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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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カイディン帝
カイディン帝
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Khải Ðịnh (啓定帝)
生没年 1885年10月8日~1925年11月6日(旧暦9月20日)
グエン朝第12代 皇帝
在位  1916年5月18日~1925年11月6日
父   第9代ドンカイン帝
母 Hựu Thiên Thuần (仙恭皇后 1868年4月18日—1944年9月17日)
妃 Dương Thị Thục

1885年
フエの王宮で9代ドンカイン帝と仙恭皇后の間に生まれた。父帝が死
去した際、まだ幼少で病弱だったこともあり即位は見送られ、皇位はタ
インタイ帝(ズックドゥック帝の子)が継いだ。

1916年
11代皇帝ズイタン帝(タインタイ帝の子)が宗主国フランスを排除しよ
うとしたために廃位され、レ・ユニオン島へ流刑となってしまったので、フ
ランスによって12代皇帝に擁立されることとなり、年号を「啓定」と定め
ました。

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啓定帝が即位すると、フランスは科挙を廃止して反仏勢力となりや
すい知識人の影響力を弱め、公文書の表記方法も漢文から
クオック・グーに改めました。

カイディン帝はフランスの搾取に苦しむ国民から「フランスの保護下
で贅沢な暮らしをしている傀儡皇帝」と見られ、その評判は芳しいも
のではありませんでした。

著名な民族主義者であるファン・チュー・チンからは批判され、
グエン・アイ・クオック(後のホー・チ・ミン)は、カイディン帝を風刺する
戯曲「竹の龍」を著しています。

カイディン帝の時代にはフランスの植民地政策に対して武力で反抗
する勢力はことごとく鎮圧されており、ポール・ドゥメールの強権的な
植民地政策が始まっていました。
実際、この皇帝が実施した政策は自身とグエン一族の繫栄のため
だけでした。

皇帝は宮城内の多数の建物を改修し、一族のための離宮を建設し
ました。

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アンディン離宮(Cung An Định)新築

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建中楼(Lầu Kiến Trung )改築

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顕仁門(Cửa Hiển Nhơn)改修

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彰徳門(Cửa Chương Đức)改修

そして極めつけの建造物が国民に30%の増税を強いて完成させた
カイディン帝廟なのです。(別掲)

1922年5月20日
カイディン帝はマルセイユ殖民博覧会に出席のためフランスを訪問し
ます。これはベトナム皇帝の始めての外遊でしたが、愛国者からはこ
ぞって批判されます。

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マルセイユ殖民博覧会場に向かうカイディン帝と後のバオダイ帝

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バオダイは帰国せす、フランスで教育を受けます。
カイディン帝はフランスの大型建造物に多大な影響を受け、王宮内
の建中殿を増改築する際、特に命じてバロック様式にさせるなど、
その建築様式は親仏的傾向が強いものでした。

1923年
フランスから帰ると、自身の陵墓建設と40歳の記念式典の開催の
ために30%の増税を命じ、多くの批判を受けることとなります。

1924年9月  
40歳の記念式典の計画が始まります。計画を担当する官僚の
請願書にカイディン帝は心にも無いことを書き込みました。
「ミンマン帝、ティウチ帝、トゥドゥック帝の治世で実施された40歳
記念行事以来、臣民はこの行事に出会っていない。しかし私が
皇帝になってから8年あまりの間に私は臣民に多くの気を使ったが、
何もしてあげられなかった。
最近では多くの災害が発生し、さらに官僚は汚職に明け暮れている。
このような時期に式典を開催することに躊躇は感じるが、かといって
他にいい方法を見つけ出すことができない。
官僚たちは私の心配ごとを共有し、臣民の生活状態を改善すること
に全力を注ぎなさい。私にへつらう必要はない。

記念式典は緻密な計画の下に厳粛に行われなければならないが、
同時に私の帝廟の建設も始まっているので、経済的に行われなけれ
ばならない」

この請願書への書き込みを読んだフランス理事官Pasquierは
カイディン帝は近代的で人道的な考えの持ち主であると感心し、
記念式典の開催許可を与えます。

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勤政殿前広場でのカイディン帝40歳の大慶式典

10月30日
式典が挙行されましたが、とても節約した式典ではありませんでした。
式典は10日間も続いたのでした。30%増税の資金を使って。

著名な愛国者であるフイン・トゥック・カン(ホーチミン主席がフランス
との独立交渉に渡仏したときに大統領職の代行をしました)は詩に
残しています。
「Who enters the Hell and asks Emperor Gia Long;
Is Khải Định really your great grandson??
The Longvevity Ceremony at the Age 40 is a play thing
But it makes the peasants suffer the waste of 30% agriculture
taxes
His recent tour of the North is notorious
Last year’s visit to France is also scandalous
The mother country creates a wooden statue
The King is there but the nation is lost」

1925年11月6日
しかし記念式典の翌年、幼少時より病弱だったカイディン帝は結核
により40歳で死去してしまいます。

父カイディン帝のフランス訪問に同行した後、そのままフランスに留学
していた長男グエン・フック・ヴィン・トゥイが帰国して皇帝に即位し、
バオダイ帝となりました。

カイディン帝は女性を好まず、宮廷舞踏でも男が変装して女役を
行っていました。彼は性的不能者であったらしく、後継者のバオダイ帝
も彼の本当の子供ではないのではないかとの噂が絶えません。
カイディン帝が即位した時バオダイ帝はまだ2歳でしたので、真相は
未だにはっきりしていません。

側室や紫禁城に呼ばれた女性たちは生活には困らないものの悲惨
な生活を詩に託しています。

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后 Dương Thị Thục
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