べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ホーチミン主席の最後の日々 1969年捕捉
1969年8月12日 パリで開かれている和平会
談の北ベトナム代表団が一旦帰国します。

いずれ代表団がホーチミン主席に会談の経緯を
報告に来ることは解っていましたが、この日は強
い風が吹きまくり、霧雨が降る寒い日でした。主
席は心待ちに待っていましたが、この日は悪天
候の為、代表団がやってくる気配はありませんで
した。

午後3時にホーチミン主席は車を用意することを
スタッフに伝えます。彼は代表団が宿泊していた
ハノイの西湖に行くと言い出したのです。
「今日は悪天候だから、彼らは家にいるに違いな
い」

彼の健康を24時間見守っている私設の医師
Lê Văn Mẫn を始めとして主席を取り巻くスタッ
フは皆「この悪天候に外出したら主席はきっと風
邪を引くに違いない」と非常に心配しました。

主席の秘書ブーキーが主席に「今日は外出しな
いよう」強くアドバイスしますが、主席の意思を変
えることは出来ませんでした。

ブーキーには代表団を大統領府に呼び寄せるこ
とは簡単なことでしたが、主席の気持ちを十分に
わかっていて、厚い信頼を得ていたブーキーにそ
れは出来ませんでした。

スタッフは主席が少しでも風雨に当たらぬよう最
大限の注意を払いながら、西湖へと向かいま
す。

ホーチミン主席は和平会談の成行きが心配でい
ても立ってもいられなかったのです。彼は代表団
にどんなアドバイスをしたのでしょうか?
「安易な妥協はするな。アメリカ軍の撤退が和平
への最優先事項だ」そんな声が聞こえてきそうで
す。

しかしこの日の主席の行動は彼の命を奪うこと
になります。

案の定、彼は翌日には風邪を引き熱を出します。
そして主席の体力は目に見えて衰えていきます。

8月18日 医師団は医療施設の整ったハウス
67へ移るよう主席に薦めます。
 
ハウス67は当初、主席の防空シェルターとして
建設されましたが、主席は防空シェルターを拒否
して政治局の会議室としました。この部屋に医
療機器が運び込まれて、万が一の主席の容態
に対応できるように準備されていました。

8月24日 主席は心臓に痛みを覚え、夕方医
師団が診察をします。心電図は主席が心臓麻
痺に襲われたことを示していました。

その後も主席の容態は改善されることはなく、容
態は日増しに悪くなっていき、ハウス67でのベッ
ト生活を余儀なくされていました。27日頃からは
寝たきり状態になったようです。

政治局のメンバーは心配して毎日主席の見舞
いに来るようになりました。主席はいつもだんだん
と良くなっているからと話していましたが、内心は
カールマルクスやレーニンとの会談を用意してい
ました。(死への旅立ち)

主席はザップ将軍に南ベトナムでの戦況を尋ね
ました。この頃には北ベトナム正規軍が非武装
地帯を越えて南ベトナムに侵攻していった時期
ですので、その戦況は主席の関心事であったに
違いありませんが、既に主席もザップ将軍も救
国反米戦争には勝利することを確信していまし
た。

翌日からザップ将軍は主席を安心させるために
毎日戦況の報告に来ました。最後には主席は
「まだ戦局の報告に来てるよ」と冗談交じりに言
いました。

9月1日 もう主席はベットから起き上がることも
出来ませんでした。
レズアン党第一書記とファンバンドン首相が見
舞いに訪れた時、主席は翌日の建国記念日の
式典の準備状況を心配し、式典には花火を打
上げて、主席の健康を心配してくれている国民
を元気づけてほしいと依頼します。

9月2日朝 主席の心電図の波はまもなく臨終
が訪れることを意味していました。

最後に主席はベトナム労働党南部委員会で前
年のテト攻勢を指導したグエンヴァンリンの手を
握り締めます。自分の生きている間に統一国家
の建設が出来なかった事をすまないと思うと共に
、南ベトナムの同志が統一に向けて今なお勇敢
に戦っている事に感謝し、もう話す事も出来着
なかった主席はグエンヴァンリンをじっと見つめま
す。

看護婦達が歌う故郷のフォークソングを聞きな
がら、コップに注がれた一杯のココナツジュースを
静かに飲みます。

静かに主席を仰いでいたブーキーの手が止まり、
すすり泣きに変わりました。

時に1969年9月2日午前9時47分でした。

最後に主席が手を握ったグエンヴァンリンは、主
席の死後20年間続いたレズアン体制をひっくり
かえし、ドイモイ政策を実施して、今日のベトナム
発展の基礎を築づきました。

「ドイモイ政策」とは「ホーチミン思想」への回帰
に他ならないのです。

ホーチミン主席の禁煙 1968
ホーチミン主席が喫煙を徐々に諦めるようになっ
たのは、1966年(76歳)初頭に脳血管の障害
で体の左側の一部に麻痺が生じてからでした。

主席は若い時に喫煙を覚え、主席の長年の唯
一の楽しみになっていました。

しかし主席の体に麻痺が生じてから医師団は、
主席の年齢からして、若い時からの長年の習慣
を諦めさせることはとても難しいことを理解してい
ましたが、あえて喫煙を辞めるよう何度も主席に
注意します。

「喫煙をやめることは健康にいいことだが、私に
はとても難しい」と当初は消極的だった主席もつ
いには医師団の注意を無視できなくなり、禁煙
へ向けて努力し始めます。

主席の取った禁煙への方法は、一本のタバコを
2回に渡って吸いというものでしたが、医師団か
らは余計、健康には良くないと諭されます。

しかし主席はこの方法を取り続けた為、スタッフ
はタバコを半分にカットしてから主席に届けてい
ました。

主席が完全に禁煙したのは1968年(78歳)の
時でした。

この年の3月、主席は軽い風邪を引きます。この
時から主席の机の上に置かれていたタバコが全
く減っていませんでした。スタッフは1週間様子を
見た後、主席にタバコを届けるのを辞めました。

1ヶ月後、ベトナム青年共産団の書記
Vũ Quangが主席を訪問した時、ホーチミン主
席は語っています。
「私は喫煙を諦めました。だから、あなたから若い
人々にも私に続くよう説得してください」

禁煙の生活の素晴らしさを知ったホーチミン
主席は無題の詩を残しています。

Abstaining from wine and tobacco
for three years
Without disease, Life is as a fairytale
Happy to see the South’s great victories
I feel that one year has four springs

ホーチミン主席の最初の健康障害
1960年頃からホーチミン主席(70歳)の健康
状態は徐々に低下していったようですが、健康
障害が最初に発生したのは、最初の遺書を書
き終えた翌年の1966年になってからです。

1966年 ホーチミン主席は脳の循環系統に軽
い障害が生じ、体の左側の一部に痺れをを感じ
る時があり、時々杖を使うようになります。

12_20120709191705.jpg
この写真は1966年1月21日にホーチミン主席
が軍事施設を訪問した時の写真ですが、既に
杖を持っていますので、主席の脳障害は1966
年の年初ぐらいに発生したと思われます。

1965年に最初の遺書を書いた直後にベトナム
労働党中央委員会は主席の健康維持の為に
2人の医師が公式に任命されていましたが、これ
以降秘書のブーキーは主席に密着して看護す
る3人目の医師(Lê Văn Mẫn)を非公式に主
席に薦め、主席の私邸での日常生活も医師の
観察下に置かれるようになります。

<毎日の生活>
起床するとマッサージを受け、その後、私邸のす
ぐ近くに造られているシャワー室に向かいます。

朝食を取りに指定から200メートル先のダイニン
グルームまで時々は杖の世話になり、時々は杖
を手に持ち歩いて行きます。
雨の日でも食事を私邸まで運ばせることは決し
てありませんでした。

ダイニングルームには主席だけでなく、主席のため
に働いている同志も時間は多少づれるものの
一緒に食べる部屋で、オカズは大皿に盛られて
いました。食べ残ったオカズの皿が夕食時にも
残っていると、主席は昼を同じオカズを夕食にも
食べるので、残ったオカズの皿はいつもスタッフが
取り下げていました。

彼の朝食はほぼ毎日、ベトナムの麺類(フォー)
が多かったそうです

私邸とダイニングルームの間には賓客を迎える
ゲストルームが造られ、食事の後、大統領府に
行かなくても、私邸に戻る途中で賓客を迎えら
れるように変更されました。

午前11時、昼食を取りにダイニングルームに向
かいます。
但し、毎週火曜日の昼食は取りません。主席は
困難を抱えている多くの国民に思いを馳せてい
たのです。

食事後は、ベトナム人の習慣になっているシェス
タ(昼ね)を30分程度して午後1時には医師の
指導の下にリハビリを兼ねた運動を行っていま
す。

昼寝から目覚めると、主席はミルクスープかトウ
モロコシのスープ、蜂蜜のスープを飲んでから公
務に戻りました。

午後5時に夕食を取ります。夕食のオカズもとても
質素で、塩漬けの野菜やナス料理、ボラの蒸
し煮が多く、主席の故郷であるゲアン省のキムリ
ン村で食べていた頃の味付けを好んだそうです

食事後は私邸の池の周りを散歩をしてから執
務室で新聞を読み、就寝前にはマッサージを受
けます。

ホーチミン主席の遺言捕捉 1969年
ホーチミン主席が75歳になる1965年5月に、
主席は初めて遺言を書きます。主席の長年の
秘書ブーキーは「THE TOP SECRET
DOCUMENT」と題する手記を「HỒ CHÍ MINH
from His Assistants」と言う書籍に投稿してい
ます。

手記によれば、ホーチミン主席は自分の健康
状態について知っていたので、自分が死去して
も国民が混乱しないように、75歳の誕生日に
遺書を書く事を決心していたそうです。

彼はブーキーに5月10日からの数日間、午前
9時から10時の1時間をなるべく公務のスケジ
ュールを避けるように指示します。

20年間秘書をして、絶大な信頼を得ていた
ブーキーにはこの時間が何をするための時間
か、すべてがわかっていました。

そして1965年5月10日からの数日間は
ブーキー氏にとっても忘れられない日として
回想されています。

5月10日月曜日、この日はとてもすがすがしい
朝で、ホーチミン主席の私邸にはさわやかな風
が流れ、小鳥達がさえずっていました。

主席は午前9時に私邸の書斎で遺書の最初
の一行目を書き始めました。

「TOP SECRET・・・・・・
今年私は75歳になる。誰でも年をとるに
つれて、体は弱くなるものだ・・・・・」

1時間が過ぎ、「TOP SECRET」は封筒に入れ
られ、注意深く書棚に置かれました。そして平常
通りの公務に戻ります。


翌5月11日、主席はいつもより早く5時45分
に起床し、大統領府でイタリア共産党代表団
と会います。

その後、私邸に戻ると、昨夜、南部の戦闘で
勝利をおさめた状況が電話で報告されます。

この5月は主席の75歳の誕生日であることを
知っている南部の市民や兵士が頑張り、主席
にプレゼントを贈ったのです。

9時きっかりに主席は封筒から「TOP SECRET」
を取り出し、書き続けます。

共産党への感謝、党と人民の団結、自己批判
の大切さについて記述します。

そして12日、彼は書き続けます。
「わが国の青年達は勇敢である。党はこれらの
青年達を育てなければいけない・・・・・将来の
革命世代に対する教育とトレーニングは最も
重要である・・・・」

13日も彼は書き続けます。
ソ連と中国の不仲に心を痛め、ベトナム労働党
は国際共産主義運動に貢献しなければならな
いと説きます。

14日 午前6時、彼は予告なしにハノイ近郊
のXuân Phương村の田んぼを見に行き、
豊作であることに満足して10時に私邸に
戻ってきます。
10時から共産党政治局の会議に出席したた
め、この日は予定通りに「TOP SECRET」が書
けませんでした。

昼食後、昼寝をしてから午後2時から4時まで、
彼は最後の章を「TOP SECRET」に書き加えま
す。
「盛大な葬式は無用。火葬にしてTam Đao と
 Ba Vì 付近の丘に埋葬してほしい。もし国が
統一される前に私が死んだら、南の同胞にも私
の遺灰を送ってほしい」

全章を書き上げた遺言は主席自身によってタイ
プされます。

遺言書は5月14日午後4時に完成します。

4時にホーチミン主席の私邸に呼ばれていたレ
ズアン共産党第一書記長がホーチミンの執務
室に入ってきます。

ホーチミン主席は遺言書を提示して、自らサイ
ンすると同時にレズアンのサインを求めます。

しかしなぜか遺言書の作成日は「1965年5月
15日、ハノイ」となっていました。

ホーチミン主席は翌日から長期の旅に出かけて
しまうため、この日、午後6時に共産党政治局
のメンバーは主席の誕生日祝いに大統領府に
駆けつけます。

大統領府の広間のテーブルの上には新鮮な花
が飾られていました。
ホーチミン主席は微笑みながら言います。「だれ
がこのような誕生日祝いを企画したの?」

レズアンが笑いながら、ファンバンドンとチュオン
チンに目をやり、チュオンチンが代表して祝辞を
述べます。

主席は礼を言いながら、秘書のブーキーに尋ね
ます。
「KỲ ゲストを歓迎する物を持っているか?」

主席とブーキー秘書が用意していたものはキャ
ンディーとクッキィーでした。

誕生日祝いが終わってから7時30分に主席は
「ベトナム青年共産団」創立24周年記念式典
に出席します。
午後9時に大統領府に戻った主席をブーキー
秘書が私邸まで送り届けます。

ホーチミン主席は書棚から「TOP SECRET」の
封筒をブーキー秘書に渡し、そして言います。
「厳重に保管しておいてください。そして来年の
5月15日になったら私に下さい」と。

<余談>
ホーチミン主席の誕生日には諸説があって、ベ
トナム共産党史では1890年5月19日となって
いますが、これとて物証となる文書が残っている
わけではないようです。
5月19日は「ベトナム独立同盟(ベトミン)」の創
設記念日です。

所詮、昔のことで物証もないようなので、この日
をホーチミン主席の誕生日にしてしまったという
話もあります。

しかし、ブーキー氏の手記を読むと、5月15日
らしく思えてくるのですが??

79 ホーチミン主席の足跡 死後 その2 ホーチミンの記念モニュメント
1969年9月9日 ホーチミンの国葬の日、サイゴンの
高僧THÍCH PHÁP LANはCHÙA KHÂNH HƯMGで
ホーチミンのために法要を行いました。

11


戦争の真っ只中であるにも拘らず、各地で秘密裏にホ
ーチミンの祠が建てられました。


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1969年12月 カマウ(Ca Mau)で造られた
ホーチミン記念ハウス

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チャビンタウン(Tra Vinh Town)に造られた
ホーチミンの寺院

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森の中に造られたホーチミンの寺院


1975年4月30日午前11時30分 サイゴンが陥落
し、べトナム戦争の終結とともに7月18日にホーチミン
廟が完成します。


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ホーチミン廟


5月19日生まれのホーチミン主席は2010年5月19
日ベトナム国中で120歳を祝う式典が各地で行われ
ました。ベトナムではホーチミン大統領は眠り続けてい
るだけなのです。

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ゆかりの深かったパリ。Mongiro公園にもホーチミンの
胸像が立てられています。


<各地のホーチミン記念館>

ホーチミン主席の記念館はハノイの記念館を本部とし
て、各地に支部の記念館があります。

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ホーチミン記念館の本部 ハノイ


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サイゴン ニャロン埠頭

19_20120204185839.jpg
ホーチミン記念館 ビントゥオン  ファンティット市
No.39 Trung Nhi, Phan Thiet City, Binh Thuon
Province

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ホーチミン記念館 メコンデルタ カントー市
No.6 Hoa Binh Avenue, Can Tho City


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ホーチミン記念館 フエ
No.7 Le Loi, Hue City

22
ホーチミンの父親グエン・シン・サック
(1863年`-1929年)の記念エリア
Cao Lanh City, Dong Thap Province



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