べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
カテゴリ

FC2カウンター

リンク

このブログをリンクに追加する

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ホーチミンの父親の墓
100  晩年

Nguyễn Sinh Sắc(阮生色)
別名 Nguyễn Sinh Huy  Cụ Phó bảng
生没年 1862年―1929年

父親は1911年サイゴンでホーチミンのフランス
への船出を見送ってから、南部ベトナムに留まり
、故郷に帰ることはありませんでした。そして2度
と家族に会うことはありませんでした。

1926年にはフランスで息子の面倒を見てくれて
いた旧知のファンチュウチンがサイゴンに戻ってき
たので、ミトーで会い、いろいろと息子の現況を
聞いたようです。

死の1年前ぐらいからは、息子のグエンアイコック
(後のホーチミン主席)が中国広東で結成した
「ベトナム青年革命同志会」の南部支部の人々
と頻繁に連絡しあっていて息子の活動を影なが
ら応援していたようです。

彼自身は小乗仏教の教えが愛国心に通じると
ころがあると信じて、僧侶の鹿資格を取り、托鉢
をして土地の子供達の教育や愛国心を説いて
周り、生涯を閉じました。

ホーチミン主席の墓所はハノイのバーディン広場
にありますが、父親の墓所は南部ベトナムのドン
タップ省カオランにあります。

101_20120626142522.jpg
1945年ホーチミンがベトナムの独立宣言をして、
大統領になってから1954年フランスがヂエンビ
エンフーの戦いで大敗するまでベトナムの兵士が
密かに父親の墓を守ります。

102 (3)
墓が現在の場所に移動したのはベトナム戦争
後の1975年です。

103_20120626142520.jpg
現在の墓所の入り口

ホーチミン主席は遺言で、「火葬にして北部、
中部、南部の丘に埋め、人々が休める休憩所
を造ってほしい」と願いましたが、ベトナム共産党
は政治的理由から、遺言は現在でも実行してい
ません。

その反動からか、父親の墓所は1ヘクタールの
広大な土地に植林がなされ、休憩所が造られ、
息子のホーチミンが住んだハノイの私邸と池の
レプリカが墓所内に造られています。

ホーチミン主席の遺言の政治的理由からの
不実行は、「これで勘弁して下さい」と訴えている
ような造りです。

104_20120626142519.jpg
納骨堂までの道途中の植林と休憩所


105_20120626142632.jpg
休憩所

106_20120626142632.jpg
墓石

107
墓所の中心全景
墓所全体は外壁に囲まれていて1ヘクタールあ
ります。一番奥が納骨堂。手前にはベトナムの
5星を模った広場があります。

108_20120626142630.jpg
納骨堂

109.jpg
土葬ですが、骨は移動時に1度洗浄されている
かもしれません

110_20120626142743.jpg



納骨堂の反対側には托鉢をしている父親の像と
ホーチミン主席が死去するまでのハノイの私邸
と池のレリーフが原寸通りに造られていて、親子
が一緒に住めるように配慮されています。


111_20120626142742.jpg
托鉢姿の父親の像

112_20120626142741.jpg
ホーチミン主席の私邸と池のレプリカ

サイゴンの西バスターミナル(BX Mien Tay)から
カオランまで直行バスが運行されていて、約3時
間で到着しますで、日帰り旅行が可能です。

ホーチミン主席の父

グエン・シン・サック(Nguyễn Sinh Sắc)
生没年 1863年―1929年(66歳)

11
1863年
ゲアン省ナムダン県キムリン村落セン村
(lành Sen Xã Kim Liên huyên Nam Đàn
tinh Nghê An)で誕生します。


1866年(3歳)
父親 Nguyễn Sinh Nhâm が逝去しま
す。


1867年(4歳)
母親 Hà Thi Hy が逝去します。
サックは母親の兄夫婦 (Nguyễn Sinh
Trợ)に引き取られます。


1878年(15歳)
ホアンチュ村̣̣(làng Hoàng Trù)に住んでい
た儒学者ホアン・ドゥオン(Hoàng Đương)
の養子になります。



1880年(17歳)
ゲアン省ギロック県チンチュオン村落(xã
Tring Trường huyên Nghi Lôc tinh Nghê
An)に住む有名な先生グエン・チュック・
トゥ(Nguyễn Trúc Tư)のもとで勉強しま
す。


1881年(18歳)
ホアン・ドゥオン先生の娘、ホアン・ティ・
ロアン(Hoàng Thi Loan)と婚約します。


1883年(20歳)
ホアン・ティ・ロアンとホアンチュ村̣̣で結婚式
を挙げます。

12  家計図


1884年(21歳)
長女グエン・ティ・タン(Nguễn Thi Thanh)
が生まれます。


1888年(25歳)
長男グエン・シン・キエム(Nguyễn Sinh Khiêm)が生まれます。

1890年(27歳)
次男グエン・シン・クン(Nguyễn Sinh Cung
後のホー・チ・ミンが生まれます。

1891年(28歳)
郷試(地方公務員の試験)受験しました
が、失敗します。


1893年(30歳)
養父でもあり恩師でもあったホアン・ドゥオン
が逝去します。


1894年(31歳)
学士号を取得します。
翌年会試(国家公務員試験)を受けるた
めにフエに行っていますので、この年に郷試
に合格したと思われます。


1895年(32歳)
サックは会試を受けるためフエに向かいます
が、合格しませんでした。サックが会試の試
験勉強のためフエで勉強することにしたた
め、この年の後半には家族も全員フエに引
越します。


1898年(35歳)
2回目の会試を受けますが、受かりません。


1900年(37歳)
この年の後半、ロアンは第4子、三男グエ
ン・シン・シン(Nguỹn Sinh Xin)を出産しま
す。


1901年(38歳)
2月、ロアンが病死します。フエに埋葬後、
父親は子供達をつれて、ロアンの実家ホア
ンチュ村̣̣へ引き揚げます。

父親は会試に合格します。
会試合格を祝ってグエン・シン・クンの名前
をグエン・タッ・タンと改名します。

第4子のグエン・シン・クンが幼くして死亡し
ます。
この年の後半、ホアンチュ村̣̣からキムリン
村に移動します。


1902年(39歳)
子供兄弟はVương Thúe Quý先生のもと
で勉強します。
父親は病気にかかり、公務員の仕事は出
来ませんでした。


1903年(40歳)
2人の子供兄弟を連れてVó Liệt村で先
生をします。


1904年(41歳)
Du Đồng村で先生をしながら、グエン・シ
ン・クン(後のホー・チ・ミン)を連れてたくさん
の愛国者の家を訪ねます。


1905年(42歳)
サックは勉強の他に愛国心をを説いて廻っ
ていました。
長女のグエン・ティ・タンが東遊運動に協力
していたので、グエン・シン・クンはファン・ボ
イ・チャウから日本で勉強することを進めら
れますが、父親は断りました。

子供兄弟はヴィン市(Vinh)の仏越学校で
学びます。


1906年(43歳)
6月 父親はフエに行き官職に就きます。
子供兄弟はドンバ(Đông Ba)の仏越学校
で学びます。


1907年(44歳)
子供兄弟はベトナム第一の名門校フエの
クオック・ホック校に入学します。


1908年(45歳)
子供兄弟はトゥアティエン(フエ市)農民の
酷税に抵抗するデモに参加します。
フエのフランス政庁の前でフランスに反発、
非難する言葉を投げかけた為、2人は退学
分を受けます。


1946年(46歳)
7月 父親はビンケ県の知事になります。

グエン・タッ・タンはクイニョンのPhan Ngoc
Tho先生のもとにフランス語を勉強しに行き
ます。


1910年(47歳)
1月 県知事のグエン・シン・フイ(グエン・
シン・サックの改名)は暴力事件を起こした
らしく、事件の究明のためフエのフランス
政庁に召還されます。

5月 フランス政庁はグエン・シン・フイに対
し、100回の鞭打刑と官職のランクを4階
級落とし、平の階級にしました。

8月 父親グエン・シン・フイは釈放されま
す。
グエン・シン・フイはグエン・タッ・タンの就職
の為、旧知のフエ宮廷の官僚タン・モに就
職以来の手紙を書きます。

グエン・タッ・タンはタン・モの紹介状を持っ
てファン・ティット(Phan Thiết)のズクタイン
中学校(Đuc Thanh)に予備教師として就
職します。


1911年(48歳)
3月 グエン・タッ・タンはフランスに渡航する
ためサイゴンに向かいます。

しばらくして父親のグエン・シン・フイもサイゴ
ンに来ます。
サイゴンで親子は会っていますが、この後、
親子が2度と会うことはありませんでした。

6月5日 グエン・タッ・タンはフランスの貨客
船トレビュー号に乗って旅立ちます。

10月 グエン・タッ・タンは父親に手紙を送
ります


1912年(49歳)
父親はサイゴンでグエン・タッ・タンのニュー
スを待っていました。
この年の終わりグエン・タッ・タンはアメリカか
ら父親に手紙を書きましたが、父親は受取
ることが出来ませんでした。

13  晩年
晩年のグエン・シン・フイ

14_20120523215330.jpg
南部ベトナムでの活動地点


1913年(50歳)
この年はロク・ニン(Lôc Ninh)へ仕事をし
に行っています。

1914年(51歳)
ロク・ニンで仕事をしています。
ロン・スエン(Long Xuyên)へ行き、Nguyễn
Thượng KhánhとDương Bá Tracに会い
ます。
その後、カンボジアのプノン・ペン(Phnôn
Pênh)へLương Văn Canに会いに行きま
す。


1915年(52歳)
プノン・ペンでいろいろな場所に行きます。
グエン・タッ・タンはイギリスのサイゴン総領
事宛に、インドシナ総督府が父親の住所を
探してくれるよう依頼して欲しい旨の手紙を
書きましたが、返事はありませんでした。


1916年(53歳)
サイゴンに戻ります。
南部ベトナムのいろいろな場所を行ったり
来たりします。
ベトナムの新しいローマ字式の文字(クオッ
ク・グ)を独学します。


1917年(54歳)
Hoằ An村落のCao Lãnh村に居を構えま
す。
ここでSa Đécに住むVõ Hoành, Đia や
地方に住む多くの愛国者と連絡を取ります

1918年(55歳)
Hoằ An村落で村民の医者として働き、
村民に薬の作り方を教え、子供達には
ベトナム文字を教えていました。


1919年(56歳)
サイゴンに戻ります。


1920年(57歳)
タンアン、ミトー、ゴコン(Tân An, Mỹ Tho,
Gồ Công)行き、Đỗ Tường Ninh, Trần
Vĩnh Hoài, Tòng Am, Mai Bach Ngoc等
と連絡を取り合っています。


1921年(58歳)
ビンキム(Vĩnh Kim、 Tiền Giang省)へ
行きTrần Năng Liễu, Trần Văn Diêm等
と連絡を取り合っています。


1922年(59歳)
サイゴンに戻り、リンソン寺(Linh Sơn)に
住みます。
儒学者や愛国者の家と連絡を取り合いま
す。

プノンペンへ行き、地図を買っています。
Sùng Phước Châu Hô寺で修行し僧侶の
資格を取ります。

ベトナムに戻り、Lương Thất Sơn に一時
滞在します。


1923年(60歳)
Hoà Thanh寺という古寺に行きます。
サデックに戻ります。

サイゴンに戻り、Nguyễn An Ninhと連絡を
取ります。
「Đông Pháp Thời」紙上に現在のベトナム
仏教の潮流を批判する文章を投稿します。

托鉢をし始めます


1924年(61歳)
愛国者達に仏教の復興運動に参加するよ
うに扇動します。



1925年(62歳)
ビンズオン省(Bình Dương)のHôi Khách
寺に行き、Phan Đình Viênと連絡と取りま
す。


1926年(63歳)
ミトーでフランスから帰ってきたファン・
チャウ・チン(Phan Châu Trinh)と会いま
す。
サックは息子のグエン・アイ・コックの動静を
ファン・チャウ・チンから聞きます。(グエン・
アイ・コックはグエン・タッ・タンの改名。この
頃息子はフランスからロシア、そして中国
広州市に行き、1925年に広州市で
「ベトナム青年革命同志会」を結成し、共
産主義者養成のトレーニング学校を開いて
いました。

Phan Trong Binh, Nguyễn Văn Lợiと
連絡を取ります。


1927年(64歳)
ベンチェに行き、僧侶のNguyễn Quyềnに
会います。
サデック村に戻り、刑務所の上級官吏
Nguyễn Quang Diênに手紙を送っていま
す。

カオラン村の青年愛国者グループと連絡を
取ります。


1928年(65歳)
この年は前年に引き続きカオラン村に住み
ます。
広東で子供のリ・トゥイ(偽名。後のホー・
チ・ミン主席)が創設した「ベトナム青年革
命同志会」のベトナム国内のグループと連
絡しあいます。

チャドックに行き、プノンペンで活動している
ベトナム青年革命同志会の組織の一員で
あるLương Văn Canに数多くの手紙を書
きます。


1929年(66歳)
チャドックのGiồng Thành寺へ行き、活動
しようとしましたが、今までのフランス植民地
政府に対する反体制活動の為、寺はフラ
ンス官憲に取り囲まれ、やっとの思いで
カオラン村に脱出しました。

その後、カオラン村で病気にかかり、死亡
します。

15_20120523215329.jpg
1954年 ディエン・ビエン・フーでフランス
植民地軍に勝利した後に建てられた
グエン・シン・サックの墓


現在の墓
16_20120523215328.jpg

17_20120523215400.jpg

18_20120523215359.jpg



-----------------------------------------


>
ホーチミン主席の子供

歴史学者はホーチミン主席には少なくと
も海外に3人の子供がいたことを記述し
ています。

フランスの子供
1946年7月27日ホーチミン主席は
Bagatelleローズガーデンで開かれた在
フランスベトナム人のフランス建国記念日
の式典に参加しました。その席上、マルセ
イユの上院議員であったRaymond Aubrac
から自宅に招待を受けます。
翌日ホーチミン主席はAubrac邸を訪問
し、娘のLucie Aubracが8月15日に
出産する予定であること、そして父親は
ホー・チ・ミンであることを知らされます。

8月15日、Lucie Aubracは女の子
Elizabeth Aubrac (愛称Babette)を
出産し、ホーチミンはパリ5区Port Royal
通りにあるBodeloque病院を訪ねます

20_20120510163521.jpg
誕生直後の写真

1967年7月21日Raymond Aubracは
Herbert Marcovicと共にベトナム民主共
和国のリーダーを会談するためにハノイを
訪れます。

7月24日、Raymond Aubracは
ホー・チ・ミン主席と会談後、2人きりに
なった時、孫のBabetteからのプレゼント
をホー・チ・ミンに渡しました。
成長したBabetteは教師になっています。


<ドイツの子供>
1951年5月19日東ドイツポツダム市に
住むWalter R. Hartmann夫妻からKnuth Walther Wolfgang Hartmann
と名づけられた男の子が生まれ、
ホー・チ・ミンがその父親である旨、
ホーチミン主席に手紙を送ってきました。
ホー・チ・ミン主席は当日すぐ夫妻に返信
し、子供が出来た感謝の気持ちを述べる
と共に、小さな肖像写真を同封しています。
Knuth Walther Wolfgang Hartmann
は成長して技術者として働きました。。


<ロシアの子供>
1958年の春、APN通信社の記者が
ホーチミン主席宛に手紙を送ってきました。
モスクワ郊外のJukovski 市に住む
Dimitri Grigorievich Kolosovが女の子
を出産し、Irina Dimitrievna (愛称は
Idrishka)と名付けられたと。
ホー・チ・ミンは今、会う時間はないけれども
父親になった感謝の気持ちを伝える手紙を
返信しています。.
Idrishkaは成長して、警察署で働きまし
た。

最も有名なウワサは前ベトナム共産党書
記長ノン・ドゥック・マインがホー・チ・ミン主
席の子供であるというウワサです。外国人
新聞記者とのインタビューでノン・ドゥック・マ
イン書記長は「自分がホー・チ・ミン主席の
子であると否定も肯定もせづ、ホー・チ・ミン
主席はベトナムすべての子供達の父親であ
ると」答えています。
ノン・ドゥック・マインの母親は彼の誕生後、
謎の死を遂げています。

ホーチミン主席の妻

Tăng Tuyết Minh (中国語 曾雪明
Zengxueming)
生没年 1905年 – 1991年

11_20120430160302.jpg
1920年代のタン・トゥイット・ミン

歴史学者の調査によるとタン・トゥイット・
ミンは1926年にリ・トゥイ(当時のホー・
チミンの変名)と結婚し、1927年に
「上海クーデター」が発生し、ホー・チ・ミンが
中国を離れるまでの半年間、結婚生活をした

ホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の大統領
になった時、二人はお互いに連絡しようとした
が叶わなかったとあります。

この史料の出処は中国の歴史資料「武漢
文史資料」で、中国のWEBサイトに掲載さ
れたことに端を発しています。現在ではベト
ナム語のWEBサイトでも閲覧することが
出来ます。

12_20120430160301.jpg
武漢文史資料

現在では外国人ジャーナリストや多くのベトナ
ム人はホー・チ・ミン主席に妻子がいたことを
否定しませんが、ベトナム共産党の公式の見
解は「ホー・チ・ミン主席は生涯独身であり、
妻子はいなかった」ということですので、ベトナ
ム国内で公言することは認められません。


タン・トゥイット・ミンは1905年中国広東省広
州市マイ県で生まれ、父親はサラリーマン、母
親は市場で働いていましたが、父親は彼女が
10歳の時に死亡しています。

1923年初め彼女は広州市の助産婦学校を
卒業し、助産婦の仕事をしていました。

1924年11月、蒋介石率いる国民党のアド
バイザーとして広州に派遣されていたコミンテ
ルンの工作員ボロディンのもとにリ・トゥイが通
訳として派遣されてきました。

リ・トゥイはボロディンの通訳をしながら、共産
党組織の拡大を図る活動をします。
1. 黄埔軍官学校の教官との接触
    蒋介石、周恩来、毛沢東とはこの時に
面識をもったと思われます。
2. ベトナム青年革命同志会の設立。
3. 自ら共産主義やベトナム革命の講義を
4. おこなう。

1926年夏、リ・トゥイは人材紹介業をしてい
たLam Duc Thuの紹介でタン・トゥイット・ミン
に出会います。ホー・チ・ミンは色白で面長、
垢抜けた容姿をしていて賢明な彼女に一目
ぼれをし、恋に陥いります。

ホーチミン36歳、タン・トゥイット・ミン21歳の
時でした

1926年10月、リ・トゥイとタン・トゥイット・ミン
は広州のPacific Restaurant,で結婚披露
宴を行います。披露宴にはThai Chang ,
Deng Yingchao(周恩来の妻)やホーチミン
が主催していた共産主義トレーニング学校
の数人の生徒が出席しています。

このレストランは1年前に周恩来の結婚披
露宴としても使われました。

当初ホーチミンのこの結婚にはタン・トゥイット
ミンの母親やホーチミンの同志 Nguyen Hai Than
や Le Hong Sonが反対していましたが、
二人は結婚するに至ります。

「ホーチミンは同志に結婚する理由について、
言葉を教わるためと家事をしてもらうために女
性が必要なのだと説明している」と指摘する
歴史学者もいます。

他の歴史学者は「二人は結婚生活で娘をも
うけた」との記事を紹介しています。

1927年4月12日、蒋介石は上海でクーデタ
ーを起こし、共産党と襟を分かち、共産党員
の弾圧、逮捕、処刑を指示します。
この事件で中国での国民党と共産党は仲違
いし、日本の中国侵略に対しての共同作戦
は破綻します。

共産党は武漢に本部を移し、ホー・チ・ミンも
妻と離れて武漢に移動しますが、政治情勢は
一向に好転せず、身の危険を感じたため、ボ
ロディンと共に、上海を経由してソ連に引き揚
げます。

その後リ・トゥイはヨーロッパを回り、タイへ行
きます。
タン・トゥイット・ミンは社会主義青年会に加入
し、1929年までAnh văn Kiêm Báという助産
婦学校で指導します。

1929年7月から1930年の初めにかけて彼
女は広州市を離れて広州郊外のThuận Đức
県で助産婦の仕事をします。

中国を離れたホーチミンは何度もタン・トゥイッ
ト・ミンに手紙を送りましたが返事は来ません
でした。

13_20120430160300.jpg
1928年8月14日 ホーチミンがタイから
タン・トゥイト・ミンに送った手紙。中国語で書
かれています。

この手紙はフランス秘密警察のファイル
CAOM
(Viết tắt của Centre des Archives
d’Outre-Mer _Trung tâm Lưu trữ Hải
ngoại) đặt tại Aix-en-Provence)から
発見されました。

「あなたと離れてから1年以上が経ちま
した。
はっきりとは言えないけど、バラの花びら
が風になびいているような楽しかった日々
が記憶されています。我々の子供が安全
に成長しているか心配しています。」
というようなことが書かれているようですが
、文章が詩的でうまく訳せません。

1931年6月5日 ホーチミンは香港でイギリ
su官憲に逮捕され、ビクトリア刑務所に収監
されます。この事件は地元香港の新聞にも掲
載されました。

タン・トゥイット・ミンは刑務所にホーチミンを訪
ねますが、遠くからホーチミンの姿を見れただけ
でした。 これがタン・トゥイット・ミンが実際にホ
ーチミンを見た最後となりました。というのが武
漢文史資料に載っているストーリーです。

しかし、他のWEBでは続きがあります。

1950年中国の新聞「人民日報」はベトナム
民主共和国の大統領となったホーチミンの特
集を組みました。
ホー・チ・ミンがリ・トゥイであることを知ったタ
ン・トゥイット・ミンはホーチミンと連絡を取るた
めベトナムの在中国大使Hoang Van Hoanや
中国共産党に手紙を書きましたが、彼女の
努力は無駄に終わりました。

一方ホーチミンも在ベトナムの広州総領事や
中国南部の書記長にタン・トゥイット・ミンの追
跡調査を依頼したが、この件の資料はありま
せんでした。

この件以降、タン・トゥイット・ミンは助産婦の
指導を続ける生活をし、1977年に退職し、1
991年11月14日、広州市で逝去して
います。86歳でした。

17_20120430160325.jpg
晩年のタン・トゥイット・ミン。ホ-チミンの写真
が掲げられています。

ベトナム国には出版物には検閲制度がありま
すし、ベトナム憲法にもホーチミン思想を堅持
することが記載されています。ホーチミン主席を
神格化した共産党政権にとって、ホーチミン
主席にマイナスイメージを与えると考えられる
出版はベトナム国内では出版出来ません。

1991年5月 ベトナムの著名な一般紙
「Tuoi Tre」がホー・チ・ミンに妻がいたことを報
じましたが、編集者のVu Kim Hanh はその職
を追われました。

Sydney Morning Herald紙は2002年に次の
ように報道しています。
William J. Duikerが 「Ho Chi Minh: A Life」
という本を出版したところ、出版社はベトナム
共産党とベトナム政府の出版物を扱っている
「National Political Publishing」から手紙を
受け取りました。ベトナム語に翻訳する時には
本の内容の一部を削除するよう求めている内
容でした。

Far Eastern Economic Reviewという雑誌は
ホーチミンの結婚について掲載したところ発行
禁止になってしまいました。

がしかし、
1960年にホーチミン主席がタン・トゥイット・ミ
ンを訪れたといわれる写真があります。

14_20120430160259.jpg

15

16_20120430160325.jpg

これらの写真は合成写真だと一笑するベトナ
ム人もいますが、信憑性を裏付ける記事もあ
ります。

1960年5月10日に中国代表団がべトナム
を訪れています。周恩来がホーチミンと会談し
ています。前述したように周恩来の妻はホー・
チ・ミンの結婚披露宴の主賓です。

ホーチミンの行動日誌によれば、
1960年9月10日ベトナム労働党会議が終
了した後の10月13日8時30分 ホー・チ・ミ
ンは広州に向かうためヤーラム飛行場へ出発
14時広州着。同志と会談後、20時から
香港映画を鑑賞しています。

10月14日16時 ベトナム行きの飛行機に
乗っています。

この記事はホーチミン主席を誹謗する為では
なく、主席が結婚したとしても、ベトナム独立の
ため家庭生活をも犠牲にしなければならなか
ったということ表明しています

ホーチミン主席の石の彫刻
ホーチミン主席の姿はいろいろな媒体で表現されている
のですが、銅像ではなく石にエポックとなった姿を刻んで
表現している芸術家がいて話題になっています。

フー・トー省ラム・タオ県ソン・ヴィ集落に住むチエウ・ホア
ン・ザンさんは、1997年にタイン・ホア省で彫刻に適した
石を捜し求めて以来、30以上の作品を完成させていま
す。

20 (1)
チエウ・ホアン・ザンさん

20 (2)


20 (3)


20 (4)


20 (5)


20 (6)


20 (7)


20 (8)


20 (9)


20 (10)

いずれも有名なシーンなので、私も「ホーチミン主席の足
跡」シリーズで写真と説明を掲載しています



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。