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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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トゥドゥック帝 その9 トン・タット・テュエット
トン・タット・テュエット   

11
Tôn Thất Thuyết
生没年 1839年3月29日(新暦 5月12日)
      ~1913年
生誕地 現在のフエ市キムロン地区フーモン村
     (thôn Phú Mộng, phường Kim Long,
      thành phố Huế)
父 Tôn Thất Đínhの第2子
母 Văn Thị Thu

グエン王朝の皇族として生まれ,1870年代から
北部ベトナムでの軍事作戦に参加し、頭角を
現してきます。

1873年12月
フランスの北部ベトナム侵攻作戦(トンキンキャ
ンペーン)の一つであった「コウザイの戦い」で黒
旗軍とともにフランス軍を待ち伏せ、敵の司令
官ガルニエ大尉を殺害します。

しかしトゥドゥック帝はトン・タット・テュエットを酷
評しています。「彼は正直でなく責任感が薄い。
学問もあまりせず他人をすぐに攻撃する。もっと
人格者になるように勉強しなければいけない。」
と。 トン・タット・テュエットは愛国者ではあった
が軍人一筋の性格であった。  

1883年
しかし彼はトゥドゥック帝亡き後には、吏部尚書,
 兵部尚書としてフエ宮廷の実権を握り、グエン・
ヴァン・トゥオンと共にヒエップホア帝,キエンフック帝、
ハムギ帝を次々に擁立しました。

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フエでのクールベとハルマン 1883年8月

8月25日
フエ宮廷前を流れるホン川の河口トゥアンアンを
攻め落とされた宮廷は「ハルマン仮条約」を締結
させられ、ベトナム全土が実質上フランスの支配
下に置かれます。

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1883年8月25日、フエでの「ハルマン条約」の
調印式

トン・タット・テュエットは1883年8月25日締結さ
れた「ハルマン仮条約」に断固反対し、ヒエップホ
ア帝に領土を取り戻す詔を書くことを要求します。

フランスに降伏する政策に反対するトン・タット・テ
ュエットは兵士を集め、1883年11月末には軍隊
組織の構築をはじめます。フエ宮廷内ではフラン
スとの関係を良好に保つことが重要であるとの意
見を持つ官僚もいましたが、彼は逆にフランスを
追放したいと考えていました。
しかしこの時点では、強行に反対したもののまだ
軍隊があまりにも弱体でした。
そして徐々にフランスに対する蜂起準備をして行
きます。

1884年
1月の初めには、フランスがフエ宮廷内に入城して
くることに対応して兵士を集結させ、チャン・ズオ
ン・ソン(Tran Xuan Soan)をその司令官に任命
しました。
5月11日、清国は清仏戦争の講和条約において、
ベトナムの宗主権を放棄します。

1885年
6月6日
駐清フランス公使パルノートルがフエに来てフエ宮
廷の要求を入れアルマン条約を改定した「第2次
フエ条約(パルノートル条約)」が締結されます。
この条約によってベトナム全土が実質上フランス
の植民地になります。フランス軍司令官ド・クール
シーがハイフォンからフエに到着し、フエ宮廷の対
岸に駐屯します。

クールシーはフランスへの反乱を支援しているグエ
ン・ヴァン・トゥオンの解任、フエ宮廷軍の解体など
を要求して7月3日を期して皇帝に謁見を求めま
す。

6月20日(新暦7月31日)
キエンフック帝が死去し、8月1日(新暦)にハムギ
ーが即位します。
フランスの強圧的な態度を不快に思っていた権臣
トン・タト・テュエットやグエン・ヴァン・トゥオンはフラ
ンス軍が宮廷内に入城することを認めず、フエ宮
廷が抵抗本部となって一戦を交えることを決意し
ます。

7月4日
そして、ついに「時が来た」と決心したのです
クールシーはこの日、フエ宮廷の官僚達をフランス
公使館に招き、夜会を催していました。

7月5日
午前1時、トン・タト・テュエットはフランス軍駐屯地
とフランス公使館への攻撃を命じます。フエ宮殿
から砲弾が打ち込まれ、フエ宮廷軍がフランス駐
屯地に襲い掛かりました。しかし善戦したのは当
初のみで、武器の違いは大きく、体勢を整えたフ
ランス軍にはかないなせんでした。

敗北を知ったトン・タット・テュエットは6日の明け
方、兵士を集め、皇太后とハムギ帝に宮廷から
逃げるように告げます。
その時、ハムギ帝は状況が何もわかっていません
でした。
「なぜ逃げるのか、戦わないのか?」
トン・タット・テュエットは剣を抜き、兵士に皇帝を
籠に乗せるよう命じ、宮廷からキムロン(Kim
Long)地区に向かって逃亡させます。后や側室、
官僚やその家族など1000人を超える大逃避行
になりました。

7月8日午後
2日後にはクワンチ市に到着し、休憩を取ります。
しかし何を思ったか、グエン・ヴァン・トゥオンは休
憩せずフエに戻っていってしまいます。

皇太后トゥヅーの命によってすべての武官と文官
が集められ反抗についての会議が持たれます。
皇太后と皇族そして幾人かの官僚達は宮廷に戻
ることを希望します。トン・タット・テュエットは激怒し
ましたが、
「老人や弱者はフランスと戦うことは出来ない。足
手まといになるだけだ」と諭され、2つのグループに
分けることにしました。
1.弱者と戦う意思の無いものは皇太后と共に宮
殿へ戻るグループ
2.皇帝に忠誠を尽くし、祖国を守る為に以前か
ら緊急の避難場所として建築しておいたクワンチ
省カムロにあるタンソ(Tân Sở)要塞に向かうもの
のグループ

7月9日
朝、悲しい別れの後、抵抗グループは日暮れ時に
タンソ(Tân Sở)要塞に到着します。
   
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カムロのタンソ要塞

7月12日
乾燥してまばらな木々が生える山の中でハムギ帝
は落ち込んで思いに耽っていました。そして宮廷に
帰りたいと要請します。
トン・タット・テュエットは間髪をいれず、
「皇帝、あなたは宮廷に帰ることができます。しかし
その前に首を切ってあなたの頭をここに置いていき
なさい」

その後、ハムギ帝はまだ13歳ではありましたが、
覚悟を決め賢明になっていきます。

トン・タット・テュエットはフランス支配に抵抗するよ
うバンタン(文紳 村落内知識人)層の決起を呼
びかける「勤皇の詔」を読み上げ、ハムギ帝の署
名を求めます。

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勤皇の詔

ハムギ帝は「今はもう私は理解している。なぜあな
たが私を宮廷に帰還させないかを。それはフランス
がまだ我々の国民を支配しているからだと」

「そうです。もし必要なら皇帝はジャングルの奥深
くでも兵士と共に行きますか?」
「私はフランス軍をこの国から追放するまでいかよ
うな暮らしでもする。」

このようなやり取りがあって、翌日、皇帝とトン・タ
ット・テュエットの一団はタンソ要塞を後にし、マイ
リン(Mai Lĩnh)に向けて北上します。そしてハティ
ン省に入るQuy Hợp Passを通過してゲアン省の
アンソン要塞(An Son)にたどり着きます。
アンソン要塞はトン・タット・テュエットがフランス抗
戦の根拠地としようと考えていた場所です。

しかしこの時点で1000人以上いた宮廷からの脱
出者はクワンチでは500人になり、今ではさらに3
00人が脱落し、200人足らずとなっていました。

ハムギ帝は「勤皇の激」を宣布したことから、今後
の困難で挑戦的な戦闘を発熱の病床で漠然と思
い浮かべていました。

「勤皇の激」の反響は大きく、おおくの地域の人々
がこの要請に従ってきました。
「皇帝に忠誠を尽くし、国を愛しよう」というフレー
ズは人々の心に響き、フランスに対する憎しみを
増大させました。

この「勤皇の詔」が「勤皇運動」と呼ばれるベトナ
ム各地でのフランスに対する抵抗運動に発展して
いきます。

ハティン省ではLê Ninhと Ấm Vũが長老や知識
人、一般国民をリードして省の役所を占拠し、裏
切り者であるVăn Báu や Lê Đạtを捕まえ、追
放しました。

チュン・クワン・ゴック(Trương Quang Ngọc)はム
オン族と共に蜂起し、抵抗勢力に入隊しトン・タッ
ト・テュエットにより皇帝の警護を命じられます。

勤皇運動はベトナムの中部から北部へと広がって
いきます。

9月19日
フランスはハムギ帝の廃位を決定し、9月19日ド
ンカインを帝位につかせます。

フランス支持の下、ドンカイン帝はHoàng Kế
Viêmをクワンビン省へ派遣し、ハムギ帝に降伏す
るように説得させますが、失敗に終わります。

フランスは武力によってハムギ帝を逮捕し、同時
に勤皇運動を沈静化する作戦に変更します。

フランスはスパイを使って、ハムギ帝の根拠地を
探そうとします。そして根拠地はクワンビン省、ハ
ティン省とラオスのカンムオン(Khâm Muộn)の間
であると目星をつけて、攻撃準備のために抵抗地
域を包囲するように軍隊の駐屯地を構築します。
しかし索的作戦で何も得るものはありませんでし
た。

ハムギ帝やその根拠地の警護軍は勤皇運動によ
ってかなり多くなっており強力でした。

Tuyên Chánh要塞をLê Trựcが守り、
トン・タット・テュエットの次男トン・タット・ダム(Tôn
Thất Đạm)の軍はゲティンの山奥に陣を構え、
トン・タット・テュエットとファン・トゥオン(Pham
Tuân)はTuyên Hóa(クワンビン省の西地域
 現在のĐong Lê)でハムギ帝の警護にあたって
いました。

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そしてトン・タット・テュエットの長男トン・タット・ティ
エップ(Tôn Thất Thiệp)は片時もハムギ帝の傍
を離れず、自分の身を犠牲にしても息を引き取る
までハムギ帝に忠誠を尽くすことを決心していまし
た。そして降伏を口走るものがいれば直ちに殺害
しました。

フランスは最初にトン・タット・テュエットの行方を発
見したものに銀2000テール、ハムギ帝には銀
500テールの賞金をかけました。

トン・タト・テュエットは清国の支援を求めるため、
2人の息子トン・タット・ダムとトン・タット・ティエップ
にハムギ帝の警護を命じて清国へと向かいます。
しかし、既にベトナムの宗主権を放棄してしまって
いた清国がベトナムの勤皇運動を支援することは
できませんでした。

その後、トン・タト・テュエットはベトナムに帰還する
ことなく、中国、広州でバーディン蜂起の主導者チ
ャン・スワン・ソン(Trần Xuân Soạn)やイェンテ蜂
起の主導者デタムと会い
軍事支援や抵抗基地再構築について話し合いま
すが、成果はありませんでした。

1913年
トン・タト・テュエットは中国・広西で死亡したそうで
す。
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