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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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グエン王朝まとめ   王朝の廟
グエン王朝まとめ   王朝の廟

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フエ宮廷の南西方に広がる丘陵地帯にはグエン王朝
13人の皇帝のうち、11人の遺骨が埋葬されています。
流刑地アルジェリアで死去したハムギ帝の墓は遺族の
反対でフエには改葬されずアルジェリアにありましたが、
アルジェリアの独立に伴いフランスに改葬されました。
最後の皇帝バオダイ帝はフランスに亡命したためフラン
スに墓があります。
皮肉にも追放、流刑された4人の皇帝の墓は立派では
ありませんが、事故死してしまったズイタン帝を除いた
3人の皇帝は長寿を全うしているのです。

11人の皇帝のうち、7人の皇帝には霊廟(位牌を安置
する場所)が建築されていて、世界遺産の建造物として
登録されています。

霊廟の共通要素
皇帝陵は一般的に河か池を前面に持ち、5つの要素か
ら構成されています。
(1)拝庭 (2)碑亭 (3)段台状テラス (4)廟殿 
(5)円陵あるいは多重の周壁に囲まれた石屋
拝庭には左右に石象や石馬が並び、石屋は多くの場合
前方に一組の花表柱(オベリスク)を伴なっています。
これらは中国の明・清朝時代に確立された中国の陵制
を参考にしています。

しかし、中国の陵制に倣う一方で、各皇帝陵には皇帝
の個性や時代背景が映し出され、自然環境に調和する
よう工夫されています。

各陵は王宮に比べると比較的保存状況が良く、また表
面的なものではあるが整備も一通り行なわれているため、
かなり見応えのあるものとなっている。

1.天授陵
王宮から香河を舟で15kmほど遡り、左岸を南に歩いて
30分行くと、初代皇帝の嘉隆帝陵造営)がある。
段台状テラスの奥に壁に囲まれて嘉隆帝と承天皇后の
ふたつの石屋の並ぶ荘厳な陵は、月湖と呼ばれる龍形
をした湖に臨んで、影壁の役割をなす南の天授山に正
対する。陵の左右には碑亭と廟屋が並び、陵の正面天
授山の下には2本の花表柱が立つ。
また北西方には同じく月湖に臨んでもうひと人の皇后順
天の陵と廟があり、さらにその北方、香河側には嘉隆帝
の家族や過去の阮主などの陵と廟が多数建ち並ぶ。
周りをひろく36の峰に囲まれて境界もなく自然と一体化
した嘉隆帝陵は、その計画の元となっている風水や陰
陽の世界観とは別に、亜熱帯の原野の中に溶解するよ
うな混沌としたイメージを強く抱かせる。

2.孝陵
7つの陵のうち最も調ととのった構成を持つのが明命帝
陵である。周長2kmの牆壁に囲まれた長円形の敷地の
主軸上には、大紅門、拝庭、碑亭、段台状テラス、顕
徳門、崇恩殿を中心とする廟、明楼、新月池、円陵と
主要な建造物が一直線に並ぶ。これは明や清の陵制を
忠実に真似たもので、大紅門や崇恩殿、明楼の名もそ
のまま使われている。
しかし、その陵制が表わす厳格な秩序とは別に、その背
景として改造された敷地は、主軸の左右を澄明湖と名
付けられた大池が挟み、その周りを囲む幾つもの丘の頂
に各々楼閣を建てる優雅なものである。王国の積極的
な設計者であった明命帝は、この陵においても厳格であ
る陵と優雅な大庭園をひとつに融合させることを試み、
それは見事に成功した。この長大なコンプレックスの中で
は、門を抜けたり楼に上ったりする度に、訪問者の目の
前に新たなパノラマが開け、徐々に深い懐ふところに抱
かれるように進んでいく。しかし帝は、1841年惜しくもそ
の完成を見ることなく落馬が原因で亡くなってしまう。

3.昌陵
第3代紹治帝は治世7年目、陵の造営に着手する前に
崩じ、それは紹治のプランに従って息子の嗣徳によって
造られた。明命陵において一つにまとめられた各要素は、
紹治帝陵でふたつのコンプレックスに分割される。
ひとつは拝庭・碑亭・徳馨楼・円陵からなり、前面に月
形の潤沢湖、横に凝翠池を構える。
これは明命陵のコンプレックスから中央の段台状テラス
と廟を除いたものにほぼ等しい。テラスと廟は南西100m
ほどの所に平行する別のコンプレックスを作っている。
明命陵のような周りを囲む牆壁もなく森林の中に長閑
のどかにたたずむ紹治陵は、次の嗣徳陵への過渡的な
存在である。

4.謙稜
阮朝の君主の中で最も長く35年に渡ってベトナムに君
臨した嗣徳帝は、詩人であり哲学を好んだが、しかし統
治能力に欠けていた。彼はベトナムが西洋の帝国主義
に直面した困難な時期に王位に就いたが、彼に嫡子が
いなかったことはさらに状況を悪化させ、彼を厭世的にし
ていった。そうした彼は、隠居して詩を詠む仙境とするべ
く陵を調え、終生かつ死後の休息の地とした。
嗣徳帝陵も陵と廟のふたつのコンプレックスに分かれる
が、ここでは陵ではなく離宮として営まれた廟の方が中
心となっている。敷地は長さ1.5kmの牆壁に囲まれる。
南の努謙門を入り、敷地の東半を占める謙湖に沿って
行くと湖に臨んで廟である謙宮が建つ。段台状テラスを
上り宮門を入ると、そこには3つの中庭を囲んで和謙殿
をはじめ9つの殿閣が並ぶ。その一角には鳴謙堂という
小劇場も設けられた。謙湖に浮かぶ中島には3つの亭
が建ち,また湖畔には愈謙射と沖謙射のふたつの台射
が乗り出す等、中国の離宮に見られる典型的な構成で
ある。
陵は謙宮の斜め後方にあり、謙湖から引いた小謙池を
前に拝庭、碑亭、石室が並ぶ。また、陵内には儷天皇
后や養子の建福帝の陵も置かれている。

嘉隆帝から嗣徳帝までの4陵は専制支配を反映して非
常に大規模なものであった。しかし,阮朝が実権を失っ
て後の皇帝陵は規模が縮小或いは父祖の陵内に棺が
置かれるだけで、唯一啓定帝陵のみがその絢爛さで先
達に匹敵しえた。

5.安陵
他の陵がほぼ香江に沿って配置されているのに対して
育徳帝陵は王宮の正面から2km、御屏山の前に建つ。
二重の周壁に囲まれた育徳帝と皇后のふたつの石棺と、
少し離れて隆恩殿を中心とした廟からなる育徳帝陵は
きわめて質素なものである。
嗣徳帝の養子で指名後継者であった育徳帝は即位後
3日で権臣により廃立処刑された。
彼の陵はその6年後仏支配下に皇位に就いた息子の
成泰帝によって1890年に造営された。その成泰帝は
息子維新帝とともに1916年対仏反乱を企て、アフリ
カ・レユニオン島に流謫るたくされる。彼等の死後、成泰
帝は1954年、維新帝は1987年に祖父の廟の背後に
埋葬された。
現在隆恩殿には祖父、父、子の三人の皇帝が奉られ、
成泰、維新の墓の両脇には彼等の家族の墓が並んで
いる。



6.思陵
同慶帝は在位3年にして25歳の若さで崩じる。彼の陵
は次の成泰帝によって1889年に造営され、後に息子
の啓定帝により何度かの改修増築が行なわれた。
同慶帝陵の構成は規模に違いはあるものの紹治帝陵と
よく似ていて、陵と廟のふたつのコンプレックスに分かれ
る。陵は3重の周壁に囲まれた石屋と前面の段台状テ
ラス・碑亭・拝庭からなるが、フランス風の碑亭は次の啓
定帝陵への前兆といえよう。廟の中心の凝禧殿はおそ
らくフエに現存する唯一の三棟造りの宮殿建築である。
その質素な外観とは反対に、凝禧殿の内部は朱あるい
は金に塗られ、様々な装飾が施されている。また凝禧殿
には帝とふたりの皇后が奉られる他、彼の好んだ香水な
どの舶来品が展示されている。これら陵・廟は何れも前
方に香河を臨む丘の上に建ち、特に陵からの眺めは素晴しい。

7.応稜
啓定帝陵は配置構成だけを述べると急勾配の大規模
な段台状テラスに拝庭・碑亭・廟を配したコンパクトなも
のである。明命陵以来のひとつのコンプレックスにまとめ
られた陵は,しかし,明命陵のような大庭園は持たず、
フランスのバロック様式で過剰なまでに装飾された。特に
廟である天定宮は、鉄筋コンクリートの駆体にスレートの
屋根を葺き、内外の壁面や付け柱を漆喰細工あるいは
陶片で造られた多彩な龍のモザイクで飾るなどして、驚く
べき折衷様式を造り出している。入口の階段から見上
げるそれは圧倒的でさえある。覇王嘉隆帝の実権を失
った末裔がフランス趣味で造った瀟酒な陵墓、啓定帝
陵。しかし、これは間違いなく今世紀で最も重要なべトナム
建築のひとつであろう。


「引用・参考」
http://www.youtube.com/watch?v=7yAOyoNK2HQ
http://s264.photobucket.com/user/ttnhan63/library/Vietnam%20thoi%20thuoc%20Phap/Hue/Lang%20Duc%20Duc?sort=3&page=1
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