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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ホーチミン市人民委員会  更新
ホーチミン市人民委員会

植民地時代 フランス公会堂(Hôtel de Ville 現在の市役所機能)
現在  
ホーチミン市人民委員会 (Uỷ Ban Nhân Dân TP. Hò Chí Minh)
ホーチミン市人民評議会 (Hội Đồng Nhân Dân TP. Hò Chí Minh) 

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2013年

1867年
サイゴン地域がフランスによって正式にサイゴン市として
宣言された時に市役所にする適当な建物がなく、当時
は広東生れの大富豪ワンタイの邸宅(現在のホーチミン
市税関)の一角を借りる始末でした。

1871年
1868年からシャルネ通り(現グエンフエ通り)の埋立て
が始まり、現在の場所がフランス公会堂(Hôtel de
Ville)建設予定地に指定されます。
しかし建築に向けて実際に動き出すのは、フランスがベト
ナム全土を植民地化し、インドシナ連邦が成立した後の
ことでした。

1896年
P.Gardesによりデザインが完成します。

1898年
フランスのLail-hacar社に工事を発注。

1908年
美術家Bonnet によって室内外の装飾が完成します。
完成した建物は19世紀の前パリ市庁舎とそっくりだそう
です。

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建設当初の姿

正面入り口上部には2匹のライオンが彫刻され、建物を
守護しています。外壁の装飾はおそらくベトナムで最高
の建物に違いありません。

1909年
ワンタイの邸宅から新市役所への引越しが行われます。
その後、左右対称のウィングは1階だけでしたが、現在
の建物は両翼が2階建てに増築されており、よく見ると
繋ぎ目がわかります。

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建物外観は現在まで維持されています。

この建物からサイゴン川に一直線に伸びる大通りがサイ
ゴンの中心街グエンフェ通りです。市役所はフランス式の
都市計画(ビスタと呼ばれます)に従いグエンフェ通りの
行き止まりに位置しています。
グエンフェ通りは運河を埋め立てて作られた道路でサイ
ゴンでの都市計画第一号の道路です。

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1954年
フランスがディエンビエンフーので破れ、フランスが撤退す
ることになると南ベトナム政権に引き継がれます。

1975年4月30日
サイゴン陥落以降はホーチミン市の人民評議会と人民
委員会の庁舎として使われています。

1990年
正面玄関前の広場にはホーチミン主席が子供を抱えて
座っている銅像が建てられ、観光客の記念写真スポット
になっていました。

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2015年
南部解放40周年記念事業として、ホーチミン主席の新
しい銅像が建てられ、125歳の誕生日である5月9日に
除幕式が行われました。(ベトナムではホーチミン主席は
永遠の人なので、死後何周年記念という言い方はしま
せん)

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新たな銅像

正面玄関前の道路はタイル張りの道路に変更され、建
物から一直線にサイゴン川に伸びるグエンフェ通りも歩
行者専用道路が整備されました。

銅像の背後には、まったく目立ちませんが記念碑が建っ
ており、この場所の歴史が刻まれています。ここは第2次
世界大戦で日本が敗戦したのを機にホーチミン主席が
ベトナム全土に激を飛ばし、全国で蜂起が起きた8月革
命の南ベトナムでの蜂起の場所で、南ベトナムの群集は
1945年8月25日、南ベトナム臨時政府を設立するた
めにこの場所に集まりました。

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歴史を刻む記念碑

夜間は毎日ライトアップされ、幻想的な美しさとフランス
建築の偉大さを感じることができます。

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もちろん内部も超豪華なのですが、政府機関なので一
般人は勿論入れません。

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内部の応接間

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統一会堂 更新
統一会堂

建設当初 ノロドム宮殿(フランス植民地時代) 
       Mặt Tiền Dinh Norodom
改称    独立宮殿(南ベトナム時代) 
Đinh Độc Lậpt
(通称) フ・ダウ・ロン(ドラゴンヘッド宮殿)
現在    統一会堂(サイゴン陥落後) 
       HỘI TRƯỜNG THỐNG NHẤT
場所    ナムキーコイギア通り(NAM KY KHOI NGHIA)

南部ベトナムの近代史の推移により、3回名称の変更
が行われ、当初の建物は破壊され、現在の建物は2代
目です。

1863年
1962年南部ベトナムの東部3省(ビエンホア、ジアディ
ン、ディントゥオン)を割譲させたフランスのボナード提督
(Louis Adolphe Bonard)は、翌1863年にサイ
ゴンにコーチシナ総督府を設置しますが、その建物は木
造建てで現在のドンコイとグエンズ通りの交差点、チャン
ダイギア高校の場所にありました。


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ボナード提督

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最初のコーチシナ総督府

同年コーチシナ総督グランディエール(Pierre-Paul
de la Grandière)はカンボジアのウドン王宮に乗り
込み,ノロドム王を説得して保護条約に署名させます。

1867年6月25日
フランスはベトナムの西部3省(ヴィンロン、アンザン、
ハティエン)も武力制圧し、東部3省と合わせフランス領
コーチシナとし、植民地支配を行います。1874年には
フエ宮廷との第2次サイゴン条約でフランスの直轄領
(植民地)とすることが確認されます。

<ノロドム宮殿>
1868年2月23日
コーチシナ総督宮殿建設のため、現在のナムキーコイギ
ア、グエンティミンカイ、グエンズー、フインチャンチュア通
りに囲まれた12ヘクタールの土地が用意され、コーチシ
ナ総督グランディエールが新しい宮殿建設の定礎石を
置き、宮殿の工事が始められました。

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グランディエール

1873年
宮殿の完成までに5年の歳月が過ぎ、1873年に完成
します。

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1872年 完成直前のノロドム宮殿

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1873年 完成したノロドム宮殿
すでに保護国にしていたカンボジア王の名をとって「ノロド
ム宮殿」と名づけられます。

1880年
総督府の中枢機能がハノイに移されます。

1887年
フランスはベトナム全土とカンボジアを統合し、インドシナ
連邦の成立に伴い総督府は「インドシナ総督府」となり
ます。

1945年3月から9月まで
日本軍の明号作戦によりフランス軍が追放された時期、
ノロドム宮殿は日本軍の行政機関として使われましたが、
日本敗戦後はフランスが再び宮殿を取り戻します。

1954年9月7日
フランス軍がディエン・ビエン・フーの戦いで大敗し、ジュ
ネーブ協定によってベトナムは南北に分断されてしまいま
すが、宮殿は1954年9月7日、フランス政府代表ポル
エリ将軍によってサイゴン政府代表者のゴ・ディン・ジエム
首相に引渡たされます。

<独立宮殿>
大統領になったジェム首相は1955年、宮殿を「独立宮
殿」と改名し、官邸として使用します。

1962年2月27日
宮殿は北ベトナム軍に寝返っていた南ベトナム空軍将
校2人(グエンバンクとファムクウオック)が操縦する2機
のAD6戦闘機で攻撃され、官邸の左部分が大破してし
まいます。

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破壊された官邸を視察するマダム・ヌー(大統領実弟の
妻で、大統領が独身だった為、実質のファーストレディー
を勤めました)

ジェム大統領は難を逃れましたが、1962年7月1日に
官邸を取り壊し新宮殿の建築を決定します。

1962年2月27日
新しい宮殿はパリで「ローマ建築優秀賞」を獲得したベト
ナム人建築家ゴ・ヴィット・トゥ( Ngô Viêt Thụ) により
西洋建築に東洋の風水理論を取り入れて設計され、
1962年7月1日から建築が始まり、1966年10月31
日に4階建ての現代建築が完成します。

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完成した独立宮殿

<風水理論の取り入れ>

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建物全体は「吉」の文字

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屋上は「口}の文字で「四方無事楼」を表しています。

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屋上、バルコニー、玄関は「三」の文字で「仁」, 「明」、
「武」を表し、一本の垂直柱によって連結され「王}の
文字になっていて、国家主権を表しています。


しかしジェム大統領は新築の宮殿を見ることなく、1963
年11月2日のクーデターにより殺害されていたので、落
成式は当時「国家指導評議会議長」のグエン・バン・
チュウ中将と「中央法務委員長」であったグエン・カオ・
キ少将が行いました。

独立宮殿はサイゴン陥落まで3代の大統領によって使
用されました。

グエン・バン・チュウ  1967年10月~1975年4月21日
チャン・バン・フォン   1975年4月21日~1975年4月28日
ズン・バン・ミン     1975年4月28日~1975年4月30日

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グエン•ヴァン•チューのUH1ヘリコプター

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グエン•ヴァン•チューのベンツ

<サイゴン陥落>
1975年4月8日8時30分
ドックラップ宮殿は北ベトナム軍のグエン・タン・チュング
(Nguyễn Thàng Trung)中尉が操縦するF5E戦闘
機で屋上に2本の爆弾を落とされました。サイゴン陥落
の前兆でした。

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爆弾を投下された場所には赤いマークがあります。

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F5E戦闘機と同型機

1975年4月30日
ベトナム共和国が消滅する日を迎えます。

10時30分
南ベトナム解放軍の390号戦車(中国製T59型戦車)
が大統領官邸の左側の門から、843号戦車(ロシア製
T54型戦車)が正門鉄柵を破って官邸に突入しました。
390号戦車が一番乗りなのですが、左門が狭く、もたつ
いている間に後続843号戦車が正門突破をしました。

2台の戦車の本物はいずれもハノイの博物館に展示さ
れていて、2012年に国宝に指定されています。
390号戦車  戦車・装甲車博物館(カウザイ区)  
843号戦車  軍事歴史博物館(バーディン区)

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大統領官邸への突入の瞬間

2台の戦車が突入した時の歴史的映像は、フランスの
女性記者が撮影しており、全世界に放映されました。

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843号戦車に乗っていたブイ・クワン・タン

南ベトナム共和国ミン大統領 「今日の早朝からそちら
側に政府の実権を移譲しようと、待っていました」  

北ベトナム軍ティン中佐 「あなた方は実権を移譲するこ
となどできません。そちらの実権はすでに粉砕されてしま
った。持っていないものを移譲することはできないので
す。」

11時30分
ブイ・クワン・タン( BUI QUANG THAN)中尉は
三本線のサイゴン政権の旗を引きおろし、南ベトナム
解放民族戦線の旗を掲げます。この瞬間、ベトナム共
和国(南ベトナム)が消滅し、ベトナム戦争は終わりまし
た。

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ベトナム戦争は終わりました。

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二番目に突入したT54型843号戦車のレプリカが正面
玄関右に展示されています

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官邸裏門です

戦車の突入直前に大統領官邸の地下にある通信室と
南ベトナム解放軍は交信しています。通信室は「裏門を
開けておくので、戦車は裏門から進入してください」と答
えています。この交信を知った報道陣は裏口へ集結して
いました。

ところが解放軍の戦車は堂々と正面から突入しました。
報道陣は慌てて官邸の中を走り、突入の瞬間を捉えま
した。で、戦車突入の写真は官邸の内側から撮影したも
のしかないのです。

サイゴン陥落後、しばらくはサイゴン・ジャディン軍管
理委員会の事務所として使用されます。

<統一会堂>
1975年11月15日から21日
国家統一政治協商会議が、宮殿の「内閣会議室」で
開催され, 南ベトナム共和国臨時政府は独立宮殿を
トンニャトホール(統一会堂)に改名することを決定しま
した。

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内閣会議室

1976年7月1日
統一国家である「ベトナム社会主義共和国」の成立が
レックスホテルで宣言され、統一会堂は国家の特別文
化史跡として認定されます。
現在でも国賓や会議の際に実際に利用されていまが、
それ以外の日は観光客に一般公開されています。


<内部の部屋>
1階 講堂、内閣会議室、バンケットルーム

2階 大統領執務室、 大統領作戦室、大統領応接室、
副大統領応接室、国書提出室、大統領官邸、大統領寝室、
食堂、中庭

3階 大統領夫人応接室、図書室、映写室、ゲーム室、ヘリポート

4階  ダンスルーム、バー

地上階  キッチン、ギャラリー

地下階  作戦司令室(緊急用)、大統領寝室(緊急用)、士官室

地下は通常爆弾による空爆に耐えられるよう鉄板で構
築されていて建物外に脱出するトンネルがあります。

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大統領執務室
貴重な装飾品はすべて持ち出されていました。

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台湾から贈られた絨毯。竜の足に5本の指が付いてい
るのは最高権力をあらわしています。

<迎賓館>
敷地内にはテニスコートや迎賓館もあります。迎賓館は
グエンズー通りに面しています。

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迎賓館①

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迎賓館②

カオタン技術養成学校
カオタン技術養成学校

植民地時代 Ecole des Mecaniciens
現在      カオタン技術養成学校

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現在のカオタン技術養成学校 正門はハムギ通りにあり
ます

フランス植民地政府は植民地支配と地域の発展のため
に1906年2月20日、機械技術の専門学校「Ecole
des Mecaniciens」を南ベトナムに設立しました。

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Ecole des Mecaniciens

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授業風景

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実習授業

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技術研修はバソン造船所内で行われました。

Ecole des Mecaniciensは南ベトナム最初の技術養成
学校で、卒業生は近くのバソン造船所で働く人が多くい
ました。

1906年の設立から1954年にフランスがディエン・ビエ
ン・フーで大敗を期すまで695人の卒業生を送り出して
います。

海外に行くことを夢見ていたバン・バ青年(ホーチミンの
当時の名前)は1911年、フランスに旅立つ前、この学
校で機械技術を3カ月間勉強しました。

ホーチミン主席の副大統領に就任し、ホーチミン亡き後
に大統領職を引き継いだトン・ドゥック・タン(Tôn Đức
Thắng)も1915年から1917年の間、この学校で船の
機械技術を勉強しています。

この学校の生徒には愛国者が多く、フランスの植民地
支配に抵抗する学生がたくさんいました。

1932年には学校の中にインドシナ共産党の支部が設
立され、1940年の南部一斉蜂起や1945年のベトナ
ム8月革命にも多くの学生が参加しました。

ベトナム分断後も南ベトナムのジェム政権やチュウ政権
に対して抵抗運動をしています。

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現在のカオダン技術養成学校正門

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現在のカオダン技術養成学校

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卒業証書


コラム   カオダン
学校の名前になっているカオダン(1864年~1893年)
はグエン朝のハムギ帝が発した「勤皇の檄文」に応じて、
フランスの植民地政策に抵抗したフエ宮廷の高級官僚
だったファンディンフンがハティン省を中心としたフォンケ
蜂起に参加して27歳で殉死した傑出した戦略家でし
た。
彼はフランスから奪った鉄砲を真似て、ベトナムで初めて
鉄砲を鋳造した人です。

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カオダンの銅像

グランドホテルデナシオン
グランドホテルデナシオン

植民地時代  Grand Hôtel des Nations
現在  ユニオンスクエア (Union Square)
場所  ラムソン広場(Quảng trường Lam Sơn)

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アンドレパンクラーツィ(André Pancrazi)はコルシカ家
系のフランス人入植者の一人でグランドホテルデナシオ
ン(Grand Hôtel des Nations)所有者として記憶されて
います。

しかし、19世紀後半にサイゴンに定住したいくつかのパ
ンクラーツィ家系の一人であったようです。パンクラーツィ
家系の人には彼のビジネスパートナーとなったアントワー
ヌ(Antoine)、サイゴン移民局の事務員フランソワ
(François)、ロンスエン地方の植民地管理者ボナ
(Bonaventure)がいます。

1900年までは植民地時代の記録にはあらわれません
でした。

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グランドホテルデナシオン

ガルニエ広場4番地(現在のラムソン広場)にある音楽
カフェ(Café de la Musique)と上階グランドホテルデナシ
オンは1880年代の半ばに実業家だったヘルマン婦人
によってオープンしました。

1890年代後半
パンクラーツィがグランドホテルデナシオンを買収します。

この音楽カフェは最も人気のコーヒーショップの一つにな
りましたが、ホテル施設や経営は道路を隔てコンチネンタ
ルホテルが開業していたため芳しくありませんでした。

1900年~1901年
パンクラーツィはホテルを65室を有する建物に改築し、コ
ーヒーショップは通称「レストランパンクラーツィ」と呼ばれ
るようになり、サイゴンの美食家が集まってきたとありま
す。

1905年
新しくオープンしたグランドホテルデナシオンの人気が高
まりアンナンツアーに参加したフランス人はこのホテルに
宿泊し、1階のレスチランで毎回食事を取る観光客が増
えていきました。

1913年
パンクラーツィのサイゴン市に果たした功績に対して勲章
が授与され、彼はサイゴン市の植民地評議会の議員に
なります。

1919年
パンクラーツィはグランドホテルデナシオンを売却し、その
後サイゴンを離れます。その理由については記録があり
ません。

1922年
グランドホテルデナシオンは極東で最も古く、大手の薬局
として宣伝してMaison Holbé et Renouxを経営してい
たL. Solirèneに引き継がれます。

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パンクラーツィがサイゴンを離れてもホテルは「古きパンク
ラーツィの家」として経営されました。

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1926年 グランドホテルデナシオンの広告

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グランドホテルデナシオンの前にはフランシス•ガルニエ
(Francis Garnier)の銅像が建っていました。

1950年代
ホテルは6階建てのリアンセン複合ビル(Liên Seng
complex)として新築され、1970年代初頭まで続きま
すが、その後ホテルは閉鎖され賃貸ルームとなったようで
す。

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リアンセン複合ビルの1階にはショッピングセンターの
「エデンモール」(当初は映画館)やカフェの「ジブラル」
(Givral Café)が造られました。

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マルグリット•デュラス原作のヒット映画「ラ・アマン」もここ
で上映されました。

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ジブラルカフェ(創業1950年)

その後のベトナム戦争中にはこのカフェはコンチネンタル
ホテルのテラスと並んでジャーナリスト達の溜まり場として
有名でした。

2010年
場所柄、周辺のビルがリニューアルされたり、新規高層
ビルが建設されて、サイゴン中心街の景観にあわなくな
ってしまったのか、人民委員会は全住民に立ち退きを通
告します。

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住民は取壊しに猛反対のデモを敢行しましたが、とても
静かなストライキでした。住民は僅かな立ち退き料をもら
って引っ越していきました。

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ビルはあっけなく取り壊されました

2013年秋
ユニオンスクウェアーとして複合ビルが誕生します。

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内部のショッピングモールはhttp://vietnam.navi.com/shop/169/参照

宝くじ会社
宝くじ会社

植民地時代 SAMIPIC
場所      606 Trần Hưng Đạo

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チョウクワン地域のチャンフンダオ通りにある歴史的な建
物が再開発の波に襲われています。

場所はその昔クメール人の寺院があったところですが、
1932年に取り壊された後は、タオダン公園内の小さな
建物で運営していた宝くじ会社「SAMIPICが1933年
2月16日エレガントな概観の建物を新築しました。

宝くじ会社はコーチシナ原住民の道徳、知性、体格の
改善の為に設立されたもので「SAMIPIC」(Société
pour l’amélioration morale, intellectuelle
et physique des indigènes de Cochinchine)
と呼ばれていました。運営は1926年に設立された
「アンナン社会エリート集団」の委員会によって行われます。

SAMIPICは2ピアストルの宝くじ券を大衆に販売し、
利益の大部分をコーチシナ人の健康、教育のために
寄付し、さらに毎年フランスに留学生を送り出しました。

1929年
SAMIPICの著しい業績として、サイゴンに「アンナム人
社会」の建物を建設したこととパリの私立大学「インドシ
ナ」の建設に資金を提供したことでした。

1930年3月22日
大学の創設記念式典にはフランス大統領Gaston
Doumergueとフランスで勉強を続けていた若きベトナム
の最後の皇帝バオダイ帝が出席しました。

1954年
フランスがベトナムから撤退すると建物はアメリカ政府
が取得し、アメリカ軍事顧問団(Military Assistance
Advisory Group 「MAAG」)が入居してきます。「MAAG」
はフランスに対する支援として南ベトナムに
武器、軍事訓練を提供します。

1957年10月22日
「MAAG」は知名度が高かったため常に国民解放戦線
(National Liberation Front)の攻撃標的にされたアメ
リカの軍事3施設のひとつでした。

1962年2月
最初のアメリカ軍の航空部隊の到着に伴って、「MAAG」
はベトナムにおける米国の軍事活動や軍事作戦の全責
任を負う統合司令部として機能を持った軍事支援部隊
「MACV」へと変身していきます。

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MAAG 司令部 1962年

1962年5月
MACVのスタッフはMAAGの同僚と一緒にこの建物に
宿泊していましたが、パスター通り137番地に独立の宿
泊所を与えられ移転します。
チャンフンダオの建物はこの時から1966年まで
「MACV II」と呼ばれます。

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MAAG 司令部「MACV II」1963年

1964年
「MAAG」の機能はすべて「MACV」に統合されます。

1966年
すべての「MACV」の活動は「Pentagon East」と呼ばれ
たタンソンニャット空港内に移されたので、代わりにベトナ
ム戦争中の韓国軍司令部となり、1973年のパリ和平
協定締結まで続きます。

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韓国軍司令部 1969年 ①

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韓国軍司令部 1969年 ②

パリ和平協定締結後、建物はいろいろな地元の企業に
よって使用されてきましたが、現在、建て替えが検討され
ています。

デスクラス&カボー会社
デスクラス&カボー会社

植民地時代 Descours et Cabaud
現在      地域の人民委員会
場所 39 Trần Quốc Thảo(チャン・クオック・タオ), Q3

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ホーチミン市3区のチャン・クオック・タオ39番地にある旧
植民地時代の大邸宅は地区協議会の建物になってい
ますが、かつてはフランス、リヨンに本拠を置く「冶金製品
会社デスクラス&カボー」の経営者の邸宅でした。

1780年
フランスで設立されたデスクラス&カボーはフランスの主
要会社で、「鉄、鋼、鋳鉄、その他の冶金製品」を国際
的に取引していた会社でした。

1898年
会社は極東では始めての事務所をハノイに開設しました
が、翌年の1899年にはサイゴンのベンゲ運河沿いの
ベルギー通り(現在のヴォ・ヴァン・キエット)の波止場に
大きな施設を取得し、インドシナ統括本社とします。

1915年までにはダナン、ハイフォン、クイニョン、ヴィン、
プノンペン(カンボジア)、ヴィエンチャン(ラオ)、Mongtze
(中国)、雲南(中国)に駐在員事務所を設置します。

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サイゴンに設置されたインドシナ統括本社

サイゴンで使用される建築材料は多かれ少なかれ、
この会社が介在していました。

1927年
資本金50百フランの有限会社であったデスクラス&カボ
ーは冶金製品の中核事業に加えてÉtablissements
Decauville、Portland Cement、Worthington
Pumps、Produits Chimiques、Le Métal Déployé、
Le Gauloisなど当時のフランス国際企業のインドシナに
於ける代理店としても活動します。


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デスクラス&カボーの広告 1927年

チャン・クオック・タオの大邸宅はサイゴンの Xuân Vinh
村に大農園を所有していて有名だった同社の経営者、
Maurice Bergierの住居として20世紀初頭に建てられ
ました。

1914年~1922年
Bergierはコーチシナ商工会議所の会長、サイゴン港の
管理評議会、さらにコーチシナ植民地評議会のメンバー
に任命されます。

Bergier退任後は1954年にフランス軍がベトナムから
撤退するまで彼の子孫が住んでいました。

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1975年
サイゴン陥落後は地元の役場として使用されています。>
サイゴン競馬場
サイゴン競馬場

Saigon’s Racetracks
場所 フウトウ(Phu Tho)11区

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サイゴン競馬場は当初はフトウホアカクマンタンタム
(CMT8)とディエンビンフー(Dien Bien Phu)通りの交差
点にあったフランス軍の兵舎の中に建設されました。

兵舎では毎週末、騎兵隊が隊列行進の練習をしていま
した。

20世紀の始めフランス人商人ジャン•デュクロ(Jean
Duclos)は地元の住人が中毒のようにギャンブルに興
味を持っていることに気付き、大きなビジネスチャンスが
あると悟ります。

彼はハノイからアラブ種の馬を8頭運び込み、多くの中
国人富裕層が住んでいるチョロン近くのフウトウホア
(Phu Tho Hoa)に競馬場を建設しました。

デュクロの競馬場は当初から富裕層や一攫千金を夢見
る地元庶民が押し寄せ最初の6カ月で200レースを開
催するようになります。

1910年12月15日
競馬場にはアジアで最初の飛行を敢行したCharles
Van Den Bornの飛行機が着陸しました。
.
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15000人以上の人が見守った着陸

1932年
フランス商人Monpezatは444,440m2もあるさらに大き
な競馬場を現在のホーチミン市11区のPhu Thoに建
設しました。

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競馬場ではドッグレースも開催されました。

1968年
ベトコンのテト攻勢時には南ベトナム軍との熾烈な戦闘
が行われた場所になりました。

1989年
競馬場は中国人商人によって一新され再オープンされ
ました。

2011年
ホーチミン市人民委員会の決定により廃止されます。
老朽化した建物が現在でも残っています。>
ネッスル本社
ネッスル本社

Nestlé Headquarters
場所  ゴドゥック通りとドンコイ通りの交差点

1866年創業されたスイス企業ネッスルは1912年に
サイゴンに貿易事務所を設置しました。

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ネッスルの本社ビルはゴドゥック通りとドンコイ通りの交差
点にあり、現在でも健在です。

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ベトナムでのネッスルは第1次世界大戦から1920年代
にかけて、エバミルク、乳製品、チョコレートをベトナムの
サイゴン、ハノイ、ハイフォンの各店を起点にしてインドシ
全域に大量に販売することに成功し、会社は急激に成
長していきました。

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1920年代 コンデンスミルクの広告

植民地時代を通じてサイゴンにあるネッスルのインドシナ
本社は健在でしたが、1930ん年代にはナムキコイギア通り
35-37番地に新事務所をオープンさせます。

サイゴンで最もスタイリシュなアールデコ建築のネッスル
本社1975年以降はいろいろな目的に使用されましたが、
現在ではサイゴンタイムズグループに属しています。

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ナムキコイギア通りのネッスル事務所



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