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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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55  ホーチミン主席の足跡 1954年 その3 ジュネーブ和平会議

1954年4月26日、スイスのジュネーブにインドシ
ナ地方に利害を持つ関係国代表が集まり、インド
シナ和平会談が開始されました。参加国はフラン
ス、アメリカ、イギリス、ベトナム国(バオ・ダイ
政府)、カンボジア、ラオス、ベトナム民主共和国
(ベトミン)、ソ連、中華人民共和国の9カ国です。

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1954年4月26日から開かれたインドシナ和平会
議。

1954年5月7日にディエン・ビエン・フーの戦いで
フランス軍がベトミン軍に大敗したことを受け、翌8
日に会議が召集されます。

ベトナムは強硬に統一国家の建設を主張し、和
平交渉は難航していました。

ディエン・ビエン・フーの戦いが終わるとファン・バン・
ドンはジュネーブに向かい和平交渉に参加します。

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6月になるとインドシナ完全休戦を主唱するピエール・
マンデスがフランスの首相に就任し、1ヶ月以
内の和平実現を公約したため、各国はようやく歩
み寄りを見せてきます。

ベトナム民主共和国側は国土の大部分を制圧し
ていることを背景に、軍事境界線の設定などにお
いて最後まで強硬姿勢を崩しませんでした

しかし7月3日 ホーチミン、ボー・グエン・ザップ将
軍、ホアン・バン・ホアン(Hoang Van Hoan)は中国
の柳州で周恩来と3日間にわたりインドシナの軍
事情勢について会談します。

周恩来は説得します。
「アメリカが軍事援助を強めている現在,軍事的
手段よりも平和的手段(統一選挙)のほうが望ま
しい。暫定的な分割を受諾し,二年後の統一自
由選挙を待つよう提案します。その上で,まず16
度線で主張し,必要ならば17度線まで譲歩する
よう」提案します。

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1954年 周恩来首相のパーティーに出席。周恩
来はインドシナ和平会議でのベトナムの主張に助
言しました

会談の最終日、ベトナム民主共和国(北ベトナ
ム)はソ連や中華人民共和国の周恩来の説得を
受け入れ、7月20日和平協定が成立しました。

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1954年7月20日の最終のインドシナ和平会議

和平協定の背景には、「植民地時代の終わり」を
告げる世界の潮流と第2次世界大戦によるフラン
ス本国の国力の疲弊があり、一時的な南北分断
はアメリカを敵に回して戦争を継続することは得策
でないとの判断が働いたものとされています。

この会議では9カ国の代表が出席していたので、
事務局はテーブルの配置や席決めに大変苦労し
ました。特にテーブルを円卓にするか、四角にする
かで1か月ぐらいもめたそうです。(上記の写真を参
照)

1954年7月21日 調印式です
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1954年7月21日 和平協定にサインする代表
団。ベトナム民主共和国は国防大臣のTa Quang Bau
がサインしました。

ベトナム国(バオダイ政府)とアメリカはサインしませ
んでした。
アメリカのアイゼンハワー大統領は協定調印に当
たり、「米国はジュネーブ会議の決定に参加もして
いないし、拘束されてもいない」と言明し、協定の実
施を保証した最終宣言に署名することを拒否して,
単独の宣言を出し,ベトナムでの統一選挙の実施
に反対の意向を明らかにしました。

<合意内容>
フランス軍とベトミン軍の停戦と相互撤退

北緯17度を停戦実施のための暫定的軍事境界
線とする

居住地選択のため、300日間の南北往来の自由
が認める

停戦監視団の派遣

1956年7月に自由選挙を行い統一を図る

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軍事境界線

北ベトナムと南ベトナムの間にはDMZを呼ばれる
非武装地帯が設けられましたが、具体的にはこの
Ben Hai 川にかかるHien Luong橋(Binh Linh,
Quang Tri)が軍事境界線となりました。


ホーチミンはジュネーブ協定の調印後、直ちに閣
議を招集します。
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1954年7月23日、キムクワン村(Kim Quan,
Tuyen Quang)の閣議で議長をするホーチミン

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フランス植民地支配からベトナムを開放した指導
者4人  
 
1954年7月共産党第6回中央委員会後、左か
らチュン・チン(Truong Chinh) ホーチミン、 ファ
ン・バン・ドン副首相(Phan Van Dong)、ヴォ・グ
エン・ザップ将軍(Vo Nguyen Giap) チュン・チン
は革命闘争を文化の面から支えた人です。

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1954年8月12日 ジュネーブ協定実行の国際
監視団


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1954年9月19日 ハノイに帰還途中、フートー
省の雄王(フン王)寺院で先鋒部隊の将校と会
議をするホーチミン。ベトナムを最初に建国したとさ
れている雄王に触れています。

「Các vua Hùng đã có công dựng nước, Bác
cháu ta phải cùng nhau giư lấy nước」
「雄王が苦労して作った国を、我々はお互いに力
をあわせて守っていかねばならないのです」


1954年10月10日 首都ハノイに凱旋する兵士
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1954年10月10日 ベトミン軍がハノイに帰還。
ホーチミンもハノイに戻り、政権を掌握。ホーチミン
直系のファン・バン・ドンが首相に就任します。

フランスと北ベトナムは文化交流協定を締結して、
関係修復に向かいます。フランスの植民地政策に
散々苦しめられたベトナムですが、フランスの文化
はとても魅力的なのです。

ホーチミンはディエンビンフーの戦勝を最後に直接
戦場に向かうことはなく、これ以降は関係国への
感謝の旅と国土の復興へ向けて、大統領として
国民の精神的支柱を果たそうとしたようです。

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1954年10月17日 インドのネール(Nehru)首
相を迎えるホーチミン


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1954年11月29日 ミャンマー首相の訪問

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1954年12月24日 ハノイ電気管理局の上級
労働者と話し合いをするホーチミン

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1954年12月25日 ポーランド大使の親任式

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1954年12月27日 Pedagogy Cllege の学生
と南ベトナムの生徒を大統領府に招いて記念撮


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チェコスロバキア大使の親任式
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