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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ハムギ帝 勤王運動1
勤王運動

Phong Trào Cần Vương

「勤皇運動」とは1885年7月13日ハムギー帝の名で
宣布された「勤皇の詔」に応じて1885年から1889年
にかけて主にベトナム中部から北部地方にかけ、文伸
(バンタン 地方の儒学者や知識人)が中心となって発
生したフランス植民地支配に対する蜂起です。

勤皇運動の経緯
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<背景>
1883年8月20日
フランス軍はフエの河口トゥアンアン(順安)の戦いで勝
利したフランス軍は、8月25日には「アルマン仮条約」の
締結を強行に迫りベトナム全土を事実上、植民地にし
てしまいます。
フエ宮廷内ではフランスに屈する穏健派と武力抵抗も
辞さない強硬派がいました。しかし官僚のトップであった
権臣トン・タット・トゥエット(武官)とグエン・ヴァン・トゥオ
ン(文官)は強硬派で「アルマン仮条約」の前後からフラ
ンスに対する武力抵抗の準備を始め、フエ宮殿が陥落
した時に備えてクワンチ省にタンソ要塞を建設していまし
た。

1884年5月11日
フランスは清仏戦争にも勝利し、中国清朝はベトナムの
宗主権を放棄します。

1884年6月6日
フエ宮廷はベトナム全土がフランスの植民地になる本条
約「パルノートル」条約を締結させられ、強硬派の怒りは
頂点に達します。

1.フエ宮廷のフランス軍に対する奇襲攻撃(フエの待ち伏せ)
1885年7月4日
フランス軍はフエ宮廷に参内して信任状奉呈の打ち合
わせの為、フエ宮廷の官僚を招いて夜会を開きました。
その席でフランス軍はフエ宮廷内に参内する際には、正
面玄関である「午門」を開けること、そして宮廷内に駐留
することを要求します。
フエ宮廷の官僚はフランス軍が「午門」を通って宮廷内
に参内することを認めることができませんでした。「午門」
はグエン朝建国以来のしきたりで皇帝しか通ることが出
来ないと定められていたからです。

この話を聞いた権臣のトン・タット・トゥエット(Tôn Thất Thuyết)
とチャン・スオン・ソアン(Trần Xuân Soạn)、ト
ン・タット・レ(Tôn Thất Lệ)らはついに反乱蜂起を決意
します。

7月5日午前1時頃
フランスの官僚や兵士が寝静まった頃を見計らって、突
然、トン・タット・トゥエットはフエ宮廷軍に対岸のフランス
軍駐屯地や公使館へ奇襲砲撃を開始するよう命じま
す。

フエ宮殿から砲弾が打ち込まれ、数千人のフエ宮廷軍
がわずか1400名のフランス駐屯地の兵士に襲い掛か
りましたが、善戦したのは当初のみで、武器の違いは大
きく、体勢を整えたクールシ将軍率いるフランス軍にはか
なわず、フエ宮廷が陥落するのは時間の問題でした。

2.フエ宮廷からの逃亡
1885年7月6日
敗北を知ったトン・タット・テュエットは6日の明け方、兵
士を集め、皇太后やハムギ帝、宮廷に住む一族や官僚
を連れて、宮廷西門からキムロン地域にあるティエンム
ー寺(Thiên Mụ)に集合しクワンチに向けて逃亡してい
きます。(失守京都)その数は1000人近くになりました。

フエ宮廷を占拠したフランス軍は武器や財宝を略奪した
との記述があります。

3.「勤皇の詔の発布」
1885年7月8日
一行はクワンチに入り、休憩を取り会議が開かれます。

皇太后トゥズーの意見に従って、女性や子供、老人など
約半数がフエに戻りますが、500人はクワンチ省カムロ
県のタンソ(Tân Sở )要塞に向けて行進します。

7月13日
タンソ要塞は避難用の要塞として権臣グエン・ヴァン・ト
ゥオンとトン・タット・トゥエットが2年前から建築を始めて
いた要塞です。
ハムギ帝はここで、「勤皇の詔」を宣布します。

4.ベトナムキリスト教徒への攻撃
勤皇運動の攻撃標的はフランス軍でしたが、フランス軍
はトンキンに35000人、コーチシナには数千人の兵士が
配置されていましたが、アンナンにはわずか数百人しかい
ませんでした。しかもアンナンの部隊はフエ、トゥアンアン、
ヴィン、クイニョンに分散していました。

抵抗勢力はフランス軍に対する有効な攻撃が出来ず、
怒りはフランス軍に友好的なベトナム人カトリック教徒に
向けられていきます。

正確な数字ではありませんが、1885年7月から9月の
間に抵抗勢力はベトナムのクリスチャン人口の約3分の
1にあたる40000人のクリスチャンを殺害したとされてい
ます。
特にクワンガイやビンディンでは男女、子供を問わず24
000人、クワンチでも7500人が殺害されています。

クリスチャン達はフランス人やスペイン人の神父の呼びか
けに応じて自分を守るためにあらゆる手段をつかって抵
抗し、劣勢であったにもかかわらずクリスチャンは少なか
らず抵抗勢力に損害をあたえました。

5.トンキンからのフランス軍の介入
当初フランスは勤皇運動への反応が鈍く、数週間
アンナムから聞こえてくる噂を信じていませんで
したが、最終的にはキリスト教徒の虐殺が明らか
になった時点で行動を起こしました。

7月
フエ宮殿のあるアンナム地域への本格侵略はフランス本
国によって禁止されていましたが、カトリック教徒の虐殺
をきっかけにアンナムへの侵略が35000人に強化され
ていたトンキン遠征隊の軍隊によって行われます。

クールシ提督は脆弱なベトナム中部の海岸線に沿って
上陸し、戦略的に重要な地点を確保し、クアンガイとビ
ンディンでの虐殺により四面楚歌になっていたベトナム人
カトリック教徒のコミュニティを保護します。

8月
ショーモン中佐はヴィンの砦を占領するためにゲアン、
ハティン海兵隊を南下させます。

大虐殺を逃れたビンディン省にいた7000人のキリスト
教生存者はクイニョンの小さなフランス租界に避難しま
す。

8月末
Léon Prud'homme提督の指揮の下、600人のフラン
ス兵とベトナム人傭兵は戦艦 La Cocheterie,
Brandon, Lutin 、 Comèteに分乗してフエから出航し
クイニョンに上陸し、9月1日にはビンディン省へと行進し
ていきます。

ベトナムの武装勢力は、フランス軍の前進を阻止
しようとしましたが、槍と時代遅れの火器で武装
しただけのベトナム武装勢力はフランスの大砲の
格好な餌食でした。

9月3日
武装勢力は一掃され、9月3日にはフランス軍は
ビンディン省に進軍し、3人のベトナム人官僚がキリ
スト教徒大虐殺の共犯として処刑されました。
勤皇運動がすべてのベトナム人の意思ではないと考えて
いたため、フランスはアンナムとトンキンの保護領化を推
し進め、勤皇運動に対しては政治的な決着を図ろうと企
てます。

皇太后のトゥズー(Từ Dũ)を始めとする3宮はハムギ帝
を諦め、勤皇運動が始まった直後からフエに戻りました。

9月
クールシ提督はハムギ帝(咸宜帝)の支援を断ち切り、
兄のドンカイン帝(同慶帝)を皇位に就けます。

11月
Mignot中佐もトンキン地方の南部、ニンビンからベトナ
ム武装勢力を蹴散らしながら、中部ベトナムに南下して
きます。

6.勤皇運動の本格化
多くのベトナム人は同慶帝をフランスの傀儡王とみなして
いましたが、
トンキンで数年前からフランスと戦っていたベトナム宮廷
軍の指導者であったホアン・ケ・ヴィン(Hoàng Kế Viêm)
はベトナム人民の疲弊を目の辺りにして、フランスへの抵
抗をやめ同慶帝への忠誠を誓います。

しかし中部や北部ベトナムでは「勤王の檄文」によって武
装蜂起したグループの抵抗が各地で続いていました。

代表的な蜂起は以下のようなものでした。
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7. フランスのコーチシナからの軍事介入
1886年7月
コーチシナのフランス軍は隣国カンボジアの反乱鎮圧に
忙しく、勤王運動の鎮圧に軍隊を編成できないでいまし
たが、Trần Bá Lộcの指揮下にフランス正規軍とベトナ
ム人傭兵400人で編成された軍隊が本格的に勤王運
動の鎮圧に投入されます。

8. バーディンでの反乱を鎮圧(ターニングポイント)
1887年1月
フランス軍はバーディンでの反乱を鎮圧します。この戦い
が勤皇運動による反乱のターニングポイントでした。

1887年前半
コーチシナのフランス軍はビンディン省、フーイェン省に進
軍していきます。勤王運動の指導者が寝返りを打ったこ
ともあり、抵抗は崩壊していきます。そして6月にはフエの
南部までを制圧します。

9. ハムギ帝の逮捕・流刑
1888年10月30日
ハムギ帝が逮捕され、フランスに協力するように説得され
ますが、ハムギ帝が断固として拒んだため、アルジェリア
に流刑になってしまいます。その後も抵抗運動は続けら
れましたが、悉くフランス軍に鎮圧されていきます。

10.ファン・ディン・フンの死去
1895年7月  
フランス軍はファン・ディン・フンの根拠地であるフオンケ
要塞の総攻撃に踏み切り、ファン・ディン・フンがジャング
ルの中で死去します。(享年49歳) 。この総攻撃をもっ
て勤皇運動は終焉したと見なされています。

<結果と失敗の原因>
勤皇運動と呼ばれた武装蜂起はおよそ10年継続しまし
たが、結果はフランス軍にすべて鎮圧されました。

1.鎮圧されたのはフランス軍との武力の差が歴然として
いることが主因ですが、そもそも勤皇運動は地方の愛国
的な文伸がリーダーとなり個別的に蜂起したもので、運
動は各地に広がったものの、中部、北部ベトナム全体を
統括する全国的組織が無かったため、リーダーが倒れる
と運動が終焉してしまうという側面がありました。

2.この国内の混乱に乗じて悪行を働く輩もいて、勤皇
運動は必ずしも農民の支持を受けていませんでした。

3.勤皇運動の初期にはベトナム人カトリック教徒が迫
害されたため、カトリック教徒からフランス軍に抵抗勢力
の動向が逐次報告されていたこと。

4.勤皇運動はハムギ帝を擁立してフランス軍を追放す
る運動だったので少数民族の自治権はないがしろにされ、
彼らを味方につけることが出来ませんでした。

この運動の鎮圧によりベトナムの封建制度を支えてきた
文伸たちの抵抗は終焉し、その後のフランス支配に対す
る抵抗運動は民族運動に変化していきます。span>
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