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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ハムギ帝 勤皇運動5 バイサイ蜂起
バイサイ蜂起
Khởi nghĩa Bãi Sậy
バイサイ蜂起は1883年から1892年にかけて北部ベト
ナムのフンイェン省(Hưng Yên)アンティ県(Ân Thi)
バイサイ村(Bãi Sậy)を中心に発生したフランス植民地
政策に反抗する蜂起です。

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フンイェン省

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アンティ県

<中心人物>
ディン・ザ・クエ(Đinh Gia Quế)
グエン・ティエン・トゥアット(Nguyễn Thiện Thuật) 1885年~
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グエン・ティエン・トゥアット

1883年
初期の蜂起(1883年から1885年)はフンイェン省
(ハノイに隣接する省)に属するVăn Lâm県, Văn Giang県,
Khoái Châu県, Yên Mỹ県の地域でディン・
ザ・クエをリーダーとしてフランス軍に反抗していました。
この地方は葦の生い茂った草原でゲリラ戦には適した
地形でした。

1883年
8月
フランス軍がフンイェン省一帯に侵入してくると、村の警
備隊長をしていたディン・ザ・クエ(Đinh Gia Quế)は「男
は皇帝に忠誠を誓うもの」と農民を説教をして回り、常
に貧しい人を気遣かったので農民たちの信頼を勝ち取っ
ていきました。

ディン・ザ・クエはフンイェン省アンティ県バイサイ村にフラ
ンスに抵抗する根拠地を設けました。フランス軍は「この
村の農民はすべてディン・ザ・クエの統制の下にあって、
フランス軍に抵抗しようとしている」と感じていました。
彼はレンガ造りの大規模な要塞を建設し、トンネルを構
築してホン川や葦の平原に抜けられるようになっていまし
た。

一方、グエン・ティエン・トゥアットはフランス軍がハイズオ
ン省(Hải Dương)を占領した時、フランス軍にリクルート
され、さらに地方都市を占領しようとしましたが失敗して
一旦、引き揚げ、翻って宮廷軍の有名な司令官
Hoàng Kế Viêmに協力することにし、その後のソンタイで
の戦いではĐông Triều地方の兵を結集して宮廷軍に味方し、
劉永福(Lưu Vĩnh Phúc)率いる黒旗軍と共に戦いました。

1883年後半
フエ宮廷とフランス軍との間でハルマン条約が締結され
ると、グエン朝は宮廷軍の兵士に待機の命令を出します
が、グエン・ティエン・トゥアットやNguyễn Quang Bíchは
命令に従わず、Tuyên Quangに進軍しました。そしてフ
ンホアやランソンでの戦いの後、戦闘を継続する支援の
ため中国の龍州(Long Châu)に向かいました。

1885年
7月
龍州でハムギ帝の「勤皇の激文」を見たグエン・ティエ・
トゥアットはフランスに抵抗することを決心し、ベトナムに
戻り再びバイサイに抵抗基地を構築します。

彼はディン・ザ・クエと連絡を取り、できるだけ多くの将軍
や儒学者に参加を呼びかけました。(将軍 Nguyễn
Thiện Kế, Nguyễn Thiện Giang , Đốc Tít, Đốc Cọp,
Đốc Sung, Đề Ban, Đội Văn, Đề Tính, bà Đốc Huệ
  儒学者 Ngô Quang Huy, Nguyễn Hữu Đức)

ハムギ帝はディン・ザ・クエを北部ベトナムの軍事司令官
に任命し、バイサイでの抵抗運動はフンイェン省の周辺
の地域にまで拡大して行きます。    

9月
抵抗軍はを紅河を渡河し、Thanh Trì, Thường Tín,
Phú Xuyên, Ứng Hòa地域に戦線を拡大します。

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9月28日から29日にかけてバイサイ軍はハイズオン市
でフランス軍を攻撃しました。フランス軍は2隻の軍艦を
ハイズオン市を流れるThái Bìnhに出動させます。

10月
クールシ将軍はバイサイ基地内にいるホアン・カオ・カイ
(Hoàng Cao Khải) を降伏させるためにFrançois de Négrierを
バイサイ基地掃射の責任者に任命します。

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ホアン・カオ・カイ

グエン・ティエン・トゥアットはフランス軍の軍事作戦を妨
害するために敵の駐屯地を攻撃するとの噂を流させます。
フランス軍は軍艦を出動させ敵の進軍を警戒しますが、
抵抗勢力はまったく攻撃せず、敵をじらしながら待ち伏
せ地点に軍を進め、じっと待ちます。

フランス軍艦が攻撃がウソだと知って引き返し始めたとき、
川の浅瀬で待ち伏せしていた抵抗軍が一斉射撃を開
始し、フランス軍の軍艦を襲いました。この奇襲攻撃で
多くのフランス兵が殺され、司令官のFrançois de Négrier
も逃亡していきました。待ち伏せ攻撃は効果的でした。

11月
紅河をはさんで2週間に渡りフランス軍との最大の戦い
が行われました。

12月
ディン・ザ・クエは老齢のため、病弱になり死去します。
その後はグエン・ティエン・トゥアットがリーダーとなり指揮
を執ります。

1886年
6月26日
抵抗勢力はフランス軍のカオズン(Cau Duong 現在の
ロンビエン橋の近く)駐屯地を攻撃します。

9月
グエン・ティエン・トゥアットが直接指揮を執り、一旦は
ハイズオン省(Hai Duong)の奪回に成功したものの、
フランス軍が体制を立て直すと火力の差には勝てず
徐々に退却を余儀なくされます。

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そしてハノイやバクニン省周辺での戦いに重点を置くよう
になります。

1887年2月12日
ハイズオン省のケサット(Kẻ Sặt)では大激戦となります。

1888年
2月9日
グエン・ティエン・トゥアットがフランス軍との戦いで戦死し
たとの噂を流させます。そして奇襲をかけるために宮廷
軍800名の兵士に収穫を行う農民に変装させフランス
軍基地を急襲し31名の殺害に成功します。

フランス軍の指揮官がクールシからワルネ
(Charles-Auguste-Louis Warnet)に代わります。
ワルネは小さな監視所をたくさん構築してゲリラ活動を
押さえ込もうとしましたが成功しませんでした。

11月11日
ハムギ帝が逮捕されたことを知った宮廷軍参謀で親仏
派のホアン・カオ・カイ(Hoàng Cao Khải)は農民兵士に
投降するよう呼びかけ、バオサイ地方から兵士が農地へ
引き上げて行きます。ホアン・カオ・カイもハイズオンに引
き揚げていきます。

1889年6月
北部ベトナムの治安を維持するためフランス軍とフエ宮
廷は合同で
ホアン・カオ・カイを中心として治安部隊を組織します。
バオサイ蜂起はフランス軍に大きな損害を与えたものの
沈静化していきます。

グエン・ティエン・トゥアットと多くの将軍は中国に渡り、再
度抵抗の準備を話し合いますが、計画は失敗に終わり、
その後グエン・ティエン・トゥアットがベトナムでフランスに
抵抗することはありませんでした。そして1926年中国在
住中に病気にかかり82歳で死去します。

<参考書>
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