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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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44 ホーチミン主席の足跡 1946年(56歳)
1946年1月6日フランスの再植民地化が進むなかで、ベト
ナム全土で初の総選挙が行われ最初の議会がハノイのオ
ペラシアターで開かれました。

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1946年1月6日 第1回国会選挙の投票に行くサイゴン市民

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第1回の国会召集 ハノイのオペラハウス
13
1946年1月 ベトナム国最初の国会召集当選者祝勝会で
演説するホーチミン

1946年2月 フランスは中華民国と重慶で協定を結び、中
華民国の国民党軍を引き揚げさせます。フランスは国民党
軍撤退の代償として、中国でのフランス租借権の放棄、雲
南鉄道の譲渡・ハイフォン港自由化、在インドシナ華僑に
対する優遇措置などを受け入れます。

ベトナム各地では英印軍やフランス遠征軍とベトナム人の
小競り合いが頻発していました。


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1946年2月28日 ベトナムの独立を支持するよう訴えたア
メリカ大統領あてのホーチミンの電文。アメリカ大統領はフ
ランスとの関係から無視せざるを得ませんでした。

1946年3月になるとフランス軍は大挙して北ベトナムのハ
イフォンに向かい、圧倒的な火力でホーチミンに圧力をか
け、3月6日にはハノイに進駐し、インドシナ全域の再植民
地化を目論見ます。同日、フランスは北ベトナム軍事制圧
の時間稼ぎのため、停戦予備協定を結びます。

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1946年3月6日 予備協定に署名する前にフランス政府代
表サントニー(G.Xanhtoni)と交渉するホーチミン。サント
ニーは「ドクラップ(独立)」の文言をホーチミンに決して与
えませんでした。

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フランス軍の代表Tuong Lo Clec を迎えるホーチミン

予備協定は、ベトナム民主共和国を「フランス連合内の自
由な国家」として承認する。トンキン(北部)とアンナン(中
部)ではベトナムによる自治を認め、コーチシナ(南部)の
帰属は住民投票で決めることとする。1952年までにフラン
スは軍事基地を除いて撤退するという内容でした。

ホーチミンは強硬派を抑えて譲歩して調印しましたが、こ
の協定はフランスの北ベトナム軍事制圧のための時間稼ぎ
でした。

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1946年5月23日 ホーチミンの側近ファンバンドンがフラ
ンス政府の招待でベトナム独立交渉のため、フランスへ出
発します。


5月30日 ホーチミンもベトナム独立交渉のため、渡仏しま
す。(帰国は9月19日)

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5月31日 ホーチミンが南部の人々に当てた手紙。

「我々は絶対に奴隷となることに甘んじない。独立と自由を
失うならばむしろ死を選ぶ。」
フランスとの交渉に旅立つホーシミンの決意です。

しかしフランスは、1946年6月1日 予備協定に違反して、
旧皇帝バオダイを国家主席にして南ベトナムに臨時政府
「コーチシナ自治共和国」を建国してしまいます。

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1946年6月22日 フランスのフォンテヌブローで行われ
る外交交渉のため,パリに到着するホーチミン。大歓迎を
受けましたが。


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1946年7月2日 首相官邸で行われた晩餐会でホーチミ
ンを見送る首相のG.Biđonと議員のJean Sainteni

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パリのタウンホールでベトナムは2度と他国の植民地になら
ない旨、全ベトナム国民の決意を宣言するホーチミン

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パリ市民にも非植民地の決意を述べるホーチミン

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子供から花束を受けるホーチミン。

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ベトナム人の子供達の歓迎を受けるホーチミン

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フランス人家族の質問を受けるホーチミン(7月3日)


フランスに4カ月半も長期間滞在したホーチミンはフランス
の各地で戦争で荒廃したフランス国土の悲惨さを自分の目
で確かめます。

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1946年7月14日 フランス革命記念日に顕花するホーチ
ミン

第2次世界大戦後のフランス各地を視察するホーチミン
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1946年9月14日 フランスとの間で仮調印をし、帰国しま
す。

仮調印の詳細が不明ですが、フランスとの交渉は勿論不調
に終わります。

帰国後フランスとの関係は急速に悪化します。

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ホーチミンは帰国後、南部ベトナムの学者Trần Đại
Nghĩaと武器の製造について指示を与えます。


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第1期第2回国会で内閣のメンバーとの記念写真。

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第1期第2回国会開会での国会議員のメンバーとの記念写
真。1946年11月28日、29日 首相はNguyen Van To

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第1期第2回国会で演説するホーチミン

1946年12月18日午後、フランス軍司令部はベトナム民主
共和国軍に対して武装解除の最後通牒を送ります。これに
対し共和国軍は徹底抗戦を決定し、翌日20時04分、ハノ
イの民衆30000人が蜂起し、2ヶ月に渡りフランス軍と
抗戦します。

この衝突はベトナム全土に飛び火して、「第一次インドシナ
戦争」が開始されます。

12月20日 ホー・チ・ミンはメッセージを発表して全国民に
長期抗戦を訴えます。

ホーチミンのメッセージ:「我々は平和を望み譲歩した。し
かし彼らはふたたびわが国を略奪しようと決意している。断
じて許さない、我々は絶対に奴隷となることに甘んじない。
独立と自由を失うならばむしろ死を選ぶ。」


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ハドン省バンフック(Van Phuc)村のホーチミンの私邸。ここ
で全国民に向けた抗戦アピールが書かれました。

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徹底抗線のアピール書

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南部の同胞に送った抗戦アピール書の質問を受けるホーチミン

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南ベトナムの青年軍団


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ベンチェ省のモッカイでフランス軍に反撃する南ベトナム
の市民

フランスの再植民地化に対しての抵抗がゲリラ的に各地で
起こります

1946年12月19日午後8時には、ハノイ市街の電源が切ら
れ、暗黒の中で、サントニーの乗った車が爆破されます。


<陸軍中学>
1946年5月にベトナム中部海岸のクアンガイで、軍事訓練
学校「陸軍中学」が創設されていて、残留日本軍将兵30名
が約400名のベトナム人学生を訓練していました。教科書
は旧日本軍の『歩兵操典』です。11月には抗仏戦争の開
始を受け学校を閉鎖しますが、教官・学生ら約100人は北
部山岳地帯へ移動してベトミンと行動をともにします。

この学校のベトナム人卒業生は後の1954年ディンビンフ
ーの戦いやベトナム戦争で指揮官として働きます。1975
年サイゴン陥落日に南ベトナムの大統領官邸に一番乗りし
た戦車に乗っていた一人もこの学校の卒業生です。南北
統一後30人以上の日本軍兵士がベトナム政府から勲章を
受け取っています。


しかし12月、フランス軍もハノイ、ハイフォンを武力攻撃し、
ホーチミンは態勢を立て直すため、中国国境近くの山岳地
帯に退却します。まさかフランスが再植民地化をするとは
思っていなかったホーチミンは蜂起のアピールをしたもの
のフランス軍と戦う軍事的な体制は整っていませんでした。

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