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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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李王朝

今年2010年はハノイが首都になって1000年目というこ
とで、1年間ベトナム全土でいろいろな式典が行われてい
ます。ハノイに遷都したのは李王朝で、時に1010年で
した。そこで李王朝について調べてみました。写真は主に
WEBで公開されているものから多数引用させていただい
ています。


李王朝


李朝 1009年 - 1225年、 9代217年に及ぶ、ベトナム史
上最初の長期政権になり、初代皇帝・太祖の時代から第4
代皇帝仁宗の時代にかけて全盛期を迎えました。現在のハ
ノイに首都を遷都した王朝でもあります。


李朝は、科挙の実施による有能な人材の登用、儒学・仏教
の奨励など中国の文化を積極的に取り入れ文化面では著
しい発展を遂げましたが、政治体制は地方豪族の連合盟
主的存在であったため、中央集権化が思うようにできませ
んでした。

チャンパを3度攻撃、中部ベトナムを割譲させ、領土を拡張
しています。

歴代皇帝
1.太祖  李公蘊 1009-1028

2.太宗  李仏瑪 1028-1054

3.聖宗  李日尊 1054-1072

4.仁宗  李幹徳 1072-1128

5.神宗  李陽煥 1128-1138

6.英宗  李天祚 1138-1176

7.高宗  李龍翰 1176-1211

8.恵宗  李旵 1211-1224

9.昭皇(太宗) 李仏金 1224-1225



歴史

1009年  前黎朝の将軍李公蘊(リー・コン・ウァン、李太
       祖)が、軍権を掌握して前黎朝を倒し、李朝を樹
       立しました。
李王朝 (1)
李太祖  リ・タイ・トウとして親しまれています。



1010年  首都を華閭(ホアルー)から昇龍(タンロン、
       現ハノイ)に移します。
李王朝 (2)


李王朝 (3)
遷都の文書 


李王朝の王城跡は長らく不明でしたが、2002年の国会議
事堂建替工事の事前調査の際に、遺跡が発掘され、現在
では世界遺産に登録されています。

遺跡は長さ62m、幅27mとベトナムに現存する最大規模の
遺跡です。

李王朝 (4)
タンロン城の遺跡発掘

李王朝 (5)  李王朝 (6)  李王朝 (7)


李王朝 (8)  李王朝 (9)  李王朝 (10)
  


1049年 第2代皇帝、太宗は一柱寺を建立。

李王朝 (13)
一柱寺                  

李王朝 (12)
現在の一柱寺


李王朝の歴代皇帝は仏教に帰依していたので、一柱寺を
はじめとして多くの寺院が建立されました。ハノイのシンボ
ル的な建物を選ぶ審査で一柱寺は再建された現在の建物
があまりに建設当時と違うので、同じ文廟の中にある奎文閣
(けいぶんかく)が選ばれたそうですが、奎文閣はグエン朝
時代に建設されたものです。

李王朝 (14)
奎文閣(けいぶんかく)



1054年  第3代皇帝、聖宗は国号を「大越(ダイベト)」と
        改名しました。

1070年  ハノイに文廟 (儒教の創始者である孔子を祀っ
        た廟) を建立します。

李王朝 (15)
文廟の正門

李朝時代の門は木造でしたので、現在の石造の門は後世
に再建されたものです。


李王朝 (16)  李王朝 (17)
正門は竜とトラで守られています。




科挙の制度
科挙とは「(試験)科目による選挙」を意味していて、官僚の
養成制度でした。中国で隋の時代から始まったのですがベ
トナムでも黎朝第2代皇帝レ・タイ・トンが取り入れ、1442年
から実施されました。試験は郷試(地方試験)と会試(全国
試験)があり、郷試を合格した人が会試の試験を受けられま
した。合格率は1%ぐらいで超難関の試験です。

文廟には科挙の試験に合格した人の氏名と出身地が記さ
れた石碑が82基あります。 

李王朝 (20)
科挙試験の合格者石碑


李王朝 (18)
石碑は亀に乗っていると言われていますが、正確には贔屓(ひいき)、
「えこひいき」として現在でも使用される「ひいき」という神獣に乗っています。
「ひいき」は龍から生まれます。



1075年

北宋と李朝との間では、しばしば国境問題が発生していま
した。宋は神宗の即位後、宰相の王安石の主導でベトナム
攻略を図り、南下してきました。これに対して李朝は、機先
を制して李常傑(リ・トン・キェト)を総大将として10万の軍を
率いて水陸から宋に侵攻します。

北宋は反撃してベトナム奥地まで攻め入ったものの、戦果
を挙げることができずに帰還しました。

李王朝 (21)

李王朝 (22)
ベトナム側の史料  如月江の戦いで宋軍を大破した。
宋側の史料      昇龍(ハノイ)近郊まで迫るも紅河を
             渡河できずに引揚げたとする。
国境戦争は1975年から1977年まで2年間続きました。


1077年
李朝は有利な条件で和睦し、北宋との国境も確定し、独立
国家としての威勢を示しました。


1127年  
文廟に国子監が設けられ、諸帝の仏教信仰によって寺塔も多く建立されました。

李王朝 (19)
国子監
国士監とは今で言う国立大学で、皇族や貴族の子弟が儒教を学ぶ最高学府でした。


李朝の歴代皇帝は仏教に帰依していたので、文廟や国子監
の建築年代には有力な異説があります。儒教の創始者である
孔子を祭った文廟は1070年には小さな祭壇が設けられた
だけで、建築は1156年になされ、その中にある国子監は
1253年に設立されたとする説があります。



1174年
それまでの越人独立諸王朝は中国(北宋)を中心とする
冊封体制の中で常に郡王の扱いであったのに対し、李朝
は越人王朝として南宋から「安南国王」に冊封され、交趾国
を改め、安南国としました。


1175年
李朝第7代皇帝、高宗が即位した年。この高宗は暗愚な人
だったようで国民に対して重税と賦役を布く悪政を繰り広げ
たため、国内各地で農民による反乱が起き、李朝は急速に
衰退していきます。


1210年
高宗が没して恵宗が即位したのですが、この恵宗も父の高
宗同様に暗愚な人物だったため、国内はさらに乱れ、恵宗
の外戚に当たる陳守度(チャン・トゥ・ド)の権勢が著しく
拡大、1223年には殿前指揮使という役職につき、政治の       
実権を握るようになります。


1224年
陳守度は恵宗を廃してその娘である李昭皇を擁立し、翌年
には、恵宗を自殺に追い込んだ上で、李昭皇と甥の太宗
を結婚させて太宗を皇位につけることで陳朝(チャン朝)を
開きます。



李王朝の一族

李王朝が陳守度によって滅ぼされた際、李王朝の王子、李
龍祥とその一族は1226年、大海を漂流し韓国北部の黄海
道オンジン半島の花山に漂着したという史実が残っていま
す。

1992年12月に韓国とベトナムの国交が修復されると一族
は祖先探しを本格化し、1994年5月李王朝の建国の地で
あるハノイ近郊のDing Bang村を訪れて今も残る祀堂に参
拝しました。

この出来事は両国のマスコミに大きく取り上げられ、翌年3
月15日(旧暦)の李王朝の祭礼時にベトナム政府は李一族
の宗親会長を祭主に招請しました。



李王朝8代の皇帝を奉った寺院にはバックニン省のバン寺
院やドー寺院が有名だそうです。

李王朝 (23)
ドー寺院

李王朝 (24)
バン寺院
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