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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ナムフーン皇后  更新
ナムフーン皇后
 
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南芳皇后(Nam Phương Hoàng Hậu)
本名   Marie Thérèse Nguyễn Hữu Thị Lan 
フランス国籍
      最初の2単語はカトリック名です
生誕 1914年12月4日 
没年 1963年9月15日 
父親  Pierre Nguyễn Hữu Hào
母親  Marie Lê Thị Binh
母方の祖父  Huyện Sỹ Lê Phát Đạt
祖父の孫も南部ベトナムの高級官僚で20世紀初めの
ベトナムの4大資産家の一人です。
1914年12月4日(旧暦10月17日水曜日)
ティラン(後のナムフーン皇后)は当時フランスの植
民地であったメコンデルタのロンアン省ゴーコン(Gò
Công)という町で代々裕福で敬虔なカトリック家族
の家に生まれました。

ティランの父親Pierre Nguyễn Hữu Hàoは元来は
ゴーコンの貧乏なカトリック教徒でしたが、フランス人
大富豪Lê Phát Đạtの娘、Marie Lê Thị Binhと
結婚していたため父親は地域一帯の大地主となり、
ダラットのラムドン地域でもコーヒーと紅茶の多くのプ
ランテーションを保有し、広大な敷地の別荘を持って
いました。

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祖父Huyện Sỹ Lê Phát Đạt
祖父の寄付で建設されたHuyện Sỹ教会がサイゴンの
レライ通りに残っおり、敷地内には祖父、祖母が眠って
います。

1928年
彼女は14歳の時から叔父のLê Phát Anに連れられフラ
ンスの親族の下に送られ、フランスのパリ郊外
Neuilly-sur-Seineにある修道女が運営する貴族のカト
リック学校クーボン•デ•ワゾー(Couvent des Oiseaux)
で教育を受けることになります。

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叔父のLê Phát An

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クーボン•デ•ワゾーの正門

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クーボン•デ•ワゾー

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現在のクーボン•デ•ワゾー全景

1930年
16歳、17歳、18歳の3回、学園祭でティラン
はミス フルムーンに選ばれました。バオダイ帝も16歳の
時の学園祭を見学にいっているのですが、その時は
ティランに気付きませんでした。

1932年
バカロレアに合格し、留学を終えたティランはフランスの
船会社マリタイム社のD'Artagnan号で帰国の途に着き
ます。

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D'Artagnan号

偶然にもこの船にバオダイ帝も乗っていました。ティラン
がバオダイ帝に初めて出会ったのは船のダイニングルー
ムでした。
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ダイニングルーム

船の中でダンスパーティーが開かれます。ティランに付き
添っていた叔父のLê Phát Anはバオダイ帝を知ってい
ました。ティランはバオダイ帝に近づいていって学校で習
ったように礼儀正しく会談をしました。
バオダイ帝はティランの身上と美しさにいたく感動し、
この日以降ティランと話ができる機会を見つけていまし
た。

実はこの出会いはバオダイ帝の養父であったCharles
夫妻とティランに付き添っていた叔父のLê Phát Anが
密かに手配したとの記事もあります。

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D'Artagnan号はブンタウ岬(当時はCap St Jacques
 キャップサンジャックと呼ばれていました)でドックに入る
ので2人は再会を約して別れます。バオダイは戦艦デュ
モンデュルヴィル(Dumont D'Urville)に乗り換えダナン
(トゥーラン)へ向かいます。

1933年
ティランとバオダイ帝が再会します。
この年の夏、インドシナ総督パスキエは部下のDarles
に命じてバオダイ帝の為にグエン朝の夏の離宮ダラット
宮殿で南部の有名人を招待して夜会を開催しました。
Lê Phát Anに連れられてティランが少し遅れて会場に現
れると、バオダイはすぐにティランと話し始めます。

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その後バオダイ帝とティランはダラットで共に夏の休暇を
過ごします。しかし結婚するにはティランがフランス国籍で
カトリック信者であったことから、いろいろと困難な条件を
乗り越えなければなりませんでした。

フエ宮廷内ではバオダイの母を筆頭にこの結婚に反対
するカイディン帝の未亡人達が多くいました。

さらにティランの家族からも結婚の条件として4項目を申し
入れられます。その要旨は
1.ティランにはHoàng hậu(皇后)の名称を与え、先帝
の未亡人達の叙階よりも上位とすること。
2.結婚式には特別に2名のカトリック司教の同席を認
めること。
3.結婚後もティランはカトリック信者であり、女の子供が
生れた場合には教会に差し出すこと。
4.バオダイ帝は仏教徒を維持すること。
と言うものでした。

1934年
3月9日
バオダイ帝とティランの婚約がプレスリリースされ、婚約
の式はダラットにあるグエン王朝の夏の離宮で行われま
した。

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祝福を受けるティラン

3月16~20日
結婚式はフエの宮殿でインドシナ総督や高級官僚の出
席の下、フエの宮廷内の勤正殿でグエン王朝伝統の儀
式に則っとって行われました。

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式典が行われる勤正殿に向かうティラン

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式典が行われる勤正殿に向かうバオダイ


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結婚時の衣装

結婚式には宮廷女性が黄色の絨毯に沿って並び、皇
帝には赤の絨毯が用意されました。皇帝を出迎えるのに
女性が並び、皇帝用に赤の絨毯が使われるのは古来
のグエン王朝の慣習には無いことでした。ティランもバオ
ダイもフランスで教育を受けた人ですので気にすることは
無かったそうです。

ティランはフランス国籍のカトリック教徒でした。しかし結
婚による改宗を拒みましたので国民やニュース機関
(ニューヨークタイムズ)などで物議をかもし出し、一部の
人はフランスが仕組んだ政略結婚ではないかと疑う人も
少なからずいました。

しかしティランは異教徒と結婚することに付き、事前に
ローマ法王に相談しています。ローマ法王は彼女に女の
子が生まれた時には、その子を教会に与え、カトリック信
者とすることを条件に改宗せずに結婚を認めました。

結婚式は4日間に渡り盛大に行われ、タイム誌は1934
年4月2日号でグエン王朝の盛大な結婚式を詳細を伝
えています。

3月21日

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3月21日の写真

3月24日
ティランはナムフンという称号を与えられ、皇后「Majesty
の紋章を授けられます。ナムは南、フンは香りを意味しま
す。
そして皇帝にだけ許されていた黄色のドレスを着ることが
特別に許されました。
「Majesty」の上には最高位の「Imperial Majesty」があ
り、皇帝と同じ権限を持つようになります。ナムフンは
1945年に「Imperial Majesty」に昇格します。

結婚して皇后の位「Majesty=Hoàng Hậu(ベトナム語)」
が与えられたのは、グエン王朝始まって以来の事でした。
ナムフン以前は皇帝の妻になっても「Vương Phi(ベトナ
ム語)」と言う叙階で「Hoàng Hậu」より1ランク下の叙階
でした。日本語に訳すときはどちらも「皇后」と翻訳され
ていることが多いようです。

結婚後、2人は紫禁城内の建中楼に住みます。

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宮廷博物館に出かけるバオダイ夫婦

バオダイは大変ナムフンを愛していました。よく車を自分
で運転して国内の景観地や遠くプノンペンまでにもナムフン
を連れて行きました。

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宮廷内をシクロで移動するナムフン

1936年1月4日
この日の夜、7時間に渡り、フエ宮城の大砲が鳴り響き
ました。長男バオロンの誕生です。(9時間の時は公主
(女子)の誕生)

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長男バオロン

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長男バオロン誕生記念写真

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長男バオロンと長女フンマイ

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長男バオロンの記念写真

1939年
バオダイ夫婦は3人の子供を連れて、フランスを中心にヨ
ーロッパの国々を公式訪問し、その際、カトリック教徒と
して異教徒との結婚を認めてくれたローマ法王も訪問し
ています。

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1月1日
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ローマ法王にお礼の訪問

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同上

当時バチカンで法王に拝謁する時は黒を基調とした服
装が一般的だったので、ナムフンが皇帝だけに認められ
ていた黄色のローブ着て拝謁した姿は、当時の新聞を
賑わせました。

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同上 7月21日

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7月22日 ローマを訪問

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母校のクーボン•デ•ワゾーを訪れるナムフン

結婚後ナムフンは子供を5人育てましたが、多くはフラン
スの学校で教育させています。

1.皇太子 Bao Long
1936年1月4日生~2007年7月28日
2.Princess Phương Mai 1937年 8月1日生
3.Princess Phương Liên 1938年11月3日生
4.Princess Phương Dung 1942年 2月5日生
5.皇子Prince Bao Thang 1943年12月9日生

1939年~1941年
ナムフンは外国からの使節団、蒋介石元帥、カンボジア
のシアヌーク国王、ラオスのヴァンヴォン国王などをバオ
ダイ皇帝と共に迎え、皇帝を助けます。このような行為
は過去のグエン王朝には無いことでした。

彼女はまた、グエン王朝とカトリック教徒間の平和共存
にも努力しています。

1942年
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宮廷内寺院のお祭りを見学するバオダイとナムフン

1945年

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1945年のナムフン

6月18日
バオダイ帝が「ベトナム帝国」の皇帝を名乗ったのに伴い、
ナムフンも「Majesty」から「Imperial Majesty」に昇格し、
皇帝と同じ権限を与えられます。

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1945年、「ベトナム帝国」から発行予定だった切手。
日本の敗戦により未発行。

8月30日
ベトナム8月革命を受けてバオダイ帝が退位します。

ナムフンはバオダイの側近だった Pham Khac Hoeと何
度も話し合っており、バオダイの退位の決意に影響を与
えています。そして革命政府の提唱した「ゴールデンウィ
ーク」に自分の身に着けていた財宝を寄付しています。
「ゴールデンウィーク」とはまったくの財政難だったホーチ
ミン率いる革命政府が国民に金の拠出を求めたキャン
ペーンを言います。

9月
一家はフエ宮殿を後にし、カイディン帝が建設したフエ宮
殿近くのアンディン離宮に移り住みます。

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アンディン離宮

バオダイはベトナム民主共和国の最高顧問に迎えられ、
ハノイに向かいます。

第2次世界大戦後、ナムフンはベトナムの復興のた
めの活動を始め、ベトナム復興委員会の南のメ
ンバーとなり、べトナム赤十字社への支援も行っ
ています。


しかし、フランスがベトナムに再侵略してくると、ナムフン
はアジアの友人達に手紙を書いています。
「1945年3月以来、ベトナムはフランスの支配から逃れ
たが、しかしまた欲のつっぱた少数派のフランス人達が
貧困なベトナムの土地にベトナム人の血を流し続けよう
としている。フランス軍の行動は明らかに連合国の政策
に反している。だから私は真剣に戦争を終わらせる行動
を要求する。戦争は私の国を壊滅的な状態にしてしま
う。」

1946年
バオダイは中国に亡命しますが、その後すぐに香港に移
り住みます。

1947年
時が経つにつれ、ベトナム共産党が台頭しグエン家が衰
退していく状況や国内の政情不安からナムフンと子供
達は祖父が買っていたフランス、カンヌ郊外のソレンツ城
(Thorenc)に引っ越していきます。

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Eugène Larouche司祭、ナムフンと子供達

1949年6月14日
バオダイが「ベトナム国」(フランスの傀儡政権)の国長と
して復活します。

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1949年のナムフン

1950年
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ヨーロッパスタイルのナムフン

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フランスのソレンツ城(Thorenc)で暮らす子供達


1952年

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1952年発行されたナムフンの切手

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1952年に発行されたバオダイとナムフンの切手

1954年
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フランス大統領René Coty婦人と談笑するナムフン

1955年
バオダイが国長として支配していたベトナム国は、国民
選挙により廃止され、ベトナムは共和国となり、バオダイ
はフランスに正式に亡命します。
バオダイは落胆し、ナムフンとも別居するようになります。
離婚したとの記述もあります。

1957年
ベトナム共和国(南ベトナム)政府はベトナム国内のバオ
ダイ家族の個人財産の没収を宣言、接収しましたが、ナ
ムフンによって所有されていた不動産はすべて除外され
ました。除外された不動産にはダラットにあるナムフンの
父の別荘も含まれており、現在ではLam Dong
Museumとして使用されています。

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ラムドン博物館 敷地は3ヘクタールもあります

1958年から1960年
1958年、ナムフンはCorrèze地方の田園地帯
Chabrignac村の丘の中腹にある農場(ペルケ農場
 Perche)つきの大邸宅を購入します。この農園の土
地は160マウ*もありました。
*1マウは北部ベトナムでは3600平米、南部では470
0平米を表します。

この農園は、城を持っていませんが、一つだけ非常に大
きくて長い大邸宅があり(室数32、浴室7、リビング5)、
庭園はリンゴやブドウ畑などの果樹に囲まれていました。
勿論メイドも執事もいました。

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パリから約400KmにあるChabrignac

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購入した大邸宅

現在この建物はChabrignac地方の文化的遺産として
保存されています。


以降、ナムフンがベトナムに戻ることは無く、死去するま
での人生の後半をフランスで静かに隠遁暮らしをするこ
とになります。
村の人々はナムフーンは資産家だけど幸せ薄い人と噂
していました。

ナムフンはパリに行き、ハムギ帝の次女Như Lýを訪れ
たり、バオダイと一緒に働いていた数人の官僚達と会っ
たりしていました。

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ナムフンはパリに2つの大きなアパートを、モロッコやコン
ゴにも土地を所有しています。

1962年
次女のPhương Liênがボルドー地方のフランス人銀行
家Bernard Soulainと結婚。結婚式はナムフンの住む
Chabrignac村で行われました。

1963年
ナムフンはこの年、肺結核を発病し治療を受けましたが、
回復したため、子供達の夏休みにパリに行き過ごしま
す。
9月14日
突然、ナムフンは喉が苦しいと訴えます。

9月15日 
医者が来て診察しますが、喉に異常はありませんでし
た。
医者は処方薬を置いて引き揚げますが、以前彼女が
肺結核にかかって治療したことに気付きませんでした。
数時間後、彼女は呼吸困難となり、メイドは隣村や10
km離れたPompadourの町に電話をして医者の派遣を
要請しました。
しかし、医者が来た時は遅すぎました。ナムフーンは窒息
死で49歳の生涯を閉じてしまいました。

子供達は皆パリで仕事や学校に行っていたので、家に
は2人のメイドと執事しかいませんでした。

葬儀はChabrignac教会で厳粛に行われましたが、あま
りに突然の死に泣き声も無く、弔辞もなく、会葬者は5
人の子供達、元ハムギ帝の次女Như Lý夫妻、フランス
政府からはBrive La Gaillarde知事と Chabrignac
の総務マネージャーが参加した質素なものでした。

子供のPhương Liênがバオダイに電報を打ちましたが
バオダイは側室のモンディエップと遠くに出かけていて連
絡がすぐに取れず、葬儀には出席できませんでした。地
元の人達は、その後もバオダイがナムフンの墓参りに来
たのを見たことが無いといいます。

遺体は翌日フランス、Chabrignac地方の教会墓地に
埋葬されました。(Chabrignac, tỉnh Corrèze, vùng
Limousin  リムーザン地方 コレーズ県Chabrignac)
ナムフンは生前からフランスに抵抗してアルジェリアに流
刑になったハムギ帝の次女Như Lýの一家も
Chabrignac地方に住んでいたため生前から親交があり、
この墓地のオーナーもNhư Lýの夫(伯爵)の土地です。

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墓地の門

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ナムフンの墓

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「大南南芳皇后之陵」と刻まれています。

2013年
ナムフンの記念切手が現在のベトナム政権「ベトナム
社会主義共和国」から発行されました。

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ナムフン死後50周年記念切手
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