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ハムギ帝 勤皇運動5 バイサイ蜂起 |
バイサイ蜂起 Khởi nghĩa Bãi Sậy バイサイ蜂起は1883年から1892年にかけて北部ベト ナムのフンイェン省(Hưng Yên)アンティ県(Ân Thi) バイサイ村(Bãi Sậy)を中心に発生したフランス植民地 政策に反抗する蜂起です。
フンイェン省
アンティ県
<中心人物> ディン・ザ・クエ(Đinh Gia Quế) グエン・ティエン・トゥアット(Nguyễn Thiện Thuật) 1885年~
グエン・ティエン・トゥアット
1883年 初期の蜂起(1883年から1885年)はフンイェン省 (ハノイに隣接する省)に属するVăn Lâm県, Văn Giang県, Khoái Châu県, Yên Mỹ県の地域でディン・ ザ・クエをリーダーとしてフランス軍に反抗していました。 この地方は葦の生い茂った草原でゲリラ戦には適した 地形でした。
1883年 8月 フランス軍がフンイェン省一帯に侵入してくると、村の警 備隊長をしていたディン・ザ・クエ(Đinh Gia Quế)は「男 は皇帝に忠誠を誓うもの」と農民を説教をして回り、常 に貧しい人を気遣かったので農民たちの信頼を勝ち取っ ていきました。
ディン・ザ・クエはフンイェン省アンティ県バイサイ村にフラ ンスに抵抗する根拠地を設けました。フランス軍は「この 村の農民はすべてディン・ザ・クエの統制の下にあって、 フランス軍に抵抗しようとしている」と感じていました。 彼はレンガ造りの大規模な要塞を建設し、トンネルを構 築してホン川や葦の平原に抜けられるようになっていまし た。
一方、グエン・ティエン・トゥアットはフランス軍がハイズオ ン省(Hải Dương)を占領した時、フランス軍にリクルート され、さらに地方都市を占領しようとしましたが失敗して 一旦、引き揚げ、翻って宮廷軍の有名な司令官 Hoàng Kế Viêmに協力することにし、その後のソンタイで の戦いではĐông Triều地方の兵を結集して宮廷軍に味方し、 劉永福(Lưu Vĩnh Phúc)率いる黒旗軍と共に戦いました。
1883年後半 フエ宮廷とフランス軍との間でハルマン条約が締結され ると、グエン朝は宮廷軍の兵士に待機の命令を出します が、グエン・ティエン・トゥアットやNguyễn Quang Bíchは 命令に従わず、Tuyên Quangに進軍しました。そしてフ ンホアやランソンでの戦いの後、戦闘を継続する支援の ため中国の龍州(Long Châu)に向かいました。
1885年 7月 龍州でハムギ帝の「勤皇の激文」を見たグエン・ティエ・ トゥアットはフランスに抵抗することを決心し、ベトナムに 戻り再びバイサイに抵抗基地を構築します。
彼はディン・ザ・クエと連絡を取り、できるだけ多くの将軍 や儒学者に参加を呼びかけました。(将軍 Nguyễn Thiện Kế, Nguyễn Thiện Giang , Đốc Tít, Đốc Cọp, Đốc Sung, Đề Ban, Đội Văn, Đề Tính, bà Đốc Huệ 儒学者 Ngô Quang Huy, Nguyễn Hữu Đức)
ハムギ帝はディン・ザ・クエを北部ベトナムの軍事司令官 に任命し、バイサイでの抵抗運動はフンイェン省の周辺 の地域にまで拡大して行きます。
9月 抵抗軍はを紅河を渡河し、Thanh Trì, Thường Tín, Phú Xuyên, Ứng Hòa地域に戦線を拡大します。
9月28日から29日にかけてバイサイ軍はハイズオン市 でフランス軍を攻撃しました。フランス軍は2隻の軍艦を ハイズオン市を流れるThái Bìnhに出動させます。
10月 クールシ将軍はバイサイ基地内にいるホアン・カオ・カイ (Hoàng Cao Khải) を降伏させるためにFrançois de Négrierを バイサイ基地掃射の責任者に任命します。
ホアン・カオ・カイ
グエン・ティエン・トゥアットはフランス軍の軍事作戦を妨 害するために敵の駐屯地を攻撃するとの噂を流させます。 フランス軍は軍艦を出動させ敵の進軍を警戒しますが、 抵抗勢力はまったく攻撃せず、敵をじらしながら待ち伏 せ地点に軍を進め、じっと待ちます。
フランス軍艦が攻撃がウソだと知って引き返し始めたとき、 川の浅瀬で待ち伏せしていた抵抗軍が一斉射撃を開 始し、フランス軍の軍艦を襲いました。この奇襲攻撃で 多くのフランス兵が殺され、司令官のFrançois de Négrier も逃亡していきました。待ち伏せ攻撃は効果的でした。
11月 紅河をはさんで2週間に渡りフランス軍との最大の戦い が行われました。
12月 ディン・ザ・クエは老齢のため、病弱になり死去します。 その後はグエン・ティエン・トゥアットがリーダーとなり指揮 を執ります。
1886年 6月26日 抵抗勢力はフランス軍のカオズン(Cau Duong 現在の ロンビエン橋の近く)駐屯地を攻撃します。
9月 グエン・ティエン・トゥアットが直接指揮を執り、一旦は ハイズオン省(Hai Duong)の奪回に成功したものの、 フランス軍が体制を立て直すと火力の差には勝てず 徐々に退却を余儀なくされます。
そしてハノイやバクニン省周辺での戦いに重点を置くよう になります。
1887年2月12日 ハイズオン省のケサット(Kẻ Sặt)では大激戦となります。
1888年 2月9日 グエン・ティエン・トゥアットがフランス軍との戦いで戦死し たとの噂を流させます。そして奇襲をかけるために宮廷 軍800名の兵士に収穫を行う農民に変装させフランス 軍基地を急襲し31名の殺害に成功します。
フランス軍の指揮官がクールシからワルネ (Charles-Auguste-Louis Warnet)に代わります。 ワルネは小さな監視所をたくさん構築してゲリラ活動を 押さえ込もうとしましたが成功しませんでした。
11月11日 ハムギ帝が逮捕されたことを知った宮廷軍参謀で親仏 派のホアン・カオ・カイ(Hoàng Cao Khải)は農民兵士に 投降するよう呼びかけ、バオサイ地方から兵士が農地へ 引き上げて行きます。ホアン・カオ・カイもハイズオンに引 き揚げていきます。
1889年6月 北部ベトナムの治安を維持するためフランス軍とフエ宮 廷は合同で ホアン・カオ・カイを中心として治安部隊を組織します。 バオサイ蜂起はフランス軍に大きな損害を与えたものの 沈静化していきます。
グエン・ティエン・トゥアットと多くの将軍は中国に渡り、再 度抵抗の準備を話し合いますが、計画は失敗に終わり、 その後グエン・ティエン・トゥアットがベトナムでフランスに 抵抗することはありませんでした。そして1926年中国在 住中に病気にかかり82歳で死去します。
<参考書>
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ハムギ帝 勤皇運動4 フンリン蜂起 |
フンリン蜂起 Khởi nghĩa Hùng Lĩnh
バーディン蜂起に引き続きタインホア省一帯で発生した 勤皇蜂起。
タインホア省
<中心人物> トン・ズイ・タン(Tống Duy Tân) カオ・ディン(Cao Điển) カ・バ・トゥック(Cầm Bá Thước)
1886年 トン・ズイ・タンとカオ・ディンはバーディン蜂起の指導者デ ィン・コン・チャンの指導の下、バーディン要塞を支援する ためにタインホア省のPhi Laiに要塞を築いていましたが、 故郷のヴィンロック(Vĩnh Lộc)を流れるマ河の上流にも 要塞を築いて兵士を募集していました。
ヴィンロック県
マ河とダ河
マ河上流
1887年 バーディンやマーカオ要塞がフランス軍に鎮圧、占領され ると抵抗軍の指導者はバラバラになってしまいます。 ディン・コン・チャン, Nguyễn Khế, Hoàng Bật Đạtらは、 故郷に引揚げ、Phạm Bành, Hà Văn Mao, Lê Toạiら は自殺、チャン・スアン・ソンは支援を求めるため中国に 向かいました。
トン・ズイ・タンは故郷のマ河の上流(フンリンと呼ばれて いる場所です)で新たに抵抗勢力を組織します。この組 織にはカオ・ディン、 ターイ族のカ・バ・トゥック, ムオン族 のハ・ヴァン・ニョ(Hà Văn Nho)などが参集し、蜂起しま す。
トン・ズイ・タン
しかし、抵抗勢力にフランス軍に立ち向かうだけの勢力 を結集することは出来ず、2回のゲリラ戦がやっとでし た。 トン・ズイ・タンは支援を求めて中国広州へ向かい勤皇 運動を扇動したTôn Thất Thuyếtに会い、フランス軍に 抵抗する愛国者を募り、タインホアに戻ってきます。
1889年 故郷に帰ったトン・ズイ・タンは兵士を募集してリーダーと なり、フンリン(Hùng Lĩnh)で2人の同志と共にマ河 (sông Mã)の両岸にフランスに抵抗する基地を再構築 します。
そしてダ河(sông Đà)の下流地域やファン・ディン・フン、 ハ・ヴァン・ニョ、タインホア省ノンコン県(Nông Cống)の Tôn Thất Hànらと共同戦線を構築します。
ダ河(紅河最大の支流)
ノンコン県
10月8日 フランス軍がノンコン県に侵入してきます。
10月22日 フランス軍はカノン砲を従え185名の兵士をノンコン県に 進軍させ11月2日まで戦闘が続きます。この激戦で抵 抗勢力はフランス軍のカノン砲攻撃で大きな損害を蒙り、 ヴィンロック県のĐa Bút要塞に撤退していきます。 しかしBarbaret中尉率いるフランス軍がすぐに追跡して きたため、 部隊をさらに山岳地帯に向かって引き揚げさせます。(Thạch Thành⇒Thọ Xuân)
Thạch Thànhへ向かう道
トン・ズイ・タンは反撃体制を再構築し、チャン・スアン・ ソンもフンリンの抵抗勢力に合流してきます。
11月30日 フランス軍は北上してVạn Lại(タインホア省の北隣の ニンビン省)を攻撃してきますが、フランス軍司令官の ルフェーブル(Lefèvre)が重症を負い、部隊はトウスアン (Thọ Xuân)県まで撤退します。フランス軍は未だ抵抗 勢力が残存しているのに対抗して軍備を増強し、500 人の兵士とカノン砲を2台追加します。
トウスアン県
トン・ズイ・タンはトウスアン県のフランス軍駐留地イェン ルック(Yên Lược)を攻撃するために部隊を4方面に分 割します。
1890年 1月1日 昼頃、フランス軍の斥候隊が抵抗勢力の一団を発見す るとすぐさま奇襲攻撃を敢行し、カノン砲を45分にわた り打込み歩兵隊の前進路を確保しますが、フンリン軍も 塹壕の中から反撃し、激戦となりました。この戦いでは双 方とも損害が激しく、フランス軍の司令官も戦死しまし た。
3月29日 フンリン軍はさらにノンコン県での戦いに挑みます。カオ・ ディンが200名の兵士を引き連れ、フランス軍に挑みま すが、カノン砲の前に大打撃を受けます。
4月26日朝 フランス軍の攻撃に耐え切れず、カオ・ディンはトゥオンス アン県(Thường Xuân)の県都Cửa Đạtに撤退します。
Thường Xuân県
10月 フランス軍は200名以上の兵士でCửa Đạtに侵攻して きますが、フンリン軍はすでにThường Xuân県のAn Lẫmに移動していました。
1891年2月21日 トン・ズイ・タンとカオ・ディンは移動途上の要塞を放棄し ながら部隊をAn LẫmからLang Vinhに移動させ、さら にThường Xuân県の山奥Hòn Môngへと移動します。 しかしフランス軍の追跡は続き、フンリン軍は撤退しやす いように部隊を小規模に分割します。
1892年 3月 ダ河からĐốc Ngữが兵士を引き連れマ河を渡ってタイン ホア省に入り、トン・ズイ・タンとカオ・ディンと相談の上、 バトゥック県のニンキー(Niên Kỷ)でフランス軍を攻撃し ますが、成果は僅かで、状況を好転することは出来ませ んでした。
バトゥック県
4月 戦場となった地域の人々も迫害され、フンリン軍には 人の兵士と50丁の銃しかありませんでした。 Đốc Ngữはダ河に撤退していきます。
9月 トン・ズイ・タンはしばらくニンキーに留まって戦況を見極 めていましたが、フランス軍の鎮圧が強力に進められて いくのを見て、これ以上の犠牲者を出すことを躊躇して 部隊を引き揚げさせます。
その後、トン・ズイ・タンはバトゥック地方のニンキー村の 洞窟に身を隠し、カオ・ディンは数人の部下と共に行方 がわからなくなります。
10月4日 トン・ズイ・タンは同僚であったフエ宮廷の役人 Cao Ngọc Lễに密告され、逮捕されます。彼はフランス 植民地軍の協力者でもあったのです。
翌10月5日(旧暦)トン・ズイ・タンはフランス軍によって 処刑されました。55歳の生涯でした。
その後もフランス軍とフンリン軍との小規模な衝突が続 きますが、フランス軍にとっては残党整理の戦いでしたの で、ベトナムの歴史家はトン・ズイ・タンの処刑を以って フンリン蜂起の終了とみなしています。
カオ・ディンのその後の消息は不明、カ・バ・トゥックはそ の後も抵抗を続けていましたが, 1895年5月後半、 秘密裏に埋葬されました。37歳でした。
カ・バ・トゥックの寺
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ハムギ帝 勤皇運動3 バーディン蜂起 |
バーディン蜂起 抵抗時期 1886年~1887年 主導者 Đinh Công Tráng(ディン・コン・チャン 丁公壯) Trần Xuân Soan(チャン・スワン・ソン 陳春撰) Phạm Bành(ファン・バン)
1885年クワンチ省タンソ(Tân Sở)でハムギ帝が宣布し た「勤皇の詔」に応じてタインホア省ガソン県バーディン (Ba Đình, huyện Nga Sơn, tỉnh Thanh Hóa)で発生し た抗仏蜂起。
Ba Đìnhとはベトナム語で「3つの村」と言う意味で、タイ ンホア省ガソン県に構築された3つの村の抵抗基地、 Thượng Thọ, Mậu Thịnh, Mỹ Khêを指します。
タインホア省
バーディンの位置
1885年7月6日 いわゆる「フエの待ち伏せ」作戦に敗北したフエ宮廷の 権臣トン・タット・テュエットは兵士を集め、皇太后やハム ギ帝、宮廷に住む一族や官僚を連れてクワンチ省タンソ に向けて逃亡していきます(失守京都)が チャン・スワン・ソンも ディン・コン・チャン、ファン・バンと 共に宮廷から脱出し、一旦は故郷へと向かいます。
1885年7月13日 ハムギ帝の「勤皇の激」に答えてディン・コン・チャンは フランスに抵抗する蜂起軍を組織することを決心し故郷 を離れます。
1886年2月 ディンコンチャンはトンキンとアンナンの国境であった中部 ベトナムタインホア省ガソン県(Nga Sơn)バーディンに要 塞を建設していきます。
チャン・スワン・ソンも地域の儒学者や農民に蜂起に参 加するように説得してまわり、バーディンの要塞建設にも 尽力します。
要塞はユニークなものでした。 この村落は雨季になるとまるで洪水のような様相を呈す る場所柄ですが、長期戦に備えるためディンコンチャイは 村の周りを竹籠に泥を詰め込んだ土嚢を3mぐらい積み 上げ、土塁を築きました。厚さは8~10メートルあり、基 地は幅400m、長さ1200mにもなりました。
兵士はタインホア省からムオン族、ターイ族を含む2000 人が募集されマスケット銃、槍で武装していました。
主導者のディンコンチャイとファンバン他、それぞれの要 塞を守る数人の将官がいました。
バーディン基地の周囲には支援体制も整っていました。 Phi Lai 基地は Tống Duy Tân và Cao Điển Quảng Hóa基地は Trần Xuân Soạn Mã Cao基地は Hà Văn Mao が配置されていました。
1886年 5月12日 3月12日、タインホアのフランス公使館が襲撃されたの をきっかけにフランス軍は多くのタインホア省の都市に攻 撃をかけますが、抵抗勢力は進行してくるフランス軍のト ラックをゲリラ戦法で撃退する作戦をとりフランス軍の侵 略は失敗に終わります。
12月18日 フランス軍は500名の兵士と80門のキャノン砲でバーデ ィン要塞を2方向から攻撃しますが、抵抗勢力に押し戻 されてしまいます。フランス軍はバーディン要塞を包囲し て長期戦に持ち込みます。
Brissand大佐率いるフランス軍は将校76名、兵士35 00人でバーディン要塞を包囲し、1カ月近く対峙します。
1887年1月6日 フランス軍は再度、バーディン要塞を攻撃しますが占領 できず、一旦撤退して軍隊の再構築を待ちます。 バーディンにはトンキン人とアンナム人の抵抗勢力の総 力が保持されていたので、軍事的に重要な場所としてフ ランス軍は攻撃せざるを得ませんでした。
1月20日 フランス軍は補給部隊として4隻の軍艦を洋上に浮かべ、 抵抗勢力の補給路を断ち、総攻撃を開始します。容赦 なく大砲が打ち込まれ、バーディン要塞の外壁は火の海 に包まれます。
ディンコンチャンは先頭に立って戦いながらも、支援部隊 の同志がフランスを背後から襲撃するだろうと期待して いましたが、援軍はまったく来ませんでした。
抵抗武装勢力は勇敢でしたが、フランスのキャノン砲と いう近代兵器の前には無力でした。 フランスの損害は死者19人、負傷者45人でしたが、 バーディン側の損害は大きく、数千人が犠牲になってい ました。
1月21日朝 生き残った武装勢力はバーディンからMã Cao基地への 逃亡を余儀なくされます。 フランス軍はバーディンを占領し、3村の連絡を完全に 断ち切りました。
2月 フランス軍はその後も抵抗勢力をMã Caoまで追撃し、 要塞を破壊します。抵抗勢力の多くの指導者が犠牲と なりましたが、ディンコンチャンは蜂起の体制を再構築を 試みます。しかしフランス軍はディンコンチャンに多額の 賞金が賭け、捜索します。
10月5日 ディンコンチャンはゲアン省チュンイェン村での戦いで戦 死します。
蜂起は失敗に終わりました。バディンでの抵抗勢力の敗 北は、クアンナムの南部、クアンガイ、ビンディン、フーエ ンでの勤皇運動の破局に繋がっていきます。
蜂起の指導者
バーディンでの敗北は勤皇運動が全国に広まっていたに もかかわらず、蜂起がそれぞれ地方的なものであることを 意味していました。
バーディン蜂起の記念碑
ホーチミン廟前の広場はバーディン広場と名付けられて いますが、バーディンでの蜂起を記念したものです。ホー チミンはベトナムの独立宣言を読み上げるのにもこの広 場を選びました。
コラム ディン・コン・チャン 生没年 1842年~1887年 生誕地 ハナム省チンサ村落(Trinh Xá)生まれ(現在 xã Thanh Tân, huyện Thanh Liêm, tỉnh Hà Nam) バーディン蜂起の首謀者
愛国者だったディンコンチャンはフランス軍が北ベトナム に進入してきた時、フエ宮廷軍の司令官である皇太子 Hoàng Kế Viêmの軍隊に入隊してリーダーを務めてい ました。
1883年5月19日 ディンコンチャンは劉永福(Lưu Vĩnh Phúc)率いる黒旗 軍に加わり、コウザイの戦いでフランス軍司令官リヴィエ ールの殺害に加わり、その勇気と戦略は高く評価されて いたので、バーディン蜂起のリーダーになりました。
コラム チャン・スワン・ソン 生没年 1849年~1923年 生誕地 タインホア省トウハック村(làng Thọ Hạc) (現在はphường Đông Thọ, thành phố Thanh Hóa, tỉnh Thanh Hóa)
彼は貧しい農家に生れ、家族を支援するため軍隊に入 隊します。 ハムギ帝が即位すると、フランスに抵抗する使命を帯び てフエに向かいます。
1885年7月5日深夜4時 権臣トン・タット・トゥエットとグエン・ヴァン・トゥオンの司令 のもと、彼は対岸のフランス駐屯宿舎と公使館を砲撃、 突撃することを兵士に命じます。 しかし明け方になると、フランス軍の反抗によりフエ宮廷 軍は壊滅状態になってしまいます。
攻撃失敗を知ったトン・タット・トゥエットとハムギ帝は残っ ている兵士と皇族一行を連れてクワンチ省タンソ要塞に 逃亡して行き、そこで「勤皇の詔」を宣布します。
チャン・スワン・ソンも ディン・コン・チャン、ファン・バンと 共に宮廷から脱出し、タインホア省のバーディンに抵抗 基地を建設します。 バーディン基地をサポートする為、タインホア省バトゥック 県(Bá Thước)に滞在してバーディン要塞とマカウ要塞 (Mã Cao)との連絡役をします。
バトゥック県
1887年初め バーディンとマカオは洪水に襲われたので、彼は一旦軍 隊を引き上げ、クワンホア(Quan Hoá 現在は huyện Bá Thước)に再び基地を構築します。
フランス軍はチャン・スワン・ソンの頑固な抵抗精神を削 ぐため、彼の父親の墓を暴き、道路の真ん中でその骨を 焼いたりしましたが、彼の抵抗精神には何の影響も与え ませんでした。
その後、中国に援助を求めに行ったトン・タット・トゥエット に会うためにロンチャウ(Long Châu 現在の広州)に行 き、軍事支援や再構築について話し合いますが、成果 はありませんでした。
ロンチャウで幾人かの支援者を得て軍隊を組織し、中 国との国境地帯で抵抗活動を続けました。
1923年 ロンチャウで74歳で死去します。 彼の弟Trần Xuân Huấnと子供のTrần Xuân Huấn も義勇兵として犠牲になりました。
コラム ファン・バン 生没年 1827年~1887年 グエン王朝の官僚で勤皇運動に参加しました。
ファム・バンはタインホア省ハウロック県ホアロック村落 トゥオン村(làng Tương,,xã Hoà Lộc, huyện Hậu Lộc, Thanh Hoá)で誕生しました。
ゲアン省の軍人官僚となったファム・バンは正直な性格 で人々の面倒をよく見たためゲアン省では慕われていま した。
1885年 彼はハムギ帝の「勤皇の激」に答えて蜂起軍に参加す ることを決心しHoàng Bật Đạtとともに故郷を離れます。
1886年 彼は地域の儒学者や農民に蜂起に参加するように説 得してまわり、 Hoàng Bật Đạt, Đinh Công Trángら数人の同志と共 に中部ベトナムタインホア省ガソン県(Nga Sơn)バーディ ンに要塞を建設することに携わりました。
バーディン要塞をなかなか陥落出来なかったフランス軍 は作戦を変更し、砲兵隊を出動させ新たな攻撃を開始 します。
この時ファム・バンは既に60歳で健康状態もあまり良く なかったのですが、率先して前線に立ち義勇軍を叱咤 激励します。
1887年2月20日夜 バーディン要塞が陥落した後、義勇軍をタインホア省 イェンディン県マカオ要塞に義勇軍を後退させ、故郷に 引き揚げます。
しかし、その後年老いた母親と子供のPhạm Tiêuが人 質としてフランス軍に逮捕されされたため、彼はフランス 軍に降伏し、4月11日、母親と子供が解放された直後 に服毒自殺をしてしまいます。
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ハムギ帝 勤皇運動2 フォンケの戦い |
勤皇運動 フォンケの戦い
Khởi nghĩa Hương Khê 発生時期 1885年~1895年
勤皇運動の最も典型的な蜂起で以前にフエ宮廷に勤 務していたファン・ディン・フンの指導の下、蜂起はタイン ホア、ゲアン、ハティン、クアンビンの 4省に拡大していき ました。その後中部、北部ベトナムの各地で抵抗運動が 発生していきますが、勤皇運動はファン・ディン・フンによ り始まり、彼の死によって終焉を迎えたといわれます。
<蜂起の推移> 1885年7月 ハムギ帝がフエ宮廷を脱出してクワンビン省のタンソ (Tân Sở)で「勤王の詔勅」を宣布した時、ファン・ディン・ フンはハムギ帝に会いに行きます。宮廷を追放したもの のファン・ディン・フンの能力は高く評価していたトン・ タット・テュエットはハムギ帝に奏上し、ファン・ディン・フン を軍事司令官に任命します。
ファン・ディン・フンはハティン省の文紳(バンタン)、会試 合格者Phan Trọng Mưuや郷試合格者 Phan Quảng らの知識人を糾合し,当時のゲティン省、省都ヴィン市 の南方山地の要衝フオンソン(Hương Sơn)やフオンケ (Hương Khê)に要塞を築きます。
ファン・ディン・フンの銅像 ホーチミン市5区チョロン郵便局前
ファン・ディン・フンの決起にCao Thắng, Cao Nữu, Lê Ninh, Nguyễn Chanh, Nguyễn Trạch, Lê Văn Tạc, Phan Đình Phong, Phan Đình Canら多くの グループが集まり、勤皇運動は一挙に拡大し、クアンビン、 ハティン、ゲアン、タインホアでフランス軍に対してゲリラ 活動を開始し始めます。
フォンケの要塞
ファンディンフンの抵抗勢力(義勇軍)は自然の地形を 利用して3重の要塞を築きました。各要塞は食料、武器 の輸送がしやすいように川の近くに建設されています。
義勇軍の本部はヴ・クワン(Vụ Quang)に置かれ 約500の義勇防衛軍が駐在していました。本部の外側 で暮らしていた村人達も、いつでもファンディンフンの指 令の下で蜂起できるよう準備していました。
さらに抵抗戦を支援するためTrùng Khê - Trí Khêにも 要塞を構築させ、義勇軍を派遣します。
1886年 フランス主導のフエ宮廷軍はファン・ディン・フンの兄を逮 捕したり、父親の墓を暴いたりして圧力をかけますが、 ファン・ディン・フンの信念に影響を与えることはありませ んでした。
1887年の初期 ファン・ディン・フンは同郷の優秀な若き軍事指導者 カオ・タン(Cao Thắng)に出会います。
カオ・タン(右)との出会いー絵画
カオ・タンはフォンケ要塞の管理を任命されていましたが、 各地の義勇軍の勢力が弱まってくるとファンディンフンは カオタンをソンタイ、ハイズオン、バクニン省へ向かわせ、 義勇軍の支援と再編成を命じます。
その後、ハティンに戻ったカオタンは他の指導者と軍事 訓練、要塞の建設に力を注ぎ、レドン村で(Lê Động)部 隊を再編成します。要塞にはラオスに抜ける逃げ道も造 られました。
最大の課題は武器の鍛造でした。カオ・タンはヴ・クワン の戦区で西欧式の武器鋳造工場をつくり、フランス軍か ら奪った17丁のライフルを参考にしてハティン省のVân ChàngとTrung Lương村に持ち込み数ヵ月後には 350丁の銃が出来上がってきます。 これがベトナムで初めてのライフルの鋳造で義勇軍はゲ リラ戦でフランス軍を大いに悩まします。
1889年9月末 ファンディンフンが北部の基地からハティンに戻ってくると、 カオタンや同僚の努力で約1000人の兵士とフランス式 の銃500丁と大量のマスカット銃が準備されていました。 戦いの準備が整った義勇軍は支配地をタインホア、 ゲアン、ハティン、クアンビンの 4省に拡大していきます。 カオタンはファンディンフンの第一の支援者となり、フラ ンス軍との幾多の戦いの指導者となります。
ファンディンフンは檄文をばら撒き、フランスに抵抗するよ う求めます。多くのクアンビン、ゲアン、タインホアの多くの 指導者がファンディンフンの抵抗の旗の下に戦うことを 誓い、活動を開始します。
ファンディンフンの自筆
急激に強力になってきたのを基礎にファンディンフンは 15軍団を構成しました。1軍団には100人から500人 いました。
ファンディンフン自身は20人の兵士に守られながら各省 を巡回して指導者と連絡を取り、主導的な役割を果た します。
1890年~1894年 この期間は4省でのゲリラ攻撃が頻繁に発生し、フラン ス軍はその鎮圧に手間取っていました。
1892年 義勇軍はフランス軍のフォンケ要塞への進軍をHói Trùng と Ngàn Sâu地区で撃退します。
8月 フランスの手先である巡撫官ディン・ニョー・クアン(Dinh Nho Quang)を生け捕りにして、ゲティン省の人々から大 きな支持を得ます。
1893年11月 ゲアン省ヴィン市への義勇軍からの大攻勢の際、カオ・ タンがフランス主導のフエ政府軍の罠にはまり包囲され てしまい、負傷を負いながら、根拠地に戻りますが死亡 してしまいます。29歳でした。 後日、遺体は義勇軍によりハティン省フオンケの ヴ・クワン山の麓、ケトゥオン村(Khê Thượng)埋葬され、 彼を祀った寺院がハフオンソン(Hương Sơn)県のソンレ (Sơn Lễ)村に造られました。
1894年 3月29日 カオタン死去の復讐としてランロイ(Lãnh Lợi)はヴァン ソン(Vạn Sơn)で待伏せ部隊を編成し、義勇軍の 兵士が敵のリーダーNguyễn Bảoを殺害します。
10月17日 義勇軍はヴ・クワン山での待ち伏せ作戦で大勝利をおさ めますが、カオタンの死後、中部での抵抗運動は次第に 力を失っていきます。
1895年 7月から10月 ヴ・クワン山の戦い フランス軍は3000人の兵士を組織してグエン・タン (Nguyen Than 阮紳)を指揮官にファン・ディン・フンの 根拠地フオンケ要塞の総攻撃に踏み切ります。 8月15日 フランス軍の手下であったフエ政府軍はフォンケ要塞の ヴ・クワン要塞を包囲し、供給ラインを遮断した後、猛攻 撃を開始します。義勇軍の武器弾薬、兵士、食料が底 をつき、ヴ・クワン要塞を放棄して山奥に次第に追い詰 められていきます。 多くの義勇兵が犠牲になりましたが、フランス軍の犠牲 は将校3名を含む100人余りでした。
山奥に追い詰められた義勇兵
11月11日 そしてファンディンフンもクワット山(núi Quạt)のジャング ルで重傷を負い、死去します。(享年49歳)
辞世の句 戎場奉命十更冬, 武略依然未奏功。 窮戶嗷天難宅雁, 匪徒遍地尚屯蜂。 九重車駕關山外, 四海人民水火中。 責望愈隆憂愈重, 將門深自愧英雄
フォンケでの抵抗は1896年まで続きましたが、実態は ファン・ディン・フンの死をもって中部ベトナムでの抵抗は 鎮圧されたとされています。
戦い終了後、グエン・タンは山のふもとに建てられた ファンディンフンの墓を掘り起こし、油で骨を焼き粉砕し、 火薬に混ぜて撃ちはなったと言います。
ファンディンフンが指導者となったフォンケ蜂起は勤皇運 動のなかで、最もスケールが大きく、最も長期間にわたる 抵抗運動で、平野部、山岳地方、両方の人々の支援を 受けたものでした。
その抵抗はまたベトナムの封建制度を支えるエリート集 団である儒学者達の最後の抵抗でもありました。
フランスに10年に渡って抵抗したファンディンフンの信念 はベトナム人に大きな影響を与え、その後のベトナム革 命運動の石杖になっていきました。しかし革命の主役は 労働者や小作農の人々に代わっていきます。
コラム ファン・ディン・フン
Phan Dinh Hung (潘廷逢) 生没年 1847年~1895年11月11日 生誕地 ハティン省ドンタイ村(Đông Thái, Hà Tĩnh)
ハムギ帝の勤皇運動に共鳴してゲアンを中心に反仏抵 抗闘争を展開した、フランス植民地時代初期の反仏運 動の指導者。
教育一家の家に生れ、父は学校の副校長で祖父は新 聞社に勤めていました。幼少時代は兄、ファン・ディン・ トゥァット(Phan Dinh Thuat)に養われます。
1876年(29歳) 科挙の郷士の試験に合格。
1877年 フエで会試に合格し、フエ宮廷に勤務します。
1883年7月 トゥドゥック帝が死去した際、後継者をめぐってフエ宮廷 は一時混乱し、実権を握っていた反仏強硬派の2人の 摂政、グエン・ヴァン・トゥオンとトン・タト・テュエットが新 帝を廃した時、ファン・ディン・フンは廃立に反対したため 捕縛され監獄に繋がれたあと生誕地ドンタイ村に追い返 されました。
1884年 罪を取り消され、ハティン省の地方行政官として任命さ れます。
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