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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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タンディン市場
タンディン市場

仏語  marché de Phu-Hoa
越語  Chợ Tân Định
場所 1 Nguyễn Hữu Cầu, District 1

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現在の市場は1927年改築されたフランス式の歴史的
マーケットですが、創設は古く1870年代には当初の市
場が開設されていました。

1870~1880年の植民地時代の記録ではフーホア市
場はサイゴンの北部で最も重要な市場の一つであったこ
とを示しています。しかし当時の画像は残っていません。

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1903年のサイゴン地図

1926年
植民地当局は衛生の水準向上と利潤拡大の為に市
場の再建を決定し。110000ピアストルを予算計上しま
した。

設計建築はSociété Indochinoise d'Études et de
Constructions (SIDEC)によって行われました。
新しい建物はほかの市場と違って、鉄筋コンクリートの
柱で支えられた区画の無い大規模なオープンスペースを
生み出していました。

新市場の落成式は1927年7月26日に行われ、コーチ
シナ総督、植民地評議会議長、サイゴン市長を始め、
多くのサイゴンの名士が列席しました。

完成後、新市場のデザインは多くの人々の注目するとこ
ろとなり、フランス当局は1931年に開催されるパリ植民地
博覧会にジオラマを出展するため20000フランを拠出
することを発表しました。

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1940年のタンディン市場

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1960年代のタンディン市場

残念ながら屋根は改造されていますが、その魅力的な
容姿は今日に於いても保たれています。

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グエン・ヴァン・ハオ・邸宅
グエン・ヴァン・ハオ・邸宅
Nguyễn Văn Hảo Building

この宝石のような建物はチャンフンダオとキーコンやヤー
シン通りの交差点にあり、サイゴンで典型的なアールデコ
様式(Art Deco)の建物と言われています。

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1920年代にグエンヴァンハオは(Nguyễn Văn Hảo)は
住居と事務所を兼ねてこのビルを建築しました。

グエンヴァンハオは自動車部品の販売で当時のサイゴン
業界で主導的地位を占めていて、ビルの1階で販売して
いました。

現在では老朽化していますが、現在でもこのビルはテナ
ントで満員で、最上階には彼の子孫が住んでいます。

グエンヴァンハオは「グエンヴァンハオ劇場」建設のため
の資金を拠出します。劇場は名称は「ホーチミンドラマ
劇場」と改名され、2,3年前まではチャンフンダオ通りと
デタム通りの交差点にありました。

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グエンヴァンハオ劇場

1945年、この劇場で公聴会が開かれ、南部ベトナム
での8月革命参加が決定されたのです。>
タンディン教会
タンディン教会

仏語  Sainte Enfance de Tan-Dinh
越語  Nhà thờ Tân Định
場所  289 Hai Ba Trung St., Dist.3

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「ピンクの教会」と言うだけでサイゴンの人々はあなたが
何を意味しているかを理解します。しかしタンディン教会
が現存するサイゴンで一番古い教会で重要なローマカト
リック施設であることには気付きません。

タンディン教会の歴史はカトリック宣教師Donatien
Éveillard がこの地にやってきた1874年に遡ります。

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Donatien Éveillard

1876年
Éveillardは38000フランを投じてこの地に教会を建設
しましが、当初の教会の絵図は残っていません。

Éveillardは教会だけでなくセントポール教会からシスタ
ーを招き教会の隣に孤児院や寄宿学校の建設も行い
ます。

1877年~1880年初頭
「タンディン学校」と呼ばれた施設は1877年にオープン
し、1880年代には300人の恵まれない子供達が収容
されていました。

さらにÉveillardはタンディン教会内に宗教関係の出版
社を設立し「タンディン学校」の子どもたちを雇用し、
訓練しました。

1883年
地域の人々に愛されたÉveillardが死去し、遺体は
教会の身廊の下に埋葬されます。彼の墓石は今日
でも見ることが出来ます。

1890年代
教会と学校はもはや時代に適合しなくなり、Éveillard
の後継者である
Louis-Eugène Louvet神父は宝くじの 発行により再建
資金の調達をします。

Louvet神父は宣教師ジャン・フランソワ•マリー・
ジェニベル(Jean-François-Marie Génibrel)をタンディ
ン教会が運営する印刷所の責任者に任命します。
________________________________________
ジェニベルは14年間に渡って学術出版物を次々に発表
していきます。
1893年 アンナンーフランス会話マニュアル
1898年 フランスーアンナン語彙集
1898年 アンナンーフランス語辞書
1906年 アンナンーフランス語彙集
印刷所は1951年まで続きました。

古い印刷機といくつかの出版物はトンドゥックタン通り
6番地にあるセントジョセフ神学校博物館(St Joseph’s
Seminary museum)に保存されています。

1896年~1898年
宝くじの発行で調達した資金22000フランでタンディン
教会はゴシックとルネッサンスの要素を持つロマネスク様
式の教会として再建されます。

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再建された教会

「タンディン学校」はこの時、教会内に再建され孤児院で
はフランス人4人とベトナム人の修道女が10人が面倒
を見ていました。

1928年~1929年
後にインドシナ初のベトナム司教になったJean-Baptiste
Nguyễn Bá Tòng 神父の委託によりタンディン教会は
さらに拡張工事を行います。この改造で高さ52.62メート
ルの六角形の鐘楼と玄関ホールが追加されました。

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Jean-Baptiste Nguyễn Bá Tòng

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1928年~1929年の改築後の教会(裏側より)

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教会内部

改築の最中1929年1月9日、裕福な教区民であった
François Haaszとベトナム人妻Anne Tống Thị Mực
は主祭壇と両サイドの祭壇のためにイタリア大理石を寄
贈しました。この大理石に繊細な彫刻が施された祭壇は
今日でもサイゴンで一番美しいとの評価を受けていま
す。
左祭壇は聖テレサ、右祭壇はマリアとヨセフに捧げ
られています。

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主祭壇

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主祭壇の彫刻

1957年
教会は改装され、思い出に残るピンク色に塗り替えられ
ました。

以前のタンディン教会の建物の多くはハイバチュン高校
(295 Hai Bà Trưng)の建物として使用されています。

1976年12月
建設100周年記念に際し、同教会は改修され、聖堂の
土台が高くされ、外壁はピンクと白で塗り直され、華やか
な美しさを保っています。

ホーチミン電力会社
ホーチミン電力会社

仏語 Société d’Électricité de Saigon (SEVS)
場所 72 Hai Bà Trưng

現在 
越語 Tổng công ty Điện lực thành phố Hồ Chí Minh
英語 EVN Hồ Chí Minh City Power Company

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インドシナで電気が最初に使用されたのはフランスが南
部ベトナムを植民地にした以降の1870年代の後半に
なってからです。
それはフランス本国に電報を送るためでした。

その後、町の街灯も整備されていきますが、最初はオイ
ルで点灯されていました。街灯が電気で点灯されるよう
になるには石炭火力蒸気発電機が導入される20数年
後になります。

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カティーナ(現ドンコイ)通りのオイルランプ 1895年

1896年、ハイバチュン通りにSociété d’Électricité de
Saigon(サイゴン電力会社 SEVS)が設立され、サイゴ
ンに電力を供給するために交流電力発電機を導入しま
す。後にチョロンにも発電基地が建設されます。

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導入された発電機

1909年
SEVS は既にプノンペンにおいて水道・電気事業を開始
していたCompagnie des eaux et d'électricité
d'Indochine(インドシナ水道・電気会社 CEE)に買収
されます。
CEEはサイゴン、チョロン、プノンペンおける水道・電気
事業を独占します。

1910年
電球の供給のためにかなりの金額がサイゴン市の予算
から支出されていたのにもかかわらず、市民劇場付近で
さえまだ電力供給は貧困でした。CEEはこの事態を改
善するために、タウフウ運河沿いのチョウクワン(Chợ
Quán 現在のホーチミン市5区)に、より大きな発電機を
設置する工場を建設し、発電能力を5000KWHに増
加させました。この発電所が中央発電所として機能する
ことによりサイゴン、チョロンを始め、その周辺の街灯に
十分な電力を供給できるようになります。

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チョウクワン中央発電所 1913年

1913年
ハイバチュン通りの電力供給施設は副基地となり、さら
に副基地がTurtle Lake、Chợ Đũi、Phú Thọ、Khánh
Hội 、Tân Sơn Nhấtにも建設され、総督府、市役所、
市民劇場などにも十分な電力が供給出来るようになり
ます。

1914年以降
第1次世界大戦後、サイゴンの路面電車の発達や家庭
での電気使用の増加で電力需要が飛躍的に増加した
のに対処してCEEは蒸気タービンの設計改善を何度も
行い発電効率を増加させ、1930年には年間電力出力
は3780万KWHに達していました。

その後10年間も電力需要は飛躍的に増加し続け、
1942年には5650万KWHを供給しています。

1956年
フランスがベトナムから去る前には3つの電力会社が電
気供給を分担していました。
1.CEE
  サイゴン、チョロンとその周辺
2.Société centrale d'éclairage et d'energie (SCEE)
  メコンデルタ地方
3.Union électrique d’Indochine (UNEDI)
  ブンタウ、ファンティエット     

フランス撤退後CEEの建物は解体され、新しい電力会
社の本社(EVN Hồ Chí Minh City Power Company)
が建設されます。

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新しいEVN 本社 1950年代後半

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2011年に改築された EVN本社span>
フレンチコロニアル•ファイナンシャル•コーポレーション
フレンチコロニアル•ファイナンシャル•コーポレーション

仏語  Société Financière Française et Coloniale
英語  French and Colonial Finance Corporation
     (SFFC)

現在  Mekong Housing Bank (MHB)

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ハムギ通り(Hàm Nghi)通りとホートゥンマオ(Hồ Tùng
Mậu)通りの交差点(32 Hàm Nghi)にあるフレンチコ
ロニアル•ファイナンシャル•コーポレーション(SFFC)本店
は当初はハムギ通り93番地にありましたが、1925年に
現在のハムギ通り32番地に新社屋の建築を始め192
6年4月18日に竣工しました。

12

13 (400x281)

3000万フランの資本金を持つSFFC持株会社は192
0年にフランス人実業家で外交官であった億万長者の
Octave Hombergによって設立され、1929年の世界恐
慌前にはインドシナに30社の関連会社を経営していて、
主に農業や林業の拡大、鉱業、公益事業と与信分野
で利益を上げていました。

主な関連会社には、
1. Société des Caoutchoucs de l'Indochine
2. Société française des Distilleries
3. Société des Anthracites du Tonkin
4. Société des Eaux et Electricité de l'Indochine
5. Société des Sucreries et Raffineries de l'Indochine
6. Energie Electrique Indochinoise.
等があります。

Octave Hombergのインドシナにおける権益は絶大なも
ので、フランスの新聞は「フランス植民地はHombergの
植民地?」と揶揄したほどでした。

SFFCは銀行業務を開始することを認められ、業務が急
速に拡大します。さらに農業の生産向上や品質管理の
ために本店に研究室を設置して関連会社の業務指導
を行います。

しかし1929年の世界恐慌でSFFCも大打撃を受け、
1930年代には業務を縮小し銀行業務を停止します。

1939年、SFFC 本店ビルはナムキコイギア通りにあっ
たBanque Franco-Chinoise pour le commerce et
l'industrie (法国和中国工商银行, BFC)に売却さ
れました。

BFCはサイゴンでの業務を再編成し、業務拡大のため
古い建物のドーム型の屋根を取り外し、模様替えをしま
す。

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1945年のBFC

“BFC”ロゴや正面玄関の華やかな鉄製のドアーはこの
時からのものです。

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BFCロゴ

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内部の廊下

その後1949年にSFFCはSociété Financière pour la
France et les pays d'Outre-mer (SOFFO)と名称を
変更し、フランスのベトナムからの撤退(1956年)まで海
外フランスの金融業務やオフィスの賃貸業務を行ってい
ました。

サイゴン陥落後、BFCは接収され、農業農村開発省を
始めとする多くの政府機関が入居しています。

1997年からこのビルはMekong Housing Bank
(MHB)の本店として機能しています。

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現在

現在このビルの隣にはサイゴンで最高階のファイナンシャ
ルビルが完成しており、将来はこのビルの敷地に40階
立てのビルが建設されると噂されています。

ハムギ帝 勤皇運動6  イェンテ蜂起
イェンテ蜂起

Khởi nghĩa Yên Thế

イェンテ蜂起は1885年の「勤皇の詔」に応じて北部ベト
ナム山地、バクザン省イェンテ県を中心にした蜂起です。

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バクザン省

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イェンテ蜂起の地図

<中心人物>
本名 チュオンヴァンタム(Trương Văn Thám 張文探)
改名 ホアンホアタム(Hoàng Hoa Thảm 黃花探) 
別名 デタム(Đề Thám 提探)
生没年 1858年~1913年2月10日
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デタム

はフンイエン省生れでしたが、両親がフエ宮廷の政策に
反抗するノン・ヴァン・ヴァンの蜂起(1833年7月~183
5年3月)に参加し両親とも死亡、祖父が家族名を
「Hoàng」に変更してバクザン省イェンテ県に移住してき
ました。デタムは16歳になると軍事組織で活動をはじめ
生涯軍人であり続けました。

1885年の「勤皇の詔」発布後、北部ベトナム山地でも
大小の抗仏義軍がフランスの通商路を制して対峙して
いました。

1890年~1891年
フランスは保護国となった北ベトナムの統治を強めようと
ジョゼフ·ガリエニ(Joseph Simon Gallieni)司令官のも
とイェンテに多く集まっている抗仏抵抗勢力を一掃しよう
と作戦を開始します。

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ジョゼフ·ガリエニ

1892年4月
デタムはイェンテに蜂起した義軍の長となり,多くの農民
兵を集め、最大の反仏根拠地を形成する一方,フラン
ス軍の掃射作戦に対してハノイ~ランソン間の鉄道を襲
い物資を奪ったり、フランス軍哨所を襲って人質をとり身
代金を奪ったりして抵抗したため、フランス軍の掃射作
戦は頓挫してしまいます。

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イェンテ要塞の正面

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イェンテ蜂起のリーダー達

1893年~1895年
フランス軍は再び3年にわたってイェンテ軍の鎮圧を試み、 
降伏させるために周囲の村落を破壊しますが、デタムは
柔軟な戦術を駆使してフランス軍に重大な損害を与え、
勝利を得ます。

1897年12月
フランス総督府はジョゼフ·ガリエニの意向に反して和平
の意向を示し 
イェンテ軍と一時的に和睦し、イェンテ軍はハノイにおけ
るフランス人の安全を、フランス軍はデタムがイェンテ県
の領主であることを認めます。
しかし双方ともにこの和平が一時的なものであることは
承知していました。

1898年~1907年
イェンテ軍は支配地の拡大に努めハノイ近郊にまで迫っ
ていました。また、国境を越えて黒旗軍や孫文の革命党
とも連携を行い、ファンボイチャウやファンチャウチンなど
のベトナム独立運動の闘士とも積極的に関わります。

1908年
初期
デタムはファンボイチャウ等のベトナム人愛国者らとフラ
ンスからハノイを取り返す作戦を練りました。
その作戦は駐屯している兵士の夕食に毒を入れ殺害し
兵力を無力化することでした。と同時にデタムは城外で
待機し、城内からの合図で飛行場のあるヤーラムを攻
撃する手はずになっていました。

ハノイ駅、ハノイ中央郵便局、ロンビエン橋を爆
破する作戦も計画していましたが、作戦は密告に
より計画倒れになっています。

6月27日
毒殺計画が実行されます。ベトナム人調理人達はフラン
ス人兵士の夕食にチョウセンアサガオを混ぜ込みます。
毒はすぐに200人のフランス兵士に打撃を与えましたが、
死に至らしめることは出来ませんでした。。(ハノイ投毒事件)
城外ではデタムが成功の合図を待っていましたが、陰謀
が失敗したことを悟り、彼の部隊を引き揚げさせます。

その後、料理人の一人が罪悪感に苛まれ教会に駆け
込み、投毒事件を告白してしまいます。フランス人神父
はフランス植民地政府の役人に報告します。ハノイのフ
ランス総督は戒厳令を発動して陰謀首謀者と実行犯の
逮捕を命じます。

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逮捕された人々

フランスは事件処理にすばやく対応し、13名の実行犯
をギロチンで処刑します。

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3人のリーダー Nguyen Chi Binh, Dang Dinh Nhan,
Duong Beがさらし首にされました。

7月8日
フランス軍はさらに24名に死刑を宣告、残りの逮捕者
は終身刑あるいは追放処分にしました。ファンチャウチン
を含む多くの追放者がコンダオ刑務所に送られました。

フランスはさらに日本で活動しているファンボイチャウを
非難し、日本に対してファンボイチャウを追放するよう強
要します。

1909年1月

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逮捕される前のデタムの家族

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孫達に囲まれるデタム

一方でフランスはデタム狩りを始めます。
フランスは1月29日から11月11日までに15000人の
兵力で11回の攻撃を仕掛け、イェンテにいるデタム陣地
を取り囲み制圧しますが、この時、既にデタムは陣地か
らは逃亡していました。

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休憩するフランス軍兵士

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フランス軍負傷兵

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フランス軍負傷兵

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埋葬されるフランス軍兵士

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逮捕されたデタムの父親、妻と家族

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逮捕されるデタムの第3婦人

イェンテ要塞が陥落してもフランス軍はデタムの追跡を諦めませんでした。

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肉を風に当てるフランス兵

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フランス兵士の食事風景

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フランス軍兵舎の建設

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駐屯地を建設するフランス軍

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フランス軍の尋問

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フランス軍の尋問

1913年2月10日(異説あり)
デタムはタイグイエン省で同志であったルオン・タム・キー
(Lương Tam Kỳ)によって暗殺されます。ルオン・タム・
キーは元黒旗軍の司令官で、後にフランス軍のスパイと
なっていました。
イェンテ要塞から逃亡後のデタムの消息ははっきりしてい
ません。
デタムの暗殺を以ってイェンテ蜂起は壊滅します。


<後世の評価>
ベトナム建国の父、ホーチミン主席がデタムの抵
抗精神を賞賛したので、ベトナム共産党において
も歴史上の英雄として扱われています。
ハノイのバーディン区にはデタムの事跡を記念し
た「ホアン・ホア・タム通り」が存在する他、ベ
トナムの各地に「デ・タム通り」が存在します。
特にサイゴンのデタム通りはバンコクのカオサン通りと似
て世界のバックパッカーの集まる場所で、安宿や旅行会
社がひしめき合っている通りとして有名です。



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