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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ザーロン帝 その5 レヴァンズエット
レ・ヴァン・ズエット

11
墓所の中にあったレ・ヴァン・ズエットの像

純粋な銅で作られ、高さ2.65メートル、3
トンの重量がありました。

Lê Văn Duyệt (黎文悅)
生年 1764年(1763年) 南部ベトナム
ディントゥオン(Dinh Tuong)生まれ
没年 1832年7月3日 ザーディン城
(サイゴン)

<功績の歴史>
レ・バン・ズエットはグエン朝建国の功績者の
1人で、建国後はザーロン帝に南部を治める
副王に任命され、南部メコンデルタを統括す
るヤーディン総鎮に2度任命されました。
1812年~1815年 ザーロン帝の時代
1820年~1832年 ミンマン帝の時代

1780年
メコンデルタのティエンザン近くの農民の家庭
に生まれたズエットはグエンアインが1777年、
タイソン軍に追われて、南部ベトナムに逃亡
してきた時、父親のLê Văn Toạiと一緒に住
んでいました。
もともと一家は中部ベトナムのクワンガイ省
の出身でしたが、広南グエン氏のメコンデル
タへの拡張政策によって、引っ越してきまし
た。

17歳の時、ズエットはアインの宦官となり、タ
イソン軍との戦闘に参加するようになります。
彼の軍事能力はすぐにアイン軍で頭角を現
し、アインは彼のボディーガードの責任者にズ
エットを任命しました。

1782年
タイソン軍は広南グエン残党の追討のため、
再びザーディンを攻撃、アインはズエットの先
導でフーコック島に逃げざるを得ませんでし
た。

1787年
ズエットは彼自身の下士官兵を募集し、
指揮官となって軍隊を組織しました。

1788年
アインが助けを求めたフランス人カトリッック
司教アドランがアインの領土でのカトリック布
教の特別優遇を期待して、アインのために戦
うフランス人将校を集めて援助し始めたため、
軍事情勢はアインに有利になってきました。

アインはザーディンを奪回し、再び侵略される
ことがないようにザーディンに要塞を築きます。

1789年
アインはズエットを将軍にし、その後のタイソ
ン軍に対するアインの多くの軍事作戦に共
に参加します。

ザーディン奪回後、アイン軍は南部中央海
岸のニャチャン、クイニョンと進軍して行きます。
クイニョンはフエと共にタイソン軍の強力
な根拠地でした。

1801年 
クイニョンでの戦いは1792年、1793年、
1799年と3回小規模な戦闘が繰り返され
ていましたが、双方にとって決定的な戦いで
はありませんでした。
しかし1801年の戦いは歴史に残る大激戦
となり、グエン軍の輝かしい勝利の第一歩で
あり、タイソン王朝の実質的な滅亡でした。
(クイニョン、ティナイ潟の戦い)

12_20130604200333.jpg
クイニョンの港。上方がティナイ潟

1799年の戦いでは、アドラン司教が敵軍に
捕まり、赤痢のかかって死亡します。

ズエットはタイソン軍を徹底的に崩壊させる
ための転換点となるクイニョン要塞の海上か
らの進路である「ティナイ潟海戦」の作戦計
画をフランス人将校と一緒に作ります。

アインは首都フースアン(フエ)に軍を進める
ために、タイソン軍のすきをついて、まずクイニ
ョンの奪回を開始しましたが、フースアンへの
海上入口であるTu Dung周辺のタイソン軍
から激しい反撃を受けます。
正面攻撃によって敵の防御を破ることが出
来ないと見たアインはズエットに命じて海軍に
よって背後から敵防衛軍を攻撃することを命
じます。
13
赤色がタイソン軍。アインとズエットは右下の
軍艦に乗っています。

14
大海戦

15
タイソン軍軍艦

16
クイニョン港から引き揚げられた大砲

ズエットと副官のLe Chatはタイソン陸軍を
殲滅し、敵の司令官Nguyen Van Tri,を逃が
すことを命じます。
逃したのはアイン軍がフースアンの要塞を攻
撃する道を固める為の作戦でした。

この年の2月7日、皇太子カインはザーディン
で天然痘のため死亡してしまいます。ザーロ
ン帝は戦闘中の為、カインの葬儀には出席
できませんでした。

1802年
2月27日、タイソン軍のクイニョン要塞が陥
落します。
4月、ダナン陥落
5月3日、ついに首都フースアンが占領され、
王族一家は北部べトナムに落ち延びていき
ます。

タイソン軍に対する勝利を決定的にしたアイ
ンは自らをザーロン皇帝と宣言し、ズエットを
官僚のトップに任命してタイソン軍の旧臣と
の和睦を担当させます。

そして衰退しながらも未だ北部ベトナムを支
配下に置いていたタイソン政権を攻撃するよ
う命令します。

10月、ズエットはBắc Hàと呼ばれていた北
部ベトナムを平定し、タイソン政権に対する
全面的勝利を勝ち取り、北部ベトナムをBắc
Hàから Bắc Thànhと呼ぶようにしました。

アドラン司教によって雇用されたフランス軍
隊の援助の下にズエットの戦略はグエン王
朝建国に重要な役割を演じました。
.
ズエットは1802年~1812年までの間、フエ
の宮廷で最高位の官僚として勤めます。

1812年
ザーロン帝はズエットをザーディン総督として
任命し、南部ベトナムとカンボジア地域の管
理を任せます。

ズエット総鎮には司法権や官僚の任命、解
雇など、すべて宮廷には事後報告をすれば
良いほどの絶大な権限を与えられていまし
た。
北部ベトナム総鎮と違ってザーロン帝は南
部総鎮のズエットと彼が任命した部下をとて
も信頼していました。

権限の大幅な委譲でズエット総鎮と側近た
ちは南部大衆の支持を受ける市政を実行で
きました。

彼は南部ベトナムでのグエン王朝への支持
基盤の拡大のために、有能な人物はタイソン
軍の旧臣であろうと、中国明朝崩壊時に南
部ベトナムに移民してきた中国人であろうと
官吏として採用しました。

ズエットは無料の武術訓練所や教育機関も
無料で建設しています。

ズエットは毎年2回、大きな祭典を主宰しま
した。
一つは皇帝の誕生日、そして旧正月の祭り
を盛大に行い、人心の安定に努めました。

南部ベトナムをグエン王朝の領土として安定
させるのに3年が費やされたといいます。

当時の制度ではズエットのような軍事政権は
部下と共にひとつの集団とみなされていて、
数年間に職務を移動させられるのが通例で
あったため、ズエットはザーロン皇帝に忠実に
従うことを心がけていました。


この年、シャムに支援されたカンボジア国王
アンチャン(Ang Chan)の弟が反乱を起こし、
王位を略奪した為、アンチャンがザーディン
に逃亡してきました。

ズエットはザーロン帝の許可を得て、10000
の兵力をカンボジアに送り、シャム軍を退却
させ国王アンチャンを復活させます。

そしてカンボジア領内のNam Vang と La
Liemに要塞を築き、カンボジアを正式にベト
ナムの保護国とします。

加えてズエットの国内政治も効果的で安定
していたので、庶民は彼を「Cọp Gấm Đồng
Nai」 (ドンナイのタイガー)とあだ名をつけま
した。

ズエットはザーロン帝が最も信頼していた官
僚だったので、皇帝とベトナムを訪れた欧米
商人代表団の調整役も引き受けていまし
た。

ズエットはカンボジアの保護国化が定着した
後、シャムに対抗してビルマと同盟し、シャム
を打ち破り、東南アジア全域の支配するとい
う外交政策に自信を示していたので、1820
年代にはイギリスからの武器購入を考え、イ
ギリス人将校と接触しようとしましたが、失敗
しています。

1815年
ザーロン帝はズエットを中部ベトナムの反乱
を制圧する為に召還します。

1819年 
ズエットは北部ベトナムのザーロン帝に対す
る反乱を制圧する為にゲアンやタインホアに
移動していました。
この時、ズエットは以前カオバンの少数民族
の反乱グループのリーダーだったレヴァンコイ
と協力していました。その後、レヴァンコイは
ズエットの養子になり、宮廷に連れてこられ、
ザーロン帝の高級官僚になりました。

1819年12月19日
ヤーロン帝が崩御すると皇太子だったミンマ
ン帝が皇位に着きますが、大臣だった実力
者ズエットはミンマンがヤーロン帝の第2夫人
の息子だったため、ミンマンの即位に反対し
ます。しかしザーロン帝は皇太子だったカイン
の子供はまだ幼く、家系がカトリックであった
ことなどを考慮して、ズエットの反対を押し切
ってミンマンを後継者に遺言しました。

そしてズエットには5つの宮廷軍隊の指揮を
取るように言い残しています。

この件がミンマン帝とズエットの確執の始まり
でした。

1820年
中部、北部ベトナムの反乱を鎮めた後、ズエ
ットはミンマン帝によって再度、南部ベトナム
とカンボジアを治める総鎮に任命されます。
さらにミンマン帝は彼の支配下にある地域の
すべての外国貿易の管理権限やカンボジア
からの徴税権限をズエットに与え、彼の権限
を拡大しました。

この処置はズエットをして南部地方の肥沃な
農業、豊富な木材などの経済資源を管理さ
せ、特に南部の土地開発を促進させました

南部地域は南下してきたベトナム人と中国
からの移民によって人口が増加していったの
ですが、ズエットの政策によって、この地域は
急速に発展していきました。

南部総鎮として2期目のズエットは、クメール
人の反乱を抑え、10000人の新規納税者
が生れ、グエン王朝の財政が潤いました。

彼は南部ベトナムにとって重要なチャドックと
ハティエンを結ぶビンテ(Vĩnh Tế)運河の改
修(1819年~1924年)を自ら監督し、外
国貿易を奨励、発展させます。

17
ビンテ運河

ズエットの政策は南部ベトナムを開発し、安
定と裕福な生活を生み出しました。

ミンマン帝はズエットの貢献に対して、通常
は皇帝にだけ与えられるヒスイで造られたベ
ルトを贈って報い、さらに王女をズエットの養
子、レヴァンコイに与えました。

ズエットと南部ベトナムの社会はキリスト教徒
に好意的で、カインの息子たちを支持してい
ました。結果としてズエットもカトリック社会に
よって尊敬されていました。
ズエットは学者や貴族の出身でもなく、伝統
的な儒教の教育を受けたわけでもなかったの
で、伝統に重点を置くよりも軍隊の必要性に
もっと重点を置いていたので、ヨーロッパとの
強い絆を維持することに関心があり、西洋文
化の社会的影響を心配するより、彼らから
武器を購入することにより関心がありました。

しかし、ミンマン帝はカトリックを制限し始めま
す。
彼は カトリックを"異端教義"として「カトリッ
ク宗教の禁止の布告」を制定し、キリスト教
を非難します。
宣教師のベトナム到着がますます増えていた
状況の中で彼は、カトリック教徒が国内を分
裂させる可能性のある原因として考えまし
た。 

ズエットはグエン軍とタイソン軍の戦争過程
でカトリック教徒や西洋人をミンマン帝の鎖
国政策や儒教政策の命令による抑圧から
保護しました。

そしてミンマン帝に手紙をしたためます。
「われわれが米を食べられないで空腹でいた
時に、宣教師たちは我々に米をくれたのです」と。
この宮廷に対する上奏に対してミンマン帝は
宣教師に対し、布教地域を離れ、首都に来る
ように命令します。それは表面的には宮廷
が通訳者を必要としたからですが、狙いは布
教活動の制限にありました。

ベトナム中部と北部の政府官僚はこの命令
に従い、行動しましたが、ズエットは命令に従
いませんでした。
ミンマンと周囲の官僚は南部ベトナムの土地
はズエットの威厳で徹底的に守られていると
考えていた為、時期を待つことにしました。

グエン王朝の初期に時代には中部や北部で
の反乱が頻繁に起きていました。
1810年代にズエットが北部や中部で鎮圧
した反乱軍人で死刑を逃れた人々は南部に
送られ、土地開発などに従事させられまし
た。

ズエットとザーロン帝は人材の不足もあって、
旧タイソン軍の将校たちを雇用しており、ズエ
ットはこの政策を続けようとミンマン帝に上申
しましたが、ミンマン帝は儒教の倫理に反す
るとし、「木に登るサルを解放するようなもの
だ」と答え、拒否します。しかしズエットは実
用的な価値があると考えていました。

1821年 
ミンマン帝は2人の側近を南部ベトナムに送
りました。その目的の一つは教育制度と科
挙試験の実施状況の観察にありました。南
部ベトナムの人々も試験に受かれば中央政
府の官僚になることが出来たからです。しか
しこの企てはズエットの官僚達に拒否され、
2年後には失敗に終り、目的を達成できませ
んでした。

1820年代、ズエットは移民してきた中国人
と良好な関係を保っていましたが、多くの移
民たちの存在はミンマン帝との摩擦を引き起
こしていました。

ズエットは移民してきた中国人商人を息子の
ように扱い、貿易事務の柱になる職務に就
任させ、優遇していました。 
日本の歴史家はズエットは実業家でもあり、
中国人を商売のエージェントとして使い、中
国人商人から賄賂の金や品物もらっていた
と指摘しています。

当時、南部ベトナムでは米は豊富に取れて
いましたが、輸出はミンマン帝によって禁止さ
れていました。しかしベトナム産の米は他国の
米よりも50から100%高かったのです。
一方、アヘンのベトナムへの流入は増え続け
ていました。
それは中国人商人がズエットの支援の下、
非合法に米を高い値段で輸出し、帰りの船
でアヘンを輸入していたからといわれていま
す。

栄誉とは裏腹にズエットは北部総鎮の
Nguyen Van Thanhや中部の司令官との
宮廷内部の紛争に巻き込まれます。

ズエットはThanhの元腹心だったグエン•フー
ギー(Nguyen Huu Ngh)によって助けられま
が、その後、Thanhに使えている兵士がズエ
ットの軍隊に紛れ込んでいるのを発見され、
拘束されます。その男はズエットを暗殺する
為に送られたと自白したとズエットは主張しま
した。

またズエットは皇太子カインの長男と相姦関
係を持っていたため、1824年にカインの妻
を溺死させたと糾弾されます。この件はカイン
の子孫が皇帝に事実無根を主張して一見
落着となっりましたが、ミンマン帝は以前から
この事実を知っていたとされています。

1827年
ミンマン帝は海上貿易から中国人を排除し
ようとしましたが、ズエットが死ぬまで出来ま
せんでした。
ミンマン帝は彼の父がズエットに認めた優遇
とその当時のズエットの態度や地位から、ミ
ンマン自身の政策を緩和せざるを得ない状
況でした。
そして南部ベトナムにおいてはキリスト教宣
教師を抑圧することはしませんでした。

しかしズエットとミンマンとの緊張は増加する
一方でした。
ミンマン帝は南部ベトナムに関してはズエット
の側近を少しずつ減らすことにより、緩やか
に中央集権体制を構築していきました。

1823年
ズエットの側近Tran Nhat Vinhが宮廷官僚
によってフエで起訴されました。訴因は米の
闇取引と売春宿の営業でした。
ズエットは怒り、法的手続きの中止と起訴し
た官僚を非難するよう皇帝に要求して事態
は膠着状態になっていましたが、2~3年後、
Vinhは北部ベトナムに移送され、投獄されま
した。1826年Vinhは官位を剥奪されまし
た。
ズエットは宮廷官僚によって地方官僚が除
去されたことに対し、翌年「生と死の問題を
決定するための究極の権限は宮廷に属する
のか」と宮廷を非難します。

1829年
ズエットにまた宮廷との摩擦を起こす事態が
発生します。
ズエットがカンボジアの管轄を任せていた
Nguyen Van Thoaiが死去したため、ズエット
は彼の同僚であったNguyen Van Xuanを後
任者として選任しましたが、ミンマン帝は認め
ず、宮廷官僚のBui Minh Ducを任命し、ズ
エットに協力するよう要請しました。
そしてズエットの意思を無視して、カンボジア
支配を担当する軍事部門のトップのポストを
与えました。

1824年
宮廷を訪問した後、ズエットは同僚に宮廷の
雰囲気は心地よくないと打ち明けています。
「宮廷は文官を雇用し、彼らによって支配構
造を構築しようとしている。我々の考えとは基
本的に異なっている。我々は職を辞したほうが
いいかもしれない。」

ズエットと側近のLe Chat将軍は南部ベトナ
ムでの職を辞し宮廷での職務を申し出たが、
宮廷のなかにはズエットがクーデターを起こす
のではないかと疑う官僚がいて申し出は拒
否され、南部ベトナムに戻されてしまいます。

1825年
ザーロン帝のフランス人軍事顧問であったシ
ョニーJean-Baptiste Chaigneauの甥
Michel-Duc Chaigneauがフランス政府の使
節としてザーディンを訪れた時、ズイットを回
想して、
「ズイットは軍事と管理の両方に優れていた。
人々は彼を恐れたが、公平だったため、南部
の人々には尊敬されていた」と。

1831年
ズエットの死の直前、ミンマン帝は彼の軍事
力を希薄する為に、宮廷防衛の将軍
Nguyen Van Khueをザーディンに派遣しまし
た。
南部ベトナムの自治に対するこれらの動きは、
地元住民の感情を次第に立腹させました。


<ズエットの死とその後>
1832年7月3日
彼はザーディン城で死去します。68歳でした。
彼は現在のホーチミン市3区、レバンタン公
園に埋葬されました。
ズエットの死は南部ベトナムにもミンマン帝の
政策を施行する道を開きました。ズエットの
死後、部下達だけでは宮廷に反抗すること
は出来ませんでした。

ミンマン帝はズエットの部下たちの政治権力
を削ぐために総鎮制度を廃止し、ミンマン帝
の直接統治を押し付けました。

ミンマン帝は宮廷官僚のBach Xuan Nguyen
をザーディン城に送り、ズエットの管理地域を
引き継がせ、ズエットの治世を調査させ、報
告させます。
「ズエットとその側近は腐敗と虐待の政治で
あった」
と言う報告書をミンマン帝に送り、結果として
ズエットに死後の屈辱を与えることを命じま
す。

ズエットの墓には100回の鞭打ち刑が行わ
れ、16人の親族が処刑、彼の部下たちは逮
捕されました。

父親に対する仕打ちに怒ったズエット養子レ
ヴァンコイは脱獄して、1833年5月10日、ミ
ンマン帝に対して反乱を起こします。(レヴァ
ンコイの反乱)

反乱はシャムの侵略軍の支援を受け、3年
間続き、一時は南部ベトナムを支配下に置
きますが、ミンマン帝が送った軍隊により鎮
圧されました。反乱制圧後、ミンマン帝はズ
エットの墓を破壊し、「ここに国家に反逆した
管官レヴァンズエットが横たわっている」と書
かれた石碑を建てます。

1841年
荒廃した墓所はそのまま放置されていました
が、次の皇帝ティウチ帝によってズエットの名
誉が回復され、墓は修復されました。

1848年
そして次の第4代皇帝トゥドゥック帝はズエッ
トの墓の傍に霊廟を建築し、国家の記念碑
に指定しています。

コーチシナ(南部ベトナム)がフランスの植民
地になってからもベトナムにおける皇帝のシス
テムと儀式はフランスの政策とは合致しませ
んでしたが、ズエットは尊敬され、毎年の記
念儀式にはコーチシナを治める政治家が出
席していました。

1937年
植民地政府の官僚や多くの実業家からの
寄付によってズエットの墓は最改修され、墓
所も拡大されました。

18
2008年以前の墓所
妻のĐỗ Thị Phậnと一緒です

19
トゥドゥック帝が建築した墓所の祈祷所

20
トゥドゥック帝が建築した墓所の正門。
人々は「Lăng Ông Bà Chiểu」と呼んで
いました。

しかし過去のいろいろなトラブルからズエット
の墓は故郷のティンヤン省ロンフン村にある
という説があります。

ベトナムの旧正月には、年輩の女性達が、
入れ替わり立ち替わりやって来ては、礼拝し
て”おみくじ”を引いていました。

21

そしてズエットは偉大な国家英雄と考えられ、
べトナム共和国の時代には紙幣にも印刷さ
れています。

22

これとはまったく対照的にベトナム共産党の
評価は低く、グエン王朝は封建と反動政治
を行ったと評価する共産党の指示に従い、
ズエットはベトナムにフランスの影響力を拡
大した役割を担った人物として、まったく評
価されていませんでした。

1975年
サイゴン陥落後、ベトナム共産党は真っ先に
ズエットの墓を破壊し、荒廃したまま放置さ
れる状態が2008年まで続いていました。

現在の共産党政権はズエットの墓を改修し、
彼の生涯を描いた演劇を公開することも認
めています。

23

政権がどう変わろうと、ズエットは南部ベトナ
ムで長年生活している人や移民してきた中
国人にとっては最も偉大なヒローと見なされ
ています。

仏教徒、キリスト教徒にかかわらず、サイゴン
の住民はズエットに熱狂的な賛辞を送ってい
ます。
これはフエや北部ベトナムには見られない現
象なのです。


<レヴァンズエットの家族と生活>
レヴァンズエットにはĐỗ Thị Phậnという妻が
いましたが、ズエットは去勢している為、子供
は養子です。
1人はLê Văn Khôiですが、もう1人養子が
いました。
Lê Văn Yenという名前でザーロン帝の娘、
Ngoc Nghienと結婚しました。

ズエットは厳格で短気な人とされていますが、
公平な人だったようで、人々からは”Ông
Lớn Thượng“ (偉大な神)と呼ばれました
が、官僚たちには人々に恐れられてはいまし
たが、尊敬もされていました。
高級官僚はいざ知らず、多くの下級官僚や
軍事将校は直接彼に話しかけるのを嫌って
いて、ズエットはかなり風変わりの人物だった
ようです。

Nguyễn Văn Nhơn、 Nguyễn Huỳnh Đức、
Long Vân Hầu、Trương Tấn Bửu.と共に
“Cọp Gấm Đồng Nai"(ドンナイの虎)5人の
1人とされて恐れられていました。

30人の山岳民族を召使として使い、家には
100匹の鶏と犬を買っていました。彼は公務
を終えてザーロン城に帰ると、虎と犬50匹を
従えて毎日散歩をしました。

ズエットは闘鶏、ベトナムオペラ(hát bộ)宮
廷の踊りが好きなことでも有名だった。
彼は闘鶏の面白さをザーロン帝に冗談交じ
りに長々と話をしたり、時には自らドラムを叩
いてhát bộiの俳優を応援したりしました。

彼はまた南部ベトナムの民族宗教である精
霊の女に対する儀式の後援者であったり、
ディン「村落社会の中心となっている祠」の
主導者でもありました。
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