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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ディン・ビン・フーの戦い 作戦変更


ベトナムの戦争史の中で、自軍の軍事力が不利なため、体制を立て直
すために一時退却し反撃の準備をすることはよくありました。世界史
に記録されている戦史の中では、自軍が軍事的には有利なのに一時退
却し、敵の軍隊をワナにかける作戦も記録されています。

しかし、ベトナム、ディン・ビン・フーでの戦いで決定された戦闘直
前の総退却は、少し事情が違っていました。

フランス植民地軍とベトミン軍の世紀の一戦は、フランス軍がベトミ
ン軍の攻撃を迎え撃つという構図が描かれていました

この戦いは双方の主力部隊が集結し、ベトナムがフランス植民地軍を
追放して、自国の独立を守り通せるかの瀬戸際の戦いでした。

ベトミン軍の総攻撃は、突発的な出来事が発生して、その都度、延期
されていましたが、前戦では1954年1月26日夕方が総攻撃の日
と、兵士に通告されていました。

双方の前戦司令官や軍事顧問団はお互いに2-3日から1週間で、敵
を殲滅できると考えていました。

兵力は歩兵数や大砲の数ではベトミン軍が勝っていましたが、フラン
ス軍には、戦車や航空機がありました。しかしベトミン軍も120m
m迫撃砲や対戦車砲を中国やソ連から支援されていました。軍事力で
はベトミン軍のほうが有利であったと考証されています。

ベトミン軍兵士の士気は、自国民のフランス植民地政策からの開放と
いう大義名分の下に非常に高く、開戦を今か今かと待っていました。
そしてVi Quoc Thanhを中心とする中国軍事顧問団も早期開戦を支
持していました。

この戦いから、東側陣営、西側陣営のジャーナリストが従軍記者とし
て同行するようになります。西側記者はサイゴンに上陸し、ハノイか
らディン・ビン・フーへと、東側記者は中国を通ってディン・ビン・
フーにやってきました。ベトナム建国以来、外国人ジャーナリストが
ベトナムに入国して取材するのは、この時からのようです。

フランス軍のディン・ビン・フーの陣地には、フランス、アメリカ、
イギリスの首脳陣がそれぞれ視察に訪れ、満足げに帰っていきます。

世紀の戦いの開戦命令はすべてベトミンの最高司令官ヴォーグエン
ザップ将軍の手中にありました。しかしザップ将軍は慎重に慎重を重
ねて考え抜いていました。それはホーチミン主席の言葉「勝利に10
0%確信が持てるまでは、攻撃してはならない」と言う厳命があった
からでした。

1954年1月14日 Tham Pha 洞窟にベトミン軍の指揮官やス
タッフが招集され、秘密裏に総攻撃は1月20日と決定されます。
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しかし一つの砲兵軍団が戦闘位置につけなかったため、総攻撃は1月
25日17時に延期されます。

そして1月25日にも不幸にも312部隊のベトミン兵士がフラン
ス軍に捕まり、総攻撃日が1月25日であるとの情報がラジオで流れ
てしまいます。

総攻撃日はさらに翌26日に延期されました。

総攻撃の前日のことを、ザップ将軍は老年に回顧しています。
「その日私は、最も信頼している軍事スタッフであるHoang Van Thai
からの報告を聞いた後、私は考え続けその夜は眠ることが出来ません
でした。軍医のThuyが私の額にハーブを乗せてくれました。その日
の夜、私は司令官として生涯で最も困難な決定をしなければならなか
ったのです」、

ザップ将軍は前線指揮官が戦況が有利であることを、そして長期の補
給が難しいことから、即、開戦を望んでいることを理解していました。

しかし一晩中考えていた将軍は3つの困難を考え始めていました。

第1 ベトミン軍は強固で組織化された要塞を攻撃することはNa
Sanでの戦いの一度きりしか経験していない。そして戦闘経験を持っ
ている兵士は限られている。もし作戦に失敗したら、我々の被害はい
かに甚大であるか。

第2 今回の戦いはあらゆる武器を使う総力戦である。なのにベトミ
ン軍の砲兵や歩兵は正規に十分に訓練されているといえるだろうか。

第3 ベトミンは夜間のゲリラ戦には長けているが、今回は広い範囲
での盆地での戦いや敵の要塞と攻め落とす攻撃である。夜間だけの攻
撃ではない。敵の航空機や戦車も戦線に参加してくる。果たして短期
間で敵を殲滅できるのだろうか。

翌26日の早朝、ザップ将軍は軍事スタッフを招集します。前戦指揮
官であるVi Quoc Thanh は他の指揮官が集まってくる前に、ハーブ
で額を冷やしている将軍を見てびっくりし、将軍の健康を気遣かった
後、まもなくの開戦を控え現在の状況を説明します。将軍はThanh
指揮官からの報告を基に、双方の軍事力を話し合います。

そして将軍は言い放ちます。「もし今戦えば、我々は負けるだろう」
Thanh指揮官はどうすればいいか、将軍に尋ねます。ザップ将軍は自
分の意図を明確に話します。「攻撃は延期し、すべての軍隊は現在の
位置から総退却をして、もっと有利な条件で戦えるよう準備する」

しばらく考えた後、Thanh指揮官はザップ将軍に同意し、他の指揮官
を説得する役割を担います。

会議で多くの前線指揮官は勝利について確信できなっかたが、開戦す
ることを望んでいました。会議は結論を出せないでいました。
最後にザップ将軍がホーチミン主席の言葉を引用しながら尋ねます。
「この戦いに100%勝利する確信がありますか?」
「Sure」という言葉はどの指揮官からも返ってきませんでした。彼ら
の答えは「We can win」「我々は勝つことが出来る」でした。

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この答えでザップ将軍は撤退を決心します。

26日の午後遅く前戦部隊に撤退命令が下されます。数時間後の開
戦のため、すべての準備を終えていた前戦部隊は、誰もがこの撤退命
令を信じることが出来ませんでしたが撤退の軍事命令が覆ることは
勿論ありませんでした。

この撤退命令書はトップシークレットとされ、電信で伝達されること
はなく、すべてクーリエによって伝達されました。北部ベトナムのバ
ックボーにいたホーチミンや政治局員にも3日後に伝えられ、ディ
ン・ビン・フー戦いのすべての権限を与えられていたザップ将軍の
判断に同意します。

25日、26日にベトミン軍の攻撃がなく、加えてすべての砲兵が引
き上げ、ベトミン最強の308軍団が北部ラオスへと移動していくの
を知ったフランス軍は、ベトミンはディン・ビン・フー作戦を放棄し
たものとみなしました。

その後1月、2月中はベトミン軍の軍事行動は何もなく時が過ぎます。
ベトミン兵士はディン・ビン・フーで旧正月を迎えます。このことが
何を意味しているかフランス軍はまったく理解していませんでした。
フランス軍は空からビラをまいてザップ将軍を盛んに挑発します。

フランス軍首脳はまったく無知でした。1月、2月にベトミン軍は秘
密裏にディン・ビン・フーに続く道を整備し、新たに山岳地帯を通る
6つの補給路を人海戦術で構築し、補給路を堅固に作り変えました。
作り上げた秘密裏の補給路からは長期戦にも耐えられるように連日
のように食料や弾薬が後方から続々と送られてきます。
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突撃用の手榴弾は女性によって作られ、前戦に送られました。
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カノン砲をはじめとする大砲や対空砲は再配置されます。
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カノン砲は人力で山上に引き上げられます。大砲がずり落ちるときに
身を呈して大砲の下敷きになった兵士もいました。ザップ将軍は、「人
民の戦争 人民の軍隊」という書物で、「ディン・ビン・フーの決戦で
べトミンが勝つことができた原動力は、ディン・ビン・フーの周囲の
山に大量の大砲をかつぎあげた民衆である。 フランス軍は「ナポレ
オンがイエナの戦いで高地に大砲を引き上げ、プロイセン軍を壊滅さ
せた」あの貴重な戦訓をすっかり忘れていたようだ。」と回顧してい
ます。

戦後、フランス軍将校は、べトミンがまさか山の上に大砲を設置し、
いっせい砲撃をするとは思っていなかったし、中国軍が一緒にいたこ
ともはじめて知ったと。

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再配置されたカノン砲を視察するザップ将軍

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総攻撃の日までフランス軍の偵察機に見つからないよう隠されます。


フランス軍陣地を取り巻くように塹壕が掘られました。確実な勝利の
ための準備を着々と進めていたのです。塹壕を掘る作戦は第2次世界
大戦の残留日本兵がベトミンの作戦計画に参加していたからとも言
われています。
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一旦は北部ラオスへと移動した主力部隊308も秘密裏にディン・ビ
ン・フーへと帰還してきます。

撤退から1カ月半、総攻撃の準備を終えたベトミン兵士は、ザップ将
軍が漏らした言葉から総攻撃の日を読み取っていました。「1954
年3月13日は私にとって、とても長い日になるだろう。」

3月4日になると、フランス植民地司令官のナヴァール総司令官とコ
ニー将軍(Navarre、Cogny)がディン・ビン・フー陣地に視察来ます。
カストリー司令官は2人を歓迎して言いました。「我々の関心はベト
ミン軍が何もしてこないことです。我々はベトミン軍が攻撃してくる
のを待っているのです。」。

コニー将軍が答えました。「何もすることはない。ベトミン軍は変心
したのだ。ベトミン軍が攻撃すれば、我々は大勝利を勝ち取るが、彼
らが戦いを拒否すれば、戦わずして勝ったということを意味している
のだよ。」


3月13日 フランス軍の指令本部ではカストリー将軍とそのスタ
ッフが、今日の攻撃のないとの判断から、共にワインを飲みながら夕
食を楽しんでいました。

ディン・ビン・フーの盆地には夕日が沈みかけ、霧がかかってきまし
たが、前戦は静かでした。その時、突然ラジオ放送に割り込みの声が
聞こえます。

ザップ将軍の声でした。「準備はOKか」。

前戦司令官のダオ・バン・チュン(Dao Van Truong)が答えます。
「すべてOKです。攻撃開始のあなたの指令を待っています」。霧が
出てきていますので攻撃開始の命令をお願いします」

ザップ将軍は攻撃を承認し、そして叫びます。「Fire connon, Fire
hard, Fire with speed」40門のキャノン砲が一斉に火を噴きました。
歴史的な戦いの始まりです。

時に1954年3月13日17時05分でした。
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コメント
とても迫力があります
ベトナム独立のことについて書かれていた場合、この戦いのことは必ず触れられていますが、戦いの内容については全然知らなかったのでとても興味深かったです。
[2011/05/08 14:34] URL | yan #b5.M5V.g [ 編集 ]


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