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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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皇帝の象徴
皇帝の象徴
グエン王朝の歴代皇帝が、皇帝を象徴するものとして代々引き継いできたのは、建国時に清朝から冊封を受けた時に授かった玉璽と初代皇帝のザーロン帝の使用していた王剣でした。

王朝滅亡時には王剣は軍の指揮官に授与するために数百、玉璽は使用目的に応じて9つありました。

1945年8月30日
王剣と玉璽はバオダイ皇帝の退位式の際、ホーチミン率いる臨時革命政府の代表Trần Huy Liệu引き渡され、ハノイに運ばれ、9月2日の独立宣言の日に一般に公開されました。
その後はホーチミンが住むハドン省の家の床下に油付けにして保管されていました。

11

1946年12月
フランスのハノイ侵攻に伴って、ハドン省のホーチミンの官邸が急襲されると、ホーチミンは「徹底抗戦の檄文」を発表して北部の山岳地帯へと一旦退却して行きます。

1951年~
フランスがハドンの家を修理するため床下を掘っていると、フランス兵士がグエン王朝の財宝を偶然にも発見したのです。

フランスは当時皇帝の特別行政区をされていた中部山岳地方の本部機能が置かれていたバンメトートとまで兵士の護衛をつけて空輸しました。

しかしこの時、バオダイ国長はフランスに滞在していたため、フエ宮廷に連絡を取り引取りに来るよう連絡します。

財宝の返還を受けるためにバオダイの代理人として愛人モンディエップが指名され、皇太后Thái hậu Từ Cungに指名された 証人と共にバンメトートに向かいます。

フランス兵士によって運ばれた玉璽は清国の乾隆帝から授けられたもので、銀でできており満州と中国の文字があり、玉璽のトップにはラクダの姿がありました。10~13Kgあったそうです。
王剣は箱に入るように半分に折られていました。

バンメトートからダラット離宮へは像によって運ばれたようです。

ダラットに到着すると皇太后トゥークンは5回低頭してからモンディエップに言いました。
「あなたは幸運な人だ。私は皇太后だけれどもすべての儀式に出席できなかったので今までにこれを見たことが無い。」

財宝は皇帝が帰ってきたら見せるように赤いシルクにこれを包みダラット宮殿応接間に保管され、折れた剣は修復されました。

バオダイ国長が帰ってきて布を解いて言いました。「この王剣はホーチミンに渡された剣だ。我々の首を助けたものだ。そして自嘲しながら、今戻ってきたということは、それは我々がすべて死ぬ時かもしれない。」 モンディエップは彼が何を考えているのかわからなかった。

バオダイ国長は玉璽、王剣、皇帝の服、ザーロン帝がかぶった9つの金のドラゴンを模した王冠を再び得ました。

1953年
フランスとのインドシナ戦争で「ベトナム国」の形勢が次第に悪化してくると、バオダイ国長は愛人モンディエップに玉璽と王剣、その他600点の財宝をフランスに運ぶように依頼します。

財宝はカンヌ郊外のソレンツ城にいるナムフンにグエン王朝の大臣のいる前で手渡たされます。ナムフンが正妻であったし、モンディエップはナムフンにグエン王朝の王冠が欲しいとは考えて欲しくなかったから。

ナムフンは長男バオロンに言います。この2つは分離しないように保管しなさい。

バオダイの晩年
バオダイが「アンナム皇帝 バオダイ」(Bao Dai of Annam Dragon)を書き終えたとき、著作に箔をつけるために玉璽を借りることを求めましたが、バオロンは断りました。

この件は訴訟沙汰になってしまい、裁判所は玉璽はバオダイが王剣はバオロンが保持するよう裁定しました。

12 (319x400)
手前に少し写っているのが玉璽

その後のこの財宝の行方はわかりません。

皇帝の象徴
グエン王朝の歴代皇帝が、皇帝を象徴するものとして代々引き継いできたのは、建国時に清朝から冊封を受けた時に授かった玉璽と初代皇帝のザーロン帝の使用していた王剣でした。

王朝滅亡時には王剣は軍の指揮官に授与するために数百、玉璽は使用目的に応じて9つありました。

1945年8月30日
王剣と玉璽はバオダイ皇帝の退位式の際、ホーチミン率いる臨時革命政府の代表Trần Huy Liệu引き渡され、ハノイに運ばれ、9月2日の独立宣言の日に一般に公開されました。
その後はホーチミンが住むハドン省の家の床下に油付けにして保管されていました。



1946年12月
フランスのハノイ侵攻に伴って、ハドン省のホーチミンの官邸が急襲されると、ホーチミンは「徹底抗戦の檄文」を発表して北部の山岳地帯へと一旦退却して行きます。

1951年~
フランスがハドンの家を修理するため床下を掘っていると、フランス兵士がグエン王朝の財宝を偶然にも発見したのです。

フランスは当時皇帝の特別行政区をされていた中部山岳地方の本部機能が置かれていたバンメトートとまで兵士の護衛をつけて空輸しました。

しかしこの時、バオダイ国長はフランスに滞在していたため、フエ宮廷に連絡を取り引取りに来るよう連絡します。

財宝の返還を受けるためにバオダイの代理人として愛人モンディエップが指名され、皇太后Thái hậu Từ Cungに指名された 証人と共にバンメトートに向かいます。

フランス兵士によって運ばれた玉璽は清国の乾隆帝から授けられたもので、銀でできており満州と中国の文字があり、玉璽のトップにはラクダの姿がありました。10~13Kgあったそうです。
王剣は箱に入るように半分に折られていました。

バンメトートからダラット離宮へは像によって運ばれたようです。

ダラットに到着すると皇太后トゥークンは5回低頭してからモンディエップに言いました。
「あなたは幸運な人だ。私は皇太后だけれどもすべての儀式に出席できなかったので今までにこれを見たことが無い。」

財宝は皇帝が帰ってきたら見せるように赤いシルクにこれを包みダラット宮殿応接間に保管され、折れた剣は修復されました。

バオダイ国長が帰ってきて布を解いて言いました。「この王剣はホーチミンに渡された剣だ。我々の首を助けたものだ。そして自嘲しながら、今戻ってきたということは、それは我々がすべて死ぬ時かもしれない。」 モンディエップは彼が何を考えているのかわからなかった。

バオダイ国長は玉璽、王剣、皇帝の服、ザーロン帝がかぶった9つの金のドラゴンを模した王冠を再び得ました。

1953年
フランスとのインドシナ戦争で「ベトナム国」の形勢が次第に悪化してくると、バオダイ国長は愛人モンディエップに玉璽と王剣、その他600点の財宝をフランスに運ぶように依頼します。

財宝はカンヌ郊外のソレンツ城にいるナムフンにグエン王朝の大臣のいる前で手渡たされます。ナムフンが正妻であったし、モンディエップはナムフンにグエン王朝の王冠が欲しいとは考えて欲しくなかったから。

ナムフンは長男バオロンに言います。この2つは分離しないように保管しなさい。

バオダイの晩年
バオダイが「アンナム皇帝 バオダイ」(Bao Dai of Annam Dragon)を書き終えたとき、著作に箔をつけるために玉璽を借りることを求めましたが、バオロンは断りました。

この件は訴訟沙汰になってしまい、裁判所は玉璽はバオダイが王剣はバオロンが保持するよう裁定しました。


手前に少し写っているのが玉璽

その後のこの財宝の行方はわかりません。
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