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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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27 ホーチミン主席の足跡 1932年(42歳)更新
この年は獄中です。

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12
投獄された香港のビクトリア刑務所


1932年1月の終わりには、フランスのインドシナ総督パス
キエ(Pasquier)は英国の香港知事サーウィリアムピール
(Sir Willam Peel)と秘密裏に香港で、非公式会合を
持ち、ホーチミンの取り扱いを相談しています。

この頃のインドシナや香港の刑務所には多くの革命運動家
が収容されており、革命のためのトレーニングキャンプの
様相を呈していました。

香港のビクトリア刑務所でもインドネシアの革命家タンマラ
ッカが収容されていました。

ホーチミンら革命家は警備員の脅威にもかかわらず、就寝
時に“インターナショナル”や他の革新的な曲を毎晩歌っ
ていました。香港の英字紙はビクトリア刑務所内での囚人
の記事や香港でのデモの多くを報道していました。

ホーチミンの弁護士ロズビーはホーチミンの釈放に向
けて、彼の人脈を通じて最大限の努力をしてくれます。

ロズビーは英国本国の弁護士協会に属しているデニスノエ
ルプリッ(Denis Noel Pritt)を通じて大英帝国の最高意思
決定機関である枢密院にアピールします。

枢密院への提訴を受けて、香港植民地政府の代理として
Sir Stafford Crippsとホーチミンの代理としてDenis Noel
Prittが法廷外で和解をします。この2人の弁護士は顔見
知りで、インド独立運動にかかわり、英国の社会党で活躍し
ていました。
    
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Noewil Pritt

枢密院での和解決定は1932年夏には、香港総督に伝え
られ、ホーチミンは仮釈放されます。しかしホーチミンのイ
ギリス本国への入国許可をめぐって、コード化された電文
の解釈でいざこざが続き、最終的にイギリスおよびイギリス
植民地への入国拒否の決定が下され、他国への出国許可
証が発行されるのは1932年12月でした。

その間、ホーチミンはウォータールーロード沿いにある中
国のYMCAに滞在していました。

和解の内容については文書が残っていないそうでが、国
外追放処分であったことは間違いないようです。

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YMCA

1932年9月8日 パリ留学中のバオ・ダイが帰国してベトナ
ムの皇帝に即位します。ゴ・ジン・ジェム(当時32才)を内相
にして立憲君主制度の樹立を始めとするグエン王朝の機
構改革に着手しまが、翌年9月にはフランスの干渉により挫
折してしまいます。
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