海底油田(バホー
油田)を発見してからは、広大な排他的経済水域内の海
底資源や漁業権の獲得のため、近隣に位置する周辺国
のみならず、遠く離れた中国を含む各国が相次いで本格
的に領有を宣言し始めます。

また広大な地域に広がる島々は軍事的にも価値があり、
中国を含めたASEANでの会議で軍事介入はせず現状維
持の取り決めが結ばれたが、近年、中国の人民解放軍が
建物を勝手に建設しマレーシアなどから非難を浴びていま
す。

1983年にはドイツ人のアマチュア無線家のグループが
キャンプを張っての移動運用を試み、ベトナム軍の守備隊に
銃撃されて死傷者が出る騒ぎが起こっています。

8.中国による領有
赤瓜礁海戦(中国とベトナムとの軍事衝突)
1988年3月14日、南沙諸島における領有権をめぐり中
国とベトナム両海軍が衝突し、勝利をおさめた中国は、こ
の海戦で赤瓜礁のほか、永暑礁、華陽礁、東門礁、
南薫礁、渚碧礁と後に名付けられた岩礁または珊瑚礁を
手に入れます。

2004年9月に、フィリピンと中国が海底資源の共同探査
で2国間合意成立。

2005年3月には、フィリピンと中国の2ヶ国に続きベトナ
ムも加わり、探査が行われている。

2007年11月、中国の人民解放軍が西沙諸島の海域で
軍事演習を行ったことや、同月中旬に中国が中沙諸島だ
けでなく、南沙、西沙の両諸島にまで行政区「三沙市」を海
南省の中に指定したことをきっかけとして、同年12月にベ
トナムで「中国の覇権主義反対」などと唱える反中国デモ
が行われています。

2010年3月にアメリカからスタインバーグ国務副長官と
ベイダー国家安保会議アジア上級部長が中国を訪れた際
に、中国政府は南シナ海を『自国の主権および領土保全
と関連した「核心的利害」地域と見なしている』との立場を、
公式に通知したことが報じられました。

2011年2月末から5回以上にわたり、中国探査船がフィ
リピンが主張する領海内において探査活動をくり返し、5
月には無断でブイや杭などを設置したため、フィリピンの
アキノ大統領はこれを領海侵犯とし、同年6月国連に提訴
した。

2013年1月 フィリピン政府は南沙諸島の海を「西フィリ
ピン海」と名付けました。

<中国の主張>

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中国の防衛ライン

南沙諸島が中国領であることに疑いの余地はない
「人民網日本語版」
2011年年6月8日

南沙(英語名:スプラトリー)諸島は中国の領土だ。中国は
これについて十分な歴史的根拠および国際法上の根拠を
持つ。

南沙諸島を最初に発見し、命名したのは中国人だ。中国
人は早くも紀元前2世紀に、長距離航海と生産活動の過
程で南沙諸島を発見。南中国海の島嶼、砂州、暗礁につ
いて一定の認識も持っていた。

航海の発展に従って南沙諸島への認識は一層深まり、
唐・宋代には「万里長沙」など南沙諸島の古い地名が現れ
始めた。

唐・宋以降の多くの文献に南沙諸島を含む南中国海諸島
の数十カ所の地名が詳しく記されており、島嶼、砂州、暗
礁、水道の大小、地形、方位などが具体的に描写されて
いる。

南沙諸島を最初に開発し、経営したのは中国人だ。紀元
前1世紀の『異物志』と晋朝の裴淵の『広州記』にはすで
に中国の漁師が南中国海で漁をしていた記述がある。

明・清代、南沙諸島で漁をする海南島の漁師が次第に増
え、活動範囲も広がり、定まった操業ルートが形作られた。
中国の漁師は島で樹木を栽培し、荒れ地を開墾し、島を
開発した。

19世紀以降の外国の航海者や侵略者も、自ら目撃した
事実に基づき、中国人が南沙諸島を開発・経営しているこ
とを認めざるを得なかった。

英国海軍測量局の『中国海指南』は南沙諸島の鄭和群礁
について「海南島の漁師はナマコや貝殻を捕って暮らして
いる。その足跡は各島にあり、長く暮らしている者もいる」
と描写している。

南中国海の主権を最初に管轄し、行使した国も中国だ。
明代の『鄭和航海図』に記された「万生石塘嶼」とは今日
の南沙諸島のことだ。

1716年の『大清中外天下全図』、1817年の『大清一統
天下全図』では「万里石塘」として南沙諸島が版図に組み
込まれている。

1883年、ドイツは清政府の抗議を受けて南沙諸島への
調査活動を停止した。

1933年、フランスが南沙諸島の一部島嶼を占拠すると中
国の漁師が抵抗。中国政府はフランス側に厳正な申し入
れを行い、撤退を余儀なくさせた。

1946年、中国政府は「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」に
基づき南中国海の島嶼を回収。「永興」「中建」「太平」「中
業」の軍艦4隻を派遣して4大諸島を接収した上、島で接
収式典を行い、改めて主権碑を建てた。
軍艦は台湾政府が派遣しましたが、台湾は中国の一部と
の見解でこのような表現になっています

1947年、中国は「南中国海諸島新旧名称対照表」を公布。
南中国海の島や岩を広東省政府の管轄下に置いた。翌
年2月、中国政府は「南中国海諸島位置図」を公布。新中
国成立後もこの図を用い、南沙諸島に対して主権を行使
し続けた。

周恩来総理は1951年に「米英の対日講和条約案および
サンフランシスコ会議に関する声明」を発表。「西沙・南沙
諸島および東沙・中沙諸島はずっと中国の領土」であり、
米英の対日講和条約案の影響は受けないと厳正に指摘し
た。

1958年、中国は「領海に関する声明」を発表。「領海を1
2海里とする中国の規定は東沙、中沙、西沙、南沙諸島お
よびその他中国に属する島嶼に適用される」と明確に宣
言した。この後、南沙諸島への外国による主権侵害に対し、
中国政府は「争う余地のない主権を有する」と繰り返し表
明してきた。

既存の歴史的根拠および国際法の「発見の原則」「先占
の原則」「禁反言の原則」に基づき、中国は南沙諸島およ
びその周辺海域に対して争う余地のない主権を有す。

国際社会も南沙諸島に対する中国の主権を承認し、南沙
諸島の中国帰属は多くの国々の地図に明示されている。
例えば1954年にドイツ連邦共和国で出版された『世界大
地図』、1957年にルーマニアで出版された『世界地理図
集』、1970年にスペインで出版された『アギラール大地図
帳』、1973年に日本の平凡社が出版した『中国地図帳』
などだ。

中国政府は一貫して強く責任ある姿勢で、極めて強い自
制を保ち、かつ建設的な姿勢で「係争棚上げ、共同開発」
を主張し、対話と交渉を通じた南中国海係争の適切な処
理・解決に尽力してきた。中国は国連海洋法条約の基本
原則と法制度を含む、広く認められた国際法および現代
海洋法に基づき、関係国の二国間協議によって、平和的
方法で係争を解決することを望んでいる。


<南シナ海におけるアメリカの政策>
アメリカは、南シナ海の公海における「航行の自由、港な
どへのアクセスの自由」のために地域の平和と安定を強く
主張しています。理由は2つあります。

南シナ海はアメリカにとって重要な海上交通路で、毎年約
5兆3000万ドルの物資が南シナ海を通過する内約1兆ド
ル超はアメリカの物資なのです。
もう1つは、米軍の世界地域おける軍事政策上、南シナ
海周辺国の港湾や施設へのアクセスの自由が不可欠で
あることです。

1994年に中国がミスチーフ礁を占領したことを受けて、
アメリカの対南シナ海政策が規定されるようになってきま
した。

1995年にアメリカ国務省が発表した南シナ海政策
1.紛争の平和的解決
2.平和と安定
3.航行の自由
4. 紛争に対する中立的立場
5.国際法の原則を尊重

アメリカの明確な外交メッセージにより、中国はASEANに
歩み寄り、南シナ海問題では2000年から2006年まで比
較的穏当な態度をとりますが、2007年以降、再び強硬路
線に転じます。

2010年には、ベトナムの石油会社の採掘や漁業活動を
妨害したり、フィリピンの海底調査活動を妨害したりと、中
国は南シナ海で他国との紛争を次々と引き起こしたのをき
っかけにアメリカのクリントン国務長官はより強い調子でア
メリカの国益の在り処を示しました。

1.国際法規を守ることは米国の国益である。
2.領土紛争の解決のため、すべての関係国による協調
的な外交プロセスを支持する。
3.南シナ海における領有権をめぐる紛争に対し、いずれ
の側にも与しない。
4.「南シナ海行動規範」を支持する。

この発言は中国を強力に牽制するとともに、これまで南シ
ナ海の騒動には不介入だったアメリカの姿勢転換を意味
していました。

2011年、オバマ政権は米軍の重心を中東から東アジア
へ移す「ピボット(転換)戦略」を発表し、南シナ海を含む西
太平洋に対して、アメリカはこれまで以上に「濃い」関与を
するのだと表明します。

2011年8月23日、ベトナム戦争終結後初めて米海軍ル
イス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦「USNSリチャー
ド・E・バード」(排水量41,000トン)がメンテナンスと補修の
ためにベトナムのカムラン湾へ入港します。

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2012年4月28日、アメリカ軍の戦略変更を受けて、日本
は戦略的ODAの一環としてフィリピン、マレーシア、ベトナ
ムの3カ国を対象に、巡視船供与などを決定しました。名
目は南シナ海におけるテロ・海賊対策への協力ですが、
同海域で覇権主義的な行動を強める中国への包囲網を
構築する狙いがあります。

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これに対し、中国では「2007年~2010年の南シナ海で
の手法は行き過ぎだったのではないか、係争相手をむや
みに脅した結果、とうとうアメリカの関与を濃くさせる結果
となってしまった。」とする見方が生れました。
南シナ海で中国が得点を稼ぐのは容易ではなくなりました。

そこで中国の政権移行期に対外政策の手詰まり感を払拭
する為に、目を転じたのが東シナ海―尖閣諸島―という事
情があります。
日本政府による尖閣諸島国有化だけが現在の東シナ海
の緊張を生んだというわけではありません。

中沙諸島 スカボロー礁(黄岩島)

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スカボロー礁(中国語名:黄岩島)は、フィリピン共和国の
ルソン島西方沖にあり、その名称は18世紀にこの地点で
難破した茶貿易船「Scarborough号」にちなんでいます。
スカボロー礁は周囲55km、面積150km²、水深10~20
mの礁湖を持つ二等辺三角形の環礁で水深3500mの
海盆上にあり、海底の山が水面に3m近く露出した部分が
黄岩島です。
礁湖の南端には水深が9~11mある路があって、漁船が
漁業活動を行なったり風を避けることができます。

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(領有権をめぐる争い)

(フィリピン共和国の主張)
スカボロー礁の付近海域は16世紀にはフィリピン漁民の
漁場だったとし、スカボロー礁がルソン島の西沖約220キ
ロと近接していることから、1980年、フィリピン政府はスカ
ボロー礁を200海里排他的経済水域内であると主張して
います。

しかしスペインがフィリピン諸島をアメリカ合衆国に割譲し
た1898年のパリ条約、1900年のワシントン条約、
1930年の英米条約では、東経118度をフィリピンの西限
としており、スカボロー礁はこの範囲の外側にあります。

1935年のフィリピン共和国憲法及び1961年の領海基
線法にも同様の規定がありますが、フィリピン外務省は、
スカボロー礁は「島」ではなく「岩」であって、これらの条約
等の対象とされていないと主張しています。

そして、フィリピン外務省は国際公法上の判例を踏まえる
と、領有権は歴史的な主張や領有ではなく、管轄権の有
効な行使、実効支配(effective exercise of jurisdiction)に
基づいて判断されるべきであると主張しています。

1990年後半スカボロー礁周辺海域の地下に天然資源が
確認されたから領有権争いが表面化します。

13

14
中国国旗が立てられたり、フィリピン国旗が
立てられたりします。

1992年、フィリピンから撤退する米軍から中沙諸島の実
効支配を継承します。

1997年、フィリピンが軍艦と軍用機を出動して台湾の民
間組織のラジオ局による領海侵犯を追跡、監視。

1997年4月30日、フィリピン人2人の国会議員が軍艦に
乗って上陸、旗と碑を立てる。

1998年1月から、中国海南省の4艘の漁船が領海侵犯し、
フィリピン海軍に拿捕され、51名の漁民がフィリピンに半年
間拘禁されます。

1999年5月23日、フィリピン軍と中国の漁船が衝突。中
国外交部スポークスマンはフィリピンへ抗議し、交渉を呼
びかけた。

1999年6月、フィリピン教育部は新しい地図の中で、スカ
ボロー礁と南沙諸島を版図に表記し、8月には「南沙諸島
はフィリピン領土」である旨の憲法改正を行ないました。

1999年11月3日、フィリピン海軍の艦船がスカボロー礁
のパトロール中に座礁。フィリピンは艦船は救援参加時に
故障が発生したと発表したが、中国は座礁した艦船の撤
去を求め、フィリピン側はすぐに撤去して以来、島の陸地
を実行支配する国はなく、島周辺の水域はフィリピンの
艦船が監視しています。

2000年、フィリピン海軍が領海侵犯した中国の漁船船長
を射殺した。

2009年には、フィリピンが南沙諸島の一部とともにスカボ
ロー礁を自国領有とする「領海基線法」を国会で成立させ
ました。
これに対し、中国政府は「違法かつ根拠のない主張であり、
厳重に抗議する」との声明を出します。

2012年4月8日、フィリピン海軍がスカボロー礁近くに中
国の漁船8隻が停泊しているのを発見し拿捕したのを受け、
中国の監視船が現場に急行、フィリピン海軍の進行を阻止し、
睨み合う状況が2カ月近く続きました。

4月17日、フィリピンのデル・ロサリオ外相は国際海洋
裁判所に判断を仰ぐ提案をしたが、中国外交部辺海局
の鄧中華局長はスカボロー礁は法理上自国の領海で
あることは明白だとして拒否しています。


フィリピンの領有主張は無理があるようで、フィリピン紙
ニラ・スタンダード・トゥデイは2012年4月28日付で
フィリピンの投資家Victor・Arches氏の寄稿「それは中国
に帰属する」を掲載しています。

寄稿の要旨は以下の通り。

スカボロー礁は確かに中国に帰属する。中国は元朝の
1279年にはすでにスカボロー礁を発見し、地図に記載
していた。それ以来、中国の大陸と台湾の漁師はここで漁
をしてきた。
実は当時元朝の統治者フビライに仕えていた天文学者、
技師、数学者の郭守敬が南海諸島の測量を行った際、
基準点としたのがスカボロー礁だった。

それと対照的に、わが国の外務省が領土の証拠として
持ち出した「古地図」は、中国の地図から541年後の
1820年になってようやく製作されたものだ。Edgardo
Angara上院議員が、540年以上も遅れてようやく製作
された地図が、それよりずっと前の中国の地図よりも説得
力があると主張していることは、私にとって大きな驚きだ。

米国から独立を宣言した1946年の時点で、われわれの
領土はどうだったか?1899年、1935年、1943年、
1973年、1986年、1987年のわれわれの歴代憲法の
いずれにもスプラトリー諸島やスカボロー礁が領土として
含まれていないのはなぜか?われわれはどこから、あるい
は誰から、突然これらの島嶼を手に入れたのか?まさか、
どこからともなくではあるまい。

1970年代後半に中国はスカボロー礁周辺で科学調査活
動を行い、後に碑も建てた。だがこれはフィリピンによって
権限のないまま1997年に撤去された。

フィリピン政府発行の地図は1990年代まで全てスプラト
リー諸島とスカボロー礁を領土の範囲から除外している。
1961年にわが国の議会で承認された共和国法令第30
46号は、われわれをこれらの島嶼の保有から押しとどめ
ている。

だが48年も後の2009年3月10日になって、われわれは
この法令を改正し、これら係争中の島嶼の保有を一方的
に宣言した。

しかし、これらの島嶼に対する中国の主権を支持する国際
条約が3つあるという事実を軽視することはできない。
1898年の米国とスペインのパリ条約、1900年のスペイ
ンと米国のワシントン条約、1930年の英米条約だ。
これらはいずれもフィリピンの領土の境界を東経118度
と定めている。

一方で、フィリピン側の領有権主張の根拠は1982年の国
連海洋法条約のみだ。私の理解では、これは「convention」
に過ぎず、宗主国間で締結された 「treaty」や「agreement 」
を覆したり、取って代わることはできない。たとえ「law」と見
なしたとしても、遡及効果を持って過去の事実を変えること
はできない。


(台湾の主張)
スカボロー礁は中国人に最も早く発見されたとされ、その
付近海域も海南島の漁民の古くからの漁場だった。

1279年、著名な天文学者郭守敬が「四海測験」を行なっ
た時、南シナ海ではこの島を測量地点としたとされる。

1935年1月、台湾水陸地図審査委員会はスカボロー礁
を台湾の版図へ入れます。

1947年末、台湾内政部が正式に編纂出版した「南海諸
島位置図」でスカボロー礁を「断続国界線」内へ入れ、この
線を法的効力のある歴史的境界線として、台湾は線内の
島、礁、浅瀬、砂州の主権を主張しています。


(中国の主張)
元王朝時代に黄岩島で測量を開始し、その後も周辺海域
で漁業、開発・調査など主権を行使してきたことを理由に、
フィリピンの主張を退ける。

1983年、中国地名委員会は「我国南海諸島部分標准地
名」を公布して「黄岩島」を標準名称とした。

中沙諸島
12
中沙諸島は、南シナ海にある諸島の一つ。西沙諸島
の東南、東沙諸島の西南、南沙諸島の北方にかけて、
北約740km、東西約430kmの広大な範囲に含まれる
複数の岩礁がある海底地形で、大きく四つエリアにわ
かれており、中心になるのは西沙諸島に近いマックル
ズフィールド堆と呼ばれる海域です(写真左側)。

唯一海上に露出している地形は、フィリピンに近い
スカボロー礁(黄岩島 写真右側)のみであり、
国連海洋法条約上の「島」に該当するか否かについて
は議論が分かれています。

中沙諸島と称されるエリアは広大で、そのマックルズ
フィールド堆とスカボロー礁を除いたエリアは水深40
00m以上の深海です。

フィリピンは一時的にスカボロー礁に座礁した艦船を
利用し実行支配しようとしましたが、中国政府のクレ
ームにより座礁した艦船をすぐに撤去しています。

島の周囲の領海、経済水域はフィリピンが監視、取締
を行っていますが、中国、台湾、ベトナムも主権を主
張しています。

中沙諸島が存在する範囲は、南シナ海の他の海域と
同様、漁業資源が豊富であることに加えて、石油や
天然ガスの資源の埋蔵可能性があるためです。>
西沙諸島 中建島(トリトン島)


11
島の位置

12
島の位置

13
島の全景

西沙諸島の西南端に位置し永興島から178海里に位置
する西沙諸島の西南端島で、面積は1.5平方Km、
平均海抜2m,長さ1200m、幅1000mの島。
満潮時は2サッカー場位の面積で、引き潮時には白砂の
珊瑚砂が現れます

14

15

北東モンスーンの影響を受け、毎年台風の洗礼を受ける
厳しい自然環境にありますが淡水は2フィートも掘ると湧
き出てきます。

毎年春から夏の初めにかけて、無数のツバメがこの島に
渡ってきますので、鳥の糞による汚染が問題になっていま
す。島の近海は巻貝の産地をしても有名です。

満潮時には水没するところが多い為、植物が育ちません
でしたが、1970年代から島の守備兵が植樹を始め、
現在は緑化されてきています。

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中国にとっては南沙諸島への中継基地として非常に重要
視されている島です。

(領有の歴史)
1946年、日本の敗戦後、台湾が軍艦“中建号”を派遣し
て島を接収。島の名称は“中建号”から命名されました。

1974年 南ベトナムとの西沙諸島海戦に勝利して、島を
占拠し、翌年から正式に中国人民解放軍、
中国人民武装警察部隊が常駐します。

1996年、中国政府がこの島が領海内であることを
声明し、島に領海起点を設けます。

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中国領を占める石碑



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