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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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77 ホーチミン主席の足跡 1969年その6 ホーチミン廟の建設

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ホーチミン主席の遺体の保存に加えて、霊廟を建設する
ことはベトナム議会とベトナム労働党中央委員会の最
大の関心事であり、課題でした。どちらも主席が望んだ
ことではありませんが。

建設に当たり、旧ソ連は設計図の段階から協力し、数名
の代表団をベトナムに派遣し、全面的な支援を行います。

ベトナム国内においても霊廟の建設に貢献したいと多
くの建築家、技術者、兵士、一般人が協力を申し出、国
家的事業として、霊廟の建設が行われます。
主席自身は、戦争中でもあり、生活が苦しい庶民の生活
を思い、遺言でも自分の葬式には金をかけないように言
い残しているのですが、国民の主席に対する思いはそれ
をはるかに上回っていました。

国民の建設に対する貢献の熱望に答えて、中央委員会は
霊廟のデザインを公募することを決定します。

いくつかのデザインの候補が選ばれ、さらに国民の意見
を聞くために、ハノイ以外の各地の省で展示会が行われ
ます。展示会には1745487人が訪れ、34022
通のコメントが寄せられます。

多数のデザインから斬新かつベトナムの伝統的要素を
組み合わせた最終デザインが決定されます。

基本構造は3段階の基壇、5つの部屋、3層の屋根とい
う構造になりました。

1971年11月3日、主席の一番弟子で首相のファン・バ
ン・ドンは霊廟建設の書類に正式に署名し、副首相のド・
ムオイを最高責任者に任命します。

しかしながら、不幸にもアメリカ軍の攻撃が激しくなり、
被害がハノイにも及ぶかも知れないという危惧から、建
設は一時延期されたままになります。

建設が再開されるのは、1973年1月28日、アメリカが
パリ和平会議に署名し、ベトナムから引き上げることが
決まってからでした。

軍隊が建設の中心となり、北ベトナム国民や旧ソ連の支
援者が作業を開始します。しかしこの年、旧ソ連には支
援金額が予算に計上されておらず、近代的な建設機械は
旧ソ連の会社がベトナムに貸与するという形式で始ま
ります。

旧ソ連の会社はホーチミン主席の霊廟建設に必要な建
設機械を優先的にベトナムに送ってくれました。ベトナ
ム国内でも霊廟建設に必要な物資の運搬には最優先の
旗が立てられます。ハイフォン港や鉄道駅をはじめ、建
設に必要な機械器具や材料が各地から送られてきます。

霊廟の基礎工事には1200本のパイプを埋め込まねばな
らず、その作業は雨季が始まる8月には終了させねばい
けませんでした。この時間との戦いに、ベトナムの要職
にあった人も、教師や学生も建設作業者に協力して一緒
になって働きました。そして建設開始から60日後、基
礎工事は完成します。


第2ステップは霊廟の本体の建設です。この建設には多
くの人員よりも多くの技術者や多くの時間が、そしてす
べての原材料に最高品質のものが要求されました。高品
質の材料は主席の遺体の永久保存には欠かせない要素
なのでした。

最初の課題はセメントでした。当時のセメントは品質が
悪く、新たに高品質のセメントを開発しなければなりま
せん。新たな高品質のセメントはThuy Nguyên地方の岩
石や土を使って新しい技術によって作り出されました。
そして大量のセメント袋には「Đ̀i đ̀i nhớ ơn Chu tich
Hố Chí Minh vĩ đau (偉大なホーチミン大統領は永遠)
と印刷されました。

砂利は現在のThái NguyênとBắc Can省に住む少数民族
の採石場から運ばれました。

そして黄砂と呼ばれる高品質の砂は砂は以前のフラン
ス調査団の調査によればロー川(Lô River)のものがベ
ストとありましたが、多くの砂のサンプルを検証した結
果、Hoà Bình省のBôi River産を使うことに決定しまし
た。
Hoà Bình省に住む少数民族はこのイエローサンドを総
出で袋詰めし、トラックでハノイに運びました。

旧ソ連からの建設機械は1974年になってベトナムに搬
送されてきました。しかし機械の設置や操作はベトナム
側で行うことになっていたので、霊廟建設に携わってい
る兵士を管轄する国防省は高級技術者をかき集めます。

ドアーや手すりなどに使用される木材は樹齢数百年の
Nuという木材が使われています。この木材は中部ベト
ナムで軍務についていたベトナム解放民族戦線の兵士
たちがチュオンソン山脈から切り出し、ハノイに送って
きたものでした。

霊廟本体のコンクリート工事は1日200m2の進捗
を400m2にして、予定期間内に完成させます。

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そして内装工事と霊廟周囲の整地や環境整備が行われ
ます。

内装工事は霊廟全体の工事期間の50%を占める時間が
費やされています。

内装、外装の職人はベトナムには優れた人がたくさんい
ましたが、石材の切断などは旧ソ連で行われ、20000ピ
ースの大理石や花崗岩は旧ソ連から搬送され、ベトナム
産の石材とともに使用されています。

霊廟上部(Pedimen)にある「Chu tich Hô Chí Minh」と
いう文字はCao Bắng省から運ばれたルビーの原石に彫
られました。ルビーはホー主席の頭部に面した壁にも使
用されて、荘厳な雰囲気をかもし出しています。

電気設備、水道工事、空調設備、排気設備、電話工事、
ビデオシステムなどはベトナム人技術者にとっては始
めての経験でしたが、彼らの情熱は外国人技術者が賞賛
するほどの出来栄えでした。

100000人収容できるバーディン広場を始め、霊廟周囲の
道路が再構築され、霊廟の周囲にはホー主席が大事にし
た全国各地から送られた木々が植えられました。

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完成したホーチミン廟


そして1975年7月18日午後8時、労働党と国会の
すべてのリーダーが整列する中、ホーチミン主席の遺体
は完成した霊廟正面に到着します。最後の6回目の移動
でした。

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1945年、この場所で独立宣言を読み上げたホーチミン主
席は、フランスと戦い、アメリカと戦い抜いて、国土の
統一を勝ち取って、30年ぶりに帰ってきました。

1975年8月22日、霊廟の完成がベトナムの全国民に発
表され、披露されます。第144軍から選ばれた150人の
儀仗兵がホーチミン主席を守り続けます。

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戦争で疲労していて、金のなかった北ベトナムが、金に
糸目をつけず、外国の援助の下に建設したホーおじさん
の霊廟、ホーおじさんは夢の中できっと怒っているよう
な気がします。


コラム
バーディン広場
1886年 愛国的知識人はフランスの侵略に抵抗するため
にタインホア省ニャソンの3つの村に反抗基地をつくり、18
87年にフランス軍に負けるまで3つの村にフランス侵略軍
を閉じ込めました。

フランス侵略軍は抵抗者を男女容赦なく斬首してしまいま
す。ハノイのバーディン広場は北部ベトナム人のフランス侵
略軍に対する勇気ある抵抗の精神を象徴するために命名
されました。

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バーディン広場(Ba Đình)のBa=3、Đình=村 を意味しま
す。
ほぼ60年後の1945年にホーチミンはこの広場で、ベトナ
ムの独立宣言を読み上げたのです。>
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