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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ハムギ帝 勤皇運動3 バーディン蜂起
バーディン蜂起
抵抗時期 1886年~1887年
主導者   Đinh Công Tráng(ディン・コン・チャン 丁公壯)
        Trần Xuân Soan(チャン・スワン・ソン 陳春撰)
Phạm Bành(ファン・バン)

1885年クワンチ省タンソ(Tân Sở)でハムギ帝が宣布し
た「勤皇の詔」に応じてタインホア省ガソン県バーディン
(Ba Đình, huyện Nga Sơn, tỉnh Thanh Hóa)で発生し
た抗仏蜂起。

Ba Đìnhとはベトナム語で「3つの村」と言う意味で、タイ
ンホア省ガソン県に構築された3つの村の抵抗基地、
Thượng Thọ, Mậu Thịnh, Mỹ Khêを指します。

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タインホア省

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バーディンの位置

1885年7月6日
いわゆる「フエの待ち伏せ」作戦に敗北したフエ宮廷の
権臣トン・タット・テュエットは兵士を集め、皇太后やハム
ギ帝、宮廷に住む一族や官僚を連れてクワンチ省タンソ
に向けて逃亡していきます(失守京都)が
チャン・スワン・ソンも ディン・コン・チャン、ファン・バンと
共に宮廷から脱出し、一旦は故郷へと向かいます。

1885年7月13日
ハムギ帝の「勤皇の激」に答えてディン・コン・チャンは
フランスに抵抗する蜂起軍を組織することを決心し故郷
を離れます。

1886年2月
ディンコンチャンはトンキンとアンナンの国境であった中部
ベトナムタインホア省ガソン県(Nga Sơn)バーディンに要
塞を建設していきます。

チャン・スワン・ソンも地域の儒学者や農民に蜂起に参
加するように説得してまわり、バーディンの要塞建設にも
尽力します。

要塞はユニークなものでした。
この村落は雨季になるとまるで洪水のような様相を呈す
る場所柄ですが、長期戦に備えるためディンコンチャイは
村の周りを竹籠に泥を詰め込んだ土嚢を3mぐらい積み
上げ、土塁を築きました。厚さは8~10メートルあり、基
地は幅400m、長さ1200mにもなりました。

兵士はタインホア省からムオン族、ターイ族を含む2000
人が募集されマスケット銃、槍で武装していました。

主導者のディンコンチャイとファンバン他、それぞれの要
塞を守る数人の将官がいました。

バーディン基地の周囲には支援体制も整っていました。
Phi Lai 基地は   Tống Duy Tân và Cao Điển
Quảng Hóa基地は  Trần Xuân Soạn
Mã Cao基地は   Hà Văn Mao
が配置されていました。

1886年
5月12日
3月12日、タインホアのフランス公使館が襲撃されたの
をきっかけにフランス軍は多くのタインホア省の都市に攻
撃をかけますが、抵抗勢力は進行してくるフランス軍のト
ラックをゲリラ戦法で撃退する作戦をとりフランス軍の侵
略は失敗に終わります。

12月18日 
フランス軍は500名の兵士と80門のキャノン砲でバーデ
ィン要塞を2方向から攻撃しますが、抵抗勢力に押し戻
されてしまいます。フランス軍はバーディン要塞を包囲し
て長期戦に持ち込みます。

Brissand大佐率いるフランス軍は将校76名、兵士35
00人でバーディン要塞を包囲し、1カ月近く対峙します。

1887年1月6日 
フランス軍は再度、バーディン要塞を攻撃しますが占領
できず、一旦撤退して軍隊の再構築を待ちます。
バーディンにはトンキン人とアンナム人の抵抗勢力の総
力が保持されていたので、軍事的に重要な場所としてフ
ランス軍は攻撃せざるを得ませんでした。

1月20日
フランス軍は補給部隊として4隻の軍艦を洋上に浮かべ、
抵抗勢力の補給路を断ち、総攻撃を開始します。容赦
なく大砲が打ち込まれ、バーディン要塞の外壁は火の海
に包まれます。

ディンコンチャンは先頭に立って戦いながらも、支援部隊
の同志がフランスを背後から襲撃するだろうと期待して
いましたが、援軍はまったく来ませんでした。

抵抗武装勢力は勇敢でしたが、フランスのキャノン砲と
いう近代兵器の前には無力でした。
フランスの損害は死者19人、負傷者45人でしたが、
バーディン側の損害は大きく、数千人が犠牲になってい
ました。

1月21日朝
生き残った武装勢力はバーディンからMã Cao基地への
逃亡を余儀なくされます。
フランス軍はバーディンを占領し、3村の連絡を完全に
断ち切りました。

2月
フランス軍はその後も抵抗勢力をMã Caoまで追撃し、
要塞を破壊します。抵抗勢力の多くの指導者が犠牲と
なりましたが、ディンコンチャンは蜂起の体制を再構築を
試みます。しかしフランス軍はディンコンチャンに多額の
賞金が賭け、捜索します。

10月5日
ディンコンチャンはゲアン省チュンイェン村での戦いで戦
死します。

蜂起は失敗に終わりました。バディンでの抵抗勢力の敗
北は、クアンナムの南部、クアンガイ、ビンディン、フーエ
ンでの勤皇運動の破局に繋がっていきます。

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蜂起の指導者

バーディンでの敗北は勤皇運動が全国に広まっていたに
もかかわらず、蜂起がそれぞれ地方的なものであることを
意味していました。

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バーディン蜂起の記念碑


ホーチミン廟前の広場はバーディン広場と名付けられて
いますが、バーディンでの蜂起を記念したものです。ホー
チミンはベトナムの独立宣言を読み上げるのにもこの広
場を選びました。


コラム  ディン・コン・チャン
生没年 1842年~1887年
生誕地 ハナム省チンサ村落(Trinh Xá)生まれ(現在
 xã Thanh Tân, huyện Thanh Liêm, tỉnh Hà Nam)
バーディン蜂起の首謀者

愛国者だったディンコンチャンはフランス軍が北ベトナム
に進入してきた時、フエ宮廷軍の司令官である皇太子
Hoàng Kế Viêmの軍隊に入隊してリーダーを務めてい
ました。

1883年5月19日
ディンコンチャンは劉永福(Lưu Vĩnh Phúc)率いる黒旗
軍に加わり、コウザイの戦いでフランス軍司令官リヴィエ
ールの殺害に加わり、その勇気と戦略は高く評価されて
いたので、バーディン蜂起のリーダーになりました。

コラム  チャン・スワン・ソン
生没年 1849年~1923年
生誕地 タインホア省トウハック村(làng Thọ Hạc)
(現在はphường Đông Thọ, thành phố Thanh Hóa,
tỉnh Thanh Hóa)

彼は貧しい農家に生れ、家族を支援するため軍隊に入
隊します。
ハムギ帝が即位すると、フランスに抵抗する使命を帯び
てフエに向かいます。

1885年7月5日深夜4時
権臣トン・タット・トゥエットとグエン・ヴァン・トゥオンの司令
のもと、彼は対岸のフランス駐屯宿舎と公使館を砲撃、
突撃することを兵士に命じます。
しかし明け方になると、フランス軍の反抗によりフエ宮廷
軍は壊滅状態になってしまいます。

攻撃失敗を知ったトン・タット・トゥエットとハムギ帝は残っ
ている兵士と皇族一行を連れてクワンチ省タンソ要塞に
逃亡して行き、そこで「勤皇の詔」を宣布します。

チャン・スワン・ソンも ディン・コン・チャン、ファン・バンと
共に宮廷から脱出し、タインホア省のバーディンに抵抗
基地を建設します。
バーディン基地をサポートする為、タインホア省バトゥック
県(Bá Thước)に滞在してバーディン要塞とマカウ要塞
(Mã Cao)との連絡役をします。

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バトゥック県

1887年初め
バーディンとマカオは洪水に襲われたので、彼は一旦軍
隊を引き上げ、クワンホア(Quan Hoá 現在は
huyện Bá Thước)に再び基地を構築します。

フランス軍はチャン・スワン・ソンの頑固な抵抗精神を削
ぐため、彼の父親の墓を暴き、道路の真ん中でその骨を
焼いたりしましたが、彼の抵抗精神には何の影響も与え
ませんでした。

その後、中国に援助を求めに行ったトン・タット・トゥエット
に会うためにロンチャウ(Long Châu 現在の広州)に行
き、軍事支援や再構築について話し合いますが、成果
はありませんでした。

ロンチャウで幾人かの支援者を得て軍隊を組織し、中
国との国境地帯で抵抗活動を続けました。

1923年
ロンチャウで74歳で死去します。
彼の弟Trần Xuân Huấnと子供のTrần Xuân Huấn
も義勇兵として犠牲になりました。

コラム  ファン・バン
生没年 1827年~1887年
グエン王朝の官僚で勤皇運動に参加しました。

ファム・バンはタインホア省ハウロック県ホアロック村落
トゥオン村(làng Tương,,xã Hoà Lộc, huyện Hậu Lộc,
Thanh Hoá)で誕生しました。

ゲアン省の軍人官僚となったファム・バンは正直な性格
で人々の面倒をよく見たためゲアン省では慕われていま
した。

1885年
彼はハムギ帝の「勤皇の激」に答えて蜂起軍に参加す
ることを決心しHoàng Bật Đạtとともに故郷を離れます。

1886年
彼は地域の儒学者や農民に蜂起に参加するように説
得してまわり、
Hoàng Bật Đạt, Đinh Công Trángら数人の同志と共
に中部ベトナムタインホア省ガソン県(Nga Sơn)バーディ
ンに要塞を建設することに携わりました。

バーディン要塞をなかなか陥落出来なかったフランス軍
は作戦を変更し、砲兵隊を出動させ新たな攻撃を開始
します。

この時ファム・バンは既に60歳で健康状態もあまり良く
なかったのですが、率先して前線に立ち義勇軍を叱咤
激励します。

1887年2月20日夜
バーディン要塞が陥落した後、義勇軍をタインホア省
イェンディン県マカオ要塞に義勇軍を後退させ、故郷に
引き揚げます。

しかし、その後年老いた母親と子供のPhạm Tiêuが人
質としてフランス軍に逮捕されされたため、彼はフランス
軍に降伏し、4月11日、母親と子供が解放された直後
に服毒自殺をしてしまいます。

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