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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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49 ドンケの戦い
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1950年ドンケの戦いの開戦を見守るホーチミン

1950年7月、共産党中央委員会の決定に従いザップ将
軍によって国境戦線が組織されました。中央委員会のメン
バーTran Dang Ninhが輸送路確保の責任者に指名され、
国境作戦の本部は現在のカオバン(Cao Bang)省のQuang
Uyen地方におかれました。

共産党中央委員会はこの戦いの重要性を説きます。

そしてホーチミンは前線の兵士に手紙を書きます。「この
戦いは勝つための戦いではなく、負けないようにする戦い
である」

カオバン地方の住民は国境作戦の主戦場になることが予
想されていたため、「すべての戦いに勝利を」というスロー
ガンのもと、1950年の早い時期から準備を進めていまし
た。

カオバン地方では現地の少数民族78824人が作戦に参
加し、延べ1340780日に渡って戦闘の後方部隊として働
きました。

この作戦のために2346トンの米と120トンのおかずが
用意されていました。

8月の終わりにホーチミンは兵士と共にカオバンの前線に
向け出発します。

9月16日の夜。ホーチミンはカオバンのドンケ駅に着き、
前線の兵士の装備を見に行くと、同志や兵士、特にカオバ
ンに住む少数民族の人たちは感激し、前線は作戦成功へ
の意欲で沸き返えりました。

ホーチミンはドンケの前線で、兵士と共産党常務委員との
作戦会議でこの戦いの重要性を説きます。

「我々はドンケで戦わなければならない。なぜならフラン
ス軍のドンケの要塞は比較的弱いからだ。しかしこのCao
Bang - Lang Son - Dong Kheのルートは中国からの武器援
助を受ける非常に重要なルートなのです。

フランス軍は援軍を送ってくるだろう。しかし我々の作戦は
彼らを打ち破ることが出来る。ドンケが陥落したら、その後
Thất KhêとThị xã Cao Bằngを攻める。」

9月16日、カオバンタウンの前線では、 Nà Cạn飛行場に
猛攻撃を加え、敵の飛行機を1機破壊していました。

9月18日午前10時ドンケの戦いは完全な勝利で終りま
す。

続いて前線の人民委員会とカオバン市民は兵士と共に敵
の2つの基地Lơ Pagiơ と Sáctôngを破壊することを決定
します。

10月1日、ベトミンはドンケの南側にあるLơ Pagiơ基地を
攻撃し、10月7日にLơ Pagiơ基地を占領します。

Sáctôngでは10月3日に4号線沿いに引き揚げてきた20
00人のベトミンと合流して10月7日にはフランス軍の
Sáctông 要塞を破壊しました。フランス軍の20人の将校
は降伏しなければなりませんでした。

Thất Khêで再編成されたベトミン兵士1000人はBông
Lau,  Lũng Phầyをも攻撃しました。

国境作戦はベトミンの完全勝利に終りました。

ベトミンの資料によれば、

「我々はフランス軍の基地を破壊し、8300人を捕虜にし
た。フランス軍の10個大隊と交戦し、うち8大隊を壊滅状
態に陥れた。それはインドシナ戦争の41%の戦力にあた
る。
4500Km2の土地に住む350000人のベトナム人が解放
された。」

国境作戦の勝利は作戦上、非常に重要な意味を持ちまし
た。ベトミンが平地戦でフランス植民地軍を破った最初の
戦いでした。ベトミンのその後のフランスやアメリカに対す
る抵抗戦争の方法に平地戦も導入されていきます。

国境作戦は終わりました。 Cao Bang は完全に解放され、
フランスによる奴隷生活を余儀なくされていたカオバンの
人々は新しい生活を始めました。

勝利以来、毎年10月3日はCao Bang 地方解放日
とされ、現地では記念式典が行われます。

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