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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ホーチミン主席の私邸
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1941年、ベトナムの独立を胸に抱いて30年ぶりに中国から密
かにベトナムに戻ったホーチミンの最初の住居は中国国境に接した
カオバン省パックボーの洞窟(Pắc Bó Cave in Cao Bắng Province)
でした。この時彼は51歳でした。
     
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ホーチミンの年齢を考え、同志はパックボーのクオイナム川の近く
に掘っ立て小屋を作ります。ホーチミンは付近の少数民族と接触し
革命の種を撒きます。

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そして1942年中国人民軍に援助を求めに行きましたが、共産主
義者の取り締まりを強化していた広西省の蒋介石軍に1942年5
月19日拘束され、中国、広西の刑務所に投獄されてしまいます。

1944年ベトナムに戻り、ベトナム独立のためベトミン(ベトナ
ム人民軍の前身)を組織し、武力革命の準備をします。

1945年には日本軍がベトナムに進駐していた日本軍の敗戦を感
じ取ったホーチミンは、日本敗戦後の政治的空白を利用してベトナ
ムの独立を考えます。

そして1945年にベトナム8月革命と呼ばれる全国一斉蜂起の激
文を書きます。この時の住居はトゥインクワン省のナルフ(Nà Lừ
Hut in Tuyên Quang Province)でした。

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8月革命の成功を見て、彼はハノイに密かに潜入し、48 Hàng
Ngang Streetに居を構えて、独立宣言書の作成に取り掛かります。

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1945年9月2日、彼はベトナムの独立を宣言し、初代の大統領
になります。

しかしベトナムの独立宣言は世界各国に認められず、フランスはベ
トナムを再植民地化します。フランス軍のハノイ侵攻に対しっ徹底
抗戦を国民に呼びかけます。その激文はハタイ省のバンフック村
(Vạn Phúc Village in Hà Tây Province)で書かれました。

そして体制を立て直すため中国国境に近い北部山岳地方ベトバック
に抗仏作戦本部をおきます。

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1954年ディンビンフーの戦いでフランス軍を撃破し、フランス
軍が引上げるまでの9年間の抗仏戦争中は北部山岳地帯で転々と作
戦本部が移動し、萱葺き屋根の小屋で過ごします。

およそ3畳位の高床式の家で、建築材料はその地で取れる竹や草木
を使って建てられ、野菜の栽培とスポーツの出来る区画が確保され
ました。

抗仏戦争勝利後、ホーチミン大統領はハノイに凱旋します。彼の部
下は空家のフランス総督府に入居するよう案内しますが、彼は笑い
ながら「ここは悪臭がする」といいます。総督府はその日の内に大
掃除がなされ、それを知った大統領は翌日悪臭の意味を説明しまし
た。「悪臭」は「植民地の匂い」だと。

彼は総督府の近くに住居を探し、電気技術者が住んでいた平屋の家
に住むことにしました。その家は小さくて質素なものでした。昼間
でも暗く、彼が仕事をしている時には明りがつけられていました。
しかし彼は多くのベトナム国民よりいい家に住んでいると考えてい
ました。そして彼の警護や当番兵がいつも近くにいて連絡が取れる
ことが何よりと考えていました。

自然を愛していたホーチミンは家の周りが木々で埋められ、池が近
くにあるこの家が気に入っていました。南ベトナムの人々から彼に
スターアップルの木が送られ、庭に植えられました。南と北の気候
の違いを気にして、冬には藁を木の回りに巻くなど、彼は南に住む
人々の気持ちを大切に育てます。

スターアップルの木は彼の死後、南ベトナムの人々の敬愛を示すも
のとしてホーチミン廟にも植えられています。

1958年、彼の外遊の前に数人の同士が新しい家を建てようと計
画、提案してきました。彼は建築家に要望を話しています。

高床式の1階(オープンエアーです)には労働党政治局のメンバー
との会議室、要人を迎えるゲストルーム、子供達が会い来た時の石
造りのベンチを希望し、2階の廊下は彼が仕事や読書を廊下でして
いる時でも誰もが楽に通れるように広くしてほしいと要望します。
そして最後に、建築材料は中ぐらいの品質の竹を使うように指示し
ます。彼は新築の家が住居とともに大統領官邸としての機能を果た
せるように要望したのです。

1958年5月17日、住居が新築された折、彼はポケットマネー
で、建築に携わった人々全員を呼んで感謝の言葉を述べます。が一
つだけ苦言を呈します。ベトナム国はまだ貧乏で、国民は困難に直
面しているのに、この家は一人住まいには立派過ぎると。

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家が新築されても彼の毎日の行動は変わりませんでした。食堂は住
居から100m離れた場所にありましたが、彼は毎日池の周りを歩
いて食べに行きました。雨の日、道はドロドロになりますが、決し
て食事を運ばせませんでした。

彼のライフスタイルはシンプルで実用的でした。家の中には日常必
要最低限の備品しか置いてありません。ベット、タンス、テーブル、
椅子、ランプ、花瓶、椰子の団扇、ラジオ、水のペットボトル、日
よけ帽子、読みかけの本、新聞、雑誌、タイプライターぐらいでし
た。そして廊下にも小さな机と籐椅子が置かれました。

タイプライターからは国内外の多くの人々に手紙が打たれました。

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日々、彼はスターアップルの木の木陰になる廊下で新聞を読むのが
好きでした。南ベトナムの人々に思いをはせていたのです。

新聞を読むこととラジオを聴くことは彼の日課でした。彼がよく聞
いたラジオ番組は、ニュースの他に、詩の朗読、伝統的音楽、子供
達の歌声でした。食堂にはラジオをありませんでしたが、同志がト
ランジスターラジオをプレゼントすると食堂で食事をしながらでも
ラジオを聞いていたそうです。

毎日の新聞の用意は同士のChướcが担当していましたが、
彼は文学作品や社会問題の話題を彼に提供するように求めました。

ホーチミンは執務の合間によく地元民、特に農家の人々との接触に
気を配りました。それは紅河デルタは昔からしばしば氾濫していた
ので、ハリケーンや干ばつ、洪水への心配を伝えていたのです。

1階の会議室では政治局のメンバーと多くの重要な会議の議長を務
め、ゲストルームには子供達と同様に多くの外国からの要人を迎え
ています。

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彼の執務室には3台の電話が用意されていて、グリーン色は政治局、
ブラック色はそれぞれ陸軍、空軍に繋がっていました。

しかし年齢とともに2階の執務室で仕事をすることが多くなりまし
た。机の上には彼が読んだ最後の新聞、1969年8月17日付け
「Hanoi Moi」が残っています。そして「同士チュオンチンは農地改
革で3つの誤りを犯している。私の指摘文を読んで返事をください」
と書かれた文章が残っていました。

この部屋ではホーチミンは多くの文章やエッセイをタイプして、党
や国会、国防省の幹部、地域の人々に送っています。その文章は彼
の人生や考えを表しているだけでなく、現在でもベトナム国民の精
神的支柱になっているのです。

彼はこの部屋で遺書も書いており、20年来の秘書であるヴィーキ
ーに預けます。

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<ハウス67>

ホーチミン主席の私邸の裏側に木の陰に隠れた平屋建ての堅固な建
物があります。ハウス67と呼ばれていますが、あまり知られてい
ません。1967年になるとアメリカ軍の北ベトナムに対する攻撃
が激しくなってきたので、政治局のメンバーはシェルターを作るよ
うに彼に進言しました。しかし彼は周囲の人々には防空壕を作って、
年寄りや子供を非難させるように言っているものの、自分のシェル
ターの建設は拒みました。ホーチミンが中国を訪れている間に政治
局員は無断で彼のシェルター建設をしてしまいます。

しかし彼は帰国後、このシェルターを政治局の会議場に変更してし
まいます。そしてこの部屋で多くの重要な国家の決定がなされたの
です。例えば1969年7月14日にはパリ和平会談に向けての会
議が開かれています。

この部屋には2つの大きな戦略地図が掲げられ、その後の抗米戦争
の司令塔になりました。

1969年ベトナム共産党誕生39回目の記念がこの部屋で行われ
ました。彼は最後の著書となった「Raising Revolutionary Ethics
and Wiping out Individualism」を書き残します。戦争の勝利が見
えてきた時期に、彼は革命の精神を改めて兵士や国民に伝えておき
たかったのでしょう。

しかしこの時期になるとホーチミンの健康はひどく衰弱してしまい
ました。彼のドクターは医療施設の整ったハウス67へ移ることを
進言します。

1969年8月18日から彼はハウス67のベットで仕事や読書を
するようになります。彼は内心では死を覚悟したでしょうが、最後
の日まで彼は政治局員から戦況の報告を受けることを欠かしません
でした。

政治局員やベトナム内外の知識人そして医者が彼の命を救うため最
善の努力をしていました。

彼の最後の数分間、彼はフォークソングが聞きたいと依頼し、静か
に彼の生まれ故郷を思い出します。そして彼の両親が眠っている場
所に言及し、ココナツジュースを少し口に含むと、南ベトナムの人々
に彼の思いを運ぶように息を引き取ります。

22

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追記:ホーチミン主席は突然の心臓麻痺でなくなったとの記事があ
りますが、私の勉強では天寿を全うしたような気がしてなりません。
年齢も79歳で、心臓も弱っていたでしょうが、ベトナム人の平均
寿命をはるかに超えているのですから、老衰だと思います。

観光ガイドさんは、ホーチミンの私邸を案内すると、主席はここで
亡くなりましたとガイドするそうですが、実は私邸の裏側のハウス
67で亡くなりました。

いずれにしてもご冥福をお祈りいたします。


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