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ミンマン帝 その2
3.ミンマン帝治世の反乱

初代皇帝ザーロン帝がグエン朝を建国した
時、国内は長い戦乱によって荒廃しており、
国土の復興が急務でした。その過程で北部
や中部で生活苦から反乱が起きましたが、
ザーロン帝は南部総鎮のレヴァンズエット将
軍を呼び返し、反乱を鎮圧しました。

ミンマン帝になってからは中央集権体制をと
り、地方には中央政権から官吏を派遣し治
めさせましたが、中央から赴任した官吏は北
部では圧政を引き、南部では南部特有の世
情を理解せず、ザーロン帝の治世より大規
模な反乱が起きました。

いずれも首謀者は前政権黎朝の子孫やそ
の関係者でしたが、ザーロン帝が強化した朝
廷の軍隊によって1838年には国内の反乱
はすべて鎮圧されてしまいます。

1.レ・ズイ・ルンの反乱
2.レ・ヴァン・コイの反乱
3.ノン・ヴァン・ヴァンの反乱




1.レ・ズイ・ルンの反乱
Lê Duy Lương(黎維良)
反乱期間 1833年3月~1838年中頃
場所 ハノイ近郊のホアビン省、タインホア省
を中心とした北部ベトナム

レ・ズイ・ルンはグエン王朝ミンマン帝に対し
てホアビン省全域で反乱を起こしたリーダー
です。彼はグエン王朝の成立と共に滅びた
黎朝Le Hien Tong 皇帝の孫にあたる直系
の子供です。

1832年2月
レ・ズイ・ルンは中央政府からゲアン省に着
任していたTrần TứとĐỗ Bảoという二人の
将官をクーデターによって殺害し、将官の部
下と兵士は北部へと逃亡していきます。

1833年
3月
クーデターの成功により、本格的な反乱がホ
アビン省で始まりました。
レ・ズイ・ルンは紅河デルタで暮らす貧しい
人々を救う為ホアビン省のタックビ(Thạch
Bi )やソンタイ(Sơn Tây)のディン一族のリ
ーダーたちに約3000の兵士を組織させ、武
装蜂起しました。兵士のほとんどはムオン
(Mường)族、Lạc Hóa族, Phụng Hóa族で
した。

ミンマン帝はすぐさま反乱の起きたホアビン
省の隣の省、ニンビン省に2000人の兵士と
5頭の象を乗せた軍艦を派遣します。

4月
ミンマン軍はハノイに兵を進め、さらに軍隊を
増派し、反乱軍の本拠地であったSơn Âm
を陥落させ2度と黎朝の子孫が立ち上がれ
ないよう、徹底した虐殺を行います。

6月
捕獲されたレ・ズイ・ルンはフエに連行され、
投獄され阿呆扱いにされました。その後コブ
ラの部屋に閉じ込められ処刑されます。

1836年
3年後、レ・ズイ・ルンは処刑されたものの、
逃げ延びた反乱軍のリーダーはタインホア省
で再び反乱を起こします。

1838年中頃
再び反乱は鎮圧され、黎朝のグエン王朝に
対する反抗が終結します。

反乱軍の残党はクアンナム、クアンガイ、
ビンディン省に多少の金と土地を与え
られて追放されました。

2.レ・ヴァン・コイの反乱
Lê Văn Khôi(黎文魁)
本名 Bế-Nguyễn Nghê
父親 Nguyễn Hựu Khôi 養父Lê Văn Duyệt
反乱期間 1833年~1835年
場所 サイゴンを中心とした南部ベトナム

レヴァンコイの本名はBế-Nguyễn Nghêと
言い、家族はもともとカオバン地方の大家
族で、グエン朝に対して反乱を起こしていま
したが、タインホア省に逃亡した時にザーロ
ン帝が鎮圧のために送ったレヴァンズエット
の軍に降伏しました。

レヴァンズエットは敵ながら勇敢に戦ってい
たBế-Nguyễn Nghêを自分の養子にしよう
と、彼の名前をレヴァンコイと変え、養子縁
組をしました。
1832年
レヴァンズエットが病死すると、以前からレヴ
ァンズエットを苦々しく思っていた第2代皇帝
ミンマン帝は、すぐに南部ベトナムの行政機
構の変更に着手します。

中央集権体制を標榜していたミンマン帝は
南部を6省に分割し、中央政府から3人の
官僚を送り込みます。
Nguyễn Văn Quế   ゼネラルマネジャー
Bạch Xuân Nguyên   行政長官
Nguyễn Chương Đạt 監視役

1833年
新たに着任した中央政府の官僚はレヴァン
ズエットの業績を否定的に宮廷に報告しま
す。ミンマン帝はレヴァンズエットの墓に100
回の鞭打ち刑を命じ、一族に対しても迫害
をしました。

5月18日夜
養父への仕打ちに激怒したレヴァンコイは
ザーロン帝の長男グエンフックカインの子孫
を皇帝にしようと、地元の中国人の支持を
基盤に、フランス人の宣教師やベトナム人
信者、チャンバ族と共にミンマン帝に対する
反乱をおこし、レヴァンコイと27人の兵士は
行政府を襲い、Bạch Xuân Nguyên一家を
全員殺害、Nguyễn Chương Đạtは恐れを
なして逃亡してしまいます。
この反乱にはシャムのラーマ3世も支援しま
した。

Phiên An(藩安城 ザーロン城の旧名)城を
占拠したレヴァンコイはミンマン帝に退位を
迫りました。

そしてレヴァンコイはすべての囚人を解放し、
武器を与え、彼らを下級の臣下にして独立
した宮廷を成立させます。

ザーロン城を占領したレヴァンコイはThái Công Triều
にザーディン地方の4つの各鎮
を1カ月以内に占領することを命じ、南部ベ
トナムはレヴァンコイの支配下になります。

ザーロン城が陥落したことはTống Phúc
Lương, Nguyễn Xuân, Phan Văn Thúyらの
官僚によってすぐにミンマン帝に伝えられ、ミ
ンマン帝はTrương Minh GiảngとTrần Văn
Năngを大将とする海軍を鎮圧のために派
遣します。

レヴァンコイの反乱は3年近く続き、ミンマン
治世で最も大きな反乱となりました。

この反乱に呼応して北部ベトナムのトゥウィ
ン・クアン(Tuyên Quang)地方でもグエン王
朝に対してノンヴァンヴァンも蜂起します。

1834年
しかし、レヴァンコイは浮腫病にかかり、ザー
ロン城で死亡してしまいます。

1835年
レヴァンコイの息子 Lê Văn Cùは8歳だっ
たので、Nguyễn Văn Trắmが軍事司令官と
なり抵抗を続けましたが、ミンマン帝の差し
向けた軍隊によって鎮圧され、1835名が
処刑され、レヴァンコイの妻と一族は北部の
カオバンに送られました。


3.ノン・ヴァン・ヴァンの反乱
Nông Văn Vân (農文雲)
反乱期間 1833年7月~1835年3月(旧
暦)
場所 北部ベトナムの山岳地帯

この戦いはグエン王朝に対する山岳民族の
最も激しい反乱でした。

ノンヴァンヴァンは現在のカオバン省の山岳
地帯に住むタイ族(người Tày) の人で、ノ
ン・ヴァン家は18世紀の後期黎朝の北部ベ
トナムで盗賊の取り締まりをしていた家柄で
した。

長男のノンヴァンバット(Nông Văn Bật)はタ
イソン朝時代に村長に選ばれれ、長男の死
後は次男のノンヴァンヴァンが引き継ぎまし
た。

ミンマン帝の時代になるとTuyên Quang,
Thái Nguyên, Lạng Sơn, Co Bằngなどの
山岳地方で生活している民族の管理のため、
フエの中央政府からキン族官僚が任命され、
赴任してきます。

彼らは権力を傘にしばしば嫌がらせを行い、
土地の人々に嫌われ、人々は彼らを追放す
る機会を狙っていました。

旧暦1933年5月
ノンヴァンヴァンの子、レヴァンコイが養父の
処遇に対する不満から、ザーディン地方の
Phiên An(サイゴン) でミンマン帝に対して
反乱を起こします。

ミンマン帝は即座に軍隊を送り1935年に反
乱を鎮圧し、レヴァンコイの妻と一族はカオ
バンに連れて行かれ軟禁されます。

当時のカオバンの行政はPhạm Đình Trạc
が取り仕切っており、彼はノンヴァンヴァンの
子供2人、兄弟1人とレヴァンコイの親族14
人を拘束します。

ノンヴァンヴァンはその時、バオラック(Bảo
Lạc )で反乱を主導していました。

ノヴァンヴァンはすぐに各地の首長を集め、
反抗体制を組織したところ、6000人の抑圧
されていた人々が集まってきました。
ノンヴァンヴァンの最初の仕事はこの土地は
自分達のものだということを追跡してきた役
人に知らせることにありました。

旧暦7月2日、
ノンヴァンヴァンはバオラックに根拠地を置き、
トゥインクワンに防衛ラインを築きます。
ノンヴァンヴァンによる反乱は輸出の促進に
あったとする説があり、彼には欧米人のスタ
ッフが付いていました。

反乱を鎮圧する為、ミンマン帝は総司令官と
してSơn Hưng Tuyên、トゥイクワン地方鎮
圧の軍事司令官としてLê Văn Đức、ハイフ
ォン港の管理にNguyễn Công Trứを任命し、
数千人の兵士を結集してカオバン、ランソン、
タイグエン地方の反乱軍を包囲します。

しかし山岳地方の険しい地形のため、鎮圧
は困難を極め、ミンマン軍は一旦撤退しま
す。

1834年
トゥインクワン省のカオバンでは1000人以
上のノンヴァンヴァンの兵士がミンマン軍と戦
いますが、2月には敗北してしまいます。

3月、宮廷はNguyễn Mưuにタイグエン地方
の戦況を視察させた後、攻撃を仕掛けます。
ノンヴァンヴァン側は11月半ばから次第に
戦況が不利になっていき、カオバン、ランソン
からの逃亡が始まり始めます。

ノンヴァンヴァンも一旦は中国に逃亡し、バ
オラックに戻ってきて、軍隊を組織し再び抵
抗します。

1835年3月11日
ノンヴァンヴァンは宮廷軍との戦いに敗れ、タ
ムファ(Thẩm Pát)森の中に逃亡したところ、
森林に火とつけられ、焼死体となって見つか
りました。

ノンヴァンヴァン蜂起は長くは続きませんでし
たが、彼は同じ民族の首長と多数の人々を
結束させ巧みに攻撃と防御で険しい山岳地
形を活かして戦ったので、一部の研究者によ
ると、ノンヴァンヴァンは、才能豊かなリーダ
ーであったとされています。
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