べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
カテゴリ

FC2カウンター

リンク

このブログをリンクに追加する

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ハムギ帝 勤王運動1
勤王運動

Phong Trào Cần Vương

「勤皇運動」とは1885年7月13日ハムギー帝の名で
宣布された「勤皇の詔」に応じて1885年から1889年
にかけて主にベトナム中部から北部地方にかけ、文伸
(バンタン 地方の儒学者や知識人)が中心となって発
生したフランス植民地支配に対する蜂起です。

勤皇運動の経緯
11 (462x269)

<背景>
1883年8月20日
フランス軍はフエの河口トゥアンアン(順安)の戦いで勝
利したフランス軍は、8月25日には「アルマン仮条約」の
締結を強行に迫りベトナム全土を事実上、植民地にし
てしまいます。
フエ宮廷内ではフランスに屈する穏健派と武力抵抗も
辞さない強硬派がいました。しかし官僚のトップであった
権臣トン・タット・トゥエット(武官)とグエン・ヴァン・トゥオ
ン(文官)は強硬派で「アルマン仮条約」の前後からフラ
ンスに対する武力抵抗の準備を始め、フエ宮殿が陥落
した時に備えてクワンチ省にタンソ要塞を建設していまし
た。

1884年5月11日
フランスは清仏戦争にも勝利し、中国清朝はベトナムの
宗主権を放棄します。

1884年6月6日
フエ宮廷はベトナム全土がフランスの植民地になる本条
約「パルノートル」条約を締結させられ、強硬派の怒りは
頂点に達します。

1.フエ宮廷のフランス軍に対する奇襲攻撃(フエの待ち伏せ)
1885年7月4日
フランス軍はフエ宮廷に参内して信任状奉呈の打ち合
わせの為、フエ宮廷の官僚を招いて夜会を開きました。
その席でフランス軍はフエ宮廷内に参内する際には、正
面玄関である「午門」を開けること、そして宮廷内に駐留
することを要求します。
フエ宮廷の官僚はフランス軍が「午門」を通って宮廷内
に参内することを認めることができませんでした。「午門」
はグエン朝建国以来のしきたりで皇帝しか通ることが出
来ないと定められていたからです。

この話を聞いた権臣のトン・タット・トゥエット(Tôn Thất Thuyết)
とチャン・スオン・ソアン(Trần Xuân Soạn)、ト
ン・タット・レ(Tôn Thất Lệ)らはついに反乱蜂起を決意
します。

7月5日午前1時頃
フランスの官僚や兵士が寝静まった頃を見計らって、突
然、トン・タット・トゥエットはフエ宮廷軍に対岸のフランス
軍駐屯地や公使館へ奇襲砲撃を開始するよう命じま
す。

フエ宮殿から砲弾が打ち込まれ、数千人のフエ宮廷軍
がわずか1400名のフランス駐屯地の兵士に襲い掛か
りましたが、善戦したのは当初のみで、武器の違いは大
きく、体勢を整えたクールシ将軍率いるフランス軍にはか
なわず、フエ宮廷が陥落するのは時間の問題でした。

2.フエ宮廷からの逃亡
1885年7月6日
敗北を知ったトン・タット・テュエットは6日の明け方、兵
士を集め、皇太后やハムギ帝、宮廷に住む一族や官僚
を連れて、宮廷西門からキムロン地域にあるティエンム
ー寺(Thiên Mụ)に集合しクワンチに向けて逃亡してい
きます。(失守京都)その数は1000人近くになりました。

フエ宮廷を占拠したフランス軍は武器や財宝を略奪した
との記述があります。

3.「勤皇の詔の発布」
1885年7月8日
一行はクワンチに入り、休憩を取り会議が開かれます。

皇太后トゥズーの意見に従って、女性や子供、老人など
約半数がフエに戻りますが、500人はクワンチ省カムロ
県のタンソ(Tân Sở )要塞に向けて行進します。

7月13日
タンソ要塞は避難用の要塞として権臣グエン・ヴァン・ト
ゥオンとトン・タット・トゥエットが2年前から建築を始めて
いた要塞です。
ハムギ帝はここで、「勤皇の詔」を宣布します。

4.ベトナムキリスト教徒への攻撃
勤皇運動の攻撃標的はフランス軍でしたが、フランス軍
はトンキンに35000人、コーチシナには数千人の兵士が
配置されていましたが、アンナンにはわずか数百人しかい
ませんでした。しかもアンナンの部隊はフエ、トゥアンアン、
ヴィン、クイニョンに分散していました。

抵抗勢力はフランス軍に対する有効な攻撃が出来ず、
怒りはフランス軍に友好的なベトナム人カトリック教徒に
向けられていきます。

正確な数字ではありませんが、1885年7月から9月の
間に抵抗勢力はベトナムのクリスチャン人口の約3分の
1にあたる40000人のクリスチャンを殺害したとされてい
ます。
特にクワンガイやビンディンでは男女、子供を問わず24
000人、クワンチでも7500人が殺害されています。

クリスチャン達はフランス人やスペイン人の神父の呼びか
けに応じて自分を守るためにあらゆる手段をつかって抵
抗し、劣勢であったにもかかわらずクリスチャンは少なか
らず抵抗勢力に損害をあたえました。

5.トンキンからのフランス軍の介入
当初フランスは勤皇運動への反応が鈍く、数週間
アンナムから聞こえてくる噂を信じていませんで
したが、最終的にはキリスト教徒の虐殺が明らか
になった時点で行動を起こしました。

7月
フエ宮殿のあるアンナム地域への本格侵略はフランス本
国によって禁止されていましたが、カトリック教徒の虐殺
をきっかけにアンナムへの侵略が35000人に強化され
ていたトンキン遠征隊の軍隊によって行われます。

クールシ提督は脆弱なベトナム中部の海岸線に沿って
上陸し、戦略的に重要な地点を確保し、クアンガイとビ
ンディンでの虐殺により四面楚歌になっていたベトナム人
カトリック教徒のコミュニティを保護します。

8月
ショーモン中佐はヴィンの砦を占領するためにゲアン、
ハティン海兵隊を南下させます。

大虐殺を逃れたビンディン省にいた7000人のキリスト
教生存者はクイニョンの小さなフランス租界に避難しま
す。

8月末
Léon Prud'homme提督の指揮の下、600人のフラン
ス兵とベトナム人傭兵は戦艦 La Cocheterie,
Brandon, Lutin 、 Comèteに分乗してフエから出航し
クイニョンに上陸し、9月1日にはビンディン省へと行進し
ていきます。

ベトナムの武装勢力は、フランス軍の前進を阻止
しようとしましたが、槍と時代遅れの火器で武装
しただけのベトナム武装勢力はフランスの大砲の
格好な餌食でした。

9月3日
武装勢力は一掃され、9月3日にはフランス軍は
ビンディン省に進軍し、3人のベトナム人官僚がキリ
スト教徒大虐殺の共犯として処刑されました。
勤皇運動がすべてのベトナム人の意思ではないと考えて
いたため、フランスはアンナムとトンキンの保護領化を推
し進め、勤皇運動に対しては政治的な決着を図ろうと企
てます。

皇太后のトゥズー(Từ Dũ)を始めとする3宮はハムギ帝
を諦め、勤皇運動が始まった直後からフエに戻りました。

9月
クールシ提督はハムギ帝(咸宜帝)の支援を断ち切り、
兄のドンカイン帝(同慶帝)を皇位に就けます。

11月
Mignot中佐もトンキン地方の南部、ニンビンからベトナ
ム武装勢力を蹴散らしながら、中部ベトナムに南下して
きます。

6.勤皇運動の本格化
多くのベトナム人は同慶帝をフランスの傀儡王とみなして
いましたが、
トンキンで数年前からフランスと戦っていたベトナム宮廷
軍の指導者であったホアン・ケ・ヴィン(Hoàng Kế Viêm)
はベトナム人民の疲弊を目の辺りにして、フランスへの抵
抗をやめ同慶帝への忠誠を誓います。

しかし中部や北部ベトナムでは「勤王の檄文」によって武
装蜂起したグループの抵抗が各地で続いていました。

代表的な蜂起は以下のようなものでした。
13 (600x408)

7. フランスのコーチシナからの軍事介入
1886年7月
コーチシナのフランス軍は隣国カンボジアの反乱鎮圧に
忙しく、勤王運動の鎮圧に軍隊を編成できないでいまし
たが、Trần Bá Lộcの指揮下にフランス正規軍とベトナ
ム人傭兵400人で編成された軍隊が本格的に勤王運
動の鎮圧に投入されます。

8. バーディンでの反乱を鎮圧(ターニングポイント)
1887年1月
フランス軍はバーディンでの反乱を鎮圧します。この戦い
が勤皇運動による反乱のターニングポイントでした。

1887年前半
コーチシナのフランス軍はビンディン省、フーイェン省に進
軍していきます。勤王運動の指導者が寝返りを打ったこ
ともあり、抵抗は崩壊していきます。そして6月にはフエの
南部までを制圧します。

9. ハムギ帝の逮捕・流刑
1888年10月30日
ハムギ帝が逮捕され、フランスに協力するように説得され
ますが、ハムギ帝が断固として拒んだため、アルジェリア
に流刑になってしまいます。その後も抵抗運動は続けら
れましたが、悉くフランス軍に鎮圧されていきます。

10.ファン・ディン・フンの死去
1895年7月  
フランス軍はファン・ディン・フンの根拠地であるフオンケ
要塞の総攻撃に踏み切り、ファン・ディン・フンがジャング
ルの中で死去します。(享年49歳) 。この総攻撃をもっ
て勤皇運動は終焉したと見なされています。

<結果と失敗の原因>
勤皇運動と呼ばれた武装蜂起はおよそ10年継続しまし
たが、結果はフランス軍にすべて鎮圧されました。

1.鎮圧されたのはフランス軍との武力の差が歴然として
いることが主因ですが、そもそも勤皇運動は地方の愛国
的な文伸がリーダーとなり個別的に蜂起したもので、運
動は各地に広がったものの、中部、北部ベトナム全体を
統括する全国的組織が無かったため、リーダーが倒れる
と運動が終焉してしまうという側面がありました。

2.この国内の混乱に乗じて悪行を働く輩もいて、勤皇
運動は必ずしも農民の支持を受けていませんでした。

3.勤皇運動の初期にはベトナム人カトリック教徒が迫
害されたため、カトリック教徒からフランス軍に抵抗勢力
の動向が逐次報告されていたこと。

4.勤皇運動はハムギ帝を擁立してフランス軍を追放す
る運動だったので少数民族の自治権はないがしろにされ、
彼らを味方につけることが出来ませんでした。

この運動の鎮圧によりベトナムの封建制度を支えてきた
文伸たちの抵抗は終焉し、その後のフランス支配に対す
る抵抗運動は民族運動に変化していきます。span>
ハムギ帝  「フエの待ち伏せ」
ハムギ帝  「フエの待ち伏せ」

<背景>
1883年8月20日トゥアンアン(Thuận An)の戦いで勝
利をおさめたフランス軍は脅迫に近い強行態度でにアン
ナン(中部ベトナム)とトンキン(北部ベトナム)をフランス
の保護国とするよう迫り、フエ宮廷はほぼフランスの言う
なりにフエ条約を締結させられます。

多くのベトナム人はフランスの保護を振り払うことを切望
し、フランス統治に反対する勢力が1884年、1885年
と次第に増加していきます。

1884年8月からトンキンのフランス軍はベトナムの宗主
権を主張する中国、清朝との戦争に突入していったため
に(清仏戦争 1884年8月~1885年4月)、フエ宮廷
内の対フランス強硬派はこの間にフランスに対する反乱
の準備を整えて生きます。
1885年6月、フランスとの戦争に負けた清国は「天津
条約」を結び、ベトナムに対する宗主権を放棄します。
この時ベトナム人の憤慨はピーックに達します。

1885年7月
11
Léon-Frédéric-Hubert Metzinger大隊長
(1842年~1914年)

12
フエ宮殿と右下のフランス公使館

フランス軍に対する武装反乱はクールシー提督
(Courcy)率いるトンキン遠征部隊の先遣隊が7月2日
に信任状奉呈儀式のためフエを訪れた時に起こりました。
フエ宮廷の権臣トン・タット・トゥエットとグエン・ヴァン・トゥ
オンを司令官とした数千の宮廷軍は突然、対岸のフラン
ス軍に対して計画的な夜襲を強行し、フランス兵が傷つ
きました。。

この夜はフランス軍がフエ宮廷の官僚を招いて夜会を開
いた夜でした。フランスは宮廷軍の夜襲に驚くと共にフエ
宮廷の裏切り行為として憤りを露にします。

クールシー提督は彼自身を警護する兵士に加えてフラン
ス軍の他の軍隊の兵士を呼び集め、反撃を開始します。
フランス軍は宮城の東西両方向から攻撃します。
その後、Metzinger将軍の指揮で宮城西側からの反撃
に成功し、宮殿中庭を通って宮殿を占拠していきます。

13
夜明けにはフランス軍は統制を取り戻し、王宮を完全に
制圧していました。フランス軍はこの攻撃を「フエの待ち
伏せ」と呼び、王宮内の宝物を略奪していきます。

「フエの待ち伏せ」は一夜にしてすぐに制圧され、ハムギ
帝と「三宮」を初めとする皇族はフエ宮廷の西門から逃
れ、クワンチ省タンソに向かいます。

タンソで権臣トンタットトゥエットはハムギ帝に「勤皇の激」
を宣布するよう進言します。勤皇運動の始まりです

アンナン地区では数千のベトナム愛国者たちがすぐに
「勤皇の激」に反応し、フランス植民地支配に対する抵
抗運動はトンキンにも拡大していきます。

グエン王朝まとめ  各皇帝一覧
グエン王朝まとめ  各皇帝一覧

04-1 (600x528)

04-2 (563x600)

グエン王朝は13代143年続いたベトナム最後の王朝で
した。
建国者のザーロン帝は逃亡生活に耐えて、タイ国やフラ
ンス宣教師の援助を受け、苦労してグエン朝を建国しま
した。


第2代ミンマン帝はザーロン帝とは悉く正反対の政策を
実行しました。中央集権体制を整え、鎖国政策を実施
し、キリスト教を禁止しました。しかしグエン朝に対する反
乱も治まり、王朝の最盛期を迎えます。


第3代ティウチ帝に新しい政策は無く、先例に則った政
治を行い官僚が台頭してきます。皇帝は詩を読んで楽し
んでいました。


第4代トゥドゥック帝はティウチ帝に劣らず、詩を好み、儒
教精神により国を治めようとしますが、鎖国政策によって
西欧世界の国力を把握できず、軍備の増強も怠ったが
ゆえに、キリスト教弾圧を大義名分にフランスの侵略を
受け、結局ベトナムはフランスの植民地になっていきま
す。
トゥドゥック帝には子供ができなかった為、直系による皇
位の継承はここで絶えてしまいます。さらに政治に実権
は権臣に握られます。


第5代ズクドゥク帝、第6代ヒエップホア帝、第7代キエン
フク帝の時代は宮廷権臣の専横の時代で1年に3人の
皇帝が即位するという世界史でもまれな事態が起こり、
宮廷は混乱に陥ります。
この混乱に乗じてフランスはベトナムの植民地化を完成
させてしまいます。


第8代ハムギ帝の時、ベトナムの封建制度を支えてきた
儒学者たちの最後の抵抗がフランスに対して行われます
が(勤皇運動)、フランスとの武器装備の差は大きく反
乱は悉く鎮圧されてしまい、皇帝が流刑になるという結
果に終わります。


第9代ドンカイン帝はハムギ帝は兄ですが、フランスへの
迎合一辺倒で夜な夜な宴会を開いて暴飲暴食をしてい
たので3年の在位で死去してしまいます。

第10代タインタイ帝の時代は、日本が日清、日露戦争
を戦った時代で、日本の勝利はベトナム人をはじめ、東
洋の黄色人種に大きな驚きと自信を与えた時代でした。
ベトナムでは独立のための新しい民族運動が起き、日本
に多くの留学生が派遣されます。(東遊運動)
タインタイ帝はこの新しい民族運動に加担したため、退
位させられてしまいます。


タインタイ帝の子供の第11代ズイタン帝は幼年で戴冠
しましたが、成人に達するにつれて父親にも増してフラン
スに対する反骨精神の持ち主に成長していきます。
ズイタン帝の治世に第1次世界大戦が勃発し、フランス
の植民地であったベトナムからも多くの兵士が徴用され、 
戦場に送られました。
ズイタン帝はこれらの兵士にフランスに反抗するよう仕組
みましたが計画は発覚して父親と共に流刑に処せられ
ます。


そしてまたフランス迎合の皇帝が即位します。
第12代カイディン帝はフランスに対する反抗心はまった
く無く、傀儡王朝に徹しました。フランスのマルセイユで開
かれた植民地博覧会に参加し、税金を30%増税して
自分の陵墓を建設しました。王朝の崩壊を決定付けた
皇帝と評価されています。

ラストエンペラー第13代バオダイ帝
バオダイ帝には本当にカイディン帝の子供なのかとの疑
惑が付いて回ります。9歳からずっとフランスで教育を受
けさせられたため、彼が即位してからはグエン王朝の伝
統的な風習は失われてしまいました。
第2次世界大戦の開始と共にベトナムに進駐した日本
軍によって傀儡政権を樹立しましたが、日本軍の降伏、
共産党勢力の台頭を背景に1945年8月30日、宮廷
の午門で退位式を挙行してグエン王朝は幕をとざしまし
た。と同時に938年から1000年近く続いたベトナムの
封建制度も終了し、南北分断国家を経て共和国制度
に進んでいきます。

グエン王朝まとめ   王朝の廟
グエン王朝まとめ   王朝の廟

11 (600x292)

12

フエ宮廷の南西方に広がる丘陵地帯にはグエン王朝
13人の皇帝のうち、11人の遺骨が埋葬されています。
流刑地アルジェリアで死去したハムギ帝の墓は遺族の
反対でフエには改葬されずアルジェリアにありましたが、
アルジェリアの独立に伴いフランスに改葬されました。
最後の皇帝バオダイ帝はフランスに亡命したためフラン
スに墓があります。
皮肉にも追放、流刑された4人の皇帝の墓は立派では
ありませんが、事故死してしまったズイタン帝を除いた
3人の皇帝は長寿を全うしているのです。

11人の皇帝のうち、7人の皇帝には霊廟(位牌を安置
する場所)が建築されていて、世界遺産の建造物として
登録されています。

霊廟の共通要素
皇帝陵は一般的に河か池を前面に持ち、5つの要素か
ら構成されています。
(1)拝庭 (2)碑亭 (3)段台状テラス (4)廟殿 
(5)円陵あるいは多重の周壁に囲まれた石屋
拝庭には左右に石象や石馬が並び、石屋は多くの場合
前方に一組の花表柱(オベリスク)を伴なっています。
これらは中国の明・清朝時代に確立された中国の陵制
を参考にしています。

しかし、中国の陵制に倣う一方で、各皇帝陵には皇帝
の個性や時代背景が映し出され、自然環境に調和する
よう工夫されています。

各陵は王宮に比べると比較的保存状況が良く、また表
面的なものではあるが整備も一通り行なわれているため、
かなり見応えのあるものとなっている。

1.天授陵
王宮から香河を舟で15kmほど遡り、左岸を南に歩いて
30分行くと、初代皇帝の嘉隆帝陵造営)がある。
段台状テラスの奥に壁に囲まれて嘉隆帝と承天皇后の
ふたつの石屋の並ぶ荘厳な陵は、月湖と呼ばれる龍形
をした湖に臨んで、影壁の役割をなす南の天授山に正
対する。陵の左右には碑亭と廟屋が並び、陵の正面天
授山の下には2本の花表柱が立つ。
また北西方には同じく月湖に臨んでもうひと人の皇后順
天の陵と廟があり、さらにその北方、香河側には嘉隆帝
の家族や過去の阮主などの陵と廟が多数建ち並ぶ。
周りをひろく36の峰に囲まれて境界もなく自然と一体化
した嘉隆帝陵は、その計画の元となっている風水や陰
陽の世界観とは別に、亜熱帯の原野の中に溶解するよ
うな混沌としたイメージを強く抱かせる。

2.孝陵
7つの陵のうち最も調ととのった構成を持つのが明命帝
陵である。周長2kmの牆壁に囲まれた長円形の敷地の
主軸上には、大紅門、拝庭、碑亭、段台状テラス、顕
徳門、崇恩殿を中心とする廟、明楼、新月池、円陵と
主要な建造物が一直線に並ぶ。これは明や清の陵制を
忠実に真似たもので、大紅門や崇恩殿、明楼の名もそ
のまま使われている。
しかし、その陵制が表わす厳格な秩序とは別に、その背
景として改造された敷地は、主軸の左右を澄明湖と名
付けられた大池が挟み、その周りを囲む幾つもの丘の頂
に各々楼閣を建てる優雅なものである。王国の積極的
な設計者であった明命帝は、この陵においても厳格であ
る陵と優雅な大庭園をひとつに融合させることを試み、
それは見事に成功した。この長大なコンプレックスの中で
は、門を抜けたり楼に上ったりする度に、訪問者の目の
前に新たなパノラマが開け、徐々に深い懐ふところに抱
かれるように進んでいく。しかし帝は、1841年惜しくもそ
の完成を見ることなく落馬が原因で亡くなってしまう。

3.昌陵
第3代紹治帝は治世7年目、陵の造営に着手する前に
崩じ、それは紹治のプランに従って息子の嗣徳によって
造られた。明命陵において一つにまとめられた各要素は、
紹治帝陵でふたつのコンプレックスに分割される。
ひとつは拝庭・碑亭・徳馨楼・円陵からなり、前面に月
形の潤沢湖、横に凝翠池を構える。
これは明命陵のコンプレックスから中央の段台状テラス
と廟を除いたものにほぼ等しい。テラスと廟は南西100m
ほどの所に平行する別のコンプレックスを作っている。
明命陵のような周りを囲む牆壁もなく森林の中に長閑
のどかにたたずむ紹治陵は、次の嗣徳陵への過渡的な
存在である。

4.謙稜
阮朝の君主の中で最も長く35年に渡ってベトナムに君
臨した嗣徳帝は、詩人であり哲学を好んだが、しかし統
治能力に欠けていた。彼はベトナムが西洋の帝国主義
に直面した困難な時期に王位に就いたが、彼に嫡子が
いなかったことはさらに状況を悪化させ、彼を厭世的にし
ていった。そうした彼は、隠居して詩を詠む仙境とするべ
く陵を調え、終生かつ死後の休息の地とした。
嗣徳帝陵も陵と廟のふたつのコンプレックスに分かれる
が、ここでは陵ではなく離宮として営まれた廟の方が中
心となっている。敷地は長さ1.5kmの牆壁に囲まれる。
南の努謙門を入り、敷地の東半を占める謙湖に沿って
行くと湖に臨んで廟である謙宮が建つ。段台状テラスを
上り宮門を入ると、そこには3つの中庭を囲んで和謙殿
をはじめ9つの殿閣が並ぶ。その一角には鳴謙堂という
小劇場も設けられた。謙湖に浮かぶ中島には3つの亭
が建ち,また湖畔には愈謙射と沖謙射のふたつの台射
が乗り出す等、中国の離宮に見られる典型的な構成で
ある。
陵は謙宮の斜め後方にあり、謙湖から引いた小謙池を
前に拝庭、碑亭、石室が並ぶ。また、陵内には儷天皇
后や養子の建福帝の陵も置かれている。

嘉隆帝から嗣徳帝までの4陵は専制支配を反映して非
常に大規模なものであった。しかし,阮朝が実権を失っ
て後の皇帝陵は規模が縮小或いは父祖の陵内に棺が
置かれるだけで、唯一啓定帝陵のみがその絢爛さで先
達に匹敵しえた。

5.安陵
他の陵がほぼ香江に沿って配置されているのに対して
育徳帝陵は王宮の正面から2km、御屏山の前に建つ。
二重の周壁に囲まれた育徳帝と皇后のふたつの石棺と、
少し離れて隆恩殿を中心とした廟からなる育徳帝陵は
きわめて質素なものである。
嗣徳帝の養子で指名後継者であった育徳帝は即位後
3日で権臣により廃立処刑された。
彼の陵はその6年後仏支配下に皇位に就いた息子の
成泰帝によって1890年に造営された。その成泰帝は
息子維新帝とともに1916年対仏反乱を企て、アフリ
カ・レユニオン島に流謫るたくされる。彼等の死後、成泰
帝は1954年、維新帝は1987年に祖父の廟の背後に
埋葬された。
現在隆恩殿には祖父、父、子の三人の皇帝が奉られ、
成泰、維新の墓の両脇には彼等の家族の墓が並んで
いる。



6.思陵
同慶帝は在位3年にして25歳の若さで崩じる。彼の陵
は次の成泰帝によって1889年に造営され、後に息子
の啓定帝により何度かの改修増築が行なわれた。
同慶帝陵の構成は規模に違いはあるものの紹治帝陵と
よく似ていて、陵と廟のふたつのコンプレックスに分かれ
る。陵は3重の周壁に囲まれた石屋と前面の段台状テ
ラス・碑亭・拝庭からなるが、フランス風の碑亭は次の啓
定帝陵への前兆といえよう。廟の中心の凝禧殿はおそ
らくフエに現存する唯一の三棟造りの宮殿建築である。
その質素な外観とは反対に、凝禧殿の内部は朱あるい
は金に塗られ、様々な装飾が施されている。また凝禧殿
には帝とふたりの皇后が奉られる他、彼の好んだ香水な
どの舶来品が展示されている。これら陵・廟は何れも前
方に香河を臨む丘の上に建ち、特に陵からの眺めは素晴しい。

7.応稜
啓定帝陵は配置構成だけを述べると急勾配の大規模
な段台状テラスに拝庭・碑亭・廟を配したコンパクトなも
のである。明命陵以来のひとつのコンプレックスにまとめ
られた陵は,しかし,明命陵のような大庭園は持たず、
フランスのバロック様式で過剰なまでに装飾された。特に
廟である天定宮は、鉄筋コンクリートの駆体にスレートの
屋根を葺き、内外の壁面や付け柱を漆喰細工あるいは
陶片で造られた多彩な龍のモザイクで飾るなどして、驚く
べき折衷様式を造り出している。入口の階段から見上
げるそれは圧倒的でさえある。覇王嘉隆帝の実権を失
った末裔がフランス趣味で造った瀟酒な陵墓、啓定帝
陵。しかし、これは間違いなく今世紀で最も重要なべトナム
建築のひとつであろう。


「引用・参考」
http://www.youtube.com/watch?v=7yAOyoNK2HQ
http://s264.photobucket.com/user/ttnhan63/library/Vietnam%20thoi%20thuoc%20Phap/Hue/Lang%20Duc%20Duc?sort=3&page=1

グエン王朝まとめ  皇帝の生母
グエン王朝まとめ  皇帝の生母
300 (501x600)

●孝康皇后( Hiếu Khang hoàng hậu)
本名 阮氏環(Nguyễn Thị Hoàn グエン・ティ・ホアン)
阮福㫻の正室、初代嘉隆帝の生母

1774年
北部政権の鄭森(チン・サン)は西山の乱によって広南
国が混乱に落ちると、広南国侵略の武将に黃五福
(Hoàng Ngũ Phúc)を任命しました。阮氏環は
安全な場所に移動することを願い、阮福映は嘉定
(現在のサイゴン)に連れて行くように手配しました。
1783年
阮惠(グエン・フエ)、阮侶(グエン・ニャック)
が率いる西山軍(タイソン軍)が嘉定を攻撃してきます。
阮氏環は阮福映(グエン・フック・アイン 後の初代皇帝
嘉隆帝)に従って富國島(フーコック島)に逃亡して行き
ます。船上で阮氏環は嘆き苦しみましたが、決して諦め
るなと阮福映を励まします。激励された阮福映はサイア
ム(タイ国)に助けを求めに行きます。
1785年
阮福映とサイアムの連合軍はサイゴンを奪回しようとしま
すが、西山軍に敗れてしまい阮福映は再びサイアムへ
逃れます。そして母や子供達もサイアムに来させます。
1788年
阮福映は嘉定を奪取した後、阮文閑をサイアムに派遣
して嘉定に連れ戻します。
1802年
阮福映が阮朝を建国すると、翌年に「王太后」が贈られ、
1806年に阮福映が正式に皇帝を名乗ると「皇太后」
の称号を与えられます。
1811年
阮氏環は宮中の長壽宮で73歳で去世しました。嘉隆
帝は孝康皇后と追贈し、翌年、瑞聖陵で葬儀が行われ
ました。フエ宮殿には現在も興祖廟として祭られていま
す。

●顺天高皇后(Thuận Thiên Cao Hoàng Hậu)
本名 陳氏璫(Trần Thị Đang チャン・ティ・ダン)
嘉隆帝の繼室(第2婦人)、2代明命帝の生母

1791年
阮福胆(明命帝)が誕生。
1820年
明命帝が即位すると皇太后となり、3代紹治帝の即位
に伴い1841年に太皇太后となります。
1846年
79歳で崩御。嘉隆帝天授陵の傍に埋葬されました。


●佐天仁皇后(Tá Thiên Nhân hoàng hậu)  
本名 胡氏華(Hồ Thị Hoa ホ・ティ・ホア)
明命帝の正室、3代紹治帝の生母

阮福曧 (3代皇帝紹治帝)の出産後、13日で逝去し
てしまいます。
明命帝は即位すると「佐天仁皇后」と追贈します。


●慈裕太后 (Thái hậu Từ Dụ)
本名 范氏姮(Phạm Thị Hằng ファン・ティ・ハン)
紹治帝の正室、嗣德帝の生母

1810年6月20日
現在のティエンヤン省ゴーコン(Gò Công, Tiền Giang)
の生まれ。
若い時から聡明美人で思いやりがあり、嘉隆帝の皇妃
順天皇太后が明命帝の皇太子だった阮福綿宗(紹治帝)
の正室に推挙しました。
1829年9月22日 
阮福洪任(4代皇帝嗣德帝)が誕生。
1847年
紹治帝崩御後、嗣德帝が戴冠すると皇太后として朝政
も掌握します。
1883年7月19日
嗣德帝死後は太皇太后となり、遺命によって阮文祥
(グエン・ヴァン・トゥオン)、尊室說(トン・タト・テュエット)
、陳踐誠( チャン・ティン・タイン)の三人を輔政大臣に
任命し、引き続き莊懿太后(嗣德帝の正室)、學妃(嗣
德帝の后)と共に朝政に関与します。
慈裕太后、莊懿太后、學妃の三人を称して「三宮」
(Tam Cung)と呼びます。
1885年
尊室說のフランス軍に対する蜂起が失敗すると「三宮」
一族はクワンチ省に逃亡していきますが、フランス軍に投
降した阮文祥の説得により一族はフエに戻ってきます。
1887年
9代皇帝同慶帝治世に太皇太后、10代皇帝成泰帝
治世の1889年に太太皇太后となります。
1902年
92歳で崩御。紹治帝の昌陵に合葬されました。
ベトちゃん、ドクちゃんで有名なホーチミン市の慈裕病院
(Bệnh viện Từ Dũ)は慈裕太后を記念して命名された
ものです。

12 (276x400)
慈裕太后 


●才人張氏順
本名 張氏順
紹治帝の后、協和帝の生母
資料がありません。


●莊懿太后(Trang Ý Hoàng Thái hậu)
本名 武氏緣(Vũ Thị Duyên ブ・ティ・ズエン)
嗣德帝の正室、5代皇帝育徳帝の後見を依頼される。
1828年
Huyện Lệ Thủy(クワンビン省の南部)の生まれで,
刑部尚書武春謹の娘。
1843年
皇子阮福洪任(4代皇帝嗣德帝)の正室になります。
紹治帝の后妃慈裕太后は大変喜びました。

1848年
嗣德帝が即位すると「恭嬪」、その後1862年に「皇貴
妃」となり宮廷後宮の権力者なりますが嗣德帝との間に
子供が出来ませんでした。
1883年
嗣德帝は不本意ながら死の直前、養子で最年長であっ
た阮福膺禛(5代皇帝育德帝)を後継者にと遺言し、
その後見役を莊懿皇貴妃に依頼します。
しかし、5代育德帝は權臣阮文祥、尊室說により3日で
廃位され、阮福洪佚(6代皇帝協和帝)が戴冠します。
協和帝治世に「皇后」を追贈されます。
1885年
尊室說のフランス軍に対する蜂起が失敗すると「三宮」
達はクワンチ省に逃亡していきますが、フランス軍に投降
したして阮文祥の説得により一族はフエに戻ってきます。
1887年
同慶帝治世の1887年「皇太后」、成泰帝治世の
1889年に「太皇太后」になります。
1903年
崩御。


●学妃阮氏香(Học phi)
本名 阮氏香(Nguyễn Thị Hương グエン・ティ・フー
ン)
嗣德帝の妃、建福帝養母

南ベトナムのヴィンロン(Vĩnh Long)生れで、嗣德帝の
寵愛を一身に受けていました。
1870年
嗣德帝の令により最年少の養子であった阮福膺祜
(7代皇帝建福帝)の養母となります。
最年長の養子であった阮福膺禛(育徳帝)は素行が悪
く、嗣德帝は阮福膺祜を寵愛していました。
1883年
嗣德帝崩御。
嗣德帝は本来であれば阮福膺祜を後継者にしたかった
のですが、幼少のためやむなく阮福膺禛(育德帝)を後
継者に遺言します。
しかし育德帝は3日で餓死、6代協和帝は4カ月で毒殺
され、7代皇帝に建福帝が即位しますが、病弱でしばし
ば病気にかかっていました。
生母の学妃は懸命に看病していましたが、皇帝の養母
として宮中の権威が増大した学妃に権臣阮文祥が取り
入ってきます。
ある日は寝たきりになっていた建福帝は学妃と阮文祥が
姦通しているところを見つけてしまい、怒り狂い病気が回
復したら阮文祥一族を皆殺しにしてやると脅しました。
危険が身に迫ったことを知った学妃は阮文祥から渡され
た毒薬を建福帝の薬に混ぜて毒殺します。

建福帝の死因については諸説があります。
紹治帝の子供である阮福洪休が秘密に調査したところ
によると、建福帝はクワンチ省に連れて行かれ、密かに
殺害されたとしていますが、当時のフランス特使だった
Since Renardは「王は常に先帝のような運命を恐れ消
極的で恐怖の中に住んでいた。病気で一人で立つことも
出来なかった。王の死は病死だったが、それは人々が疑
問に思うように大きな驚きだった。」と記しています。
1885年
尊室説のフランス軍に対する蜂起が失敗すると「三宮」
達はクワンチ省に逃亡していきますが、フランス軍に投降
したして阮文祥の説得により「三宮」一族はフエに戻って
きます。


●陳撫妾●陳撫妾●裴太妃●潘氏●慈明惠皇后●阮善妃
この時代は宮廷の権臣が権力を掌握し、王朝が混乱に
陥りフランスが植民地支配を確立してしまう時期でした。それぞれの后は後の
皇帝を出産しているのですが阮善妃を除いて皇帝の正室ではなく、まさに阮王朝
の実質的な凋落を象徴しています。

各妃の詳細資料は見つかりません。


●仙恭皇后 (Tiên Cung 通称)
本名 楊氏淑(Dương Thị Thục ズオン・ティ・トゥック)
佑天純皇后(Hựu Thiên Thuần hoàng hậu)とも呼ばれています。
同慶帝の継室、啓定帝の生母

フエ市の Phú Lộc地方のDương Quang Hướng公
の娘で同慶帝の第2夫人になります。
仙恭皇后は2人の息子を産みますが、長男が後の12
代皇帝啓定帝となります。

13 (276x400)
仙恭皇后

1889年 
9代同慶帝が24歳で崩御しますが、阮福寶嶹
(Nguyễn Phúc Bửu Đảo=啓定帝)が幼少だった為、
育徳帝の子供阮福寶嶙(Nguyễn Phúc Bửu Lân)が
フランスの理事官(中圻欽使)Pierre Paul Rheinart
の承認の下に10代成泰帝として皇位につきます。

後に、成泰帝とその子の11代皇帝維新帝が流刑にな
ったことで仙恭皇后は非難されますが、12代啓定帝治
世の1923年、皇太后の称号を送られて名誉が回復さ
れ、13代皇帝保大帝治世の1933年には太皇太后の
称号が送られます。
1944年
77歳で崩御。墓はlăng Tiên Cungと呼ばれ、フエ市の
An Cựu墓地にあります。地元の人はVạn Vạn墓地と
呼んでいます。


●皇嫡母阮氏定
本名 阮氏定(Nguyễn Thị Định グエン・テイ・ディン)
成泰帝の妃、維新帝の生母

14 (276x400)
皇嫡母


●慈宮皇太后(Từ Cung Hoàng thái hậu)
本名 黃氏菊(Hoàng Thị Cúc ホアン・ティ・クック)
通称 Tu Cung(トゥークン)
啓定帝の継室、保大帝の生母

15 (276x400)
慈宮皇太后

1913年
当時皇太子であった啓定帝の妃となり、阮福永瑞
(13代皇帝保大帝)の生母となります。
1916年
啓定帝即位後、叙階されて封五階惠嬪となりますが、
啓定帝の正室胡氏芷が早死したので継妃(第2婦人)
となります。
1923年
保大帝の即位後、皇太后となり宮中の德慈宮に住んだ
ので慈宮皇太后と呼ばれています。
1945年
保大帝の退位後、宮廷前を流れるホン川の対岸にある
アンディン離宮に引越します。
1980年
アンディン離宮で死去(90歳)。葬儀は香水县香字社
でおこなわれ,啓定帝の陵墓である応陵に合葬されまし
た。

<元宮廷女官が語る、王宮暮らしの苦楽>引用
「私も今年で80歳になったのよ。15歳で宮廷女官にな
ったのは遠い昔のことね。きっかけ?母も宮廷女官だっ
たから、15歳で王宮の延寿宮(Cung Dien Tho)に入っ
たの。そこはバオダイ帝のお母様、トゥークン(Tu Cung)
さまのお住まいだった。

女官の間で序列はなし、ケンカもなし。私の場合、年輩
の女官が多いところで最年少だったから、かわいがられ
て仕事も楽しかった。薄い黄色や緑のアオザイを着てね
ぇ。でもね、皇太后さまがどこへ行くにも何をするにも一
緒について行ってお世話するんだから、それはもうたいへ
ん。ま、毎月お給金が貰えるのがいちばんの楽しみだっ
たかしらね。

仕事は、皇后さまの体をマッサージしたり、扇で扇いだり、
ビンロウの葉を噛んで吐く唾を、小さな容器で受ける仕
事もあったっけ。皇太后さま1人に3、4人がつくのだけど、
マッサージの最中に居眠りして、隣の女官から指でお腹
のあたりをつつかれて、それでハッと目が覚める、そんなこ
ともあった。
朝は皇太后さまより早く起きる、夜は皇太后さまがお休
みなってからようやく眠る、そんな生活がずっと続くの。
でも、皇太后さまと話すなんてとんでもないこと。女官に
は禁じられていたのよ。

そうそう、皇太后さまの体はとても美しくて、足の裏は本
当に絹みたいな手触りでね。食事は種類が豊富だし、飾
りがホントにすごくて。

バオダイ帝?太ってらしたのよねえ。皇太后さまの誕生
日の儀式があった時、長生殿でバオダイ帝をお見かけし
たわ。帽子をかぶって、龍の刺繍が入った服をお召しに
なっててね。長いテーブルの前に官吏も勢揃いして『皇
太后さま、おめでとうございます』と声を揃えて…。

昔の王宮は美しかったのよ、とてもとても。とにかくすべて
が美しかった。今は王宮を外側から眺めるだけ。外周を
歩いていて、延寿宮の辺りに来ると思い出すの。あそこ
で自分が働いていたんだなって」


皇帝の后になっても生前に皇后に叙階されることはまれ
で、死後に追贈されることが習慣でした。皇后になるまで
にもたくさんの段階の位があり、生前に「皇后」の叙階を
手にしたのは、初代皇帝嘉隆帝の后「顺天高皇后」と
最後の皇帝保大帝の「南芳皇后」だけでした。



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。