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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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チョロンの歴史
チョロンの歴史

越語   Chợ Lớn  
中国語  堤岸, 新街市

チョロン(Chợ Lớn)地区は、ホーチミン(旧サイゴン)市の
行政の中心であるサイゴン地区から、約五キロメートルほ
ど西南南に位置しますが、現在では正式な行政名ではな
くホーチミン市5区を中心にその周辺の一部を含めた地域
を総称します。チャンフンダオ通りをメインストリートとするベ
トナム最大の中華街です。

チョロンとは、ベトナム語で大きな市場(Chợ=市場、Lớn
=は大きい)を意味し、フランスが「サイゴン」を命名した時
から使用され始めました。

アジアで中華街と呼ばれる区域に住んでいる華僑は、西
欧各国の植民地支配時代に労役人として連れてこられた
のがそのルーツだと言われていますが、ベトナムの中華街
「チョロン」に住み始めた華僑の人たちはちょっと違った事
情でベトナムにやって来ました。
中国に国境接するベトナムでは、中国での政治的圧力を
避けるために国境を超えてベトナムへやってきた中国人が
多くいました。

中国人のベトナムへの移民の大量流入は1679年に始ま
り、1750年、1860年と3回ありました。
チョロンの歴史は中国人のベトナムへの移民の歴史でもあ
ります。

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1623年のサイゴン

昔は現在のベンゲ運河が「サイゴン川」、サイゴン川が
「タンビン川」と呼ばれていました。

1679年
中国の明朝が滅亡したのに伴い、明朝の楊彦由を首領と
する亡命兵3000名が50隻の船でフエの近海に漂流して
きて、広南阮氏政権第4代当主グエン・フック・タン
(Nguyễn Phúc Tần 阮福瀕 1648年~1687年)に亡
命を願い出ます。グエン・フック・タンは亡命者の一部をホ
イアンに残しましたが、残りの人々をメコンデルタの開墾の
ためにビエンホア(辺和)とミトー(美淋)に入植させます。
(地図上1,2)

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1680年代
ビエンホアに移住した人々の少数がチョロンに移動してき
ます。(地図上3)彼らは現在のTriêu Quang Phục 通り
一帯に村を形成して住みました。この人々が現在ホーチミ
ン市5区の中華街に住む人たちの祖先で、彼らが交易の
港をして使ったのがチョロン埠頭となりました。
ベトナム人はこの時の移住者をミンフオン「Minh Hương」
(明郷の人々)と呼びました。

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赤枠内がチョロンの始まり


1698年
広南阮氏政権第6代当主グエン・フック・チュゥ(Nguyễn
Phúc Chu 1691年~1725年)はグェン・フー・カン将軍
(Nguyễn Hữu Cảnh 1650年~1700年)をヤーディンに
派遣し、弱体化していたクメール王国の支配から脱してベ
トナム人が支配する土地にするよう目論見ます。

グェン・フー・カン将軍はタンビン地区(Tân Bình 現在の
サイゴンはタンビン地区に属していました)やフックロン地区
(Phước Long 現在のドンナイ省)を開拓し、ダンチョンと
呼ばれたベトナム人の村を作り、最初の基本的な行政組
織であるヤーディン県を新設し、「Minh Hương」の人々が
住む現在のチョロンもザーディン県に編入して、自らヤーデ
ィン県を統治します。

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グェン・フー・カン将軍

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ヤーディン県はベトナム人が管理する村となり、市長(Luu
Thu)が任命され、その下部組織にはManager(Cai Bo)と
Secretary(Ky Luc)が置かれました。

ミンフオンの人々は港の管理を任されので、メコンデルタか
ら運ばれてくる米の精米、各地への流通を一手に引き受
けます。
さらにミンフオンの人の中には多くの職人がおり、その代表
的な技術が陶器の製作でした。彼らはチョロンの寺院や
同郷会館の装飾品や生活用品の陶器を多く製作しまし
た。これが「サイゴン陶器」の発祥です。

ミンフオンの人々は亡命者であったので中国へ帰国する意
図はなく、地元のベトナム人やクメール人と混血していき、
独特の民族文化を作り上げていきます。彼らはベトナムの
衣装を着ましたが文化や言語は中国祖先の習慣を踏襲
しました。後のグエン王朝やフランス植民地政府も彼らを
中国人祖先のベトナム人と呼びました。
この年がサイゴン誕生の年とされています。


1750年代~1778年
清朝の人口増加に伴い第2波の中国人移民の流入が始
まります。福建省からの移民が多くミンフオン村に隣接す
るPhùng Hưng通り一帯に住み始めます。

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この人々は亡命者とは違い、意図すれば中国に帰国する
こともできた人々だったので、無理に現地の人々と融和す
る必要はなくミンフオンの人々は彼らをタンニャン「Thanh
Nhân」(清人)と呼びました。

ミンフオンの人々は先駆者として港の管理と国内での米の
流通、タンニャンの人々は輸出入貿易を主な生業としまし
た。

ミンフオンの人々がĐình Minh Hương Gia Thạnh(明郷
嘉盛会館)を建設し、チョロン地区を管理する政府の役人
はもっぱらミンフオンの人々から選ばれました。

広南阮氏(その後の越南阮氏、フランス植民地政府も)は
この同郷会館を中国人移民者を管理するための単位とし
て利用します。このシステムは「幫」(Bãng)と呼ばれ、ベト
ナム語では「幫」に属する人々はバンチュオン(Bãng
Trưởng)と呼ばれました。バンチュオンは広南阮宮廷の
承認を得るために登録が必要で、保護される代償として
良き行いとバンチュオンの会頭によって徴収される税金を
おさめねばなりませんでした。
そして共同体の地域内の福利厚生、学校や病院は自ら
建設し管理することが要求されていました。

しかし居住地を与えられ、自由な商売を認められた移民
者は広南阮氏に忠誠心を抱き、広南阮氏とタイソン朝と
の戦い(1778年~1802年)の時には広南阮氏の中心
的な支持者となりました。


1778年
しかしタイソン軍は強く、広南阮氏の生残りグエンフックア
イン(NguenPhucAnh 後のザーロン帝)はフーコック島に
逃げ延びていきます。タイソン軍は広南阮氏を支援した移
民者が多く住んでいたビエンホアを攻撃したため、多くの移
民者が難民となりミンフオン村に逃げ延びてきます。そのた
めミンフオンでは人口が急激に増加し、新しい市場の建設
にせまられます。市場は村の北方、Phố Xếp運河沿い(現
在は埋立てられChâu Văn Liêm通り)に建設され、Tai
Ngon市場と呼ばれました。

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タイゴン市場

1782年
タイソン軍はミンフオン村にも壊滅的な攻撃を仕掛けまし
た。中国人移住者は広南阮氏に味方したとして、大勢の
人々が虐殺されました。

その後、生存者達によって驚異的な速さで村が再建され
ていきます。運河を深く掘り下げ、洪水と敵の侵入から守
るために町の中心を流れていたBình Dươmg川(ベンゲ運河の旧称)
に高い堤防を築きました。この堅牢な堤防はタイゴン堤防と呼ばれ、
その名声はベンゲ地区にも知れ渡っていきました。
この「Tai Ngon」の発音が「サイゴン」の基礎になったと言
われています。

1790年
ザーディンを奪回したグエン・フック・アインは3万人を動員
し、ヤーディン県の新しい行政本部としてバットクワイ(BAT
QUAI=ヤーディン城)を建設します。そして現在のバソン
造船所近辺でフランス人技師の下に中国人入植者も含
め技術を持った多くの職人をあつめ、戦艦の建造を行い
ます。対岸のホーチミン市2区にはこの時働いた中国人入
植者が住むようになりました。

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1790年のサイゴン地図

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1790年のサイゴン・ジョロン地図

1801年
グエン・フック・アインがサイゴンでタイソン軍を破り、翌年グ
エン王朝の皇帝(ザーロン帝 1802年~1819年)にな
るとタイゴン地区のミンフオンとタンニャンの人々は報われ
ます。
彼らは王朝の庇護の下に兵役は免除され貿易や商業活
動の自由を保障され、さらに納税の代償としていろいろな
特典を付与されました。

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ザーロン帝

1812年
1802年阮王朝を開いたザーロン帝は1812年建国の大
功労者レ・ヴァン・ズエットに司法権や官僚の任命、解雇
など、すべて宮廷には事後報告をすれば良いほどの絶大
な権限を与えてザーディン総鎮に任命し、南部ベトナムと
カンボジア地域の管理を任せます。

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レ・ヴァン・ズエット総鎮

ズエット総鎮はグエン王朝への支持基盤拡大のために、
有能な人物はタイソン軍の旧臣であろうと、中国人入植
者であろうと官吏として採用し、無料の武術訓練所や教
育機関を開設しました。
毎年2回、皇帝の誕生日そして旧正月の祭りを盛大に行
い、人心の安定に努めました。

メコンデルタへの運河が整えられ、特典を与えられているタ
イゴン地区の商業活動は一気に花開き、その納税額はグ
エン王朝を潤します。彼らは米の商売だけでなく、屋根瓦、
タイル、塗装などの建築材料や、アルコール、セメント、ア
ヘンなどにも商売の手を広げます。
タイゴンには中部や北部の商人も新たな商品を求めてや
ってくるようになり、大盛況になります。

ズエット総鎮の時代、チョロン地区は大発展を遂げたので、
今日に至るまでズエット総鎮は南部に住む中国人にとって
尊敬の的になっている人物なのです。

タイゴンに住む人々は同郷の共同体としての役割と祈りの
場所として彼らの出身地別(言語別)にそれぞれ同郷会
館を建築します。

Untitled_201512071830483ab.jpg

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明郷嘉盛会館

媽祖(天上聖母)をまつる穂城会館の天后廟は観光的要
素に乏しいチョロン地区の貴重な観光名所の一つになっ
ています。

廟の中で最大規模のものは義安会館でいろいろな神々が
祭られており正面中央には関聖帝君すなわち関羽が祭ら
れています。

三山(福州)会館にはチョロンの堤防を守る神が祭られて
います。

中華街としてのチョロンのシンボル的存在は、多数の由緒
ある同郷会館(=廟)があることで、華人がいかに大きな
経済力をもってきたかをよく示しています。


1832年以降
レ・ヴァン・ズエットが死去すると、それまでズエット総鎮の
巨大な権力の下に手が出せなかった第2代阮王朝皇帝ミ
ンマン(1820年~1841年)は、自らの政策である中央
集権国家、儒教重視によるキリスト教弾圧、中国人の貿
易特権の廃止などを南部ベトナムに強制し、ズエットの墓
に辱めを行います。
これに激怒したズエットの養子レ・ヴァン・コイは宮廷に対し
て反乱を起こしましたが、ミンマン帝が派遣した大軍に破
れます。
そしてレヴァンコイの反乱に加担したとして南部ベトナムの
クリスチャンや中国人の多くを処刑します。

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ミンマン帝


1839年
ミンマン帝は中国人移民者に対する管理方法であった
「幫」システムを廃止する命令書を出しましたが、実際には
施行されず何の効果もありませんでした。

1859年2月17日
フランス、スペインの連合軍がヤーディンの城を攻略、占領します。

1860年代後半以降
フランス人がサイゴンを統治するようになると広東省広州
からの中国人商人の移民が増加し、ハムギ通りからベン
ゲ運河沿いのヴォ・バン・キエット通り一帯に住みます。サ
イゴンに集団で中国人移民が住みついた最初で最後です。
ハムギ通りとトンダットダム通りの交差点近くに彼らの会館
があります。

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1861年
フランス軍とスペイン連合軍はヤーディン地方のチーホア
(Chi Hoa)を攻めますが、この時フランス軍に物資や食料
を供給したのはミンマン帝に苦しめられたタイゴン地区の中
国人移住者の人々でした。フランス軍はサイゴン全域を占
領し, 翌1862年には「第1次サイゴン条約」が締結され、
南ベトナムの東部3省がフランスに割譲され、サイゴン港が
開港されます。

フランス植民地政府は「幫」システムを復活させ、チョロン
の中華街は再び活気付き東南アジア有数の中華街に発
展していきます。


1867年以降
フランス人はこの地をサイゴンと正式に名づけます。そして
タイゴン地区はチョロンと呼ばれます。サイゴンは政治都市、
チョロンは経済都市としてフランス植民地時代にも発展を
遂げます。
植民地政府も中国人移住者の経済能力を認め、徴税管
理の役割を与え、彼らが土地を保有することやインドシナ
各地への移動の自由を認めました。移住者の中に今に名
を残す大富豪が出現してきます。

チョロンの同郷会館は植民地政府に対しても影響力を持
つようになり、ミンフオンの会頭Đỗ Hữu Phươngはチョロン
の市長となり、植民地政府と同郷会館との取りまとめ役を
果たします。

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Đỗ Hữu Phương

フランス植民地政府は政治都市としてサイゴン地区には
同郷会館を基礎とした「幫」システムを踏襲したので、中
華街そのものの町並みを見る以外「東洋のパリ」といわれ
るような建造物はありません。


1929年頃
マルグリット・デュラスの小説『愛人/ラマン』はこの頃の中
華街のシーンがたびたび出てきます。


1954年以降
フランスがベトナムから引き上げると、南ベトナム政府は移
民者の子孫でベトナムで生まれた子供たちはベトナム人と
する命令を発しましたが、同郷会館は依然として彼らのネ
ットワークの中心としてベトナム戦争終結まで存続していき
ます。


1974年
この頃の南ベトナムの経済活動(食品産業、織物業、化
学工業や電気製品など)の80%、大企業60社のうち42
社は華人の手中にあったといわれています。


1975年頃
南部ベトナムには120万人の華人が住み、そのうち70万
人がチョロンに居住していました。


1975年4月サイゴン陥落以降
サイゴン陥落後は社会主義建設が始まり私企業の国有
化、資産階級の資産制限が課せられ、「幫」システムは正
式に廃止されます。
長年かけて有力な経済的地位を築き上げてきた華人を
取り巻く環境は一変してしまいます。

8種の華字紙(中国語新聞)は政府発行の「解放日報」
を除き廃刊となり、華人の相互扶助組織である同郷会館、
華人子弟の教育機関である華語学校は活動を停止され、
華人子弟は華語を学ぶ機会を奪われました。漢字の看
板も規制されます。


1978年
経済不況と生活困難から都市部で商業を営んでいた華僑や華人、
南ベトナム政府や軍関係者とその家族、資産
家、地主などはボートピープルとなって海外に脱出していき
ます。
香港、マカオの難民収容所の7割は、中国系ベトナム人
でした。

チョロンに70万人居住していた華人は10万人あまりにま
で減少しました。

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ニューヨークやロサンゼルスの他、シカゴの北華埠、パリ南
部13区、シドニー郊外のカブラマッタなどの大規模な中華
街はこの時代に海外に移 住したインドシナ華僑により形
成されたものです。

1979年2月17日 – 3月16日
中国・ベトナム両国の関係は険悪になり、中越戦争が勃
発します。   
中国はベトナム統一後、ベトナム国内の中国系住民を難
民として流出させていることを強く非難しており、中越戦争
中はチョロンへのベトナム当局の弾圧はすざまじく、中国
系住民が大量に駆逐されてボートピープルとなりました。


1986年
ドイモイ政策により、経済の改革・開放が進む中で、個人
営業の店も認められるようになり、いったん国外へ脱出し
たベトナム人の帰国も許されるようになってきました。

唯一の華字紙「解放日報」の編集人によれば、ボートピー
プルとして外国に渡った華人で、再びチョロンに戻ってくる
者が増え、チョロンの華人人口は50万人くらいまで回復し、
街中の漢字の看板も、従来に比べれば、ずいぶん増えて
きたそうです。
 
現在、国外在住ベトナム人は約300万人。そのうちの半
数150万人がカリフォニア州に暮らしています。


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