べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
カテゴリ

FC2カウンター

リンク

このブログをリンクに追加する

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

南沙諸島(スプラトリー諸島)
南沙諸島(スプラトリー諸島)
Quần Đảo Trường Sa (Spratly Islands) 
11 (400x288)

主要な島
太平島(台湾支配、最大の島)、南威島(ベトナム支配、3
番目に大きい)パグアサ島(中業島、フィリピン支配、2番
目に大きい)、ミスチーフ礁と赤瓜礁(中国支配)、インベス
ティゲータ礁(マレーシア支配)があり、一発触発の紛争地
帯です。
どの島(礁)にも原住民はいません。

南沙諸島(スプラトリー諸島)は、南シナ海に浮かぶ約10
0の小さな島々。諸島全体は大変小さな島々で構成され、
互いの距離は十数キロメートルから数十キロメートル程度
で位置しています。

一般の人が普通に居住できる環境ではなく、島そのもの
にはほとんど価値が無いのですが、海洋・海底資源が見
込め、通商路の確保や軍事政策の必要から、周辺各国が
領有権を主張しています。

(領有権をめぐる歴史 )

1.スペインの領有
フィリピンを植民地にしていたスペインが支配していました。

2.アメリカの領有
1898年、南沙諸島はパリ条約でスペインから割譲を受け
たフィリピンを植民地にした米国の支配となります。

3.フランスによる領有
ベトナムを植民地支配していたフランスが1930年からい
くつかの島々を実効支配し、1933年12月21日、バリア
省の一部としました。

4.日本による領有
1938年に日本が領有を宣言し、新南群島と命名。以降
1945年の第二次世界大戦終結まで支配します。
行政区分は1938年12月23日外甲第116号閣議決定
により台湾の高雄市の一部としていました。リン鉱石の採
取が主な産業で従事者が住んでいましたが戦火の拡大に
より撤退しました。

5.中華民国(台湾)による領有
1946年、日本の敗戦後は中華民国が軍艦“太平号”を派
遣して南沙諸島を支配します。

6.フィリピンによる領有
1949年にフィリピンが一部の領有を宣言します。

7.南ベトナムによる領有
1951年のサンフランシスコ講和条約で日本が領有権を
放棄した後、1956年10月22日に南ベトナムが143/NV
号大統領決定により同国のバリアの一部からフォクトイ省
の一部に編入した。

南ベトナム政府が1973年9月に再び、フォクトイ省への
編入を宣言したことに対し、中国も翌年1月に抗議声明を
出して領有権主張を本格化させていきます。

1970年末南ベトナムが南シナ海沖に海底油田(バホー
油田)を発見してからは、広大な排他的経済水域内の海
底資源や漁業権の獲得のため、近隣に位置する周辺国
のみならず、遠く離れた中国を含む各国が相次いで本格
的に領有を宣言し始めます。

また広大な地域に広がる島々は軍事的にも価値があり、
中国を含めたASEANでの会議で軍事介入はせず現状維
持の取り決めが結ばれたが、近年、中国の人民解放軍が
建物を勝手に建設しマレーシアなどから非難を浴びていま
す。

1983年にはドイツ人のアマチュア無線家のグループが
キャンプを張っての移動運用を試み、ベトナム軍の守備隊に
銃撃されて死傷者が出る騒ぎが起こっています。

8.中国による領有
赤瓜礁海戦(中国とベトナムとの軍事衝突)
1988年3月14日、南沙諸島における領有権をめぐり中
国とベトナム両海軍が衝突し、勝利をおさめた中国は、こ
の海戦で赤瓜礁のほか、永暑礁、華陽礁、東門礁、
南薫礁、渚碧礁と後に名付けられた岩礁または珊瑚礁を
手に入れます。

2004年9月に、フィリピンと中国が海底資源の共同探査
で2国間合意成立。

2005年3月には、フィリピンと中国の2ヶ国に続きベトナ
ムも加わり、探査が行われている。

2007年11月、中国の人民解放軍が西沙諸島の海域で
軍事演習を行ったことや、同月中旬に中国が中沙諸島だ
けでなく、南沙、西沙の両諸島にまで行政区「三沙市」を海
南省の中に指定したことをきっかけとして、同年12月にベ
トナムで「中国の覇権主義反対」などと唱える反中国デモ
が行われています。

2010年3月にアメリカからスタインバーグ国務副長官と
ベイダー国家安保会議アジア上級部長が中国を訪れた際
に、中国政府は南シナ海を『自国の主権および領土保全
と関連した「核心的利害」地域と見なしている』との立場を、
公式に通知したことが報じられました。

2011年2月末から5回以上にわたり、中国探査船がフィ
リピンが主張する領海内において探査活動をくり返し、5
月には無断でブイや杭などを設置したため、フィリピンの
アキノ大統領はこれを領海侵犯とし、同年6月国連に提訴
した。

2013年1月 フィリピン政府は南沙諸島の海を「西フィリ
ピン海」と名付けました。

<中国の主張>

12 (400x385)
中国の防衛ライン

南沙諸島が中国領であることに疑いの余地はない
「人民網日本語版」
2011年年6月8日

南沙(英語名:スプラトリー)諸島は中国の領土だ。中国は
これについて十分な歴史的根拠および国際法上の根拠を
持つ。

南沙諸島を最初に発見し、命名したのは中国人だ。中国
人は早くも紀元前2世紀に、長距離航海と生産活動の過
程で南沙諸島を発見。南中国海の島嶼、砂州、暗礁につ
いて一定の認識も持っていた。

航海の発展に従って南沙諸島への認識は一層深まり、
唐・宋代には「万里長沙」など南沙諸島の古い地名が現れ
始めた。

唐・宋以降の多くの文献に南沙諸島を含む南中国海諸島
の数十カ所の地名が詳しく記されており、島嶼、砂州、暗
礁、水道の大小、地形、方位などが具体的に描写されて
いる。

南沙諸島を最初に開発し、経営したのは中国人だ。紀元
前1世紀の『異物志』と晋朝の裴淵の『広州記』にはすで
に中国の漁師が南中国海で漁をしていた記述がある。

明・清代、南沙諸島で漁をする海南島の漁師が次第に増
え、活動範囲も広がり、定まった操業ルートが形作られた。
中国の漁師は島で樹木を栽培し、荒れ地を開墾し、島を
開発した。

19世紀以降の外国の航海者や侵略者も、自ら目撃した
事実に基づき、中国人が南沙諸島を開発・経営しているこ
とを認めざるを得なかった。

英国海軍測量局の『中国海指南』は南沙諸島の鄭和群礁
について「海南島の漁師はナマコや貝殻を捕って暮らして
いる。その足跡は各島にあり、長く暮らしている者もいる」
と描写している。

南中国海の主権を最初に管轄し、行使した国も中国だ。
明代の『鄭和航海図』に記された「万生石塘嶼」とは今日
の南沙諸島のことだ。

1716年の『大清中外天下全図』、1817年の『大清一統
天下全図』では「万里石塘」として南沙諸島が版図に組み
込まれている。

1883年、ドイツは清政府の抗議を受けて南沙諸島への
調査活動を停止した。

1933年、フランスが南沙諸島の一部島嶼を占拠すると中
国の漁師が抵抗。中国政府はフランス側に厳正な申し入
れを行い、撤退を余儀なくさせた。

1946年、中国政府は「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」に
基づき南中国海の島嶼を回収。「永興」「中建」「太平」「中
業」の軍艦4隻を派遣して4大諸島を接収した上、島で接
収式典を行い、改めて主権碑を建てた。
軍艦は台湾政府が派遣しましたが、台湾は中国の一部と
の見解でこのような表現になっています

1947年、中国は「南中国海諸島新旧名称対照表」を公布。
南中国海の島や岩を広東省政府の管轄下に置いた。翌
年2月、中国政府は「南中国海諸島位置図」を公布。新中
国成立後もこの図を用い、南沙諸島に対して主権を行使
し続けた。

周恩来総理は1951年に「米英の対日講和条約案および
サンフランシスコ会議に関する声明」を発表。「西沙・南沙
諸島および東沙・中沙諸島はずっと中国の領土」であり、
米英の対日講和条約案の影響は受けないと厳正に指摘し
た。

1958年、中国は「領海に関する声明」を発表。「領海を1
2海里とする中国の規定は東沙、中沙、西沙、南沙諸島お
よびその他中国に属する島嶼に適用される」と明確に宣
言した。この後、南沙諸島への外国による主権侵害に対し、
中国政府は「争う余地のない主権を有する」と繰り返し表
明してきた。

既存の歴史的根拠および国際法の「発見の原則」「先占
の原則」「禁反言の原則」に基づき、中国は南沙諸島およ
びその周辺海域に対して争う余地のない主権を有す。

国際社会も南沙諸島に対する中国の主権を承認し、南沙
諸島の中国帰属は多くの国々の地図に明示されている。
例えば1954年にドイツ連邦共和国で出版された『世界大
地図』、1957年にルーマニアで出版された『世界地理図
集』、1970年にスペインで出版された『アギラール大地図
帳』、1973年に日本の平凡社が出版した『中国地図帳』
などだ。

中国政府は一貫して強く責任ある姿勢で、極めて強い自
制を保ち、かつ建設的な姿勢で「係争棚上げ、共同開発」
を主張し、対話と交渉を通じた南中国海係争の適切な処
理・解決に尽力してきた。中国は国連海洋法条約の基本
原則と法制度を含む、広く認められた国際法および現代
海洋法に基づき、関係国の二国間協議によって、平和的
方法で係争を解決することを望んでいる。


<南シナ海におけるアメリカの政策>
アメリカは、南シナ海の公海における「航行の自由、港な
どへのアクセスの自由」のために地域の平和と安定を強く
主張しています。理由は2つあります。

南シナ海はアメリカにとって重要な海上交通路で、毎年約
5兆3000万ドルの物資が南シナ海を通過する内約1兆ド
ル超はアメリカの物資なのです。
もう1つは、米軍の世界地域おける軍事政策上、南シナ
海周辺国の港湾や施設へのアクセスの自由が不可欠で
あることです。

1994年に中国がミスチーフ礁を占領したことを受けて、
アメリカの対南シナ海政策が規定されるようになってきま
した。

1995年にアメリカ国務省が発表した南シナ海政策
1.紛争の平和的解決
2.平和と安定
3.航行の自由
4. 紛争に対する中立的立場
5.国際法の原則を尊重

アメリカの明確な外交メッセージにより、中国はASEANに
歩み寄り、南シナ海問題では2000年から2006年まで比
較的穏当な態度をとりますが、2007年以降、再び強硬路
線に転じます。

2010年には、ベトナムの石油会社の採掘や漁業活動を
妨害したり、フィリピンの海底調査活動を妨害したりと、中
国は南シナ海で他国との紛争を次々と引き起こしたのをき
っかけにアメリカのクリントン国務長官はより強い調子でア
メリカの国益の在り処を示しました。

1.国際法規を守ることは米国の国益である。
2.領土紛争の解決のため、すべての関係国による協調
的な外交プロセスを支持する。
3.南シナ海における領有権をめぐる紛争に対し、いずれ
の側にも与しない。
4.「南シナ海行動規範」を支持する。

この発言は中国を強力に牽制するとともに、これまで南シ
ナ海の騒動には不介入だったアメリカの姿勢転換を意味
していました。

2011年、オバマ政権は米軍の重心を中東から東アジア
へ移す「ピボット(転換)戦略」を発表し、南シナ海を含む西
太平洋に対して、アメリカはこれまで以上に「濃い」関与を
するのだと表明します。

2011年8月23日、ベトナム戦争終結後初めて米海軍ル
イス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦「USNSリチャー
ド・E・バード」(排水量41,000トン)がメンテナンスと補修の
ためにベトナムのカムラン湾へ入港します。

13 (392x392)

2012年4月28日、アメリカ軍の戦略変更を受けて、日本
は戦略的ODAの一環としてフィリピン、マレーシア、ベトナ
ムの3カ国を対象に、巡視船供与などを決定しました。名
目は南シナ海におけるテロ・海賊対策への協力ですが、
同海域で覇権主義的な行動を強める中国への包囲網を
構築する狙いがあります。

14 -s (342x229)

これに対し、中国では「2007年~2010年の南シナ海で
の手法は行き過ぎだったのではないか、係争相手をむや
みに脅した結果、とうとうアメリカの関与を濃くさせる結果
となってしまった。」とする見方が生れました。
南シナ海で中国が得点を稼ぐのは容易ではなくなりました。

そこで中国の政権移行期に対外政策の手詰まり感を払拭
する為に、目を転じたのが東シナ海―尖閣諸島―という事
情があります。
日本政府による尖閣諸島国有化だけが現在の東シナ海
の緊張を生んだというわけではありません。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
トラックバック URL
http://vietkon.blog73.fc2.com/tb.php/407-2e52fbd5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。