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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ハムギ帝 勤皇運動4 フンリン蜂起
フンリン蜂起
Khởi nghĩa Hùng Lĩnh

バーディン蜂起に引き続きタインホア省一帯で発生した
勤皇蜂起。

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タインホア省

<中心人物>
トン・ズイ・タン(Tống Duy Tân)
カオ・ディン(Cao Điển)
カ・バ・トゥック(Cầm Bá Thước)

1886年
トン・ズイ・タンとカオ・ディンはバーディン蜂起の指導者デ
ィン・コン・チャンの指導の下、バーディン要塞を支援する
ためにタインホア省のPhi Laiに要塞を築いていましたが、
故郷のヴィンロック(Vĩnh Lộc)を流れるマ河の上流にも
要塞を築いて兵士を募集していました。

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ヴィンロック県

13 (580x424)
マ河とダ河

14 (600x450)
マ河上流

1887年
バーディンやマーカオ要塞がフランス軍に鎮圧、占領され
ると抵抗軍の指導者はバラバラになってしまいます。
ディン・コン・チャン, Nguyễn Khế, Hoàng Bật Đạtらは、
故郷に引揚げ、Phạm Bành, Hà Văn Mao, Lê Toạiら
は自殺、チャン・スアン・ソンは支援を求めるため中国に
向かいました。

トン・ズイ・タンは故郷のマ河の上流(フンリンと呼ばれて
いる場所です)で新たに抵抗勢力を組織します。この組
織にはカオ・ディン、 ターイ族のカ・バ・トゥック, ムオン族
のハ・ヴァン・ニョ(Hà Văn Nho)などが参集し、蜂起しま
す。

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トン・ズイ・タン

しかし、抵抗勢力にフランス軍に立ち向かうだけの勢力
を結集することは出来ず、2回のゲリラ戦がやっとでし
た。
トン・ズイ・タンは支援を求めて中国広州へ向かい勤皇
運動を扇動したTôn Thất Thuyếtに会い、フランス軍に
抵抗する愛国者を募り、タインホアに戻ってきます。

1889年
故郷に帰ったトン・ズイ・タンは兵士を募集してリーダーと
なり、フンリン(Hùng Lĩnh)で2人の同志と共にマ河
(sông Mã)の両岸にフランスに抵抗する基地を再構築
します。

そしてダ河(sông Đà)の下流地域やファン・ディン・フン、
ハ・ヴァン・ニョ、タインホア省ノンコン県(Nông Cống)の
Tôn Thất Hànらと共同戦線を構築します。

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ダ河(紅河最大の支流)

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ノンコン県

10月8日
フランス軍がノンコン県に侵入してきます。

10月22日
フランス軍はカノン砲を従え185名の兵士をノンコン県に
進軍させ11月2日まで戦闘が続きます。この激戦で抵
抗勢力はフランス軍のカノン砲攻撃で大きな損害を蒙り、
ヴィンロック県のĐa Bút要塞に撤退していきます。
しかしBarbaret中尉率いるフランス軍がすぐに追跡して
きたため、
部隊をさらに山岳地帯に向かって引き揚げさせます。(Thạch Thành⇒Thọ Xuân)

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Thạch Thànhへ向かう道

トン・ズイ・タンは反撃体制を再構築し、チャン・スアン・
ソンもフンリンの抵抗勢力に合流してきます。

11月30日
フランス軍は北上してVạn Lại(タインホア省の北隣の
ニンビン省)を攻撃してきますが、フランス軍司令官の
ルフェーブル(Lefèvre)が重症を負い、部隊はトウスアン
(Thọ Xuân)県まで撤退します。フランス軍は未だ抵抗
勢力が残存しているのに対抗して軍備を増強し、500
人の兵士とカノン砲を2台追加します。

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トウスアン県

トン・ズイ・タンはトウスアン県のフランス軍駐留地イェン
ルック(Yên Lược)を攻撃するために部隊を4方面に分
割します。

1890年
1月1日
昼頃、フランス軍の斥候隊が抵抗勢力の一団を発見す
るとすぐさま奇襲攻撃を敢行し、カノン砲を45分にわた
り打込み歩兵隊の前進路を確保しますが、フンリン軍も
塹壕の中から反撃し、激戦となりました。この戦いでは双
方とも損害が激しく、フランス軍の司令官も戦死しまし
た。

3月29日
フンリン軍はさらにノンコン県での戦いに挑みます。カオ・
ディンが200名の兵士を引き連れ、フランス軍に挑みま
すが、カノン砲の前に大打撃を受けます。

4月26日朝
フランス軍の攻撃に耐え切れず、カオ・ディンはトゥオンス
アン県(Thường Xuân)の県都Cửa Đạtに撤退します。

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Thường Xuân県

10月
フランス軍は200名以上の兵士でCửa Đạtに侵攻して
きますが、フンリン軍はすでにThường Xuân県のAn
Lẫmに移動していました。

1891年2月21日
トン・ズイ・タンとカオ・ディンは移動途上の要塞を放棄し
ながら部隊をAn LẫmからLang Vinhに移動させ、さら
にThường Xuân県の山奥Hòn Môngへと移動します。
しかしフランス軍の追跡は続き、フンリン軍は撤退しやす
いように部隊を小規模に分割します。

1892年
3月
ダ河からĐốc Ngữが兵士を引き連れマ河を渡ってタイン
ホア省に入り、トン・ズイ・タンとカオ・ディンと相談の上、
バトゥック県のニンキー(Niên Kỷ)でフランス軍を攻撃し
ますが、成果は僅かで、状況を好転することは出来ませ
んでした。

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バトゥック県

4月
戦場となった地域の人々も迫害され、フンリン軍には
人の兵士と50丁の銃しかありませんでした。
Đốc Ngữはダ河に撤退していきます。

9月
トン・ズイ・タンはしばらくニンキーに留まって戦況を見極
めていましたが、フランス軍の鎮圧が強力に進められて
いくのを見て、これ以上の犠牲者を出すことを躊躇して
部隊を引き揚げさせます。

その後、トン・ズイ・タンはバトゥック地方のニンキー村の
洞窟に身を隠し、カオ・ディンは数人の部下と共に行方
がわからなくなります。

10月4日
トン・ズイ・タンは同僚であったフエ宮廷の役人
Cao Ngọc Lễに密告され、逮捕されます。彼はフランス
植民地軍の協力者でもあったのです。

翌10月5日(旧暦)トン・ズイ・タンはフランス軍によって
処刑されました。55歳の生涯でした。

その後もフランス軍とフンリン軍との小規模な衝突が続
きますが、フランス軍にとっては残党整理の戦いでしたの
で、ベトナムの歴史家はトン・ズイ・タンの処刑を以って
フンリン蜂起の終了とみなしています。

カオ・ディンのその後の消息は不明、カ・バ・トゥックはそ
の後も抵抗を続けていましたが, 1895年5月後半、
秘密裏に埋葬されました。37歳でした。

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カ・バ・トゥックの寺

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