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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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レ・ホン・フォン
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本名    Lê Văn Dục
別名   Lê Huy Doãn, Lê Văn Duyện, Lê Hồng Phong
      一般にはLê Hồng Phong として知られています
生没年  1902年9月6日―1942年9月6日
誕生地  ゲアン省フングエン県フントン村落(xã Hưng Thông,
huyện Hưng Nguyên, tỉnh Nghệ An)生まれ

インドシナ共産党第2代書記長
在位 1935年3月31日–1936年7月26日

家族   父Lê Huy Quán 母 Phạm Thị Sau
     妻Nguyễn Thị Minh Khai


貧乏な農家に生れ, 父は彼が少年の時に亡くなってしまいました。母は
彼に学校に行くことをしばしば薦め、母のお陰で学校でチュノム(漢字表
記のベトナム語)を学びます。その後、2年間フランス語を学びました。

1918年 16歳の時
彼は Lê Huy Doãnと改名し、家計を助ける為、ヴィン市にある問屋に
働きに出ます。しばらくして、Bến Thủyのマッチ工場に移りましたが、工
場での労働運動に参加した為、解雇され、それ以降は革命運動に専念
するようになります。

1923年1月
革命の道を探す為にPham Hong ThaiらPhạm Văn Tích村の10人の
若者と秘密裏にタイに向かい、その後、中国の広州に行きました。

広州で彼は抗仏組織「タムタム社」(Tâm Tâm Xã)を, Ho Tung Mau,
Le Hong Son, Pham Hong Thai, Lam Duc Thuらの同士と共に設立し
ます。

1924年
グエン・アイ・コック(ホー・チ・ミン主席)がソ連の秘密工作員ボロディン
の通訳として広州に赴任してきました。

レ・ホン・フォンは広州で同士のLê Hồng Sơn、Lê Quang Đạtらとグエ
ン・アイ・コックに出会います。
グエン・アイ・コックとの出会いはレ・ホン・フォンにとって最大のターニン
グポイントになり、グエン・アイ・コックが最も信頼する協力者になります。

レ・ホン・フォンはグエン・アイ・コックが主宰する「共産主義トレーニング
スクール」の開校に向けて尽力し、スクール運営の重要なスタッフになり
ます。

1925年6月21日
レ・ホン・フォンはグエン・アイ・コックとの話し合った結果、「タムタム社」
の精鋭部員を中心にして「ベトナム青年革命同志会」
(Việt Nam Thanh niên Cách mạng Đồng chí Hội)を創設し、
中核9人のうちの1人となります。

1925年夏
グエン・アイ・コックの指示で彼とLê Hồng Sơn, Lê Quang Đạtは
「黄埔軍官学校」に入学します。1年後レ・ホン・フォンはソ連の空軍パイロット
の養成機関であった広州の空軍学校(Trường Không quân Quảng
Châu)に配属されました。

1926年2月
グエン・アイ・コックの紹介で中国共産党に入党します。

1926年10月から1927年10月まで
ソ連のレニングラードで軍事理論を学び、12月から翌年1928年11月
まで、ソ連のボリソグレブスクでエアーフォース2に参加します。

1928年12月から
コミンテルンの「東方勤労者共産大学」に入学し、卒業後、中佐となり、
紅軍(ソ連の共産党軍(Hồng quân Liên Xô)に参加します。

1930年から1931年
1930年に設立された「ベトナム共産党」(すぐにインドシナ共産党と改名
されます)の指導によって、「ゲティンソビエト」(労農者政府)樹立の為の
ストライキや蜂起が各地で頻繁に発生しました。
フランス植民地政府は大衆が主体となった氾濫に脅威を感じるようにな
り、大弾圧を始めます。

1931年
チャン・フー、グエン・ティ・ミン・カイ、グエン・アイ・コックらインドシナ共産
党中央委員の全員がフランス当局の指示によって、ベトナム国内や香港
で逮捕されてしまい、インドシナ共産党は壊滅的状況に陥ります。

1931年後半
レ・ホン・フォンはコミンテルンの指示でVương Nhật Dânと名前を変え中
国に入国します。

1932年6月
インドシナ共産党はコミンテルンの承認の下に活動指針を作成します。

1934年
レ・ホン・フォンは中国で活動している同志Ha Huy Tap, Nguyen
Vanover, Nguyen Van, Tran Van Chanらに会うために上海に向かいま
す。
そして6月16日から21日まで,コミンテルンの指導に従って、同志と
ベトナム国外に「インドシナ共産党指導委員会」を設立し、その委員長
となり,ベトナム国内で離散した党組織の再統一にあたります。

香港で逮捕され、この年1934年に釈放されたグエン・ティ・ミン・カイも
また上海で活動していました。2人は恋に陥り、結婚します。

1935年3月
レ・ホン・フォンはインドシナ共産党第1回全国大会をマカオで開催するこ
とに成功します。この大会でレ・ホン・フォンは党書記長に選出されます。
レ・ホン・フォンはインドシナ共産党のコミンテルン代表として、恩師のグ
エン・アイ・コックを指名します。

1935年7月
モスクワで開催されるコミンテルン第7回大会に党の代表使節団を率い
て会議に参加します。グエンティミンカイも代表団の一人となります。コミ
ンテルンはインドシナ共産党を公式な支局として認め、レ・ホン・フォンを
コミンテルンの常任委員会のメンバーとして選出します。

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コミンテルン第7回大会のIDカード(名前は Hai Anという偽名です)


1936年1月
7月に上海で開催されるインドシナ共産党中央委員会に出席する為、
上海に向かいます。

1937年11月10日
ベトナムに戻るため、「La Britain」と偽名を使います。

1938年3月
サイゴン近郊のホックモンHóc Mônで開かれたインドシナ共産党中央
委員会に出席し、『インドシナ民主戦線』(Mặt trận Dân chủ Đông
Dương)の設立を決定します。

1939年6月22日
フランス植民地政府によりサイゴンで逮捕され、6カ月の懲役刑、3年間
の保護観察処分に付されます。

故郷のゲアン省で保護観察を受けているときも、共産党の機関紙に投
稿し、革命運動の精神は活発でした。
第2次世界大戦が欧州で勃発するとフランスはベトナム人民に総動員令
を発します。

1940年2月6日
レホンフォンはゲアン省を離れようとしましたが、官憲に捕まり、サイゴン
の「カティナット警察」に移送され、5年間の懲役刑、10年間の保護観察
を宣告され、コンダオ島の監獄に収監され拷問されます。

1942年9月6日正午
コンダオ刑務所で拷問によって衰弱しきっていたレ・ホン・フォンは、配ら
れた飯の器で頭を殴られ、血の滴った飯を静かに食べ同志に言います。
革命の勝利を信じていた彼の最後の言葉は「同士諸君! ありがとう」
だった。この日は彼の満40歳の誕生日でした。

2012年9月6日午前
ゲアン省ビン市で、ベトナム共産党第2代書記長だったレ・ホン・フォン生
誕110周年を記念する式典行われました。式典には、グェン・フー・チョ
ン共産党書記長をはじめとし、ベトナム共産党と政府の指導者、老革命
家ら多数が参列しました。

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式典で、グェン・フー・チョン共産党書記長は「生前、レ・ホン・フォン氏は
ホーチミン主席の優れた生徒の一人であり、才能ある指導者で、祖国の
独立、自由と国民の幸福のため犠牲になりました」と語りました。


レ・ホン・フォンとグエン・ティ・ミン・カイとの間にはLê Hồng Minhと名づ
けられた娘がおり、ソ連の「東洋勤労者大学」で勉強した後、ベトナム共
産党のために働き、1995年に引退しています。
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