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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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西砂諸島(パラセル諸島)
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西砂諸島は、海南島の南東部から約334Km離れた所に位
置し、永楽群島と宣徳群島を主として、22の小島、7つの砂
浜、10の浅瀬と暗礁が含まれます。

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西砂諸島近海はマグロ、サワラ、サメ、ハタなどの水揚げや
海ガメ、ナマコ、真珠、鮑などの海産物を捕獲する中国の重
要な熱帯漁場となっています。


(領有の歴史)

中国漢朝時代、文学書に永興島の記述があるそうです。

中国隋朝時代、西砂諸島を経由してマレーシアに使節を派
遣。

中国唐朝時代、高僧義浄が西砂諸島から出発してインドに
到着。
『旧唐書』(中国の史書)によると、唐朝の時代、海南島とそ
の南部及び海域は中国が管轄し、古代から「千里長砂」と呼
ばれ、陶器やシルク、香料などを満載した商船の航路、「海
上のシルクロード」になっていた。

中国宋朝、 永興島へパトロール船が出動していた。

中国元朝 、郭守敬が永興島で天文観測行う。

中国明朝、 鄭和が島に標注を建立する。

中国清朝、 海軍は西沙諸島を調査し、清朝のフラッグを島
に建てた。

1926年、ベトナムを支配したフランスインドシナ連邦が永
興島調査し、1932年 に占拠し、1938年には常駐部隊を
置きます。

1939年3月20日、日本軍が西沙諸島を占領。

1946年9月,日本の領有権放棄により、中華民国(台湾)
が軍艦“永興号”を派遣して永興島を接収します。11月24
日には「海軍收復西沙群島紀念碑」と書かれた領土回復の
記念碑を建立します。
島の名は“永興号”に因んでいます。

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記念碑

1950年5月8日、海南島での国共内戦で中華民国軍は永
興島に敗走し、5月13日に大陸の武装した漁民が解放軍
の支持の下に宣德群島(西沙諸島の東半分)を制圧しまし
た。

その後、ベトナムが南北に分断し、1955年10月、ベトナム
共和国が成立すると、アメリカの支援の下に永樂群島(西沙
諸島の西半分)を占拠し、1974年まで両群島の海を隔て
て、中国軍と対峙する状態が続きます。

1958年9月4日、ベトナム民主共和国(北ベトナム)首相フ
ァム•ヴァン•ドンは、中国政府への手紙の中で西沙と南沙諸
島の領有権は中国にあると認めています。

1974年1月  西沙諸島の戦い
ベトナム戦争末期に中国共産党軍は永樂群島(西沙諸島西
半分)に侵攻して南ベトナム軍の護衛艦1隻を撃沈、排除し、
西沙諸島全体を占領、その後、現在まで西沙諸島は中華人
民共和国の実効支配下にあります。

1988年には中国は西沙諸島永興島に2600mの滑走路
と港を建設、永興島を南シナ海支配の戦略拠点とし、同年、
中国軍はベトナム支配下にある南沙諸島にも侵攻しました。

2006年7月15日、中国交通部は西沙諸島永興島に救助
船“南海救111”を派遣して救助基地を建設します。

2012年6月21日中国は西沙群島、南沙群島、中沙群島が
中国の領土であることを議会決議します。

2012年9月3日、中国共産党の機関紙「人民日報」海外版
は、中国国家海洋局が西沙諸島、スカボロー礁(黄岩島)と
尖閣諸島の周辺海域を人工衛星や航空機で遠隔監視する
「海域動態監視観測管理システム」の範囲内に組み込んだ
と報じました。

現在も中国が実効支配していますが、ベトナムと台湾も領
有権を主張しています。

主な島には永興島(ウッディー島)、中建島(トリトン島)、趙
述島(ツリー島)があります。


<西沙諸島の戦い>
1974年1月15日- 20日
結果  中国が勝利し、西沙諸島全域を実効支配

(武力衝突の背景)
西沙諸島の戦い(Hải chiến Hoàng Sa)は、1974年1月に、
西沙諸島の領有権を巡って中国海軍と南ベトナム海軍が交
戦した武力衝突。

海戦により中国艦隊が南ベトナム軍艦1隻を撃沈し、南ベト
ナムが支配していた島嶼に部隊を上陸させて占領した。

南シナ海の西沙諸島は、第一次インドシナ戦争後、中国と
南ベトナムが領有権を主張して領土問題が生じていた。中
国が西沙諸島の東部(宣徳群島)を、南ベトナムが西部のさ
んご礁(永楽群島)を実効支配していました。

1971年には中国軍が西沙諸島に艦隊を派遣し、多数の施
設の建築を行って軍事的緊張が高まったことがあった。

1974年、当時の南ベトナムはベトナム戦争末期で追いつ
められた状況にあった。前年のパリ和平協定に基づき
アメリカ軍は南ベトナムから全面撤退し、わずかな軍事顧問
が残る程度になっていました。南ベトナム海軍は、アメリカから
供与された旧式艦を主体とし、護衛駆逐艦など比較的大型の
艦艇は保有していましたが、実戦経験に乏しく練度も高いと
は言い難かった。

中国側も文化大革命の混乱期ではあったものの、海軍の近
代化が進みつつあった。中国海軍の主力艦艇はソ連から供
与された駆逐艦や潜水艦であったが、1960年代後半から
小型艦艇の国産化を実現していた。西沙諸島はベトナム本
土よりも中国本土に近く、中国側航空部隊の作戦圏内に収
まっていた。

1974年1月11日、中国政府は、西沙諸島が自国領土であ
ることを改めて主張する声明を発表した。この発表の意図
は、前年9月に南ベトナム政府が、同じく中国と係争中の
南沙諸島についてベトナムへ編入する旨を発表したことに
応じて、対抗措置を講じることにあった。
従来からの中国政府の主張を確認するものではあったが、
島嶼そのものだけでなく周辺海域の支配権にまで言及した
点で新しく、大陸棚資源を確保しようという戦略的な狙いが
明らかにされていた。

(戦闘経過)
1月15日、南ベトナム海軍の哨戒艦「リ・トン・キェト」が、西
沙諸島を哨戒に訪れた。すると永楽群島の甘泉島(ロバー
ツ島)に中国国旗が掲揚されており、沖に中国の大型漁船
「402号」と「407号」が碇泊しているのを発見した。「リ・ト
ン・キェト」は中国漁船に退去を命じ、陸上の中国国旗を狙
って威嚇射撃を行った。

1月17日、中国と南ベトナム双方は増援部隊を現地に派遣
した。
南ベトナム軍は、護衛駆逐艦「チェン・チン・ユー」と哨戒艦
「チェン・ピン・チョン」に歩兵を乗せて派遣、甘泉島と金銀島
に展開させた。

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南ベトナム軍艦「チェン・チン・ユー」

中国軍も、駆潜艇「271号」「274号」に歩兵1個小隊ずつ
を乗せて送り、普卿島(ドイモン島)・深航島(ダンカン島)・広
金島(パーム島)を占領するほか、艦艇や航空機を出動させ
た。

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中国海軍の駆潜艇

1月18日、南ベトナムは哨戒艇「ヌータオ」を増派し、永楽
島付近を警戒させた。

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ヌータオと同型艦

中国側は駆潜艇「281号」「282号」と輸送任務の掃海艇
「389号」「396号」も派遣して、駆潜艇4隻・掃海艇2隻の
態勢となっていた。中国側漁船2隻も依然として周辺海域に
とどまっており、南ベトナム艦艇に体当たりを繰り返していた。

1月19日午前7時40分、南ベトナム軍40人が中国軍が占
拠していた広金島に上陸を開始し、同島の中国軍と銃撃戦
となった。中国艦隊の駆潜艇と掃海艇が駆け付け、午前8
時頃から両軍艦艇がお互いに進路妨害や体当りを始めた。

午前10時22分、南ベトナム艦隊が発砲し、ついに本格的
な交戦状態となった。南ベトナム艦隊は「チェン・チン・ユー」
と「チェン・ピン・チョン」が隊列を組み、他の2艦はバラバラ
で行動した。「ヌータオ」と中国側掃海艇2隻は激しい接近戦
となり、「ヌータオ」と中国掃海艇「389号」がいずれも浸水・
炎上した。

1時間足らずの交戦で南ベトナム艦隊は次々と損傷し、バラ
バラに戦場離脱を図った。中国側は12時過ぎにさらに駆潜
艇2隻が到着しベトナム艦を追撃した。低速の「ヌータオ」は
逃げ切れず、中国艦隊の集中攻撃を浴び、午後2時52分
に西沙諸島西部海域で沈没した。

午後1時30分、永楽島に3個歩兵中隊・1個偵察中隊の中
国軍部隊が上陸して占領した。 翌1月20日には、金銀島
など3島にも中国軍が上陸し、航空機の援護の下で占領し
た。

西沙諸島から南ベトナムの勢力は追い払われ、完全に中国
の実効支配下に置かれることになった。

漁船を突出させて紛争を引き起こす中国の常套手段が成
功する形となった。中国軍は永興島に4階建ての建物や
ヘリポートを整備し、戦車部隊やミサイル艇を駐留させる
など要塞化を進めた。

ベトナム戦争終結後、ベトナム社会主義共和国政府は、中
国に対して西沙諸島の領有権を主張して外交交渉を求めた
が、中国政府は応じていない。

1988年には2600mの本格的な滑走路を有する飛行場ま
で完成させ、南シナ海支配の戦略拠点としている。>
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