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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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48 ホーチミン主席の足跡 1950年(60歳)
1950年1月18日に中華人民共和国が、続いて1月30日
にはソビエト連邦がベトナム民主共和国を承認します。

中華人民共和国のベトナム民主共和国を承認に伴い、ホ
ーチミンは1月から4月の期間、秘密裏に北京⇒モスクワ
⇒北京とベトナム支援の旅に出ます。ホーチミンを

Võ Nguyên Giáp 将軍の著作「Đường tới Điện Biên
Phủ」(ディン・ビン・フーへの道)によると、

「1950年2月モスクワでホーチミン、毛沢東(Mao
Zedong)、スターリン(Joseph Stalin)が会談した。

スターリンは中国を経由してベトナムに武器援助をするこ
とに同意し、毛沢東もGuangxi (広西チワン族自治区)がベ
トナム支援の後方基地として協力することに同意した。

1950年4月にベトミンの軍事部門は中国に行き武器援助
と軍事訓練を受けた。この武器援助により、ベトミン主力軍
は長い竹槍に代わって、銃と豊富な弾薬を装備することが
出来た。我々の歩兵の戦闘能力は完全に変化した。」

ホーチミンのこのたびの詳細は中国側の文献『中国軍事
顧問団援越抗法実録――当事者の回憶』に詳しく記録され
ています。

「引用」
「1950年1月下旬,べトナム高平省復和県の曲がりくねっ
た土の道をやせて頭に手ぬぐいをまいた老人が,中国の
広西省竜州水口関へ向かって歩いてきた。ホーチミンであ
った。彼に随行しているのはベトナム人民軍で共産党中央
委員の陳登寧と5.6人の随員だけであった。ホーチミンの
この行動は完全に秘密であり,共産党の指導者でも数人
の人しか知らなかった。

インドシナ共産党の第三次全国代表大会が閉幕したばか
りで、その大会では当面の闘争の情勢を分析した結果、全
会一致で「正規軍の欠乏、兵種および大型武器の欠乏、高
速の通信手段の欠乏、戦略のわかる指揮者の不足」が抗
法戦争が直面している最大の問題である事が認識された。
ホーチミンの中国訪問目的は、中国に抗仏戦争の情況を
説明し、中国共産党に軍隊の建設と軍事要因の派遣を要
請することだった。

水口関は、過去にベトナムの革命事業のために彼は何回
もここから出入りしていたのでホーチミンは非常に良く知っ
ていた。中央の指示に従って広西軍区保衛部の責任ある
同志が30余名の解放軍の幹部戦士を率いて、早くからこ
こで彼の到着を待っていた。

中共広西省委員会書記や省政府主席の張雲等らが、その
夜、宴会を開いてホーチミン一行を歓迎し、張雲逸はホー
チミンに言った。現在、広西は解放されたばかりであり、土
匪と特務の活動はきわめて活発である。工農業生産は急
いで回復しなければならず、土地改革はまだ始まってもい
ない。われわれは必ず工作に勤め、広西をベトナム抗仏
闘争の信頼できる後方にする。当時、湘桂鉄道は南寧東
北の来賓までしか開通していなかったので、ホーチミン一
行は南寧から車で来賓へ来て、そこから列車に乗って北京
へ向かったのです。

ホーチミンは1950年1月北京に到着したが、この時毛沢
東・周恩来はモスクワを訪問しており、劉少奇が留守を守
っていた。

この夜、劉少奇が盛大な歓迎の宴を挙行した。

ホーチミンは言った。我々は中国革命の勝利を非常に喜
んでいる。あなた方の勝利は我々の信念を高め、貴重な
闘争の経験を提供してくれた。我々は中国の同志が我々
を援助して部隊を訓練し、強いベトナム人民軍を建設する
事、我々を援助して作戦の指揮を行い、並びに物資の面で
支援を与えてくれる事を希望する。

劉少奇は言った。現在の国際情勢は、ベトナムの抗仏戦
争にきわめて有利である。中国はすでにベトナムの承認を
決定した。ならびにソ連と協議し彼らに承認を提案し、ベト
ナムに国際的地位をもたらしたい。我々がベトナム人民の
抗仏戦争を援助する事は、中国共産党と中国人民が尽くす
べき国際的責任であると考えている。

中国は解放されたばかりであり、すべての工作はみな始
めからやらなければならない。特に匪賊特務の粛清、経済
の回復、土地改革等の任務は極めて繁重である。だが、
われわれはベトナムの抗仏戦争に支援を与える事を決心
している。この事は毛主席と周恩来同志が帰ってきた後、
援助の内容を真剣に研究する。

さらにホーチミンは出来るだけ早くソ連へ行き、スターリン
に会って、ソ連の政府が援助を与えてくれることを依頼した
い。毛沢東・周恩来がモスクワにいるのなら、ソ連へ行け
ば彼らと一緒に相談できる。彼は劉少奇に出来るだけ早く
ソ連へ行けるよう連絡調整する事を求めた。

ホーチミンは2月6日モスクワに到着し、その日の夜、ソ連
中央が歓迎の宴会を開いたがスターリンは出席しなかっ
た。毛沢東には解っていたが、スターリンはホーチミンが
民族主義者であり第二のチトーになる事を心配していたの
である。

毛沢東はスターリンとの会談で辛抱強くホーチミンの人格
を説明した。ホーチミンはベトナムのマルクス主義の革命
家であり、ベトナム人民の支持を深く受けている。スターリ
ン同志は出来るだけ早くホーチミン同志に会って、彼がど
んな要求と考え方を持っているか聞くべきである。

スターリンは言った。「ホーチミン同志はソ連が直接ベトナ
ムに援助を提供する事を要求している。彼らを援助してソ
連がフランス人と戦うことに関しては、我々は少し違った考
えを持っている。スターリンは既にヨーロッパにおける「平
和攻勢」のために、反帝国主義民族革命とプロレタリア国
際主義を放棄していた。

スターリンは続けて「中国革命の勝利は、中国がすでにア
ジアの革命の中心になっている事を証明している。我々が
ベトナムを支援し援助する工作は、主として中国が引き受
けるのが良いと考えている」。

毛沢東は言った。「ベトナムが必要としている主なものは武
器弾薬であり、またそのほかの軍事物資もある。中国は必
ずしもその必要をすべて満足できないだろう。彼らはソ連
もまた援助を与えてくれる事を希望するだろう」。

スターリンは引き続き彼の意見を述べた。「中国とベトナム
は地理的に近く、連絡も多い。中国から援助する事がより
便利である。中国の経済建設を援助する事はソ連の重要
な任務である。我々はすでに世界大戦を終え、大量の武
器装備はいらなくなった。それを中国へもって行く事は出
来る。ベトナムで使えるものは君たちがそこへもって行け
ば良い」。

スターリンは国際紛争を引き起こす事を恐れていた。しば
らく前、劉少奇がひそかにソ連を訪問したとき、スターリン
は繰り返し「国際分業」しなければならないと強調していた。
これについて毛沢東はもはや違った意見を示さなかっ
た。」
「引用終わり」

そして中国、ソ連ともベトナム民主共和国を正式承認すると同時に、
軍事援助を約束します。
中国人民共和国は蒋介石軍から獲得した自動小銃、曲射
砲、トラックを含む大量のアメリカ製武器をベトミンに供給し
ます。

これを受けてアメリカも対仏援助を開始します。インドシナ
戦争の全戦費の80%はアメリカが負担します。

共産主義革命によってフランス植民地から独立というホー
チミンの愛国民族主義は東西冷戦構造の始まりとともに、
共産主義国(ソ連、中国)と資本主義国(アメリカ)がべトナ
ムを舞台にして戦う代理戦争の性格を帯びてきます。


17_20111111161445.jpg
1950年3月 フランス共産党若手リーダーのLeo Figeres
がホーチミンの対仏反撃拠点であるViet Bac Baseを訪れ
ます。

1950年3月16日 アメリカの空母一隻と駆逐艦2隻が、
サイゴン港に入港してきます。
18_20111111161445.jpg
アメリカの駆逐艦

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1950年3月19日 ベンタン市場前アメリカ軍艦の入港に
抗議するサイゴン市民

16_20111111161446.jpg
1950年4月、フランスの傀儡政権であった「ベトナム国」
は独立1周年記念を祝います。


1950年6月2日 アメリカは軍事顧問団の派遣を決定し、
戦車、飛行機、重砲を南ベトナムにいるフランス軍に供与
します。

一方中国も6月に最初の軍事顧問団をViet Bacに送り込
みます。

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1950年 中国の軍事顧問団長のTrán Canh 将軍と同志
のLa Qui Ba、左端はチュオンチン
ホーチミンとTrán Canhは1920年代の中頃、中国広州で
の同志であった。Trán Canhは雲南省の中国共産党軍の
司令官になっており、4人の中国軍事アドバイザーを引き
連れてベトミンの援助にやって来ました。


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1950年 共産党幹部と国境作戦を練るホーチミン。

国境作戦は中国からの援助物資の通過ルートを確保すた
めの作戦で、ベトナム東北部のカオバン一帯を奪取し中国
広西省と連結させる作戦

7月、ザップ将軍は戦場に行く前にホーチミンに会いに来
ます。ホーチミンはザップ将軍に語ります。
「この戦いがキーだ。勝たねばならない。負けてはなら
ない」と。

12_20111111161257.jpg
国境作戦の前線に向かうホーチミン

13_20111111161256.png
フォーダイ川の滝のそばでくつろぐホーチミン

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1950年 国境作戦はホーチミン自ら先頭に立ち、野営し
ながら戦場へ向かいます。

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国境作戦(Đông Khe)で戦闘を開始する兵士を見守るホー
チミン

<Đông Kheの戦いについては別項>
国境作戦と呼ばれたĐông Kheの戦いは中国との輸送ル
ート確保のため、とても重要な作戦でした。そしてベトミン
にとってゲリラ戦ではなく、平地での最初の大戦闘でした。

20_20111111161444.jpg
1950年9月17日 ホーチミンはラオスの皇太子
Souphanouvong(XU-PHA-NU VÔNG)に手紙を書き、連携を
深めます。翌年皇太子はホーチミンを訪れます。

1950年10月28日 フランス本国議会のドゴール派は、
「もはや軍事的勝利によってインドシナを支配することは不
可能である。政府は真剣に和平の道を探求すべきである」
という決議案を提出、採択されています。

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1950年 ベトバック地方の子供を抱きしめるホーチミン

22_20111111164046.jpg
この年、11月9日、彼は悲しい知らせを伝えられます。兄
が故郷のゲアンで亡くなりました。勿論、彼は帰るわけに
は行きません。電報を打つのが精一杯でした。

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12月 戦場へ向かうホーチミン
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