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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ハムギ帝 勤皇運動6  イェンテ蜂起
イェンテ蜂起

Khởi nghĩa Yên Thế

イェンテ蜂起は1885年の「勤皇の詔」に応じて北部ベト
ナム山地、バクザン省イェンテ県を中心にした蜂起です。

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バクザン省

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イェンテ蜂起の地図

<中心人物>
本名 チュオンヴァンタム(Trương Văn Thám 張文探)
改名 ホアンホアタム(Hoàng Hoa Thảm 黃花探) 
別名 デタム(Đề Thám 提探)
生没年 1858年~1913年2月10日
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デタム

はフンイエン省生れでしたが、両親がフエ宮廷の政策に
反抗するノン・ヴァン・ヴァンの蜂起(1833年7月~183
5年3月)に参加し両親とも死亡、祖父が家族名を
「Hoàng」に変更してバクザン省イェンテ県に移住してき
ました。デタムは16歳になると軍事組織で活動をはじめ
生涯軍人であり続けました。

1885年の「勤皇の詔」発布後、北部ベトナム山地でも
大小の抗仏義軍がフランスの通商路を制して対峙して
いました。

1890年~1891年
フランスは保護国となった北ベトナムの統治を強めようと
ジョゼフ·ガリエニ(Joseph Simon Gallieni)司令官のも
とイェンテに多く集まっている抗仏抵抗勢力を一掃しよう
と作戦を開始します。

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ジョゼフ·ガリエニ

1892年4月
デタムはイェンテに蜂起した義軍の長となり,多くの農民
兵を集め、最大の反仏根拠地を形成する一方,フラン
ス軍の掃射作戦に対してハノイ~ランソン間の鉄道を襲
い物資を奪ったり、フランス軍哨所を襲って人質をとり身
代金を奪ったりして抵抗したため、フランス軍の掃射作
戦は頓挫してしまいます。

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イェンテ要塞の正面

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イェンテ蜂起のリーダー達

1893年~1895年
フランス軍は再び3年にわたってイェンテ軍の鎮圧を試み、 
降伏させるために周囲の村落を破壊しますが、デタムは
柔軟な戦術を駆使してフランス軍に重大な損害を与え、
勝利を得ます。

1897年12月
フランス総督府はジョゼフ·ガリエニの意向に反して和平
の意向を示し 
イェンテ軍と一時的に和睦し、イェンテ軍はハノイにおけ
るフランス人の安全を、フランス軍はデタムがイェンテ県
の領主であることを認めます。
しかし双方ともにこの和平が一時的なものであることは
承知していました。

1898年~1907年
イェンテ軍は支配地の拡大に努めハノイ近郊にまで迫っ
ていました。また、国境を越えて黒旗軍や孫文の革命党
とも連携を行い、ファンボイチャウやファンチャウチンなど
のベトナム独立運動の闘士とも積極的に関わります。

1908年
初期
デタムはファンボイチャウ等のベトナム人愛国者らとフラ
ンスからハノイを取り返す作戦を練りました。
その作戦は駐屯している兵士の夕食に毒を入れ殺害し
兵力を無力化することでした。と同時にデタムは城外で
待機し、城内からの合図で飛行場のあるヤーラムを攻
撃する手はずになっていました。

ハノイ駅、ハノイ中央郵便局、ロンビエン橋を爆
破する作戦も計画していましたが、作戦は密告に
より計画倒れになっています。

6月27日
毒殺計画が実行されます。ベトナム人調理人達はフラン
ス人兵士の夕食にチョウセンアサガオを混ぜ込みます。
毒はすぐに200人のフランス兵士に打撃を与えましたが、
死に至らしめることは出来ませんでした。。(ハノイ投毒事件)
城外ではデタムが成功の合図を待っていましたが、陰謀
が失敗したことを悟り、彼の部隊を引き揚げさせます。

その後、料理人の一人が罪悪感に苛まれ教会に駆け
込み、投毒事件を告白してしまいます。フランス人神父
はフランス植民地政府の役人に報告します。ハノイのフ
ランス総督は戒厳令を発動して陰謀首謀者と実行犯の
逮捕を命じます。

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逮捕された人々

フランスは事件処理にすばやく対応し、13名の実行犯
をギロチンで処刑します。

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3人のリーダー Nguyen Chi Binh, Dang Dinh Nhan,
Duong Beがさらし首にされました。

7月8日
フランス軍はさらに24名に死刑を宣告、残りの逮捕者
は終身刑あるいは追放処分にしました。ファンチャウチン
を含む多くの追放者がコンダオ刑務所に送られました。

フランスはさらに日本で活動しているファンボイチャウを
非難し、日本に対してファンボイチャウを追放するよう強
要します。

1909年1月

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逮捕される前のデタムの家族

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孫達に囲まれるデタム

一方でフランスはデタム狩りを始めます。
フランスは1月29日から11月11日までに15000人の
兵力で11回の攻撃を仕掛け、イェンテにいるデタム陣地
を取り囲み制圧しますが、この時、既にデタムは陣地か
らは逃亡していました。

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休憩するフランス軍兵士

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フランス軍負傷兵

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フランス軍負傷兵

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埋葬されるフランス軍兵士

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逮捕されたデタムの父親、妻と家族

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逮捕されるデタムの第3婦人

イェンテ要塞が陥落してもフランス軍はデタムの追跡を諦めませんでした。

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肉を風に当てるフランス兵

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フランス兵士の食事風景

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フランス軍兵舎の建設

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駐屯地を建設するフランス軍

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フランス軍の尋問

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フランス軍の尋問

1913年2月10日(異説あり)
デタムはタイグイエン省で同志であったルオン・タム・キー
(Lương Tam Kỳ)によって暗殺されます。ルオン・タム・
キーは元黒旗軍の司令官で、後にフランス軍のスパイと
なっていました。
イェンテ要塞から逃亡後のデタムの消息ははっきりしてい
ません。
デタムの暗殺を以ってイェンテ蜂起は壊滅します。


<後世の評価>
ベトナム建国の父、ホーチミン主席がデタムの抵
抗精神を賞賛したので、ベトナム共産党において
も歴史上の英雄として扱われています。
ハノイのバーディン区にはデタムの事跡を記念し
た「ホアン・ホア・タム通り」が存在する他、ベ
トナムの各地に「デ・タム通り」が存在します。
特にサイゴンのデタム通りはバンコクのカオサン通りと似
て世界のバックパッカーの集まる場所で、安宿や旅行会
社がひしめき合っている通りとして有名です。
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