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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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アドラン司教の家
Bishop of Adran’s House
ホーチミン市3区Nguyễn Đình Chiêu通り180番地


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現在のサイゴン司教の住居。この敷地内にアド
ラン司教の住居が保存されています。

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アドラン司教の住居
この家は1790年にグエン・フック・アイン(グエン
王朝の初代皇帝 ヤーロン帝)の命により、アド
ラン司教(Bishop of Adran)のために建てられま
した。


建物の内部

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最初の邸宅はレロイ通りの突き当たり、現在の
動物園になっているところにありました。しかし、1
811-1864年の間、ベトナムではキリスト教が
禁止されたため、邸宅は閉鎖されました。

その後邸宅は旧南ベトナム大統領官邸の前、
Alexandre de Phodes 通りに移され、さらに19
00年には現在のカトリック司教達の居住兼事
務所内に移設されました。

数回に渡り、建物は改築されましたが、最後の
改築は1980年に行われました。しかし建設当
初の概観や形状は当初のまま保存されていま
す。

アドラン司教はフランスがベトナムを植民地にす
るまでは生きていませんでしたが、ヤーロン帝の
長男カインを抱いた彼の銅像は1945年までサ
イゴンの聖マリア教会(サイゴン大聖堂)の前に
立てられていました。


<アドラン司教>

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アドラン司教、本名はピエール・ジョゼフ・
ジョルジュ・ピニョー (Pierre Joseph Georges
Pigneau (1741年11月2日 - 1799年10月9日)は、
フランス人のカトリック宣教師で、ベトナ
ム最後の王朝、グエン王朝建国の立役者でも
あり、フランスがベトナムを植民地にする遠縁に
なった人でもあります。

アドラン司教はフランスで外国伝道の神学校を
卒業し、1765年司祭に任じられ、1767年布
教のためハティエン(ベトナムとカンボジアとの国
境の町)に到着しましたが、ハティエンでは騒乱
が続いていたため、インドのフランス植民地ポン
ディシェリに一時避難します。1771年コーチシ
ナの監督を命じられ、1775年3月再びハティエ
ンの町に到着します。

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ハティエンの場所

アドラン司教はハティエンの総督マック・ティエン・
ティから招待された時に、タイソン軍に追われて
シャム湾の島を逃げ回っていた広南グエン氏の
生き残りであるグエン・フック・アインと出会います。
アインの話を聞いた司教はアインの逃亡を助け、
軍事援助を約束します。

アデラン司教はアインの長男カイン(Prince
Cảnh)を軍事援助の人質として預かり、アインを
連れて1784年12月、コーチシナを出発して17
87年にフランスに戻ります。アデラン司教はフラ
ンス国王ルイ16世に会い、軍事援助を取り付
け、ベルサイユで「ベトナムーフランス攻守同盟
条約」にアインの代理として調印します。

攻守同盟協定の内容は
「フランス国王は歩兵1200人、砲兵200人、
アフリカ兵250人からなる帆走船4隻をフランス
の経費でコーチシナに派遣する代わりに、ダナン
とコンダオ島をフランスに割譲し、コーチシナ全域
での商業営業権をフランスにのみ与えること」と
いうものでした。

しかしインド駐在のフランス軍司令官コンウエイ
はインドシナへの遠征軍の派遣は難しいと考え、
アドラン司教の企ては実現しませんでした。

しかしアドラン司教は自分で武器弾薬を購入、
義勇兵士を募り、自身で遠征軍を組織します。
1788年に武器弾薬を積んだ船がコーチシナに
到着し、翌1789年アドラン司教もカインを連れ
て到着します。

コーチシナに戻ったアドラン司教は自ら先頭に立
って西山タイソン軍と戦っていましたが、1799年
タイソン軍の拠点クイニョンを攻撃中、捕らえら
れ暑さと疲労で衰弱し死亡してしまいます。58
歳でした。

遺体は軍令を持って迎えられ、現在のタンソンニ
ャット空港玄関口近くの公園に墓が造られ、グ
エン・フック・アインが弔辞を読みました。

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墓所の設計図

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アドラン司教の墓

その後、フランスはベトナムから撤退し、ベトナム
全土が共産党政権になったため、アドラン司教
の墓は1983年にベトナム政府により取り壊さ
れ、遺体は焼かれてフランスへ送られました。現
在はパリ外国宣教会に遺灰が安置されている
そうです。


サイゴンの聖マリア教会の前には1945年までア
ドラン司教の銅像が立てられていました。

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子供はザーロン帝の長男カイン。アドラン司教が
右手に持っているのはフランス国王ルイ16世と
締結した「ベトナムーフランス攻守同盟条約」

旧サイゴンマーケット(Cho Cu)近くの道路
HoTrung Mauはグエン王朝時代は「アドラン通
り」と名付けられていました。

当時の「アドラン通り」
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