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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ティエウチ帝 その1
ティエウチ帝

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Thiệu Trị (紹治帝 )
Nguyễn Phúc Miên Tông
グエン朝の第3代皇帝
生没年 1807年6月16日-1847年10月4日
在位 1841年2月11日-1847年10月4日
父    明命帝(長男)
母    Hồ Thị Hoa皇后

ティウチ帝は性格が温和で、父親のように行動
的ではありませんでした。
国の統治に必要な知識はすべて先代のミンマン
帝から授けられ、決裁は前例に従って行ってい
ました。

新しい事柄については側近として補助していた6
人の高級官僚(Trương Đăng Quế, Lê Văn
Đức, Doãn Uẩn,Võ Văn Giải, Nguyễn Tri
Phương、Lâm Duy Tiếp)の合議に基づて決
裁していました。

<詩人>
ティウチ帝の顕著な業績は「詩人としての皇帝」
と言われるぐらい数百の詩を残しているそうで
す。

5文字の漢字で書かれた2つの詩が現存してお
り有名です。
Cảnh trong mưa 雨中の風景
Đêm thơ ở Phước Viên フックビンでの詩の夜

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ティウチ帝の詩

彼は宮廷内に非公式の「詩人クラブ」を創設し、
このクラブには18名の親族と高級官僚がメンバ
ーになりました。
そして宮廷の敷地内に、皇帝自らが設計した
「Cơ Hạ Royal Gardens」と名付けられた庭園
を造成して歌会を楽しんでいました。

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ティウチ帝の直筆

<貨幣の鋳造>
ティウチ帝は1841年の先帝のミンマン帝と同
様に「紹治通宝」とよばれる大銀銭を発行しまし
た。大きさや重量は「明命通宝」と同じです。
「明命通宝」と「紹治通宝」の裏には儒教の文
言が刻印されているのが特徴です。

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紹治通宝

グエン朝の頃からは銀が国際貿易の決済手段
として使われました。金貨もごくわずかですが鋳
造されています。

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ティウチ帝時代の金貨

<キリスト教の弾圧とフランス艦隊の侵略の始まり>
ティウチ帝になってもキリスト教は禁止されてい
ましたが、ティウチ帝自身はフエに集められてい
たキリスト教宣教師を弾圧するようなことはあり
ませんでした。
しかし裁判所はキリスト教にたいして同情的では
ありません。
1840年6月28日―1842年8月29日  
<アヘン戦争の影響>
イギリスが中国、清朝とのアヘン戦争に勝利し、
南京条約で香港を割譲させ,多額の賠償金を
獲得したのを見たフランスはインドシナ政策を武
力制圧も辞さない態度に変化させます。

1843年
フランスの外務大臣フランソワ•ギゾー
(François Pierre Guillaume Guizot)は東洋
でのイギリスとの均衡を図ることを大義名分とし
てベトナムでのキリスト教宣教師の保護を目的
にセシール(Jean-Baptiste Cécille)提督、シャ
ルネ(Léonard Victor Joseph Charner)
艦長、ドラグルネ(Théodore de Lagrené)外
交官を乗せた艦隊をインドシナ周辺海域に送り
ます。

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フランスの外務大臣フランソワ•ギゾー

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セシール提督

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シャルネ艦長

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Théodore de Lagrené外交官

この艦隊はフィリピン諸島のバシラン島を占領
しようとしますが、すでにフィリピンを植
民地にしていたスペインの猛反対にあって
占領を諦めます。

フランスのこの動きは、1842年にアヘン戦争に
勝利した英国の成功に反応した行動で、フラン
スもまたベトナムを通過して南から中国との貿易
路を確保したかったのです。

1845年
パリ外国宣教会のフランス人宣教師、ドミニク•
ルフェーべル(Lefèbvre 1810年-1865年)
は1835年にキリスト教の布教が禁止されてい
たベトナムに到着し、布教活動をしていましたが、
1845年, セシール提督はルフェーヴルが投獄
され死刑を宣告されていることを知り、司祭の釈
放要求のため軍艦Alcmèneに乗ってダナン港
に向かいます。

ベトナムでの彼の投獄は最初のフランス海
軍のベトナム介入の口実をつくりました。

ルフェーべルは釈放され一旦はシンガポールに
向かいましたが、また密かにベトナムに入国して
布教活動をした為、再び投獄されてしまいます。

1847年
2月26日
ファヴァン・レヴェック(Favin Lévêque)船長が
指揮する軍艦「エロワース」がダナンに再入港し、
死刑を宣告されていたフランス人宣教師5人の
釈放を要求します。

レヴェックの船は1945年にもダナンに入港して
おり、地元のベトナム人はヘロインが積まれてい
るとしきりに噂さしていました。

3月16日  
皇帝ティウチは釈放要求に応じた為、軍艦「エ
ロワース」はダナンを去っていきます。

3月23日    
<フランス軍艦の最初の攻撃>
フランス軍提督はセシールはフエで再びルフェー
ヴル宣教師が拘束されたことを知ります。セシー
ル提督は2つの軍艦をダナンに派遣します。ラピ
エール(Augustine Lapierre)極東艦隊司令
官率いる旗艦「グロワール」がダナン港に入港し、
すでに入港していたリゴール・ド・ジェヌイ
(Rigault de Genouilly)率いる「ヴィクトリユー
ズ」と合流し、投獄されているルフェーヴルとデュ
クロの2宣教師の解放とベトナムでのカトリック
教の布教の自由を要求する書簡を皇帝に届け
るよう要求します。
しかしルフェーヴル宣教師はすでに釈放されてお
り、シンガポールに向かっている途中でした。

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リゴール・ド・ジェヌイ

4月14日
皇帝からの返答を待っている間に、ベトナムの
帆船がフランス軍艦に近づいてきて、岸に造ら
れた要塞にはベトナム兵が集結しているのを見
たフランス軍は、この事態をベトナム側の挑発、
陰謀だと勘違いをして、帆船5隻に発砲し、撃
沈させてしまいます。

翌15日には「トゥーラン(ダナン)の戦い」と呼ば
れている海戦がフランス艦隊とベトナム海軍との
間で勃発しました。
海戦は2時間に渡って行われ、フランス艦船は
ベトナム艦船4隻を撃沈、5隻に第ダメージを与
えて引き揚げていきます。
ベトナム側は1200人が戦死しました。
ティウチ帝はフランスの行動に怒り憤慨したもの
の、フランスの武力攻撃には歯がたたず、なすす
べがありませんでした。

フランスによる砲艦外交はベトナム侵略、植民
地化の前触れでした。


<ティウチ帝の死去>
10月4日    
「すべての外国人を死刑にせよ」と言い残してテ
ィウチ帝は死去してしまいます。

<後継者>
ティウチ帝の長男は第一婦人のPhạm Thị
Hằngの子供ではなく、第3婦人の子供でホン
バオ(Nguyễn Phúc Hồng Bảo)と言い、遊んで
ばかりいて、勉強そっちのけでギャンブルばかりし
ていました。ティウチ帝は何回も叱りましたが、な
おりませんでした。

ティウチ帝は臨終に際して、戴冠時から仕えて
いる高級官僚4人(Trương Ðăng Quế, Võ
Văn Giải, Nguyễn Tri Phương, Lâm Duy
Hiệp)を呼んで、長男ではなく次男のHồng
Nhậmを後継者にするよう遺言し、遺言を守るよ
う厳命します。

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最高位の官僚の1人グエン・チ・フォン
(Nguyễn Tri Phương)

怒ったホンバオは皇帝に懇願しましたが、もはや
ティウチ帝は何も答えませんでした。

ホンバオの即位を防止し、Hồng Nhậmの即位を
実施する為、軍隊が派遣され、ホンバオの即位
は実現不可能になります。その後もホンバオは
宮廷に残りハーレムの生活をし続けました。
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