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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ディン・ビン・フーの戦い 基地構築


1946年フランス軍のハノイ侵攻に対して、戦闘準備が整っていな
かったベトミン軍は一旦中国国境近くに退き、1950年からは中国
から大量の武器援助を得て、ゲリラ戦に加えベトミン正規軍の戦いに
よって除々に劣勢を挽回し始め、1953年にはフランス軍に対して
対等もしくは優勢な状況になっていました。

1953年5月にフランス本国から派遣されたインドシナ派遣軍総
司令官アンリ・ナヴァールは、予想以上に劣勢なフランス軍の戦況を
一気に挽回するため、アメリカの援助のもとに作戦計画を練ります。

1953年11月、サイゴンでの戦略会議の席上でナヴァール総司令
官は話し始めます。

「私はディン・ビン・フー盆地の占領を考えている」

その計画の骨子はベトミン軍とラオス革命勢力との連携の遮断と、中
国から北部ラオスを通過してベトナムに運ばれてくる武器弾薬ルー
トを遮断することにより、ベトミン主力部隊をおびき出し、殲滅する
事を目的として、ラオス国境に近いベトナム北西部の盆地ディン・ビ
ン・フー(ハノイから西へ480Km)に、要塞を建設することでした。
(ナヴァール計画)

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ナヴァール総司令官はディン・ビン・フー盆地に基地を建設すること
の優位さを次のように判断していました。

1.ディン・ビン・フーの地形や盆地の大きさを考慮すると迫撃砲や
無反動砲程度では稜線外からフランス陣地を攻撃することは困難で
あるし、それ以上の重火器を投入することは、ベトミン軍の輸送手段
が限定されているために不可能である。

2.ベトミン軍は補給能力が貧弱であり、ディン・ビン・フー周辺に
大部隊を展開することは困難である。これに対しフランス軍は航空輸
送により補給路を確保しうる。第2次世界大戦が終了し、航空機の優
越性が信仰されていました。

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ディン・ビン・フーの地形 南北20Km、東西6Kmの盆地です。

しかし、トンキン(北ベトナム地方の総称)軍管区司令官だったルネ・
コニー将軍を始めとして、この計画は冒険的過ぎるとしてフランス軍
の前戦司令官は全員反対であったと記されています。

そのためか、ディン・ビン・フー基地の司令官には、なかなか、なり
手がありませんでしたが、ナヴァール総司令官の部下であったクリス
チャン・ド・カストリー(Christian de Castries)大佐を正式にデ
ィン・ビン・フー基地の司令官に任命し、ディン・ビン・フー盆地の
占領に向けてアメリカ空軍との共同空輸作戦を決定します。(カスト
ール作戦 Operation Castor)

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アメリカの空軍は全面的にフランス空軍に協力します

中国からベトミンへの武器弾薬は、中国の広西省からラオスの北部を
通過して、ベトナムに運び込まれていました。またこの時期ホーチミ
ン主席はラオス、カンボジアの共産主義勢力とも連携を深めており、
ディン・ビン・フー盆地はベトナムへの通過地点として軍事上の重要
拠点になっていました。

1953年11月20日18時15分、フランス軍総司令官ナヴァー
ルは1通の電報を受け取ります。ベトミン第316師団が北ベトナム
の北西部、ソンラ、ライチャウ方面へ急速に移動していると。

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ライチャウへ向かうベトミン316部隊

ナヴァールの決断はすばやく、翌21日には、カストール作戦を実行
し、ビジャール少佐指揮下の第6植民地落下傘部隊3000人をハノ
イから空輸し、小規模のベトミン軍が守備するディン・ビン・フー盆
地に降下させ、ベトミン軍の通過を遮断する作戦を開始します。22
日にも落下傘部隊が降下し、ディン・ビン・フー盆地の占領に成功し
ます。落下傘で降下した兵員は総員4560人にのぼりました。

ベトミン軍は、ディン・ビン・フーに第148独立歩兵連隊を駐屯させていま
したが、カストール作戦当日には4個大隊中3個大隊が同地を離れてい
たため、戦闘は出来ませんでした。

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第1陣の落下傘部隊を空輸するフランス軍の双発輸送機

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パラシュート降下をするフランス落下傘部隊

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上陸した兵士

ディン・ビン・フーの盆地には、旧日本軍が構築した滑走路が2本あり、
降下したパラシュート部隊はわずか2日間で滑走路(Mong Thanh and
Hong Cum滑走路)を整備し、航空機での補給物資の輸送を可能にしま
す。

滑走路の使用が可能になったことで、フランス空軍とアメリカCIAの操縦
士は25日から1日100回を超える空輸を繰り返し、増援部隊や戦車、装
甲車、大砲などの武器弾薬を運び、ディン・ビン・フー盆地を囲む小
高い丘に、まるでマッシュルールのような兵士宿舎が建設されていき
ます。


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C-47輸送機

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増援部隊の降下

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へリによる空輸

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分解された10両のM24軽戦車やジープも空輸されました

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フランス軍兵士の宿舎

1954年1月上旬、フランス軍はディン・ビン・フーの軍事拠点を
完成し、歩兵17個大隊、砲兵3個大隊、総兵力1万6千人を配備し
ました。

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カストリー将軍家はフランスで何代も続く軍人の名家でしたが、将軍は大
変なプレイボーイだったようで、各軍事拠点にはカストリー家ゆかりの女
性の名前がつけられました。

ガブルエル陣地、アンヌ・マリー陣地、ユゲット陣地、フランソワーズ陣
地、クローディーヌ(司令部)陣地、 ジュノン陣地、イザベル陣地、ベ
アトリス陣地、ドミニク陣地 、エリアーヌ陣地

増援部隊の兵士は、ほとんどがフランスの正規軍ではなく、外人部隊
(主に第2次世界大戦で敗戦したドイツの兵士)、フランス植民地部
隊(アルジェリア、モロッコ、セネガル)、ベトナム現地人兵士(少
数民族のターイ族)でした。フランス軍の17個歩兵大隊中、7個大
隊は外人部隊でした。

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要塞を視察するカストリー将軍

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フランス国防大臣に要塞の説明をするカストリー将軍

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ルネ・コニー将軍の視察

要塞の建設には、フランスへの援助を通じてベトナムへの介入を強め
ていたアメリカニクソン副大統領の強力なイニシアチブの下で進め
られ、要塞が完成する直前にはニクソン副大統領自らが現地を訪問し、
視察しています。

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要塞を視察するニクソン副大統領


フランス軍のこうした動きを察知したベトナムの政治局、国防省、ホ
ーチミン主席は、ディンビンフー奪回の作戦計画を練り、1954年
年頭に総司令官にヴォーグエンザップ将軍を任命します。

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1954年1月 ディン・ビン・フー作戦の総指揮をヴォ・グエン・
ザップ将軍に命ずるホーチミン主席

ザップ将軍は1954年、年頭にホーチミン主席を北ベトナムの山岳
地帯ベトバックのベースに訪れ、戦いの指示を受けた後、別れの挨拶
をして、1月5日前線に向かい、ハノイから400キロメートル離れ
たディンビンフーに前戦の指令本部を作ります。

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前戦の軍事スタッフは1954年1月25日を攻撃日と定め、前線の
兵士に伝えます。

軍事スタッフは戦闘は2-3日で終了すると考えており、1月25日
午後5時に戦闘開始を秘密裏に指令します。この作戦は中国からの軍
事顧問によっても支持されていました。

一方フランス軍の首脳人(Navarre, Cogny, Castries)も戦闘は最悪
でも1週間で終了し、ベトナム主力軍隊は壊滅するだろうという意見
で一致していました。

しかしベトナム軍の攻撃はぎりぎりのところで、ザップ将軍の決断に
より延期されます。

後世、このザップ将軍の攻撃延期の判断がベトナム軍の歴史的勝利を
導いたものとして評価されています。(続く)
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