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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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トゥ・ドゥック帝 その1
トゥ・ドゥック帝 その1

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Tự Ðức 嗣徳帝
グエン朝第4代皇帝
生没年 1829年~1883年9月19日
在位 1847年~1883年9月19日
父      第3代皇帝紹治帝

トゥドゥック帝はグエン朝の第4代皇帝として18
歳で即位。
先帝の治世で緩和されていたキリスト教弾圧を
再度強化したため、1858年のフランス・スペイン
連合軍のダナン侵攻を皮切りに、ベトナムがフ
ランスに侵略され、植民地になってしまう歴史で
す。

記事がたくさんあって一度に記述できませんので、
トピックをひとつずつまとめ、最後にまとめ上げま
す。

<その1  皇位をめぐる反乱>

先帝のティウチ帝は遊んでばかりいた長男のホ
ンバオ(Hồng Bảo)を退けて、次男のフオックトゥ
イ(PhươcTuy=トゥドゥック帝)を後継者に遺言
しました。

ホンバオは壁に何度も頭をぶつけ怒り狂いまし
たが、ティウチ帝の命令で官僚達に宮廷内で軟
禁状態にされていたため、どうしようもありません
でした。しかし彼の心の中では王位を奪還する
陰謀が芽生えていました。

1847年
ホンバオの最初の反抗はフオックトゥイの戴冠式
でティウチ帝の遺言書になかなかサインしません
でした。しかし官僚達に促されていやいやサイン
します。
ホンバオはその後も宮廷内にとどまり、ハーレム
の生活を続けます。


1850年
ホンバオはベトナム人カトリック信者達に、もし彼
が皇帝になったら多くの賞品を与えることを条件
に、彼をサポートするキャンペーンを策略しまが、
信者達は彼の話を聞こうともせず、ユートピアの
ような約束も信じませんでした。


1851年
ホンバオはトゥドゥック帝を廃位に追い込む為の
方策を見つける為に、秘密裏に西洋人に使者
を送りますが、発覚してしまいます。
しかしトゥドゥック帝は兄弟愛からホンバオに恩
赦を与え、牢屋には入れませんでした。

それでもホンバオは彼の野望を諦めませんでし
た。

1853年
宮廷内の数人の官僚と計って彼の野望を実現
する為にカンボジアにいる西洋人に協力を求め
る使者を送ります。

しかし宮廷の最高軍事顧問グエンティフォンによ
って使者は全員捕らえられしまいます。
ホンバオにはもはや弁明の余地は無く、牢屋に
入れられます。
宮廷官僚達はホンバオが皇帝の兄であることか
ら慎重に討議しましたが、結論は死刑宣告でし
た。
しかしトゥドゥック帝はホンバオを死刑から無期
懲役に減刑し、重労働を課します。
望みを失ったホンバオは牢屋で首吊り自殺をし
たとも、毒を飲んだともあります。

ホンバオの息子ウンダオ(Ưng Đạo)は名前を
母方の氏名、ディンダオ(Đinh Dạo)に変えざる
を得ませんでした。

トゥドゥック帝の心の痛みは時が経過するしか癒
せませんでした。


1866年
しかし13年後の1866年, ディンダオの3人の
兄弟ドアンチュン、ドアンチュック、ドアンフーアイ
「Đoàn Trưng, Đoàn Trực, Đoàn Hữu Ái」
が結束してディンダオを皇帝に就けるための蜂
起が起こります。

この蜂起でトゥドゥック帝は危うく命を落としそうに
なり、フエ王宮を震撼させた反乱でした。

ドアンチュンは勉強家で知的だったため、科挙の
試験には合格していませんでしたが、トゥドゥック
帝の叔父トゥンティエン(Tùng Thiện)によって
認められ、宮廷の官僚になりました。

ドアンチュンは宮廷でだんだんと政治的な野望を
持つようになります。彼は弟にあたるTrương
Ngọc Hòa, Phạm Lương と共に、他人の目
を避ける為に 「サントゥンワインクラブ」という名
目で政治団体を創っていました。目的はディンダ
オを皇帝にする為の蜂起です。

彼らはしばしば「Pháp Vân Pagoda」に集まり、
行動計画を話し合っていました。彼らは同志を
増やすために、ディンダオがもうすぐ皇帝を引き
継ぐとのウワサを流し宣伝工作をします。そして
武器を購入し、兵士を養成します。

ドアンチュンはPháp Vân Pagodaの数人の僧
侶や宮廷内の軍事官僚Tôn Thất Cúcを味方
に付け、蜂起準備は順調にすすみ、後は来るべ
き蜂起の時期を待つばかりでした。

そしていよいよ蜂起の時期がやってきます。

それはトゥドゥック帝の陵墓を造営している時で
した。
トゥドゥック帝の陵墓建設は「千年の陵墓」と呼
ばれ、広大な敷地に建設されていましたが、建
設にたづさわっている兵士や労働者からは、チャ
ットとサ(Nguyễn Văn Chất と Nguyễn Văn
Xa)という2人の工事監督者が情け容赦なく過
酷な労働をしいていたので、不満が噴出してい
ました。
”千年の陵墓!。あの壁は兵士の骨で出来てい
る。壕も労働者の血で一杯だよ“

ドアンチュンはこの機会を逃しませんでした。

彼の10人余りの政治団体本部は「Pháp Vân
Pagoda」で行われる3日間の仏教儀式の期
間に兵士を集め、最終日の1866年9月8日に
ドアンチュン軍は「千年の陵墓」に向かい、兵士
や労働者に蜂起を呼びかけ、監督者のチャット
とサの追放を目論見ます。
チャットはその場にいませんでしたが、サは逮捕
されてしまいます。

ドアンチュン軍の呼びかけには約1000人が同
調して、あっという間に大部隊になりました。部
隊は3小隊に分割されてフエ宮殿へと猛進しま
す。

この時の部隊の武器は陵墓建築時の道具でし
たが、特にモルタル棒が多かったので、軍団は
「モルタル武装反乱軍」(Mortar Pestle
Armed Rebellion)と呼ばれました。

フエ王宮まで特に行軍を邪魔されることなく、王
宮の午門にたどり着きます。宮廷内の協力者だ
ったTôn Thất Cúc によって午門は開けられて
いました。

大和殿を占領する前に軍団はトゥドゥック帝が
住む宮殿の隣にある王宮劇場を占拠します。宮
廷軍隊はじりじり後退していましたが、しかしその
時、ドアンチュン軍のおおきな作戦ミスが発生し
ます。

ドアンチュン軍は皇帝にするディンダオを運び出
す為に、皇帝の乗る籠に数人の兵士をつけて
迎えに行きます。

この時間が宮廷軍に反撃の準備時間を与えて
しまったのです。宮廷軍司令官ホアイ(Hồ Oai)
は宮廷軍、官僚、官官を集め、叱咤激励して反
撃に転じます。

「モルタル武装反乱軍」は打ち破られ、ちりちり
ばらばらに逃げていきます。

ドアンチュン、ドアンチュックは捕獲され、ドアンフ
ーアイは自害しました。その後まもなく逃げ延び
ていた反乱軍の族長達もそれぞれの村で捕まり
ます。

反乱首謀者ドアンチュン、ドアンチュックの処刑
はみじん切りにされる処刑でした。ディンダオとそ
の一族8人も処刑されました。
ドアンチュンの能力を認めて、宮廷に住まわせた
トゥドゥック帝の叔父トゥンティエンは高齢で痴呆
症だったので8年間の無給刑が与えられました。

トゥドゥック帝は自分の王冠を守る為にホンバオ
とディンダオの2人を失ったことにひどく落胆して、
霊廟の名称を「千年の陵墓」から「ささやかな
(Khiêm)陵墓」)と改称します。

霊廟はこの年、1867年に完成しますが、霊廟
を構成する建物、周囲の山々や池などの呼称
にはすべてKhiêmという文字が入っています。
しかし離宮も兼ねていたこともあって、その敷地
面積は初代皇帝ジャーロン帝の10倍もあり、ま
ったくささやか=Khiêmではありません。
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