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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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グエン王朝まとめ  皇帝の生母
グエン王朝まとめ  皇帝の生母
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●孝康皇后( Hiếu Khang hoàng hậu)
本名 阮氏環(Nguyễn Thị Hoàn グエン・ティ・ホアン)
阮福㫻の正室、初代嘉隆帝の生母

1774年
北部政権の鄭森(チン・サン)は西山の乱によって広南
国が混乱に落ちると、広南国侵略の武将に黃五福
(Hoàng Ngũ Phúc)を任命しました。阮氏環は
安全な場所に移動することを願い、阮福映は嘉定
(現在のサイゴン)に連れて行くように手配しました。
1783年
阮惠(グエン・フエ)、阮侶(グエン・ニャック)
が率いる西山軍(タイソン軍)が嘉定を攻撃してきます。
阮氏環は阮福映(グエン・フック・アイン 後の初代皇帝
嘉隆帝)に従って富國島(フーコック島)に逃亡して行き
ます。船上で阮氏環は嘆き苦しみましたが、決して諦め
るなと阮福映を励まします。激励された阮福映はサイア
ム(タイ国)に助けを求めに行きます。
1785年
阮福映とサイアムの連合軍はサイゴンを奪回しようとしま
すが、西山軍に敗れてしまい阮福映は再びサイアムへ
逃れます。そして母や子供達もサイアムに来させます。
1788年
阮福映は嘉定を奪取した後、阮文閑をサイアムに派遣
して嘉定に連れ戻します。
1802年
阮福映が阮朝を建国すると、翌年に「王太后」が贈られ、
1806年に阮福映が正式に皇帝を名乗ると「皇太后」
の称号を与えられます。
1811年
阮氏環は宮中の長壽宮で73歳で去世しました。嘉隆
帝は孝康皇后と追贈し、翌年、瑞聖陵で葬儀が行われ
ました。フエ宮殿には現在も興祖廟として祭られていま
す。

●顺天高皇后(Thuận Thiên Cao Hoàng Hậu)
本名 陳氏璫(Trần Thị Đang チャン・ティ・ダン)
嘉隆帝の繼室(第2婦人)、2代明命帝の生母

1791年
阮福胆(明命帝)が誕生。
1820年
明命帝が即位すると皇太后となり、3代紹治帝の即位
に伴い1841年に太皇太后となります。
1846年
79歳で崩御。嘉隆帝天授陵の傍に埋葬されました。


●佐天仁皇后(Tá Thiên Nhân hoàng hậu)  
本名 胡氏華(Hồ Thị Hoa ホ・ティ・ホア)
明命帝の正室、3代紹治帝の生母

阮福曧 (3代皇帝紹治帝)の出産後、13日で逝去し
てしまいます。
明命帝は即位すると「佐天仁皇后」と追贈します。


●慈裕太后 (Thái hậu Từ Dụ)
本名 范氏姮(Phạm Thị Hằng ファン・ティ・ハン)
紹治帝の正室、嗣德帝の生母

1810年6月20日
現在のティエンヤン省ゴーコン(Gò Công, Tiền Giang)
の生まれ。
若い時から聡明美人で思いやりがあり、嘉隆帝の皇妃
順天皇太后が明命帝の皇太子だった阮福綿宗(紹治帝)
の正室に推挙しました。
1829年9月22日 
阮福洪任(4代皇帝嗣德帝)が誕生。
1847年
紹治帝崩御後、嗣德帝が戴冠すると皇太后として朝政
も掌握します。
1883年7月19日
嗣德帝死後は太皇太后となり、遺命によって阮文祥
(グエン・ヴァン・トゥオン)、尊室說(トン・タト・テュエット)
、陳踐誠( チャン・ティン・タイン)の三人を輔政大臣に
任命し、引き続き莊懿太后(嗣德帝の正室)、學妃(嗣
德帝の后)と共に朝政に関与します。
慈裕太后、莊懿太后、學妃の三人を称して「三宮」
(Tam Cung)と呼びます。
1885年
尊室說のフランス軍に対する蜂起が失敗すると「三宮」
一族はクワンチ省に逃亡していきますが、フランス軍に投
降した阮文祥の説得により一族はフエに戻ってきます。
1887年
9代皇帝同慶帝治世に太皇太后、10代皇帝成泰帝
治世の1889年に太太皇太后となります。
1902年
92歳で崩御。紹治帝の昌陵に合葬されました。
ベトちゃん、ドクちゃんで有名なホーチミン市の慈裕病院
(Bệnh viện Từ Dũ)は慈裕太后を記念して命名された
ものです。

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慈裕太后 


●才人張氏順
本名 張氏順
紹治帝の后、協和帝の生母
資料がありません。


●莊懿太后(Trang Ý Hoàng Thái hậu)
本名 武氏緣(Vũ Thị Duyên ブ・ティ・ズエン)
嗣德帝の正室、5代皇帝育徳帝の後見を依頼される。
1828年
Huyện Lệ Thủy(クワンビン省の南部)の生まれで,
刑部尚書武春謹の娘。
1843年
皇子阮福洪任(4代皇帝嗣德帝)の正室になります。
紹治帝の后妃慈裕太后は大変喜びました。

1848年
嗣德帝が即位すると「恭嬪」、その後1862年に「皇貴
妃」となり宮廷後宮の権力者なりますが嗣德帝との間に
子供が出来ませんでした。
1883年
嗣德帝は不本意ながら死の直前、養子で最年長であっ
た阮福膺禛(5代皇帝育德帝)を後継者にと遺言し、
その後見役を莊懿皇貴妃に依頼します。
しかし、5代育德帝は權臣阮文祥、尊室說により3日で
廃位され、阮福洪佚(6代皇帝協和帝)が戴冠します。
協和帝治世に「皇后」を追贈されます。
1885年
尊室說のフランス軍に対する蜂起が失敗すると「三宮」
達はクワンチ省に逃亡していきますが、フランス軍に投降
したして阮文祥の説得により一族はフエに戻ってきます。
1887年
同慶帝治世の1887年「皇太后」、成泰帝治世の
1889年に「太皇太后」になります。
1903年
崩御。


●学妃阮氏香(Học phi)
本名 阮氏香(Nguyễn Thị Hương グエン・ティ・フー
ン)
嗣德帝の妃、建福帝養母

南ベトナムのヴィンロン(Vĩnh Long)生れで、嗣德帝の
寵愛を一身に受けていました。
1870年
嗣德帝の令により最年少の養子であった阮福膺祜
(7代皇帝建福帝)の養母となります。
最年長の養子であった阮福膺禛(育徳帝)は素行が悪
く、嗣德帝は阮福膺祜を寵愛していました。
1883年
嗣德帝崩御。
嗣德帝は本来であれば阮福膺祜を後継者にしたかった
のですが、幼少のためやむなく阮福膺禛(育德帝)を後
継者に遺言します。
しかし育德帝は3日で餓死、6代協和帝は4カ月で毒殺
され、7代皇帝に建福帝が即位しますが、病弱でしばし
ば病気にかかっていました。
生母の学妃は懸命に看病していましたが、皇帝の養母
として宮中の権威が増大した学妃に権臣阮文祥が取り
入ってきます。
ある日は寝たきりになっていた建福帝は学妃と阮文祥が
姦通しているところを見つけてしまい、怒り狂い病気が回
復したら阮文祥一族を皆殺しにしてやると脅しました。
危険が身に迫ったことを知った学妃は阮文祥から渡され
た毒薬を建福帝の薬に混ぜて毒殺します。

建福帝の死因については諸説があります。
紹治帝の子供である阮福洪休が秘密に調査したところ
によると、建福帝はクワンチ省に連れて行かれ、密かに
殺害されたとしていますが、当時のフランス特使だった
Since Renardは「王は常に先帝のような運命を恐れ消
極的で恐怖の中に住んでいた。病気で一人で立つことも
出来なかった。王の死は病死だったが、それは人々が疑
問に思うように大きな驚きだった。」と記しています。
1885年
尊室説のフランス軍に対する蜂起が失敗すると「三宮」
達はクワンチ省に逃亡していきますが、フランス軍に投降
したして阮文祥の説得により「三宮」一族はフエに戻って
きます。


●陳撫妾●陳撫妾●裴太妃●潘氏●慈明惠皇后●阮善妃
この時代は宮廷の権臣が権力を掌握し、王朝が混乱に
陥りフランスが植民地支配を確立してしまう時期でした。それぞれの后は後の
皇帝を出産しているのですが阮善妃を除いて皇帝の正室ではなく、まさに阮王朝
の実質的な凋落を象徴しています。

各妃の詳細資料は見つかりません。


●仙恭皇后 (Tiên Cung 通称)
本名 楊氏淑(Dương Thị Thục ズオン・ティ・トゥック)
佑天純皇后(Hựu Thiên Thuần hoàng hậu)とも呼ばれています。
同慶帝の継室、啓定帝の生母

フエ市の Phú Lộc地方のDương Quang Hướng公
の娘で同慶帝の第2夫人になります。
仙恭皇后は2人の息子を産みますが、長男が後の12
代皇帝啓定帝となります。

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仙恭皇后

1889年 
9代同慶帝が24歳で崩御しますが、阮福寶嶹
(Nguyễn Phúc Bửu Đảo=啓定帝)が幼少だった為、
育徳帝の子供阮福寶嶙(Nguyễn Phúc Bửu Lân)が
フランスの理事官(中圻欽使)Pierre Paul Rheinart
の承認の下に10代成泰帝として皇位につきます。

後に、成泰帝とその子の11代皇帝維新帝が流刑にな
ったことで仙恭皇后は非難されますが、12代啓定帝治
世の1923年、皇太后の称号を送られて名誉が回復さ
れ、13代皇帝保大帝治世の1933年には太皇太后の
称号が送られます。
1944年
77歳で崩御。墓はlăng Tiên Cungと呼ばれ、フエ市の
An Cựu墓地にあります。地元の人はVạn Vạn墓地と
呼んでいます。


●皇嫡母阮氏定
本名 阮氏定(Nguyễn Thị Định グエン・テイ・ディン)
成泰帝の妃、維新帝の生母

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皇嫡母


●慈宮皇太后(Từ Cung Hoàng thái hậu)
本名 黃氏菊(Hoàng Thị Cúc ホアン・ティ・クック)
通称 Tu Cung(トゥークン)
啓定帝の継室、保大帝の生母

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慈宮皇太后

1913年
当時皇太子であった啓定帝の妃となり、阮福永瑞
(13代皇帝保大帝)の生母となります。
1916年
啓定帝即位後、叙階されて封五階惠嬪となりますが、
啓定帝の正室胡氏芷が早死したので継妃(第2婦人)
となります。
1923年
保大帝の即位後、皇太后となり宮中の德慈宮に住んだ
ので慈宮皇太后と呼ばれています。
1945年
保大帝の退位後、宮廷前を流れるホン川の対岸にある
アンディン離宮に引越します。
1980年
アンディン離宮で死去(90歳)。葬儀は香水县香字社
でおこなわれ,啓定帝の陵墓である応陵に合葬されまし
た。

<元宮廷女官が語る、王宮暮らしの苦楽>引用
「私も今年で80歳になったのよ。15歳で宮廷女官にな
ったのは遠い昔のことね。きっかけ?母も宮廷女官だっ
たから、15歳で王宮の延寿宮(Cung Dien Tho)に入っ
たの。そこはバオダイ帝のお母様、トゥークン(Tu Cung)
さまのお住まいだった。

女官の間で序列はなし、ケンカもなし。私の場合、年輩
の女官が多いところで最年少だったから、かわいがられ
て仕事も楽しかった。薄い黄色や緑のアオザイを着てね
ぇ。でもね、皇太后さまがどこへ行くにも何をするにも一
緒について行ってお世話するんだから、それはもうたいへ
ん。ま、毎月お給金が貰えるのがいちばんの楽しみだっ
たかしらね。

仕事は、皇后さまの体をマッサージしたり、扇で扇いだり、
ビンロウの葉を噛んで吐く唾を、小さな容器で受ける仕
事もあったっけ。皇太后さま1人に3、4人がつくのだけど、
マッサージの最中に居眠りして、隣の女官から指でお腹
のあたりをつつかれて、それでハッと目が覚める、そんなこ
ともあった。
朝は皇太后さまより早く起きる、夜は皇太后さまがお休
みなってからようやく眠る、そんな生活がずっと続くの。
でも、皇太后さまと話すなんてとんでもないこと。女官に
は禁じられていたのよ。

そうそう、皇太后さまの体はとても美しくて、足の裏は本
当に絹みたいな手触りでね。食事は種類が豊富だし、飾
りがホントにすごくて。

バオダイ帝?太ってらしたのよねえ。皇太后さまの誕生
日の儀式があった時、長生殿でバオダイ帝をお見かけし
たわ。帽子をかぶって、龍の刺繍が入った服をお召しに
なっててね。長いテーブルの前に官吏も勢揃いして『皇
太后さま、おめでとうございます』と声を揃えて…。

昔の王宮は美しかったのよ、とてもとても。とにかくすべて
が美しかった。今は王宮を外側から眺めるだけ。外周を
歩いていて、延寿宮の辺りに来ると思い出すの。あそこ
で自分が働いていたんだなって」


皇帝の后になっても生前に皇后に叙階されることはまれ
で、死後に追贈されることが習慣でした。皇后になるまで
にもたくさんの段階の位があり、生前に「皇后」の叙階を
手にしたのは、初代皇帝嘉隆帝の后「顺天高皇后」と
最後の皇帝保大帝の「南芳皇后」だけでした。
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