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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ミンマン帝 その1


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明命帝(Minh Mạng
阮福晈
生年 1791年5月25日 ザーロン生まれ
没年 1841年1月20日 落馬して死亡し
ます。
初代皇帝ザーロン帝第2婦人の子で第4
子。

阮朝第2代皇帝
在位 1820年2月-1841年
グエン王朝の最盛期を築きました。
<主な話題>
1. 即位
2. 国内政治
   2-1 改名
   2-2 中央集権化
   2-3 儒学の復興
   2-4 コインの鋳造
   2-5 フエ宮殿の整備
   2-6 フランスへの対応
   2-7 キリスト教の禁止
   2-8 国号の変更
3.国内の反乱(別掲)
   3-1 レ・ズイ・ルンの反乱(北部)
   3-2 レ・ヴァン・コイの反乱(南部」 
   3-3 ノン・ヴァン・ヴァンの反乱(北
部)
4.対外政策
   4-1 チャンバ国の完全消滅
   4-2 ラオスとの国境防衛
   4-3 カンボジアの領土化
5.ミンマン帝の逸話(別掲)
6.ミンマン霊廟(別掲)


<1.即位>
1820年
ザーロン帝の長子カインはタイソン軍との戦
いの期間中に死亡したため、30歳であった
第4子のミンマン(第2子、3子は夭折)が皇
位継承者として遺言されました。

苦楽を共にした最高級の官僚であったレ・ヴ
ァン・ズエットはミンマンが第2婦人の子であ
ることから、猛反対をしましたが、反対を押し
切って皇位継承者にミンマンを選びました

ザーロン帝は即位の前年に死亡してしまった
皇太子カインの子はまだ若すぎるし、カイン
一家はキリスト教に改宗し、東洋人であるこ
とを忘れてしまったのではないかと心配してい
たという憶測があります。一方でカトリック聖
職者や信者がミンマンの即位には反対して
いるという事実にも気付いていました。

<2.国内政治>

<2-1 改名>
広南グエン氏もグエン王朝の皇室もグエン・
フック(阮福氏)の旁系であることから、ミンマ
ン帝はTrịnh Hoài Đức(鄭懷德 文学者)
やLê Chất(黎質 軍人)らと建議の上、グエ
ン・キム(阮淦 1468年生)からグエン・フッ
ク・トゥアン(阮福淳 1777年死)までの数
代のグエン・フック氏の旁系や子孫の姓をト
ン・タット氏(尊室氏)に改名することを下命
しました。

<2-2 中央集権化>
1831年
中国、清朝の制度に倣って官制改革を実
施し、フエに内閣を組織し、重要事項の審
議をさせるために枢密院を設置します。地方
は30省に編成しなおされ、中央集権化をは
かります。ミンマン帝は文官政治を目指しま
した。
中央集権化が本格的になったのは、南部総
鎮であった建国の功労者レ・ヴァン・ズエット
の死(1832年7月3日)の直前からでした。

しかし、中央集権化政策は、北部・南部双
方で反発を招き、北部では黎朝の子孫を称
するレ・ズイ・ルン(黎維良)の反乱、南部で
は南部総鎮レ・ヴァン・ズエットの養子レ・ヴ
ァン・コイ乱など、大規模な反乱をもたらしま
した。

<2-3 儒学の復興>
ミンマン帝は博学で、特に孔子や孟子を勉
強し、儒教に精通していました。16世紀、後
黎朝における儒教の黄金時代を復活させ、
この時代にはフエの官僚から著名な儒学者
ファン・タイン・ジャン(Phan Thanh Giản
潘清简)、Lê Quang Định(黎光定)、Trịnh
Hoài Đức(鄭懷德)らが輩出しました。

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ファン・タイン・ジャン

毎年春と秋には孔子を祭る大祭典を挙行し
ていました。

明命帝は7,8歳の子供の教育課程に関し
て、教師はまず忠義、孝行を教え、その後中
国儒家の経典である四書五經を読むことを
下命しています。

1835年、ミンマン帝は朱熹の「小学集注」
や「四書五経」を大量に印刷し、市中での印
刷や販売も許可したので、儒教の書籍がベ
トナム中で広く読まれるようになりました。

1839年、明命帝は中国清朝の道光皇帝
に中国語の辞書「康熙字典」を送ってもらう
よう要請し、学校教育、公文書、科挙の試
験には、チュノム(ベトナムの漢字)の使用は
認められませんでした。

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ミンマン帝の時代には《嘉定城通志》,《大南
實錄》などの歴史書も編纂されています。

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嘉定城通志
Gia Định Thành Thông Chí
1816年~1820年5月にかけて、グエン朝
の官僚兼学者であったTrịnh Hoài Đức
(鄭懷德)によって編纂された南部ベトナムの地
方志。

当時の南部ベトナムは嘉定城(ザーロン城)
を総鎮として藩安鎮、邊和鎮、定祥鎮、
永清鎮、河仙鎮の5鎮がありました。
この書にはこの地方の歷史沿革、地理、物
産、商業、交通、水利の状況や当地の華僑
の事跡が漢文で書かれています。

南部ベトナムに最初に中国人が入植した歴
史もこの書物に書かれています。
中国明朝が滅亡した際、広東省鎮守の総
兵官、楊彥迪とその副将、黃進らが、戦船5
0余隻に家臣3000人と引き連れて、現在
のダナン港近辺に現れ、広南グエン氏に亡
命を求めてきた。
「不肯臣事大清,南來投誠,願為臣僕。」

グエン朝官僚が編纂した《大南實錄》、《大
南一統志》などの文献は嘉定城通志を重要
な根拠としています。

学術上の価値の他、ミンマン朝以降、南部
の官職に任命された官僚はこの本を読んで
から赴任したという。

1862年、フランスは嘉定城を占領し、南部
ベトナムを植民地にし始め、フランスの軍人
探検家が南部ベトナムのメコン河に沿って探
検を始めましたが、その際の探検資料にもな
りました。

翌年の1863年にはフランス語に訳され、フ
ランスで出版されています。

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大南実録
Đại Nam thực lục
1811年ザーロン帝の下命により始められ、
ミンマン帝になってからは新たに設置された
国士舘に引き継がれ、阮文仁、鄭懷德らが
中心となって編集されました。
584巻あり、グエン王朝の公式の歴史書で
す。
最後の皇帝バオダイを除き12代皇帝、カイ
ディン帝までの歴代皇帝の実録を中心に各
階層の人物列伝が書かれています。

ミンマン帝の第10子Nguyễn Phúc Miên
Thẩm(阮福綿審)は中国語に堪能な詩人
で当時のベトナム第1の詩人として誉れ高く、
彼の詩は中国清朝の大臣に朝貢物のひと
つとしてしばしば贈られました。
そして官僚の育成と登用の為、建国当初よ
り行われていた科挙の試験に皇帝自らが試
験官となる「殿試」を加え、科挙試験を充実
させます。国史館を建て文芸を盛んにしよう
としました。

ミンマン帝は科挙制度により官僚が肥大化
し、官僚の腐敗が起きることも理解していま
した。

中国や西洋諸国の情報の収集を図り、技
術の移転を進めましたが、その後の排他的
政策により縮小されざるを得ませんでした。

ミンマン帝は欧州の文明をすべて排除したわ
けではなく、フエにいる宣教師にフランスの書
籍を翻訳させたり、蒸気機関車の製造をす
るように命じています。

また欧州で行われていた天然痘ワクチンを
宮廷で働く臣下に予防接種したり、フランス
人の家庭医を雇ったりしていますので、ミンマ
ン帝は当時の欧州の発展を理解していまし
た。

<2-4 コインの鋳造>
ミンマン帝の時代には銅銭の発行がありまし
た。
1833年に鋳造された「明命通宝」と呼ばれ
るもので、小銭と大銭の2種類あります。

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小銭

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大銭
背面には「四書五経」からの文字が彫られて
いて、大変貴重なものとされています。

<2-5 フエ宮殿の整備>
ミンマン帝の時代にフエの宮殿も整備されて
いきました。
建築物として高い評価を与えられているフエ
宮殿の「午門」はミンマン帝の時代に建たて
られました。

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<2-6 フランスへの対応>
グエン朝の建国には100人以上のフランス
人宣教師が貢献したので、初代皇帝ザーロ
ン帝はフランス人がベトナム国内で通商する
ことを許可し、フランス人将官を大臣に任命
したりもしました。
しかし、ザーロン帝はフランス人に対する警
戒心も持っていました。

ミンマン帝は父親のザーロン帝とは違い、西
洋列強には強硬な態度をとりました。即位
当初は表面上、穏やかでしたが、時が経つ
につれ徐々にフランス人を排斥するようにな
り、通商拡大を狙ったフランスとの交渉を拒
絶するようになります。

1921年
ザーロン帝の法務大臣であったショニーはフ
ランスに帰国していましたが、1821年、ルイ
18世の親書を携えフエのフランス領事として
戻り、ベトナムとの通商を求めていました。

ミンマン帝はショニーの情熱もあり、通商条
約締結の意思を表示しましたが、ベトナムの
法律を厳守することを必須条件としました。

1822年
封鎖的態度をとるようになったミンマン帝はフ
ランス軍艦La Cleopatre号がダナンに入港
し、開国を要請してきますが艦長との引見を
拒否し、鎖国政策をとるようになります。
ミンマン帝が引見を拒否したのは、この当時、
ベトナムに入港する外国船には少なからず
宣教師が乗船していたからです。

1824年
ミンマン帝のフランス人に対する態度が、
徐々に冷淡になって、フエ宮殿の周辺に居を
構えていたフランス人を疎んじ始めたため、フ
ランス人大臣Vannierは辞任して帰国してし
まいます。


1826年
建国の際の功績者であるフランス人ショニー
の甥が領事資格でベトナムに来ますが、これ
も引見を拒否されます。

1829年
フランス領事も帰国し、ベトナムとフランスの
外交関係が中断してしまいます。

<2-7 キリスト教の禁止>
初代皇帝のザーロン帝も祖先崇拝を否定す
るキリスト教に違和感を有していましたが、建
国の際にフランス人司教アドランの支援を受
けていたため、建国当初はキリスト教を保護
していたものの、司教が死去したこともあり、
ミンマン帝の時代になると一転して冷遇する
ようになっていきます。

さらにレ・ヴァン・コイの反乱にはベトナムのキ
リスト教徒は公然と反乱に参加し、ミンマン
帝の即位に反対し、グエンカインの子孫を皇
帝にするべきとの主張に対し、ミンマン帝は
脅威を感じ始めます。

ミンマン帝は儒教の信奉者でキリスト教徒が
好きでなく、ベトナム国内での伝道を許すべ
きでないと考えていました。
ミンマン帝は勅命で表明しています。
「西洋の宗教は魅力的だが、ベトナムの文
化を破壊しており、人々を正しい方向に導く
為に布教を禁止すべきである」

1833年1月6日
キリスト教禁止の勅令を出します。
「宣教師のベトナム国内での布教を禁止し、
キリスト教信者は信仰を捨てること。でなけ
れば死刑とする。教会は破壊されるべきで
ある」

10月
レ・ヴァン・コイの反乱の際、ジョセフ・
マルシャン(Joseph Marchand)という若い
フランス人宣教師が病気でザーディン要塞
に住んでいることが宮廷の官僚に報告され
逮捕されました。

1835年
マルシャンは前身の肉を削ぎとられるという
拷問により死亡します。

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ジョセフ•マルシャン

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ジョセフ•マルシャンの処刑図

1836年
フエに拘留していた宣教師7人を処刑する命
令を出すと共にキリスト教徒多数を弾圧し、
多くのキリスト教徒が山岳地帯に逃れること
となります。

1838年
ミンマン帝によるキリスト教徒弾圧はピークに
達します。
その後アヘン戦争によるヨーロッパ諸国の軍
事力に直面したグエン朝ではキリスト教への
迫害が緩和され、1841年に即位した第3
代皇帝ティウチ帝の時代になると投獄されて
いた宣教師はフランス軍艦に引き渡されてい
ます。

21
Cornayの処刑
1837年9月20日、トンキンでみじん切りに
された

22
Pierre Dumoulin
1838年11月24日、トンキンで斬首


23
Paul Mi, Pierre Duong, Pierre
Truat、3名のベトナム人殉教者
1838年12月18日、肉を引き裂かれる拷
問により死亡


<2-8 国号の変更>
1839年2月15日
グエン朝建国の際の国号「越南」(ベトナム)
を、「大南」(ダイナム)と改めました。

24
大南帝国国旗
この改称は、「越南」は中国の南方という含
意があり中国への服属を思わせるので、
清を宗主国としながらも自らを主体とした「中
華秩序」的な世界を形成しようとする意思を
示したものとされます。
従って1839年からは「大南帝国皇帝」と名
乗ります。

25
明命帝玉璽
ミンマン帝は生前しばしば臣下に訓示してい
ました。
「人々は国力が強い時は何も言わないが、
国力が弱くなるといろいろと要求してくるもの
だ」

<4.対外政策>
ミンマン帝の時代にベトナム領土は最大にな
りました。

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<4-1 チャンバ国の完全消滅>
チャンバ国の貴族、阮文承(Po Fokuta)は
レ・ヴァン・コイの反乱に乗じてチャンバ国の
自治回復を要求して蜂起しましたが、失敗
に終わり、チャンバの領土は再びベトナムに
占領されてしまいます。
ミンマン帝はチャンバの「順城鎮」(Thuận
Thành trấn)をベトナムの統治下に置き、官
吏を派遣します。
阮文承は処刑され、チャンバ国は完全に消
滅しました。

<4-2 ラオスとの国境防衛>
1827年、ラオスはシャム侵略され、ベトナム
に援助を求めてきました。5月にはシャム軍
はベトナムの国境を脅かすようになり、ミンマ
ン帝はラオスに3000人の軍隊を送り要塞を
建設させ援助します。
1年以上の時が経過した後、ベトナムはラオ
ス領土を部分的に強奪します。

<4-3 カンボジアの領土化>
グエン王朝建国前からシャムと広南グエン氏
はクメール人の住む南部メコンデルタを侵略
していました。

1834年、ミンマン帝はカンボジアに張明大
将、アンヤン地方に黎大綱大將を派遣し、プ
ノンペンにはカンボジア国王を守る為と称して
軍隊を駐留させますが、カンボジア国王はま
もなく病死してしまいます

1835年
張明大将はカンボジア王女を娶りザーディン
に軟禁してしまいます。その後、カンボジアを
自国領土として、プノンペンを鎮西城と改称
します。
ミンマン帝は欽差大臣、黎文德を派遣して、
カンボジアを32府2県とし、直接統治を行い
ます。

1841年
カンボジアを併合したものの、建国の際に後
ろ盾となったシャムとの関係が悪化し、カンボ
ジアやラオスをめぐって泥沼の戦争状態が
続きます。
その後カンボジア・ラオスの情勢は基本的に
ベトナム側に有利に推移し、ベトナム領土は
最大に達したものの国家財政は大いに疲弊
してしまいます。

カンボジアでは王位争いが絶え間なく続き、
カンボジア、タイ、ベトナムで合意に至ったの
は1845年でした。

27
“Minh mạng chính yếu”

ミンマン帝の治世は約20年続きましたが、
前半10年の輝かしい時代に比して、後半の
10年は国内の反乱鎮圧やラオスやカンボジ
アとの紛争で国内経済は疲弊し、官僚の腐
敗も始まりだして、国家統治が下り坂になっ
てきます。

1840年
ミンマン帝の晩年には、中国清朝と英国間
でアヘン戦争が始まり、グエン王朝はイギリ
スやフランスの西洋の軍艦は清朝が宗主国
であるベトナムにも侵攻してくるのではないか
と大きな不安を抱えます。
グエン王朝は2人の文官に通訳をつけて、イ
ギリス、フランスに親善使節、「ベトナム使節
団」を送り、良好な外交関係を築こうとします
が、失敗に終わります。

1841年
ミンマン帝は落馬が原因で崩御し、長男のテ
ィウチ帝が皇位を継承します。
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