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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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トゥドゥック帝 その6 ファン・タン・ジャン
ファン・タン・ジャン

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1863年9月20日、パリで撮影された写真

Phan Thanh Giản(潘清簡)
生没年  1796年11月11日~1867年8月4日
誕生地  ベンチェ省バチ県バオタン村落
    (xã Bảo Thạnh huyện Ba Tri tỉnh Bến Tre)
ベトナムの政治家、学者。

グエン朝第4代皇帝トゥドゥックの治世の外交部
門を担当した重臣。

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誕生地Ba Tri

<生涯>
祖父ファン・タン・タップ(Phan Thanh Tập)は中国福建省
漳州府海澄県からの移民であり、明朝が滅亡し清朝が福建省を
支配するようになると、異民族の支配を嫌いベトナムの
ビンディン省に移住、その地で中越混血のベトナム人女性
Huỳnh Thị Họcを娶り生まれたのがファン・タン・ジャン
の父親ファン・タン・ガン(Phan Thanh Ngan)です。

1771年
父親はビンディン省から現在のベンチェ(xã Bảo
Thạnh, huyện Ba Tri, tỉnh Bến Tre)に引越
し、Lâm Thị Bútと結婚し、1796年、ファン・タ
ン・ジャンが生れました。

1802年
7歳になった彼はPhú Ngãi村にある寺小屋で
Nguyễn Văn Noa先生について勉強します。

1815年
ファン・タン・ジャンの家族に恨みを持つ人たちに、彼の父親
が盗みを働いたと訴えられ、父は濡れ衣を着せられ投獄されて
しまいます。

父親は彼の勉学のことを心配していましたが、
彼は父親の身代わりになって刑務所の作業をし
たいと願い出ます。彼の親孝行に触れた役人は
彼を刑務所に近い場所に移住させてあげます。
彼は毎日父親に面会に行き、父親を助けまし
た。そのうち彼は慈悲深いÂnと言う女性に出会い、お金、
米、衣類の援助を受けることが出来、勉学を続けることが出来ました。


1825年
彼は郷試(地方公務員試験)に合格します。

1826年
彼は30歳で南部ベトナムで始めての会試合格
者(国家公務員試験)になります。

その後、彼はミンマン帝、ティウチ帝、トゥドゥッッ
ク帝と3代に渡り重用され出世していきます。

トゥドゥッック帝の治世では協辦大学士兼兵部尚書枢密大臣
に任じられます。

1856年
トゥドゥッック帝の勅命によりベトナム史の資料で
ある『欽定越史通鑑綱目』(Khâm định Việt sử
thông giám cương mục)を編纂しています。
1859年に完成しましたが、その後1871、187
2、1878年に更新され、1884年に刊布されま
した。

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『欽定越史通鑑綱目』は全53巻、「大越史記」
を基に中国やベトナムの史記を参考にしてベト
ナム建国の王、「雄王」の時代から後黎朝まで
の王朝を記述しています。

1858年
フランス・スペイン連合軍がダナンに上陸し、戦
闘が開始されるとフランスとの和平交渉のため、
トゥドゥック帝はファン・タン・ジャンを団長、ラム・
ズイ・ヒエップ(Lâm Duy Hiệp)を副団長とした
交渉使節団に任命します。

1862年
1959年、フランス侵略軍がサイゴンに上陸し、
南部ベトナムを制圧し始めると、使節団は、6月
5日「第1次サイゴン条約」を締結しフランスと停
戦します。

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講和使節団

しかし「第1次サイゴン条約」の内容が、コーチシ
ナ東部3省の割譲、賠償金の支払いなど、グエ
ン朝に一方的に不利で屈辱的な内容だった為、使節団は民衆
より罵倒されたばかりかトゥドゥック帝にも疎んじられ、
ファン・タン・ジャンのグエン朝における影響力も一時的に
低下しました。

1863年
ファン・タン・ジャンはフランスとの領土返還交渉
使節に任命され、「第1次サイゴン条約」で割譲
した領土の返還交渉を命じられます。
ファン・タン・ジャンは初代のフランス領事であった
Jean-Baptiste Chaigneauの息子であるMichel Duc
Chaigneauを随行し、同年11月にナポレオン3世および皇后である
ウジェニー・ド・モンティジョに謁見します。

ナポレオン3世は賠償金の支払い、サイゴン、ミトーへの
フランス軍隊駐留を前提に割譲地の返還を認めてくれましたが、
フランス海軍大臣の強硬な反対により、1864年6月にナポレオン3世
はその許可を撤回しています。


このフランス派遣期間中、ファン・タン・ジャンは
フランスにおける産業革命を目の当たりにして、
帰国後トゥドゥック帝にフランスの強大さは言葉
で描写できる範囲を超えていると報告しますが、トゥドゥック帝
はこれを聞き入れず、詩を以てファン・タン・ジャンを譴責、
仁義道徳を以てフランスの侵略に対抗すべきとの考えを示しています。

帰国したファン・タン・ジャンはコーチシナ各省の
総督として事務管理を任じられます。

1867年
コーチシナ総督はトゥドゥック帝に対しベトナムは「サイゴン条約」
を守らず、割譲した土地を取り戻そうと秘密裏にゲリラを支援して
いるとクレームをつけます。

カンボジア国内ではシャムの支援を受けた反乱が続いており、
フランスはこの反対勢力を排除するためにカンボジアへの通過点と
して必要なコーチシナ西部三省の割譲をグエン朝に迫ります。

トゥドゥック帝が西部三省の割譲要求を拒否す
ると6月20日、フランス軍はヴィンロン(Vinh
Long)を攻撃してきます。

フランス軍の強力さを知っていたファン・タン・ジャ
ンはアンヤン省とハティエン省の守備隊長に極
秘の手紙を送り、降伏することを要求します。
「フランス軍の強力な軍事力には勝てるわけが
無い。無益な流血を避け、抵抗せずフランス軍に住民の安全を
保障することを要求しなさい」

ファン・タン・ジャンはフランス軍との全面衝突の
回避を模索しましたが、6月20日から24日の5
日間でフランス軍は2000名たらずの兵で威嚇
し、南部ベトナムの西部3省を武力攻撃なしに
占領します。

ファン・タン・ジャンは自らが処罰されることを知っ
ていたので17日間食事を取らず、8月4日に服
毒自殺します。72歳でした。

ファン・タン・ジャンは死後、フエ宮廷によってす
べての官位を剥奪されましたが、19年後、9代
ドンカイン帝によって名誉を回復されています。

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晩年のファン・タン・ジャン

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故郷のバオタン村落にあるファン・タン・ジャン寺
(ấp Thạnh Nghĩa, xã Bảo Thạnh, huyện Ba Tri, Bến Tre)

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ファン・タン・ジャンの墓

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ファン・タン・ジャンの廟
アンヤン省バテ山(Núi Ba Thê)の麓にあります。
(núi Ba Thê, thuộc huyện Thoại Sơn tỉnh An Giang)

ファン・タン・ジャンは南部ベトナムをフランスに売
ってしまった人だとの評価もありますが、アンヤン省の人々は長い間、
現在に至るまで、この地方の守り神として廟を建て尊敬しています。
廟はヴィンロン市にもあります。

彼には3人の息子がいましたが、1人は農業をし、2人はフランスに
抵抗した後、フエ宮廷の重臣になっています。

著書
『欽定越史通鑑綱目』 の他、『梁渓詩草』、『臥游集』、
『如西使程日記』があります
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