べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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トゥドゥック帝 その3 フランスの侵略
トゥドゥック帝 その3
フランスのベトナム侵略


<初代皇帝ザーロン帝の時代>1801年~1819年

11

1787年11月27日 
ベトナムのグエンフックアイン(=グエン朝の初代
ザーロン皇帝)が、フランス人司教アドランを通じ
てフランス国王ルイ16世とヴェルサイユ条約を
結び、フランスの軍事支援の見返りにダナンとコ
ンダオ島をフランスに割譲することとなったが、条
約は実行されず、アドラン司教の個人的な支援
にとどまった。


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サイゴン大聖堂前に建てられていたアドラン司
教とザーロン帝の長男カイン皇太子。右手に持
っているのはベルサイユ条約

<第2代皇帝ミンマン帝の時代>1819年~1840年

13
初代ザーロン帝と正反対の政策を実行した
ミンマン帝

1833年1月6日
ミンマン帝はキリスト教を禁止する勅令を出し、
国内でのキリスト教の布教を禁止し、信者は死
刑、教会は破壊する通達をだします.

当時は政教分離ではなく、宣教師は政治や商
業活動にも従事しましたから、儒教を基本思想
として国家を統治しようとしていたミンマン帝には
キリスト教は邪教に映ったようです


<第3代皇帝ティウチ帝の時代>1840年から
1847年
14

1840年6月28日―1842年8月29日
<アヘン戦争>
イギリスが中国、清朝とのアヘン戦争に勝利し、
南京条約で香港を割譲させ,多額の賠償金を
獲得したのを見たフランスはインドシナ政策を武
力制圧も辞さない態度に変化させます。

ベトナム宮廷はミンマン帝以来、西洋事情の情
報は皆無に近く、世界の中心は中国であると認
識していましたから、清朝が戦争に敗れたことは
大きな驚きでした。


1843年

フランスの外務大臣フランソワ•ギゾー
(François Pierre Guillaume Guizot)は東洋
でのイギリス艦隊への支援を大義名分として
セシール(Jean-Baptiste Cécille)提督、シャル
ネ(Léonard Victor Joseph Charner)
艦長、ドラグルネ(Théodore de Lagrené)外
交官を乗せた艦隊をインドシナ周辺海域に送り
ます。

フランス艦隊派遣の真の目的はイギリスのよう
に中国での拠点の構築と同時にベトナム攻撃
の口実を作り上げることにあったとされていま
す。



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フランスの外務大臣フランソワ•ギゾー

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セシール提督

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シャルネ艦長

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Théodore de Lagrené外交官

この艦隊はフィリピン諸島のバシラン島を占領
しようとしますが、すでにフィリピンを植
民地にしていたスペインの猛反対にあって
占領を諦めます。

2月3日(2月25日とも)
セシール提督はフエに2年間も投獄され、いずれ
は処刑されてしまう3人の宣教師を救出する為、艦隊
のフリゲート艦ヒロイン(Héroine)の艦長で
あったレヴェック(Félix Lévêque Savin)をダナ
ン港に派遣します。

レヴェック艦長の抗議に対してティウチ帝は宣教
師達の解放に同意せざるを得ませんでした。
フランスのこの動きは、1842年にアヘン戦争に
勝利した英国の成功に反応した行動で、フラン
スもまたベトナムを通過して中国との貿易路の
確保を狙っていました。

1845年

パリ外国宣教師教会のフランス人宣教師、ドミ
ニク•ルフェーべル(Dominique Lefèbvre 181
0年-1865年)は1835年からキリスト教の布
教が禁止されていたベトナムに到着し、布教活
動をしていました。

1941年頃に逮捕され、フエで監禁されていまし
たが、1943年フランス艦艇がダナンに来航して
交渉した結果、釈放されましたが、その後も布教活動を続け、
1944年10月31日南部ベトナムのNhumいうところで拘
束され、フエに送られ死刑を言い渡され、監禁さ
れていました。

1845年6月16日, セシール提督はルフェーベ
ルがフエで投獄され死刑を宣告されていることを
知り、司祭の釈放要求のためFornier-Duplan
が指揮するフリゲート艦Alcmèneをダナン港に
向わせます。

ルフェーべルは2度とベトナムに足を踏み入れな
いことを条件に釈放され、シンガポールに向かい
ます。

この当時のべトナムには宣教師達の布教活動
によって北部、中部ベトナムで約30000
0人のキリスト教信者がいました。しかし
多くのベトナム人はキリスト教徒が好きで
なく、国を滅ぼすのではないかと疑ってい
ました。

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ベトナム人のキリスト教信者


1846年
6月6日
ベトナムを離れたセシール提督率いるフランス艦
隊は沖縄に寄航しています。

1847年
2月26日
レヴェック艦長が指揮する軍艦「エロワース」が
ダナンに再入港し、死刑を宣告されていたフラン
ス人宣教師5人の釈放を要求します。

レヴェック艦長の船は1945年にもダナンに入港
しており、地元のベトナム人はヘロインが積まれ
ているとしきりに噂さしていました。

3月16日  
皇帝ティウチは釈放要求に応じた為、軍艦「エ
ロワース」はダナンを去っていきます。
1845年に一旦、釈放されたルフェーヴル宣教
師はシンガポールから秘密裏に南部ベトナムに
戻り、布教活動をしていましたが、デュクロ宣教
師(Duclos)と共に再び逮捕され、フエに送られ
投獄されます。
最初に2人の宣教師の釈放を要求したのはアメ
リカ軍艦USS Constitutionの艦長パーシヴァル
(John Percival)でしたが、失敗に終わります。
しかしパーシヴァルはフランス艦隊のセシール提
督にこの事態を知らせます。

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パーシヴァル艦長

3月23日  <フランス軍艦の最初のベトナム攻撃>
フランス艦隊提督セシールはフエで再びルフェー
ベル宣教師が収監されていることを知ります。

セシール提督は2つの軍艦をダナンに派遣しま
す。
ラピエール(Augustine de Lapierre)極東艦隊
司令官率いる54砲門を備えた旗艦「グロワー
ル」がダナン港に入港し、すでに入港していたリ
ゴール・ド・ジェヌイ(Charles Rigault de
Genouilly)率いる24砲門「ヴィクトリユーズ」と
合流し、予告なしにいきなりベトナム艦船の攻撃、
投獄されているルフェーベルとデュクロの2宣教
師の解放とベトナムでのカトリック教の布教の自
由を要求する書簡を皇帝に届けるよう要求しま
す。

フエ宮廷はルフェーベルのベトナムへの再侵入
はフランスによる意図的な挑発と考えていて、釈
放に応じる考えはありませんでした。

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リゴール・ド・ジェヌイ


4月14日
皇帝からの返答を待っている間に、ベトナムの
帆船がフランス軍艦に近づいてきました。岸に造
られた要塞にはベトナム兵が集結しているのを
見たフランス軍はこの事態をベトナム側の挑発
だと勘違いをしてしまいます。

4月15日
そして翌日「トゥーラン(ダナン)の戦い」と呼ばれ
ている海戦がフランス艦隊とベトナム海軍との間
で勃発しました。
戦闘は6隻のベトナム側コルベット艦船が2隻の
フランス艦船に発砲することから始まりました。
海戦は2時間に渡って行われ、フランス艦船は
ベトナム艦船3隻を撃沈、1隻に大ダメージを与
えて引き揚げていきます。この戦いでベトナム側
は1200人が戦死しました。

フランス側の説明によれば、「ベトナム側は交渉
を引き延ばして軍事体制を整える時間稼ぎをし、
予告無く突然攻撃してきた」となっています。

フランスの歴史学者によればティウチ帝はフラン
スの干渉に憤慨し、フランス将校を宴会に招い
て殺害し、その後奇襲攻撃によって艦船を沈没
させる計画でしたが、ラピエール司令官が招待
を拒絶した為、奇襲攻撃を実行したとあります。

しかしベトナムの海軍力ではフランスの武力攻
撃には歯がたたず、なすすべがありませんでし
た。

ルフェーベルとデュクロの2宣教師はこの海戦後、
解放されています。
フランスによる砲艦外交はベトナム侵略、植民
地化の前触れでした。

10月4日 
「すべての外国人を死刑にせよ」と言い残してテ
ィウチ帝は死去してしまいます。


<第4代皇帝トゥドゥック帝の時代>1847年~1883年

22


1857年

1月25日
フランス使節のモンティーニがダナンに来てグエ
ン朝との会見を要求するが失敗に終わります。

ティウチ帝の後を継いだトゥドゥック帝は先帝の
ティウチ帝が緩和したキリスト教政策に対して再
び強硬政策に転じ、フランス人宣教師2名を処刑し
ていましたが、1857年にはスペイン人宣教
師2名も処刑してしまいます。
このスペイン人宣教師2名の処刑がフランスが
ベトナムを侵略する直接の原因になりました。

1858年
7月
トゥドゥック帝「ベトナム人のキリスト教徒は死刑
にせよ」との勅令を発する。

グエン朝との外交交渉失敗をうけて、フランスの
ナポレオン3世はキリスト教布教の自由、通商
の自由、宣教師に対する損害賠償を求めてベト
ナムに遠征軍を派遣することを決定し、中国沿
岸に展開していたフランス艦隊をベトナムに向か
わせました。

同時にスペインとも同盟を結んで、フランス・スペ
イン連合軍(フランス艦隊13隻とスペインの軍
船1隻)を結成し、3000人の兵士を乗せて、ダ
ナンに入港します。
連合軍と言ってもスペイン軍は当時スペインの
植民地であったフィリッピンから軍艦1隻を派遣
したに過ぎません。

ナポレオン3世の目的は、宣教師の迫害を大義
名分にしてダナンおよび首都フエを攻略してグエ
ン朝を屈服させることにありましたが、最終的に
この目的は果たせませんでした。

8月31日
連合軍はダナン沿岸の砲台を砲撃後、上陸し2
つの要塞を占領します。
フエ宮廷も2000人の兵士をダナンに送り防戦
しますが形勢は不利で、フエ宮廷軍の将軍は
次々に戦死していきましたが、司令官に任命さ
れていたグエン・チ・フォンは土塁を造り、フランス
軍の更なる進軍を食い止めました。

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グエン・チ・フォン

フランス軍は当初の戦いでは優勢でしたが、兵
士が8月の暑熱で病気にかかるものが多く、進
軍がはかどらず戦線は膠着状態になっていきま
した。


24
ダナン港

フランス艦隊は膠着状態のダナン戦線からの侵
略を諦め、新たに南部ベトナムのメコン川からの
侵略を本国政府へ連絡し、ダナンに守備兵を
残し、南下していきます。

1859年

2月18日
フランス・スペイン連合軍は南進しジャーディン
(サイゴン)に向かいます。ブンタオ岬を制圧した
フランス軍はジャーディン城に向かい、城内の米
貯蔵庫を焼き払います。
続いてサイゴン川を遡り、ビエンホア(Biên Hòa)、
ジャーディン(Gia Định)、ディント
ゥオン(Đinh Tường)
の3省に進軍して行きます。

6月
フランスはグエン朝に和議を提案しますが、フエ
宮廷は和議に反対する勢力も多く、結論が出ま
せんでした。

しかしこの時期、中国では「アロー戦争(第2次
アヘン戦争)」が勃発しており、フランス軍はイギ
リス軍に加勢するため、サイゴンに800名の守
備隊を残して、ダナンからは一旦撤退し、艦隊
は中国の広東方面に向かいます。

アロー戦争は、1856年~1860年にかけて中
国清朝とイギリス・フランス連合軍との間で起こ
った戦争で、英仏連合軍が勝利します。

1860年

アロー戦争が終結すると、フランスの艦隊指揮
官はジェヌイ提督からシャルネ提督に代わり、再
び17隻のフランス艦隊がコーチシナに戻ってき
ます。


1861年

2月21日
シャルネ提督に率いられたフランス軍4,000名
の兵隊がサイゴンに再上陸し、サイゴン郊外の
キーホア(K y Hôa)陣地を攻撃します。このキー
ホア陣地にはグエン・チ・フォンを指揮官としてベ
トナム軍兵士12,000名が布陣していました。

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キーホアの戦い(イラスト)
キーホアは現在のホーチミン市10区にありま
す。

2月26日
戦闘が開始されるとキーホア陣地は要塞といっ
ても壁があるだけでしたから、フランス軍の砲撃
でボロボロに破壊されてしまい、グエン・チ・フォン
も負傷し、ベトナム南部の防衛線は破壊されて
しまいます。

その後、フランスは講和条件を提示しますが、フ
エ宮廷が拒否した為、軍事行動を継続します。

4月12日
フランス軍は、ディントゥオン、ミトー、ビエンホア、
タイニンと進軍し、次々と占領していきます。

10月
フランス軍指揮官はシャルネ提督からボナール
提督に代わります。そしてバリア、ビンロンが制
圧され、ベトナムのドンナイから南の地域はすべ
てフランス軍に占領されてしまいます。
フランス軍艦は首都フエに向かいます。



1862年

当時トンキン地方で発生した飢饉とそれに続く
反乱などで、南方のサイゴンより穀倉庫としての
トンキン地方の確保を優先したグエン朝はフラン
ス軍との講和交渉を行います。

6月5日
フエ宮廷は外交部門の責任者ファン・タイン・ジ
ャン(潘清簡)とラム・ズイ・ヒエップ(林維浹)を
中心とする使節団をサイゴンに派遣し、戦闘が
停止されボナール提督との間で講和条約が結
ばれます。この条約は「第1次サイゴン条約」と
呼ばれています。

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ファン・タイン・ジャン

<第1次サイゴン条約(=壬戌条約)の内容
1.ジャーディン、ビエンホア、ミトーとコンダオ島を
割譲する。
2. フランス及びスペイン両国民によるキリスト教
布教の自由を認める
3.ツーラン(ダナン)・バラット・クァンイエンの3港
を開港し、自由に通商することを認める。
4. メコン川の通商・航行の自由を認める。
5. フランス,スペイン両国に対して,10年間で
に2千万フラン(現在価格で約34億5000
万円)の賠償金を支払う。
以上の内容などを含む全12項目が定められま
した。

フランスはサイゴンにコーチシナ総督府を設置し、
初代総督にはグランディエールが任命されます。

ベトナム植民地化への屈辱的な歴史の始まりで
す。条約は翌1863年4月にフエで批准調印さ
れます。

フランスに植民地化された原因が、外国勢力の
力を借りたザーロン帝の責任なのか、鎖国政策
をとって外国の進んだ産業をとり入れずに国力
を削いだミンマン帝なのか議論が分かれていま
す。
ベトナムの現政権はザーロン帝を好みません。現在
のリートゥーチョン道路はザーロン(南部発
音はヤーロン)道路だったのですが、サイゴン陥
落後に改名されてしまいました。
一方、北部ベトナムの反乱が一段落すると、グ
エン朝はサイゴン条約の見直しを求めてフランス
と再度交渉するためにファン・タイン・ジャンをフラ
ンスに派遣します。

ファン・タイン・ジャンは、フランスでの交渉で「賠
償金を支払えば領土の一部を返還してもよい」
という譲歩をフランスから引き出す事に成功しま
す。
渡仏中にファン・タイン・ジャンはフランス文明に
触れ、ベトナムの現状ではとてもフランスに対抗
できないことを悟ります。

当時のベトナムには西洋文明の情報は皆無に
等しく、中華思想がすべてでした。

ファン・タイン・ジャンはベトナムに帰り、トゥドゥッ
ク帝に交渉結果を報告しますが世界情勢に疎
く、儒教思想一本やりの教条的なトゥドゥック帝
は更なる譲歩をフランスに要求したため、フラン
スとの条約改定交渉が決裂し、フランスは直接、
地経営に乗り出すことを決意します。


1863年

1863年  <カンボジアの内紛と保護国化>
1861年2月、カンボジアで王位継承問題で内
紛が起こります。
ノロドムが王位につこうとした時に、王弟のシヴ
ォッタが反旗を翻します。そのためノロドムは王
冠を持ってタイに逃げる事件が起こりました。

1862年2月ノロドムは、タイの援助でカンボジア
に戻りますが、王冠は担保としてタイに残されま
す。このノロドムにフランスが接触を開始し、カン
ボジアを保護国にしようと企みます。

1863年ベトナムとタイに侵略されつつあったカ
ンボジアはフランスに援助を求め、フランスとカン
ボジアの間で保護条約が締結され、カンボジア
はフランスの保護国になります。

しかしカンボジア国内ではシャムの支援を受けた
反乱が続いており、フランスはこの反対勢力を
排除するためにコーチシナ西部三省への通行
権をグエン朝に要求します。


1867年

コーチシナ総督はトゥドゥック帝に対しサイゴン
条約を守らず、割譲した土地を取り戻そうと秘
密裏にベトナムのゲリラを支援しているとクレー
ムをつけます。

しかもカンボジア国内ではシャムの支援を受けた
反乱が続いており、フランスはこの反対勢力を
排除するためにカンボジアへの通過点として必
要なコーチシナ西部三省の割譲をグエン朝に迫
ります。

トゥドゥック帝は西部三省の割譲要求を拒否、
するとフランス軍はわずか2000名たらずの兵力
で威嚇することによって、コーチシナの西部三省
チャドック(Châu Đốc)、 ハティエン(Hà Tiên)、
ヴィンロン(Vĩnh Long)の3省をフランスの支配
下におきます。

コーチシナ(=ベトナム南部全域)を占領したフラ
ンスの目的の一つは、メコン河を遡行して、カンボ
ジア・ラオス、さらに雲南に至る交易路を開くこと
でした。

コーチシナ全域の植民地化に成功したフランス
はメコン河を利用した中国への通商ルート開発
を推進します。

フランスは1866年から海軍将校で探検家のド
ゥダール・ドゥ・ラグレに率いられたフランス海軍
探検隊がメコン河の内陸水運の可能性を調査
するためメコン河探険を行なっていましたが、メコ
ン河中流は急流および岩礁、コーン瀑布などの
障害にぶつかり、通商路としては不適格であると
断念します。

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カンボジアのアンコールワットでのラグレー隊長

そして雲南からベトナム北部に流れる紅河こそ
が雲南への交易路として最適であることを発見
します。


1873年  商人デュピュイとガルニエ事件

19世紀半ばからヨーロッパに侵略されていく中
国に、新しい一攫千金の機会を見て取る多くの
ヨーロッパの冒険家的商人が中国に飛び込んでいきました。

フランス商人ジャン・デュピュイ(Jean Depuis 
1829~1912年) もその一人で、1861年以
降、漢口(武漢)を本拠に貿易に従事していまし
た。

1868年、回教徒をはじめとする大規模な反乱
が続いていた雲南で武器需要があることを知っ
たデュピュイは1868年雲南に入り武器供給を
雲南提督 馬如竜に約し、1872年暮、雲南と
の通商のため、船隊をひきいてハノイに上陸し、
ベトナム官憲の制止にもかかわらず、紅河を遡
行しそのまま雲南に向かい武器を売り渡して巨
利を得ました。

このため1873年4月、雲南からハノイに戻った
デュピュイの一行とベトナム官憲の間に紛争が
生じます。

さらにデュピュイは雲南に塩をも売り込もうとしま
したが、塩はフエ宮廷が専売権を持っており販
売を禁ぜられたため、フランスとフエ宮廷間の争
いが大きくなり、1873年末いわゆる「ガルニエ事
件」を引き起こすことになります。

フランスのコーチシナ総督デュプレーは、フランス
側の求める紅河通航権獲得交渉のため、187
3年11月海軍大尉フランシス・ガルニエを派遣
します。

28_20131201213425358.jpg
フランシス・ガルニエ

11月20日  第1次トンキン(北部ベトナム)
攻略

ガルニエは強硬に紅河の開放を要求しましたが
ベトナム側の代表グエン・チ・フォンはこれを拒否。
ガルニエはこれ以上の交渉を無効と考え、武力
を用いてハノイをはじめとするトンキン各地を占
領しました。

12月21日
グエン朝に帰順していた黒旗軍が南下しガルニ
エの部隊を襲撃。ガルニエは、ハノイ南西のカウ
ザイ(Cau Giay)の戦いでで戦死してしまいます
(ガルニエ事件)。

29
黒旗軍を率いた劉永福
Lưu Vĩnh Phúc (ルゥ・ヴィン・フック)
生没年1837年~1917年

劉永福は現在の広西チワン族自治区生れで広
西省と雲南省の辺境地方で清朝に反抗する武
装組織黒旗軍を組織していたが、後に清朝や
グエン朝の依頼をうけて、フランス軍と戦いました。

30
カウザイ(Cau Giay)の戦い


1874年  第2次サイゴン条約

普仏戦争の敗北直後で植民地政策に消極的
であり、ジャン・デュピュイの計画にも支援をしな
かったフランス本国政府側はその善後処置とし
てフランス兵をトンキンから撤退させるとともに、
フィラストルを派遣しグエン王朝との和平を図ら
せます。

こうして、フランスはベトナム北部の武力侵略を
放棄する代わりに、紅河航行権と主要都市の
駐在権を獲得する第2次サイゴン条約を締結し
ます。

3月5日
第2次サイゴン条約(=フィラストル条約=甲戌
条約)が締結されます。

第2次サイゴン条約の内容
フランスは左の事頃を承認した。
1.アンナン、トンキンの独立を承認する
2.その領土保全及び国内秩序維持のために
必要な援助をなす
3.トンキンに軍艦5隻,大砲100門,小銃10
00挺を無償供与する
4.アンナンの軍隊,艦隊,財政及び教育再建
のために,必要な士官,技術者及び教援
を派遺する

フエ政府は左の事項を承認した。
1.フエ政府は対外政策をフランスの政策に
一致させる。
2.コーチシナ6省に対するフランスの完全な主
権を承認する。
3.カトリックの布教及び信仰の自由を認める。
4.キノン,ハイフォン,ハイノの開港及びソンコ
イ河(紅河)航行の自由を認める。
5.各地における領事館の設置及び護衛兵の
駐屯を認める。


1882年  トンキン占領

フランスは北部ベトナムの占領を諦めたわけでは
ありませんでした。北部ベトナムから撤退してい
たフランスは
紅河を遡行していたフランス人がラオカイで黒旗
軍に阻止される事件が発生すると、コーチシナ
提督ル・ミル・ド・ビレルは甲戌条約違反を問責
するためアンリ・リビエール海軍大佐をハノイに
派遣します。

31
アンリ・リビエール

ハノイに到着したリビエールは外交交渉を無益
と判断し直ちに軍事行動に着手、ハノイを占拠
します。

トゥドゥック帝の救援要請を受けた清朝はベトナ
ムの宗主国としてトンキン地方に出兵、黒旗軍
もソンタイ(山西)を拠点としてフランス軍と対峙
します。

交戦の結果は黒旗軍がフランス軍を撃破、リビ
エールも戦死してしまいます。この敗戦を受けた
フランス政府はベトナム征伐の軍を派遣すること
を決定し、グエン朝とフランスの間での緊張が一
気に高まります。


1883年

7月16日
トゥドゥック帝が死去します。
トゥドゥック帝には子供が無かったので。3人を養
子にしていました。3人とも皇帝になりましたが、
3人とも在位は短期間で餓死、毒殺されてしま
います。
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