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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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76 ホーチミン主席の足跡 1969年 その5 遺体の移動
<再掲>

1969年9月9日に国葬は終了します。国葬の終了は主席
の遺体が安住の地を求めて放浪する始まりでもありました。
ベトナム戦争で北ベトナムへの空爆が激しさを増してきたから
です。

<1回目の移動>
国葬後すぐ労働党中央委員会は、空爆から主席の安全
を守るため、ハノイからの移転先を求めます。移転先はハタイ
省のBa Vì軍事基地へ行くときに、主席がよく昼食をとった
ダー川の丘の上と選定されました。主席はかつて、戦争が拡
大した場合には、この地に中央委員会の秘密基地を作るこ
とを決定してい束所です。

高級工兵隊と第144師団が移転プロジェクトの任命を受け
ます。このプロジェクトはK9と呼ばれました。

プロジェクトはこの場所の地下にシェルターを築き、水や電力
設備を整えることが必要でした。

シェルターは地下6mに幅5mが必要で、爆薬を使わず
1800個の手動ドリルで作られ、3トンもある鉄ドアーもクレーン
が使えず、レンチで6m地下に下ろされました。

遺体は螺旋レールによって、水平に振動や傾斜させないで
降ろすことになりました。

そして水の供給は川からではなく地下水を利用し、電気の
供給には3台のディーゼル発電機が採用されました。

最後の問題は遺体の運搬方法でした。ヘリ、船、車両のう
ち、最終決定は車両となり、通過道路は振動を抑えるた
め、事前に整備されました。

棺の積み上げや積み下ろしの練習は何回となく行われまし
たが、その過程で棺の下部と兵士の首を皮ベルトで結び、
兵士がスリップしても棺が地面にたたきつけられないようにしま
した。

1969年12月末、午後11時、ホーチミン主席を載せた特
別車両がプロジェクト75を出発しました。車両にはDr.
Quyênとロシアの技術者が主席の傍に乗り、常に遺体の状
態が監視出来るよう陣取りました。しかしこの席は主席の遺
体を冷やすため、大きな氷が積み込まれていたため、非常に
寒かったことは間違いありません。

勿論、この移動はトップシークレットで、遺体を守る兵士たち
は、地元の住民とも接触を絶たれ、食料も自給自足に近い
生活を強いられました。しかし彼らのホーチミン主席に対する
尊敬の念は絶大で、現在では「隠れた英雄」と称されていま
す。


<1970年>

1970年の初めには第69軍団が組織され、遺体の警護を
専門に担当するようになります。彼らは軍服を着ることは認め
られず、地元民との接触も禁じられていたため、この施設は、
地元民からは脱走兵の再教育キャンプ場と思われていたぐ
らいです。翌年のテト正月も野菜とトウモロコシ入りのご飯で
過ごさねばなりませんでした。彼らの任務はホーチミンの遺体
を最善のレベルに維持するとともに、労働党中央委員会の
訪問に対応することでした。

1970年8月、労働党中央委員会の代表団が訪れ、主席
の遺体が完全な状態に維持されていることを確認してから
は、この軍団が南北統一の日までホーチミン主席を守りま
す。


<2回目の移動>
1970年11月20日の夜、アメリカ軍の戦闘機とヘリが捕虜
となっているアメリカ軍パイロットを救出するため、近くのハタイ
省にある刑務所を急襲しました。

ベトナム労働党は最新鋭のアメリカ軍の偵察機によって、こ
の廟も発見され、攻撃されかねないと判断し、主席をハノイ
に呼び返すことを決定します。

ハノイへの帰還は前回の経験から、順調に実施されました。
ハノイに着いた兵士の待遇も少し向上しました。しかし依然
として移動はシークレットですので、兵士の手紙は開封され、
外出も不自由でした。


<1971年>

<3回目の移動>
1971年末、紅川の水位は14.1mにもなり、雨は止む気配
がなくハノイ市は大洪水になってしまいそうな気配でした。遺
体を管理する69軍団はすぐにK9の丘に遺体を移すよう進
言します。

移動準備は水位との戦いで、急いで行われ、悪天候のため
昼間の移動が許可されました。国防省のリーダーが直接指
揮をとり、車両には最優先の旗が掲げられました。途中で主
席を乗せた車両は洪水の道路を走れず、小さな車両に遺
体を移して、大型車両の上に乗せて走るというハプニングが
ありましたが、無事K9に着きました。

そしてアメリカ軍の攻撃に備えて、歩兵と砲兵部隊が秘密
裏に配置されました。


<1972年>

<4回目の移動>
1972年に入るとアメリカ軍は北ベトナムに対して激しい空爆
で破壊活動を行い始めました。北ベトナム政府は再び遺体
の避難を決定します。69軍団は数人の兵士に移転先を探
させます。

探し当てた場所はK9から15Km離れたダー川の傍の洞窟
でした。そこは高山の麓で森に囲まれた谷でした。ここはK2と
名づけられ、施設や道路整備は20日間で仕上げられまし
た。そして遺体は完全に無傷で移動に成功します。


<1973年>

<5回目の移動>
1973年になると、アメリカ軍はベトナムから引き上げます。そ
して遺体は主席のお気に入りの場所、K9、Ba Vìに戻されます。


<1975年>

1975年ベトナム戦争が終結しても、主席の遺体が埋葬され
ることはありませんでした。15年に及んだ戦争がベトナムに残
した傷は、あまりにも深く、300万人が死に、爆撃で焼かれた
緑豊かな国土はベトナム人自分の手で立ち直らせなければ
いけませんでした。その為にはホーチミンというシンボルが必要
だったのです。

<6回目の移動>
1975年7月18日午後8時、バーディン広場に新築された
ホーチミン廟に移され、今日に至っています。
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