べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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カティーナビル
カティーナビル

The Catinat Building
場所 158ドンコイ(ドンコイ通りとリトゥチョン通りの交差点)

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現在のカティナビル

アールデコ調のランドマーク、カティナビルはドンコイ通りとリトゥチョン
通りの交差点にあり、フランス植民地時代はゴールドランド地域と呼ば
れていました。

それはサービス、文化、金融、ホテル、展示場などの施設を建設する
再開発が予定されていたからです。

20世紀初め
カティナビルの一部がカティーナ158番地に建設され、いろいろなフラ
ンスの企業が入居しました。


1902年~1905年
体育館、フェンシングルーム、小さな射撃場を有する「サイゴンスポー
ツクラブ」が入居します。

1925年
カティーナ158番地とリトゥチョン通りの角地を裕福なフランスの不動
産会社Société urbaine foncière Indochinoise (SUFIC)に取得され、
以前の建物は取り壊されます。

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リトゥチョン通り側に残るSUFIC のプレート

5階建てのビルを建設するため、基礎工事が地中深くされている矢先、
4月に魅力的な遺跡が発見がされます。

フランスがサイゴン侵略時に完全に放火して破壊したザーディン要塞
(サイゴン城)の遺跡が出現したのです。

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フランス植民地時代の建築現場

数週間は遺跡の石を取り除き、新しい基礎工事をする為の穴掘りが続
きました。しかし一定の深さまで掘ると予期せぬトラブルが発生します。
彼らは非常に特別な外観を持つ、巨大な石から作られた強力な壁を発
見しました。この深さでその存在は、エンジニアを驚かせました。
この件はコーチシナ政府の公文書係Jean Bouchotすぐに連絡されま
した。
彼は昔のサイゴンの地図と照らし合わせ、その石が1790年に建てら
れザーディン要塞の外壁の名残であることを確信しました。
その後、フランス極東学院(EFEO)の院長であったLouis Finotも
Jean Bouchotの説を支持しました。

1790年に建設されたザーロン要塞の存在が確証され、その範囲など
の概略が遺跡によって判明したのです。

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ザーロン要塞の配置図

ザーロン要塞の南門、Càn Nguyên門はレタントン、リトゥチョン通りと
ドンコイ通りの交差点にあったのです。

その後、建設は急ピッチで進められ、アールデコ様式のカティナビル
は1927年初期に完成します。

ドンコイ通り側の建物には「信頼できるインドシナの建築家1927」
という名前の無いプレートが刻まれています。

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1930年~1940年代
カティナビルにはいくつかのゴムプランテーション会社(下記を含む)
のサイゴン事務所が置かれました。
1.Société des Hévéas de Tây-Ninh
2.Société Indochinoise des plantations Réunis de Mimot
3.Plantation de Phuc-Ha.
その他、重要な会社としては雑誌社のRevue Indo-chinoise illustrée
and l’Impartial、1937年からはインドシナ観光局やサイゴンの主要
な観光案内所が入居します。

1940年
ビルの所有者であるSUFICとFrigorifique社(冷蔵に関する会社)
がここに居を構え、地上階はカフェショップやレストランで賑わいました。

しかし所有者であるSUFICにとって最も輝かしいことは1930年代初
めにカティナビルにアメリカ領事が入居したことでした。

サイゴンへのアメリカ外交団は最初はドンコイ通り4番地、そして
グエンズ通り25番地に滞在した後、カティナビルに滞在していました。

1941年11月23日
その為、カティナビルは日本軍憲兵隊の爆弾攻撃の対象となり、ビル
は甚大な被害を蒙りました。その2週間後、日本軍は真珠湾攻撃を行
い、アメリカの外交団をインドシナから追放したのです。

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1941年11月の カティナビル

1945年
アメリカがベトナムに戻ってきた時、1950年にハムギ通りに大使館が
完成するまでホートゥンマオ通り4番地に領事が滞在しました。

興味深いことにアメリカ人はカティナビルの隣のビル、リトゥチョン22番
地を買収しました。

1960年代
買収したビルはピットマンマンションとして知られ、アメリカCIA局の
チーフとスタッフが1975年まで居住しました。

1975年4月29日
サイゴン市内にはアメリカの戦艦に非難する難民を救助するための
発着所が3カ所指定されました。そのひとつがリトゥチョン22番地の
屋上でした。よくアメリカ大使館の屋上と間違えられました。
他の2箇所は192 Công Lý(現Nam Kỳ Khởi Nghĩa)と2 Phan Văn
Đạtでした。

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1975年4月29日
この象徴的な写真を撮ったのはヒューバート•ヴァン•エス( Hubert Van
Es)氏です。

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チラン公園から見たリトゥチョン通り22番地のビル屋上のヘリポート

南北統一後
カティナビルは平穏無事に過ごしています。
上層階はアパートとして貸し出され、1階は小売商店のスペースとして
バー、カフェ、レストラン等が営業しています。

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カティナビルのバルコニーの鉄製品

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カティナビル内部の階段、窓、手すり

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213カティナビル
213カティナビル

植民地時代  植民地政府事務局長事務所
1920年 213カティナビル      
現在 市民センター建設のため取壊し
場所 213 Dong Khoi

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2014年

ホーチミン市人民委員会に隣接して14階立ての市民セ
ンターを建設するため、いくつかの歴史的建造物が取り
壊されることになりました。
その手始めとしてドンコイ通り213番地、ドンコイ通りとレ
タントン通りの交差点にあったアールデコ様式の建物の
取り壊わしが2014年3月から始まりました。

フランスの植民地支配の最初の60年間、この場所には
(植民地政府の市役所 現在のホーチミン市人民委員
会)に隣接して植民地政府事務局の建物がありました。

1929年~1930年
事務所が解体され、Société d’exploitation des
établissements Brossard et Mopinにより「213カティ
ナビル」が建設され、ポルトガル、オーストリア、スペインの
領事館やインドシナ観光局の事務所が入居します。

同時にMarguerite, Blessy , Galeries Lafayetteなど
ファッションアウトレットが開店しフランスオートクチュール
の中心地となりました。

他にも1930年代、ここを基地とした機関には
1. Agence Financière d’Indochine(インドシナ財務局)
2. Société foncière de Gia-dinh(金融会社)
3. Société urbaine foncière de l’Indochine(不動産会社)
4. Clinique de beauté et de Massage médicale(クリニック)
5. weekly journal Clinique de beauté et de Massage
6. médicale(雑誌社)
があります。

しかしビルの多くはアパートとして貸し出されました。
その中には世界大恐慌で壮大な不動産を失った
Janie-Marie Marguerite Bertin Rivière男爵夫人も
1932年から1938年まで居住していました。

この建物はグラハムグリーンの小説「The Quiet
American」にも登場します。

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13 (300x206)

しかしこのビルは歴史的、芸術的に重要なビルとして
認められることがありませんでした。

1975年以後
メンテナンスがほとんどされず、放置されてきます。

2014年
市民センター建設計画のため取壊しが決定されました。

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2015年


続きを読む
サイゴン総合病院 更新1
サイゴン総合病院

Polyclinique Dejean de la Bâtiet
Saigon Hospital
場所 125 Lê Lợi

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ベンタン市場の斜め前、鉄道管理局の隣にあるサイゴン
総合病院の前身はベトナム社会の人々の治療に一生
を捧げたフランス人医師テオドシウスドジャン•デ•ラ•
バティ(Théodose Dejean de la Bâtie)の名の下に建設
されました。

裕福だった中国人社会は1870年代にはチョロンに独
自の整った病院を持っていましたが、サイゴンでは欧州
人のための病院しかなく、庶民は漢方薬などベトナムの
伝統的医療に頼っていたようです。
サイゴンに住んでいるベトナム人は病気がひどくなるとベ
ンゲ運河沿いにあるチョウクワン病院か、ティゲ運河沿
いにある聖パウロ修道会クリニックに行くしかありません
でした。

1900年
チョウクワン病院の元理事をしていたバティは植民地議
会に選出され、ベトナム人の為の病院建設を声高に主
張します。

1903年4月
バティは自己資金を投入して現在のホートゥンマオ通り
に診療所を設置し、西欧医術の恩恵を受けたくてやって
くるベトナム人に無料で医療や外科的治療を提供しまし
た。

当時発刊されていた新聞記事には「最近設立されたに
も関わらず、この診療所は輝かしい成果を挙げており、
すばらしいサービスを提供している」と評されています。

最初の1年で無料相談室に3151人が来院し、非常に
込み合っていました。この時期、バディは同僚のフランタ
ン博士の支援を受け、無料の医療相談は欧州修道女、
アンナン修道女、アンナン看護師や通訳によって支援さ
れました。

バティは2年近く診療所を維持してきましたが、自己資
金も尽きて破産してしまいます。

1905年
サイゴン市政府は診療所の経営を引き継ぎ、この年
1200ピアルトルを予算計上し、チョロン省から300、
ザーディン省からも300ピアストルの支援金を受取る
ことができました。

1912年
バディ47歳の時、予期せぬ死を迎えます。医療の水準
の向上に生涯を捧げたバディに地元の人々は惜しみな
い賛辞を送りました。

1914年
彼の死から2年後、診療所はレロイ通りに移転し拡張さ
れました。その場所が今日のサイゴン総合病院です。

1919年
増え続ける医療サービスの需要に対し、植民地評議会
のメンバーであるTrương Văn Bềnはさらに大きな病院
を建設すべきと訴えます。

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1930年のインドシナの医療現場

診療所の患者数は1922年-28982人、1924年ー
37957人、1924年ー45161人と急増したため、イン
ドシナ当局はTân Định (1925) と Khánh Hội (1930)
地区に診療所を増設しました。

1935年
コーチシナ総督のPierre Pagès総督は診療所を設備の
整った市民診療所に再構築することに同意し、1937
年から建設に着手し、1939年にオープンしました。

1938年2月
植民地評議会は新築される診療所の名前を敬意を表
してPolyclinique Dejean de la Bâtie」とすることを正
式に決定します。

玄関ロビーにある大理石銘板にはこの診療所の建設に
貢献のあった人の名前が刻まれています。

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1949年  新診療所

新診療所はフランス植民地時代にベトナムの気候を考
慮してデザインされた建築物として現在の「総合科学
図書館」と並んで建築学的に価値ある建物と評価され
ています。

1955年以降.
診療所はサイゴン総合病院(Bệnh viện Đa khoa Sài
Gòn)と変更されます。ベトナム戦争中には日本人医
師も勤務してゴジンジェム大統領も診察に来たそうで
す。

2014年
建物の外壁はひどく劣化しており、6月10日の新聞「ラ
オドン」(労働者)の記事では「病院は怪しげな雰囲気で
酷く汚れており、サービスも不適切、管理が行き届いて
いません」と記述しています。

さらに記事は「ホーチミン市保健省のリーダーは「すべて
の必要な設備と便利なロケーションに位置していますが、
サイゴン病院のパフォーマンスは非常に悪いです....、
この状態を解決する必要があります。保健省は病院スタ
ッフが再編成されるか、病院を完全に閉じることを考慮
するかどうか検討しなければなりません。」と記述していま
す。

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2014年

現在この地区は再開発の対象になっています。

チョウクワン病院
チョウクワン病院

植民地時代  Bệnh viện Chợ Quánt
現在       Bệnh viện Bệnh Nhiệt Đới
場所  766 Võ Văn Kiệt, Q.5

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現在のチョウクワン病院鳥瞰図

189年に渡り多くの変遷があったにも関わらず、チョウク
ワン村(サイゴンとチョロンの間)に位置していた「Bệnh
Viện Chợ Quán」はサイゴンで最も古い病院として知ら
れています。

1862年
この病院は裕福な支援者の寄付によってベンゲ運河
(現在、この辺の運河はタウフー運河と呼ばれています)
に面して建築され、個人的に運営されていました。

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フランス軍がフエ宮廷軍が築いたキーホア要塞を攻撃
すると(キーホアの戦い)、この病院はフランス軍の救急
病院として使用されます。

1864年
フランス政府の要求に従ってコーチシナ植民地政府に
寄付され、性病や囚人の患者の入院治療も受けつけま
す。

1876年~1904年
病院は修理、拡張され感染症の予防、手術室とリビン
グルームが追加されます。

1931年8月26日
共産党の徹底弾圧を進めていたフランスはインドシナ共
産党初代書記長チャンフーを逮捕、拷問し、衰弱しきっ
た彼をこの病院の監獄のような部屋に投げ込みました。彼は
9月6日に死去します。彼の投げ込まれた部屋は現在も保存
されています。

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病院内のチャンフーの銅像

1954年~1957年
病院は南ベトナム軍隊が使用するようになり兵士の結
核治療のために使用されます。

1957年後半
病院は一般の人々にも解放され、感染症、ハンセン病、
精神疾患をも治療するようになります。また医学生の研
修センターの役割も果たします。

1973年末
韓国資本によって6階建ての本館が建設され。1974年
2月3日からは「Trung tâm Y Khoa Hàn-Việt」として近
代的な設備を整えた総合病院として発足します。
病院は南ベトナムにある医科大学の実習センターに選
ばれます。

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1975年5月1日
サイゴン陥落後は軍事管理委員会の管理となり、9月
には精神科病院としての役割も与えられます。

1979年4月8日
病院はホーチミン市とベトナム南部の各省のための感染
症患者の治療と予防のための専門家を訓練する病院
になります。

1989年9月5日
ホーチミン市人民委員会の決定により「Trung Tâm
Bệnh Nhiệt Đới」
(熱帯症センター)と改名され、ホーチミン市保健省の
管轄下で熱帯症の専門病院となります。

現在
現在は14部門の医療サービスを提供する総合病院
として機能しています。

国旗掲揚塔
国旗掲揚塔

仏語  Mât des signaux 
越語  Cột cờ thủ ngữt
場所  ベンゲ運河河口

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サイゴン河川公園の目玉として存在している国旗掲揚
塔は最近改装されました。

1860年
この塔は当初、tフランス海軍キャプテン、ローレンス•
ジョセフ•ルジューン(Laurent-Joseph Lejeune)の名
をとって、「ルジューン塔」と呼ばれていました。

1865年10月
ルジューンは、サイゴン港の施設の多くを構築しましたが、サイゴン港に信号塔の必要性を感じ、建設しました。

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19世紀末の信号塔

もともとシンプルな信号塔の主な機能は信号フラグを使
用して川を航行する船との通信でしたが、そのうち、サン
ジャック岬(cap Saint-Jacques ブンタウの入口)からの
電信により、戦艦、貨物船、郵便船などの到着を合図
するようになりました。

そのうち毎週月曜と金曜の午後5時からは軍隊による
演奏会が開かれたので、信号塔は人気のレクリエーショ
ンスポットとなりました。

1891年
信号塔はメリン広場から運河沿いにチョロンへ向かう蒸
気路面電車の最初の停留所になりました。

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蒸気路面電車は電化される1920年代半ばまで続きま
す。

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1896年 路面電車のルート

1900年
信号塔の老朽化のため、新しい信号塔が建設されます。
信号塔に隣接する岬には夕食を終えたフランス人が
しばしば行き交う船を見にやってきて賑わっていました。

1920年以降
信号塔の麓には地元の目ざとい起業家がバーを開きま
す。

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信号塔下のバー

1940年
信号塔は マダムデュランが経営する有名なレストラン
「ラポワントデジョーカー」(la Pointe des Blagueurs)
に変身していました。

1945年9月23日
英印軍が上陸してくると、この信号塔の場所でベトナム
人は間に合わせの武器で激しい抵抗をしました。この信
号塔はサイゴンの人々には忘れられない場所なのです。

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1950年の信号塔

2010年
波止場の造園の一環として信号塔は改装され、その周
囲には展示会場ができるはずでしたが、計画は頓挫して
しまったようです。現在は国旗掲揚塔として使われていま
す。

中央公安署
中央公安署

植民地時代 Bot Catinat(公安署)
現在 Bộ Văn hóa Thể thao và Du lịcht(文化・情報・スポーツ観光局)
場所 164 Đồng Khởi

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現在の文化・情報・スポーツ観光局

“Gold land”の一等地に位置する現在の文化・情報・
スポーツ観光局は不吉な過去を持っています。

1860年代
サイゴン大聖堂前の広場は当時、時計広場(de
l’Horloge)と呼ばれていて植民地支配当初のフランス
政府の建物がありましたが、ほとんどが空き地でした。

1870年代
時計広場に最初に建設されたのは ドンコイ通り164
番地のサイゴン中央郵便局です。

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1878年のマップ

1891年
中央郵便が現在の建物に建て替えられた後、時計広
場は3分割され開発されます。
164-166番地(現在のメトロポリタンビル)には植民地
の財務省が建設されましたが、その後このビルには
Recette やTrésorなどいろいろな金融機関の地方事
務所が置かれました

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1900年代の財務省メトロポリタン局(右)と財務省
現地事務所(左)

1910年
162番地には中央警察署が設立され、1917年に建物
が拡張されて警察業務と公安業務を司ります。

1933年
時計広場はさらにt区画整理され166番地の財務省が
移動し、164番地の警察署は公安業務の建物「Bót
Catinat」として再建されます。

「Bót Catinat」は残酷で恐ろしい建物としてベトナム人
の評判になりました。この拘置所に拘束された者は
リトゥチョン通りにある中央刑務所(Maison centrale)
に送られる前に激しい拷問を受けていました。
164番地に大聖堂が控えていることから、
「Bót Catinat」は「天国に近い地獄」と揶揄されていま
す。

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1950年の写真

グラハムグリーン(Graham Greene)の小説「The Quiet
American」の中にも「Its “dreary wall… seemed to
smell of urine and injustice.”
と描写されています。

1945年9月23日
ベトナム8月革命の後、べトミンの旗(現在の国旗)が
8月26日から9月23日までこの「Bót Catinat」に掲げら
れ、占拠されていましたが、イギリス軍に支援されたフラ
ンスがサイゴンに上陸すると、「Bót Catinat」はその機能
を回復します。

1950年代
「Bót Catinat」はフランスの秘密警察として機能します。

1955年
フランスがディエンビンフーの戦いでベトナム軍に大敗す
ると、「Bót Catinat」 は改装され、南ベトナム政府の
t内務省(Bộ Nội vụ)となります。

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t1965年の内務省 

1977年
ベトナムの南北統一後、文化・情報局の本部として、
1990年には文化・情報・スポーツ観光局の本部となり
ます。
建物の中には、現在でも歴史的記念碑として一般には
t公開されていませんが、地下監獄が保存されています。

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正面玄関脇には、「Bót Catinat」 の歴史を記す記念碑があります。

インドシナ内務省
インドシナ内務省

植民地時代  インドシナ内務省
現在  ホーチミン市の情報通信局と商工局
    (Sở Thông tin và Truyền thông、Sở Công
thương)
場所  59-61 Lý Tự Trọmg(リトゥチョン)

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14階建ての「市民センター」を建設する計画に伴って
2014年ドンコイ通りのフランスコロニアル建築だった
「213カティナビル」が取り壊されましたが、次はリトゥチョ
ン通りのコロニアル建築である政府機関「59-61リトゥチョン」
が取り壊しの憂き目に遭っています。

リトゥチョン通りの情報省はうっかり通りすぎてしまいそう
ですが、この建物はフランス植民地時代にノロドム宮殿
(現在の統一会堂)の次に権力を持っていたコーチシナ
内務省であったのです。 

1860年代
この地にコーチシナ政府によって内務省が建設されまし
た。当時の写真は残っていませんが、版画やサイゴンの
地図には記載されています。

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1881年の彫版印刷に見える内務省(Direction de
l’Intérieur)

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1890年のサイゴンの地図にある内務省

内務省はコーチシナ全域の民事、司法、財務事項の責
任権限を有しており、その長官はサイゴン市民の監督官
でした。

1888年
内務省の機能はコーチン政府の事務局に包含され、よ
り大きな建物が建設されました。この建物が今日に至っ
ています。

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1900年代の内務省

20世紀初頭
サイゴン市民からは「市民サービスの役所」として知られ
ていました。


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1940年の内務省

第2次世界大戦終了後、フランスは短期間、この建物
の中に内務省を設置します。

1955年
南ベトナム政権はドンコイ164番地にあったカティナ警察
(現在の文化・スポーツ・観光省)の中に新たに「内務
サービス部」を設置し、リトゥチョン通りの内務省は南ベト
ナム経済省(Bộ Kinh tế)に改装されます。

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1960年代の経済省

現在
ホーチミン市の情報通信局(Sở Thông tin và Truyền
thông)と商工局(Sở Công thương)として使用されて
います。

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情報通信局と商工局

2014年12月
ホーチミン市人民委員会は新しい「シティーホール建設
のためデザインを公募することを決定しました。「59-61
リトゥチョン」ビルは消滅の運命にあります。

グエンヴァンクアの邸宅
グエンヴァンクアの邸宅

植民地時代  Imprimerie de l'Union
場所 49-57 Nguyễn Du(グエン・ユ)

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サイゴン中央郵便局の近くのグエンズ通りにはフランス
植民地時代に印刷会社として成功した旧グエンヴァン
クアの大邸宅があります。

1867年
フランスは植民地時代の初期に官報を公布するために、
現在のインターコンチネンタルホテルの敷地に「Annuaire
de Cochinchine Française」と「Annuaire de l'Indo-Chine
française」という印刷管理所を設立し、高級官僚に管理
させました。

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1904年
官営印刷所は老朽化し、労働環境も悪いため民間企
業との競争に勝てず、職員を解雇して官営の印刷会社
は閉鎖されます。その後の印刷物は一切、民間会社に
任されるようになります。

1920年代
その中で最も有名で成功した印刷会社がグエンヴァン
クアが経営する印刷会社“Imprimerie de l’Union”でした。

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“Imprimerie de l’Union”の標識は現在も残っています。

彼は新聞の印刷を引き受けたのでした。
1.L'Écho annamite:
2.Organe de défense des intérêts franco-annamites
3.L'Eveil économique de l'Indochine
4.L'Ere nouvelle:
そして印刷範囲は雑誌やコーチシナやサイゴン市の
広報誌へと拡大していきます。

1907年
クウォックグー(現在のベトナムの国語)で書かれた
コーチシナ6州のニュース新聞「Lục Tỉnh Tân Văn」
の印刷を引き受けます。

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当時この新聞はベトナムの知識人が読む新聞と見なさ
れ、グエンヴァンクアはフランスの市民権を獲得し、植民
地評議員に選出され、しばしばコーチシナの社交界に
現れるようになります。

彼はビエンホアのロンタン(Long Thành)に288ヘクター
ルのプランテーションを取得し、インドシナゴムプランテー
ション協会のメンバーになります。

1925年
ベトナムの最も優れた知識人のひとりとされるPétrus
Trương Vĩnh Kýの銅像建設資金を募る委員会の
会長に選出されます。

1928年
彼は90000フランの集金に成功し、サイゴン大聖堂の
裏手に銅像が建設されました。(現在はありません)

1927年
さらに彼はインドシナ研究協会の活動メンバーであり、
協会はアジアの美術品を購入するため、彼を購入委員
会の会長にしました。
グエンヴァンクアの卓越した集金能力と人材ネットワーク
で貴重な芸術作品が各地から集められ、その作品は現
在のホーチミン市の歴史博物館の中心になる展示品に
なっています。

1941年5月
グエンヴァンクアが死去した時には、フランス植民地政府
関係者や多くの市民が参加した盛大な葬式が営まれま
した。
数日後、農業会議所の会長は新聞紙上に「フランスと
ベトナムのために尽くした人として長文の賛辞を寄稿してt
います。

印刷会社、旧「Imprimerie de l'Union」はフランス植
民地時代には“Gold Land”と呼ばれていた地域でした
が、現在は再開発の対象地域になっています。

付記: “Gold Land”とはĐồng Khởi, Lý Tự Trọng,
Nguyễn Du, Hai Bà Trưng通りに囲まれた地域を指します。

フランソワ キャナヴァジオの邸宅
フランソワ キャナヴァジオの邸宅

場所 128 Nguyễn Thị Minh Khai(旧サイゴン
     スポーツクラブの真向かい)

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現在のキャナヴァジオの邸宅

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20世紀の初め、グエンティミンカイ通り128番地はサイ
ゴンで最も有名コルシカファミリーのひとつだったキャナ
ヴァジオの邸宅でした。

1859年
キャナヴァジオ一家はフランス軍を支援するためにサイゴ
ンに到着した最初の植民地入植者のメンバーで、最も
成功した一家がフランソワ キャナヴァジオでした。

1907年
ビジネスで成功した彼はトゥドゥック近くのXuân Vinhに
大きなプランテーションを購入します。
その後、彼はコーチシナ植民地評議会のメンバーとなり、 
コーチシナ農業会議所の副社長も勤めます。

そしてグエンティミンカイの邸宅を購入しました。

1901年~1924年
彼はベトナム人に農業や工業の知識を広めるために、
最初のクウォックグー(現在ベトナム語)によるビジネス
新聞、「Nông cổ mín đàm」(農業問題)を発行しまし
た。

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新聞の最初の編集長はベトナム人弁護士のGilbert
Trần Chánh Chiếuでしたが、彼はキャナヴァジオと
同様に自由進取な気持ちを持った独立志向の人物
でした。

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Gilbert Trần Chánh Chiếu

1907年~1908年
新聞社は民族主義者のファンチュウチンが中心となって
進めた「維新運動」共鳴し、支援団体として新聞記事に
は反仏記事が多くなりGilbert Trần Chánh Chiếuは
フランス当局に逮捕され、その後はフランス当局の厳格
な統制化に置かれます。

1922年
Canavaggioの死後、新聞社はベトナム人未亡人によっ
て引継がれましたが、2年後にはサイゴン港に関わる独
占スキャンダルを掲載したため、フランス当局によって新
聞社は閉鎖されます。

<子孫>
1920年~1930年
Canavaggioには数人の子供がいました。
Marie-Angeはカントウで法律家を、Julesはトゥドゥック
でカトリック神父となりましたが、彼の子孫で最も知られ
ているのはPaul-François Canavaggioで、Thủ Dầu
Một 近くのLong Chiêuで大きなゴムプランテーションを
所有し、プノンペンとサイゴンには男性用品を販売する
ショップを経営しました。

彼のサイゴンショップはドンコイ通り118-120番地
(後にドンコイ通り173-175番地)で当時の流行を
リードしました。

1935年
しかし残念なことに世界恐慌の影響を受けて彼の事業
は破産し、残った資産を売却してインドシナを離れます。

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旧キャナヴァジオの邸宅

マルグリット•デュラスの邸宅
マルグリット•デュラスの邸宅

場所  141 Võ Văn Tần(ヴォバンタン)

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ヴォバンタン通り141番地のフランスコロニアルの建物は
フランスの作家・映画監督マルグリット•デュラス
(Marguerite Duras)がサイゴンでの最後の年を過ごし
た邸宅です。

12 (164x193)
1914年サイゴン生まれ
tt
マルグリット•デュラスは1929年から1931年までLycée
Chasseloup-Laubat(現在のレウィドン高校)に通って
いました。その後、法律を学ぶため、1932年にフランス
に帰国します。

その当時出会った豊かな華僑の青年フイン•トゥイル
(Léo Huỳnh Thủy Lê 仮名) との初めての性愛体験
を描いた自伝的小説「l’Amant ラマン 愛人」は1984
年ゴンクール賞を受けました。

Donnadieu (小説のフイン•トゥイル)家族はフランスに
一旦戻りましたが、すぐにベトナムに戻ってきます。当時
貧乏だったマルグリットはレウィドン高校を無事卒業する
ことができました。

ヴォヴァンタン通りの建物は1932年から1933年まで
Donnadieuの家族が住んでいました。

現在この建物は地方銀行の事務所になっています。>
フリーメーソンのロッジ
フリーメーソンのロッジ

植民地時代 ル・レヴェイユ・・ドゥオリエント
(Le Réveil de L'orient)
現在      公安新聞社
場所      110 Nguyễn Du(グエンズ通り)

1870年代
サイゴンのレタントン通り17番地にフリーメーソンのロッジ
Le Réveil de l'orient が建設されました。

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それは1894年の分裂をきっかけに「至高」の信念に関
わらずGrand Orient de Francの管轄下で設立され、
ナムキーコイギア116番地に設立されたGrande Loge
de France管轄下のLes Fervents du progrèsに対抗
するものでした。

1898から1900年
Le Réveil de l'orientはコーチシナ当局からの補助金
で新しくグエンズ通り110番地に新築されます。

12 (400x266)
新築されたLe Réveil de l'orient

1913年
一方、Les Fervents du progrèsは資金不足のため
Le Réveil de l'orientに吸収され、その後、単一の
フリーメーソンのロッジはフランスのベトナム撤退まで機能
しました。

今日は公安新聞社のホーチミン事務所として使用され
ています。

海軍兵士クラブ
海軍兵士クラブ

植民地時代
仏語 Foyer du Soldat et du Marin
英語 Soldiers and Sailors Club
現在
ホーチミン作戦博物館t
場所 2 Le Duan (レズアン通り)

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賑わう海軍兵士クラブ

1890年代
海軍兵士クラブはインドシナ軍上級司令官テオフィルペ
ネクイン(Théophile Daniel Noël Pennequin)によって
設立されました。

場所はレズアン通りでクラブの裏側には1906年のサイ
ゴン旅行案内書で世界で最も美しいと呼ばれていた
第11植民地軍兵舎がありました。

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創設者テオフィルペネクイン

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設立当初の海軍兵士クラブ

クラブ内では定期的に演劇が演じられ、コーヒーショップ
では格安で飲食物を販売していました。兵士が宿舎から
遠く離れることなく格安で楽しめるように配慮されていて
、会議室や読書室、図書室も併設され蔵書は1500冊
に及びました。
クラブの庭には運動場がありスポーツゲーム大会が開か
れていました。

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当初のコーヒーショップ

しかし1910年までクラブの運営は非常に限られた予算
で賄われていて、これを知ったフランス当局は遠く故郷を
離れて職務についている兵士に理解を示し、年間200
フランの補助金を拠出しました。

助成金のお陰で数年後にクラブでは撮影コンテスト、
フラワーショー、自動車の展示会や映画の鑑賞会など
多種多様な催しものが行われ兵士の人気会場になりま
した。

1936年
建物は改築され、現在のアールデコ風の様式に再構成
され、新しく組織された海軍兵士連合体の運営に任さ
れます。バーやプールも建設され施設はさらに充実して
いきます。

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1937年 改装なった海軍兵士クラブ 
現在の建物です。

1956年
フランスが撤退すると南ベトナム共和国のゴジンジェム
(Ngô Đình Diệm)大統領付きのエリート警護団の
クラブハウスとして使用されます。

1967年
建物は南ベトナム軍の大佐以上の将校を訓練する
国防大学(Trường Cao Đẳng Quốc Phòng)へと
内部が改装されます。

1986年以降
ベトナム統一後、博物館建設用として人民軍
(第7軍区)の管轄に移され、1987年7月27日の
国防省通達によって博物館として使用することが正式に決定されました。

1996年
軍事博物館用に内部が改装され、展示物の準備がなさ
れて「ホーチミン作戦博物館」として正式に開館しました。

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ホーチミン作戦博物館

“Y” Bridget
  ”Y” Bridget
ホーチミン市8区

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1950年の “Y” Bridge

フランス植民地時代の末期に建築されたチョロンの
“Y”Bridgeはインドシナ戦争、ベトナム戦争での重要
な攻防戦の場所でもありました。

1936年頃
フランスはベンゲ運河の対岸に新しい屠殺場を建設
しようとしていたのでベンゲ運河に橋をかけようと考えて
いました。
橋の建設はベンゲ運河の混雑緩和にも役立つと考えて
いました。

1938年
コーチシナ当局は橋建設のため400000ピアストルの
予算計上をしました。

1939年
コーチシナ総督の Bréviéは将来の食肉処理場の
ため、“Y“ Bridge 建設の礎石を置きます。

1941年8月20日
1940年の日本軍のベトナム進出により建設作業は
一時中断しましたが、作業は再開され完成します。
長さ90m、幅8mの“Y Bridge”完成には鉄8900トン
とコンクリート4000m3が必要でした。

フランスのヴィシー政府はプレスリリースで述べています。
「困難な状況にもかかわらず、この橋の完成は将来の
チョロン地区の開発に役立つ象徴的な出来事だ。」

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1940年代の“Y” Bridge

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1952年の“Y” Bridge地図

しかし、この辺りは1920年から泥棒と無法者が横行す
る所で、1940年代には恐喝、誘拐、海賊行為を繰り
返すヤクザ集団ビンスエンの本拠地となっていました。

1945年
第二次世界大戦後、ビンスエンは強力な軍事的、政治
的勢力として登場するようになり、 9月24日から10月
までベトミンと同盟し、再侵略を企てるフランス軍に激しく
抵抗しました。

1947年以降
第1次インドシナ戦争が始まるとビンスエンはお金と引き
換えにフランス軍に軍事的支援を提供します。

1954年以降
ビンスエンはフランスがインドシナ戦争で敗退すると、
今度はベトナム国に賭博、売春、アヘン密売活動を
黙認させるのと引き換えにバオダイ政権に協力します。
この頃のサイゴンの町は警察よりもビンスエンが取り締ま
っていました。

1955年
4月28日~5月3日
アメリカの支援によってゴジンジェムが大統領に就任する
と、サイゴン市を解放する為、ビンスエンの掃討作戦を
決議、開始します。

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4月28日 レフォンフォン高校に立てこもっている
ビンスエンを攻撃する南ベトナム共和国軍

そしてベトナム共和国国軍はビンスエンのサイゴンへの
流入を防ぐため彼らの根拠地であるビンロンの町の掃射
作戦を開始します。
ビンスエンの首領Le Van Sangは新興宗教ホアダオ教
とカオダイ教の軍隊を味方につけて抗戦します。

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“Y” Bridgeの上で眠るビンスエン部隊

この戦いは「サイゴンの戦い」と呼ばれ、ビンスエンは
国軍には敵わずサイゴンの町から表向きは姿を消しま
すが、その子孫は現在でも地下活動を行っています。

16 (300x177) (5)
ビンスエン追放でサイゴン市民に感謝される
南ベトナムの兵士

5月7日
カオダイ教軍はリーダーのグエンタンフン(Nguyen
Thanh Phuong)がベトナム共和国軍に投降し、
以降はバオダイ追放に協力します。

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グエンタンフン

1968年5月7日
“Y”Bridgeは修復されていましたが、ベトコンのミニテト
攻撃(12月のテト攻勢の前哨戦)よって再び戦場になり
ますが橋は無傷でした。

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“Y”Bridge方面に避難してくるサイゴン市民

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1968年の“Y”Bridge

2007年
その後、1992年に”Y”Bridgeは改装されましたが、
2007年には東西高速道路の建設に伴い、古い橋
が取り壊され新築され、現在に至っています。

20 (300x177)
現在の“Y”Bridge>
ビンロイ橋
ビンロイ橋
Cầu Bình Lợi

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1902年2月
ビンロイ橋はフランス植民地政府がサイゴンとビエンホア
を結ぶためサイゴン川に架けた鉄道橋でサイゴンで最も
古い橋です。

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13 100 (400x252)
フランス植民地時代は旅行者の検問所がありました。

Lavelois Perret建設会社が建設したアーチ形の橋は
鉄製で全長は276mあります。しかし道路の表面はコン
クリートではなく木製で鉄道線路が引かれていますが、
脇には2輪車が通行出来るようになっています。

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この橋は建設から100年以上経過しており、新らしい橋
の建設が急がれていましたが、現在では韓国資本により
「ビンロン2」橋が完成しています。

「浮かぶホテル」
「浮かぶホテル」

Saigon Floating Hotel
場所 トンドゥックタン通り(メリン広場前)
現在 北朝鮮に係留

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サイゴンに外国観光客がやってきたのはそれほど遠い昔
では無いのです。

1890年代
ベトナム政府は外国人観光客を門戸を開き、植民地時
代に建設された建物の改修を急ぎ、国際的投資かも独
創的な方法で5つ星ホテルの建設を目指しました。

1989年~1997年
201室を持つ「浮かぶホテル」(Saigon Floating Hotel)
がトンドゥックタン通りのメリン広場の前に係留されていま
した。

この「浮かぶホテル」は最初の外資系ホテルで、日本の
EIC Developmentの投資によってオーストラリアのバリ
アリーフから持ち込まれたもので、オーストラリアの
Southern Pacific Hotelsの500人の専門スタッフによ
って運営されました。
ホテルにはサイゴンで人気だった「Downunder Disco」と
「Q Bar」が入居しました。

ベトナムでこのような事業が出来るようになった背景には
1986年に決議されたベトナムのドイモイ政策(経済の
市場主義化)によるところが多きいのです。

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1997年までにサイゴンには数十のホテルが建設された
ので、「浮かぶホテル」は閉鎖を余儀なくされます。

その後、ホテルはシンガポールで改装され、パラオで開業
しますが事業に失敗してしまい、ホテル名を「Hotel
Haekumgang」と改名して、はるばる5000Kmを曳航さ
れ北朝鮮Changjon港に着きます。

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Changjon港

2000年
「浮かぶホテル」はChangjon港で韓国のヒュンダイ企業
の管理の下で再開業します。
しかし南北朝鮮の肌寒い関係は観光事業を停止させて
しまいました。
その後、このユニークなホテルはもったいないことに放置
され続けているようです。

リバーサイドホテル
リバーサイドホテル

Riverside Hotel
場所  トンドゥックタン通り

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ホテル正面

1954年 フランスはディエン・ビエン・フーの戦いで大敗
を帰してベトナムから撤退していきますが、このホテルの
完成が1954年ですので、フランス植民地政府の最後
の建築物となります。

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外壁に彫刻を施すような優雅な建築物は、これ以降、
もうサイゴンでは見られません

このホテルにはもう一つ大切な歴史的事実を表象するも
のが残っています。

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「SAIGON CONG THUONG NGAN HANG」つまり
(サイゴン銀行広場)の意味です。

このホテルの前の通りは植民地時代には「ベルギー」通
りと呼ばれで、ここからベンゲ運河沿いには、上海と同じ
ようにいわゆるサイゴンの「バンド」(河川に沿って建築さ
れた一大金融街)でした。
その名残がこの看板です。現在のサイゴンの金融街も
「バンド」を引き継いでいます。

サイゴン商工会議所
サイゴン商工会議所

植民地時代  商工会議所
仏語 Chambre de commerce de Saïgon
場所 11 Mê Linh 

現在 ホーチミン市証券取引所
    (Sở Giao dịch Chứng khoán)
場所 Võ Văn Kiệt通り

1867年11月3日
サイゴン商工会議所は内務省(Direction de
l'Intérieu)の臨時の宿泊所を改装して発足しました。
当時の内務省はリ・トゥ・チョン通り59-61番地にあり、
現在は情報通信省となっています。

1868年9月30日
1867年末から新たな建物がメリン広場沿いに建築され
移転します。
その後60年間、この場所で業務が行われていました。

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1880年代

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1904年

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移転前の商工会議所

1928年3月24日
サイゴンの金融街といわれベンゲ運河沿いのヴァヴァン
キエット通り、国家銀行の隣に新たな商工会議所が建
設され、開所式にはコーチシナ知事も出席して壮大に行
われました。


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1928年 新商工会議所

この建物のデザインはネオクラシックとアールデコ調の機
能が組み込まれ、いくつかはチャムやクメールの建築様
式が組み込まれた折衷デザインだとされています。

古い商工会議所はその後、Plantations
Indochinoises de Thé (お茶の会社)やSociété des
Sucreries et Raffineries de l'Indochine(お菓子の会
社)などいろいろな会社が入居しました。。1954年のフ
ランス撤退後は主に銀行として使用され、最近ではAN
Z銀行のホーチミン本店として使用されていましたが、現
在は改築されてレストランになっています。

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現在の旧商工会議所

1941年
サイゴンに日本軍が侵攻してくるとこの建物は短期間で
すが日本軍の尋問センターとして使用されます。

1945年
日本の敗戦後はベトナムへ再進出してきたフランス軍隊
の本部となります。

1955年
フランスがベトナムから撤退すると「ディンホン会議場」
(Diên Hồng Hall)として使用されます。会議場の前に
は庭が広がり、昔のオウラク国のアンズオン王An
Dương Vươngの銅像が建てられました。

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2011年11月20日、この光景は日本のODAによる
トゥー・ティエムトンネルの完成により消滅しました。

1967年
憲法改正により、上院議会としても使用されます。
(下院議会は市民劇場)

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1969年のディンホン会議場

1975年以降
サイゴン陥落後は地方議会の議場となっていました。

2000年7月20日
ホーチミン市証券取引所(Sở Giao dịch Chứng khoán
Thành Phố Hồ Chí Minh)として現在に至ります。
当初は2社のみが上場しました。

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ホーチミン市証券取引所開所式

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現在 2015年

聖ヨセフ神学校
聖ヨセフ神学校

植民地時代  St Joseph’s Seminary
現在      Trung tâm Văn hóa Công Giáo
場所   (ホーチミン市ローマカトリック文化センター内)
      6 Tôn Đức Thắng street, District 1

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聖ヨセフ神学校

1858年7月
ドミニク•ルフェーブル(Dominique Lefèbvre)司教がフ
ーミイ(Phú Mỹ)地区のティゲ(Thị Nghè)運河のほとり
に「フーミイ神学校」を建設しましたが、その指揮をとって
いた長老Phaolô Lê Văn Lộcがフエ宮廷軍に逮捕され、
ザーロン城外のTrường Thi処刑場で斬首されます。

1860年1月
Lộcの後継者であるルイ•テオドール・ウィバス(Louis
Théodore Wibaux)がサイゴンに到着します。
ルフェーブル司教はウィバスを「フーミイ神学校」の責任
者にすると共に教区の責任者にも任命します。
ウィバス神父はフランスの神学校で15年間、若者の
教育に専念していた熟練者でした。

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セントジョセフ神学校の実質の創設者、ウィバス神父

2年後、フランスのサイゴン侵略の最中に「フーミイ神学
校」は火災で焼け落ちてしまい、ウィバス神父は新しい
建設地を探します。

そして現在のトンドゥックタン通りの海軍造船所(現在の
バソン造船所)
隣の空地を見つけます。ルフェーブル司教はその後、
ウィバス神父が選んだ土地でいくつかの異なる宗教
団体との問題を解決するべく努力します。

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1862年8月28日
フランス当局は新しい「聖ヨセフ神学校」の建設のため
14000m2の土地をルフェーブル司教に、さらに隣接
する10800m2の土地を孤児院建設のため聖パウロ
修道会の信徒へ付与しました。

1863年
神学校の礎石がルフェーブル司教によって敷設されま
す。

1863年~1866年
ウィバス神父は神学校の建設に多くの私財を投入し、
熱心に建設を見守ります。建物は縦横45mx21mで、
四方には広いベランダが作られました。1866年に完成
しました。
建物完成式典はルフェーブル司教の後継者ミーシュ
(Miche)司教のよって行われます。

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新しい「聖ヨセフ神学校」

開校時には7人の先生と60人生徒しかいませんでし
た。

1867年
新しい神学校ではの内部のホールが礼拝堂をかねてい
ましたが、ウィバス神父は神学校のすぐ裏手に、30m
x 10m、高さ10mの新しいチャペルの建設を開始しま
す。

1871年4月19日
ミーシュ司教が新しいチャペルの完成式典を行います。

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チャペル(礼拝堂)

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現在のチャペル内部

1877年
ウィバス神父が死去し、チャペルの裏側に埋葬されます。
1913年には霊廟も作られました。

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ウィバス神父の霊廟

1928~1932年
開校以来、生徒が急激に増え始め1920年代には手
狭になってきたため、1928~1932年にかけて2つの
ウィング建物が建設され、神学校はシニアクラスと
ジュニアクラスの2つに分割されました。

1943年~1944年
第2次世界大戦によるアメリカ軍の爆撃により、神学校
は一時的にLái Thiêu, Vĩnh Long , Cái Nhumに避難
します。

1946年
爆撃による被害は少なく、神学校は再開します。その後
のインドシナ戦争でも大きな被害を免れました。

1975年
サイゴン陥落後も1982年まで神学校は開校していまし
たが、1982年から組織編制のため一時的に閉鎖し、
1987年にシニアクラスのみ開校しています。

1998年~2005年
ベトナム戦争で被害を受けた建物が復元され、さらに図
書館、小さな遺産センター、展示ギャラリーなども追加さ
れました。1866年に建設された2階建ての神学校は敷
地の中心にあります。

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神学校遺産センター

遺産センターでは、祈りの彫像、祭壇のアクセサリー
(十字架、燭台ホルダー)など宗教的に重要なコレク
ションを見ることが出来ます。

庶民のスポーツセンター
庶民のスポーツセンター

場所 Hai Thuong Lan Ong Street, Cho Lon, Distric 5

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フランス人が使用していたスポーツクラブは立派な建物
が作られていましたが、この建物はベトナム人の庶民が
使っていたものです。ここではバトミントン、卓球、ライオン
ダンスなどベトナムと中国で盛んなスポーツや体操が行
われていました。

特にベトナムの旧正月に催行される中国の伝統的な儀
式、大規模な装飾ライオンの頭と体を装着したまま二人
の男が踊る練習はここで行われていました。

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サイゴンスポーツクラブ
サイゴンスポーツクラブ

<当初>
仏語 Cercle Sportif Saïgonnais
場所 タオダン公園内
<現在>
越語 Cung Văn hoá Lao động(労働文化会館)

場所 55B Nguyễn Thị Minh Khai

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(左)現在 (右)1975以前

サイゴンスポーツクラブはフランス植民地社会のエリート
達のスポーツ・レクリエイションクラブでした。

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1870年代
この時代には公営スポーツ施設が無く、現在の統一会
堂の裏側、タオダン公園の北隅に陸上競技、競馬、射
撃を始めとする私設のスポーツクラブが出来ました。

1880年代
コーチシナのサイクリスト・クラブが競輪場を造りましたが
開催されることはありませんでした。

13 Untitled
1890年のザーディンの地図には総督府の北西にスポ
ーツクラブがあったことを示しています。

1902年5月10日
サイゴンスポーツクラブがアマチャーフェンシンググループ
によって設立されましたが、設立当初はドンコイ通りとリト
ゥチョン通りの交差点にある「カティーナビル]にはもっと
近代的な施設があったためタオダン公園内には根付き
ませんでした。

1904年
スポーツクラブはフェンシング、射撃、乗馬を始め、その
他いろいろなスポーツを提供するようになります。
スポーツは教育面からも奨励され、フランス植民地政府
は年間500ピアストルを支給して近くのシャスルー・ロー
バ高校(現在のレウィドン高校)からインストラクターの派
遣を要請しました。

1905年
室内だけのスポーツセンターであった「カティーナビル」の
スポーツクラブがもはや時代の要請に合わなくなり、タオ
ダン公園内に移動してきます。

しかし、クラブの財政は困難な状況に陥っており、サイク
リング施設が廃止され、施設はわずか30m2で、会員数
も40人に減少してしました。

1906年
幸運なことにサイゴン市は廃止されたサイクリングロード
を陸上トラックに変更する工事の資金調達に成功しま
す。

会員数が徐々に増え始め、テニスコート2面とサッカー場
とローラースケート場を兼ねたフィールドも完成します。

1909年以降
会員数は激増し、1913年、1920年と施設も拡大して
いきます

1925年
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1925年 タオダン公園内のスポーツクラブ

手狭になったスポーツクラブはレウィドン通りに新たな施
設を建設します。開所式にはコーチシナ総督やサイゴン
の著名な名士が参列して盛大に行われました。

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1925年 新設されたスポーツクラブ

クラブの施設は拡大され、テニスコートは10面、観客席
の付いたサッカー場、そして室内には心地よいフェンシン
グ場、ビリヤード場、ダンスホール、ゲーム室、読書室、
用途に応じて区分できる広い部屋が作られました。クラ
ブは上海、香港、シンガポールのスポーツクラブと引けを
取らない設備が整いました。

その後、クラブは「サイゴン社会のエリートのための施設」
という観点を強調し、役員会ではメンバーに政治家、
著名人、学者、事業主などを選択しクラブへの支援を求
めます。

1933年
サイゴンの金持ちや有名人の隠れ家として評判を背景
に9月には野外のスイミングプールがオープンします。

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スイミングプール

プールの新設は1926年に計画されていましたが、きれ
いな水が確保できないために頓挫していたのです。

1934年
プールサイドでの飲食はフランスからクルーズ船で到着す
る観光客に大好評でした。

1930年代後半
スポーツクラブから少し西側に離れた、現在のグエンティ
ミンカイ高校の場所に新しい隠れ家(別館)がオープンし
ます。

別館の読書室には常にフランスから送られた最新の新
聞、雑誌が
5000冊以上の図書と共に用意されていました。

クラブでは活動プログラムを広報する為に隔月に広報誌
「クラブレヴュー」を発行します。

外国からのアスレチックチームのために宴会を用意したり、 
毎年春には「春の祭典」を開きサイゴンでの恒例行事と
して有名になっていきます。

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スポーツクラブの「春の祭典」

1938年
この年の「春の祭典」はコンチネンタルホテルで開催され
ましたが、Le Nouvelliste d'Indochine新聞は皮肉たっ
ぷりに「今までの祭典で、かつて無いほどエレガントで見
栄えのするものであった」と評しています。

1954年
フランスがインドシナ戦争で敗北した後もベトナム人エリ
ートや外国人の飲食、水泳、テニスと高級スポーツクラ
ブとしての機能を果たします。

1960年代
アメリカ大使のロッジ(Henry Cabot Lodge)、グエンカオ
キ(Nguyễn Cao Kỳ)、ズオンヴァンミン(Dương Văn
Minh)ら政界の大物も利用していました。

1975年
サイゴン陥落後はスポーツクラブは労働総同盟の管理
下に置かれます。

1985年
ホーチミン市労働文化ハウスと名称変更、さらに1998
年労働文化会館(Cung Văn hoá Lao động Thành)
内の施設として現在に至ります。

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労働文化会館

ベトナムハウス
ベトナムハウス

Vietnam House
場所 93-95 Đồng Khởi

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現在のベトナムハウス

ドンコイ通りの中心にある最もエレガントなコロニアル建
築のレストラン、ベトナムハウスは1900年から1910年
の間に建築されたとされています。

1920代半ばまではファッションショップのCourtinat
and Tournier et Cie、機械工具の販売店Société
Industrielle d'Exportation en Extrême-Orient、
蓄音機やレコードの販売店Société Phonique
d'Extrême-Orientが入る複合商業ビルでした。

1927年か1928年に Barthélemiという人物が1階の
全フロアーを“Bar Catinat,”として改造しました。店では
ボクシング試合が行われ1930年代にはとても有名な
スポットになりましたが、2階以上はオフィスとして使用さ
れ続けました。

しかし1940年代初めにテナントのPlantation
Pierlovisi社の副社長であったコルシカ人のBonelli
が全建物の所有権を取得し、オフィスを「Grand Hôtel」
に改造し、「Bar Catinat」もグランドホテル内のバーとな
りました。

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1950年代初期の “Grand Hôtel et Bar Catinat”

フランスがベトナムから撤退すると「Grand Hôtel et Bar
Catinat」はベトナム人オーナーによって引き継がれ
“Hôtel l'Impérial”として再オープンします。

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“Hôtel l'Impérial”

しかし数年後、ホテルは閉鎖され、名称が再び変更され
“Café and Bar l'Impérial.”となります。

1960年代
ベトナム戦争中、サイゴンにアメリカ人が多くやってくると
「Café and Bar l'Impérial」はGIのための人気の待ち
合わせスポットとなります。

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1961年  “Café and Bar l'Impérial”

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1962年 “Café and Bar l'Impérial”

1963年
すべてがアメリカナイズされていた「Café and Bar
l'Impérial」はベトコンから手榴弾攻撃を受けました。

1975年以降
サイゴン陥落後、建物はいろいろな目的の為に使用され
ましたが1990年代から現在のレストラン「ベトナムハウ
ス」となりました。

現在の「ベトナムハウス」はベトナム料理の老舗レストラ
ンとして有名です。

ブロサールモピン建設会社
ブロサールモピン建設会社

仏語  Établissements Brossard et Mopin
場所  48 Nguyễn Đình Chiểu

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ブロサールモピン建設会社

グエンディンチュウ48番地にある老朽化したフランス植
民地時代の大邸宅はかつての建設会社ブロサールモピ
ンの本社でした。
この建設会社によってサイゴンのランドマーク的な建物が
多数建築されました。
会社の創業者ジュールブロサール(Jules Brossard)は
1880年代にインドシナに到着し、炭鉱の町ホンゲイで
鉱山ビジネスを開始します。その後ハイフォンにも事業を
拡大します。

1890年代
ブロサール会社はホンゲイ石炭会社のためにハロン湾
沿いに2つの炭鉱線を敷設しました。
クールベ港から12Kmのハトゥ鉱山、6Kmのナゴナ鉱山
を結ぶ線路でした。
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炭鉱線

1900年代初め
ブロサールはフランチインドシナ・雲南鉄道会社(French
Indochina and Yunnan Railway Company, CIY)が
実施した鉄道敷設事業(雲南鉄道)の多くのインフラ整
備を請け負います。

1906年
ブロサールは建築物の検査官ユージンモピン(Eugène
Mopin)と業務提携をし、ブロサールモピン建設会社を
設立し、その後の20年間でパリ(本店)、サイゴン、プノ
ンペン、シンガポール、天津に支店を持つ東アジアで最
も成功した建設会社になりました。

この期間中にアジアの多くの都市で、銀行、病院、工場、
港湾インフラ、貯水池やスイミングプールを構築しました。
鉄筋コンクリート建築でも東アジアのリーディング会社と
の評価を得、グスタフ•エッフェル(Gustav Eiffel)の会
社ルヴァロアペレ (Société Levallois-Perret)と鉄道
橋建設契約やインドシナ鉄道のインフラ建設で競合する
ようになります。

サイゴンでも中央市場(現在のベンタンマーケット)の建
設で会社の評判を高めました。中央市場の建設は多く
の高収益事業への道を開きました。

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ブロサールモピン建設会社の代表作  中央市場  
1914年

1920年
以前はリトゥチョン18番地に事務所を借りていましたが、
現在のグエンディンチュウ通り48番地に新しいサイゴン
本店の建物を建設します。
この年ジュールブロサールはインドシナの開発に貢献した
功績を称えられて「シュヴァリエ•デ•ラ•レジオン•ドヌール
勲章」(名誉騎士勲章)を受章します。

1922年
ブロサールモピン建設会社は中国上海銀行の破産の
影響を受けて、倒産し管財人の統制を受けます。

1924年
会社を再編成し、再起し、サイゴンで主要なビル建設の
建設を推し進めます。

1. 1925年 インドシナ連邦財務省
2. 1928年 インドシナ銀行
3. 1928年 チャータード銀行
4. 1930年 植民地政府事務局ビル
を始め多くの事務所やアパートを建設しました。

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インドシナ連邦財務省

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インドシナ銀行

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植民地政府事務局ビル

現在
グエンディンチュウにある建物は現在、文化施設、レクリ
エーションや観光代理店の事務所として賃貸されていま
すが、ホーチミン市の他の多くの歴史的建造物のように
取壊しの危険から免れることは保障されていません。

退役軍人センター
退役軍人センター

植民市時代  退役軍人センター(Maison du Combattant)
現在       フレンドシップ会館
場所       123 Lê Duẩn
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現在のフレンドシップ会館

退役軍人センター(Maison du Combattant)の建設は
1929年に一次世界大戦の退役軍人のコーチシナ友
好協会(Amicale Cochinchinoise des Anciens
Combattants de la Grande Guerre)に属する退役軍
人により発案されました。

1932年
アールデコ様式の会館がレズアン通り(現在のアメリカ
領事館の向かい側)に完成します。資金全額は寄付、
会費、宝くじ収入などで賄われました。


会館は人種、宗教、社会の区別なく、一次世界大戦の
すべての犠牲者"のために設計され、バー、レストラン、
会議施設が組み込みました。

小規模な音楽と演劇プレゼンテーション用に使用された
講堂が最も人気がありました。

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完成した退役軍人センター

1954年
インドシナ戦争終結後、建物は売却され小劇場に変身
します。

1975年
サイゴン陥落後はいろいろな目的のために使用されま
す。

1978年
キエンティエット宝くじ会社(Kiến Thiết Lottery
Company)に引き継がれ、現在に至っています。span>
チャンダイギア学校
チャンダイギア学校

植民地時代 ① 最初のフランス植民地政府機関
         ② Institution Tabert
現在 チャンダイギア学校
    (Trần Đại Nghĩa Specialist High School)
場所 53 Nguyễn Du

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現在のチャンダイギア学校

建築当初、この地域はサイゴンの「ゴールドランド」と呼
ばれていて、最初のフランス植民地政府が置かれまし
た。

フランスがサイゴンを侵略、征服した後、政府の中心機
関を現在のドンコイ通りに設置したのは決して偶然では
なく、歴史上の背景が横たわっているのです。

ドンコイ通りを市民劇場に向かって歩くとリトゥチョン通り
に交差します。ここが1790年にグエン王朝の創始者ザ
ーロン帝の要請でフランス人技術者がサイゴンに建築し
た最初の都市建築物、ザーディン要塞(サイゴン城)の
南門入口だったのです。

1861年~1862年
最初のサイゴン知事ボナード提督(Louis Adolphe
Bonard)やスタッフの邸宅や事務所は旧ザーディン要
塞の南門の位置に木造作りで建設され、資材はすべて
シンガポールから運ばれました。

敷地内には600人を収容可能なイベントホール、馬小
屋や鶏、豚を飼育するための小さな農場を含んでいまし
た。

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ボナード提督の邸宅(描画)

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イベントホール(描画)

イベントホールは多彩な機能を果たしましたが1872年
にサイゴンに市民劇場ができるまでは劇団や音楽家が
訪れて公演していました。

1868年以降
サイゴンの最初の木造教会聖マリア教会(Église
Sainte-Marie-Immaculée)がシロアリ被害によって解
体された後、臨時の教会として毎週日曜日のサービスを
行いました。

1873年
ノロドム宮殿が完成すると知事とそのスタッフ達は宮殿
に移転しますが、政府機能はまだこの地に残されました。
しかしこの地の管理はパリ外国宣教会(Société des
Missions Étrangères de Paris)に委ねられます。

その後、 宣教師のHenri de Kerlan神父は知事の建
物などを混血孤児のための学校として改築します。

1874年8月31日
学校は10年に渡りコーチシナで宣教を続けている
Jean-Louis Taberdの業績をたたえて「タバー学院」
(Institution Taberd)と名付けられました。
ただ集会所はノートルダム教会(サイゴン大聖堂)が完
成しても、実際のミサが行われるようになる1880年まで
臨時の教会として機能します。

1890年
「タバー学院」の木造造りの建物は解体され、中庭を囲
む3階建ての建物に改築されます。

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「タバー学院」の概観
現在もこの建物が残っていますが、周囲は高い壁に囲ま
れていて最上階しか見えません。

1894年
生徒数344人の内、306人は寄宿生活をしていました。
生徒の増大に対応してヴンタオにも別館を開校させま
す。

1940年~1945年
他の学校と同じように「タバー学院」も日本軍の臨時の
宿泊所になったため、連合軍の爆撃の対象になっていま
した。

1954年
ジュネーブ協定の後、学校が再開されるまでの期間、
「タバー学院」は1200人の避難民を収容していました。

1975年
新政権によりミッションスクールはすべて解体され、「タバ
ー学院」 も1976年にはベトナム教育省に引き継がれ、
中等教育学校へと変わりました。

2000年
才能豊かな学生が集まるチャンダイギア学校として運営
されるようになりました。

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現在のチャンダイギア学校

ホテルドリュニヴェール
ホテルドリュニヴェール

Hôtel de l’Univers
当初場所 Ngô Đức Kế通り
現在    廃業


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19世紀後半のホテルドリュニヴェール

多くの観光情報誌ではサイゴン最古のホテルはコンチネ
ンタルホテルであると信じられています。が・・・・

1869年12月初め
広東人の麻薬王ワンタイ(Wang-Taï)はサイゴン川沿い
に自宅権事務所となる豪華な3階建ての建物を建築し
ました。(現在のホーチミン市税関の場所)それはカンボ
ジアのノロドム国王の国賓訪問のためにこの「豪華なマ
ンション」を提供するためでした。この建物がホテルコスモ
ポリタンでサイゴンで最初のホテルとされています。

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ホテルコスモポリタン 別名ホテルワンタイ(Hôtel Wang-Taï)

しかし1870年代以降はサイゴンに来るフランス人訪問
客はホテルコスモポリタンではなく1872年に開業した
Monsieur A Lacazeが運営するホテルドリュニヴェール
に滞在するようになります。

ホテルドリュニヴェールは当初、2階建てでゴ・ドゥック・
ケ(Ngô Đức Kế)通りにありましたが、その後、ホ-・
フン・ニエップ(Hồ Huấn Nghiệp)通りに3階建てのホテ
ルを建設しました。

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ホテルドリュニヴェール 1906年

このホテルは室内の設備もさることながら、料理がとても
おいしいことで評価を受けていました。元総督府の料理
を手がけていたシェフを料理長にしていたのです。
「Hôtel Laval for sleeping、 Hôtel de l’Univers for
eating」という評判が立つようになりました。

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世界的な旅行写真家Hugues Krafftも1881年、この
ホテルに滞在し、高く評価しています。彼は当時の日本
の写真もたくさん残しています。

1886年
料理長だったOllivierとその兄弟がLacazeからホテル
の運営を引き継ぎます。しかし、このホテルの高評価が
レストランにあるということに気付かずホテル運営は上手
くいきませんでした。
そのうちホテル従業員に中国人を雇ったため、サービス
が粗悪になり室内装備の手入れも行き届どかなくなって
いったようです。

1880年にはコンチネンタルホテルが開業しており、その
後もグエンフェ通りにはHôtel des Nations、Hôtel de la
Paix、Hôtel de Bretagne 、ドンコイ通りにはHôtel de
France、Hôtel de la Rotondeが開業したため、ホテルド
リュニヴェールの黄金時代は終わろうとしていました。

そして1920年半ばには廃業したようです。

ホテルドリュニヴェールはベトナムからは撤退しましたが、
現在もフランスではフレンドリーなホテルとして健在です。 

15 (400x266)
フランスのホテルドリュニヴェール



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