べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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37 ホーチミン主席の足跡 1943年(53歳)
この年の秋までは獄中です。

1943年1月にはホーチミンは桂林(Quế Lâm 英語
Guilin)の収容所に移されていました.

2月の初めに桂林から中国国民党の政治局事務所のある
柳州へ移されます。

ここの収容所では十分な食料が与えられ、手錠や足かせも
されず、午前と午後にはトイレタイムが各15分間ありまし
た。

ベトナム国内では2月25日にインドシナ共産党常務会議が
開かれます。「より幅広い統一戦線の形成のためには、党
の中に文化専門の幹部が必要である」としてチュオン・チン
が中心となって、幅広い知識人を結集するために、ハノイ、
サイゴン、フエなどの都市を中心に、文化救国会を発足さ
せます。

文化救国会は「ベトナム文化革命綱領」を作成して、
文化を、政治経済と同様に一つの戦線とみなします。「文
化活動をしてこそ、党は世論に影響を与えることができ、党
の宣伝効果を生む」という考えからでした。そして、文化活
動の柱として、民族化、科学化、大衆化の三原則を掲げま
す。

5月になると、看守は新聞を読むことを認め、新聞の切り抜
きはベトナムに送られました。

国民党の政治局員はホーチミンがベトナム国内の人と連絡
することさえ認めました。

この頃、ホー・チ・ミンは孫文や蒋介石の書物をベトナム語
に翻訳していたので、彼は囚人ではあったもののかなりの
自由が与えられていました。

しかし彼はダニに犯されていたので、朝4時に起き、冷た
い近くの川(Liu River)に飛び込みHemiulter
Leuisculus と言う魚に彼についた寄生虫をかじらせてい
ました。

同志Hô Học Lãmの妻とその娘はファン・バン・ドン(Phạn Văn
Đồng)の依頼を受けてホー・チ・ミンの行方を捜していまし
た。

Hồ Học Lãmは捕虜キャンプで毎朝冷たい川に飛び込んで
いる奇妙な人がいると聞き、7月の終わりから8月初め頃に
収容キャンプを尋ねます。

そこには蒋介石の「中国革命の運命」という書籍を4000
yuanで翻訳しているグエン・アイ・コックの姿がありました。

しかしグエン・アイ・コックがフランス植民地政府から指名手
配を受けているのを十分知っていた彼女は、断固として知
らぬ振りを通しました。

ホー・チ・ミンは娘さんに学校の制服を買うに十分なお金を
渡そうとしましたが、受け取らず、手土産を置いて帰って行
きます。

ホーチミンの釈放には中国共産党、インドシナ共産党、ベ
トナム在華僑団、および国民党進歩人ら多数のグループが
援助し、最終的には国民党が援助を受けていたアメリカO
SSの口利きで1943年9月10日に釈放されますが、ベトナ
ムへの帰国はすぐには認められなかったようです。そして
この日、ホーチミンは捕虜キャンプで「Conclusion」という
最後の詩を書きます。

釈放後、彼はしばらくLiuzhou(柳州)に留まり、在中国のイ
ンドシナ共産党員と抗日、抗仏活動を共にしていまし
たが、その間に故人となってしまったHồ Học Lãmの家族
を訪ね、娘さんのHồ Diệc Lanと話をしています。

その話の中でホーチミンは、彼の書籍「Our history」の中
で、「革命は確実に勝利する。そしてそれはすぐ、1945年
には起きる」との予測を披露しています。
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