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ハムギ帝 勤皇運動2 フォンケの戦い
勤皇運動 フォンケの戦い

Khởi nghĩa Hương Khê
発生時期 1885年~1895年

勤皇運動の最も典型的な蜂起で以前にフエ宮廷に勤
務していたファン・ディン・フンの指導の下、蜂起はタイン
ホア、ゲアン、ハティン、クアンビンの 4省に拡大していき
ました。その後中部、北部ベトナムの各地で抵抗運動が
発生していきますが、勤皇運動はファン・ディン・フンによ
り始まり、彼の死によって終焉を迎えたといわれます。

11

<蜂起の推移>
1885年7月
ハムギ帝がフエ宮廷を脱出してクワンビン省のタンソ
(Tân Sở)で「勤王の詔勅」を宣布した時、ファン・ディン・
フンはハムギ帝に会いに行きます。宮廷を追放したもの
のファン・ディン・フンの能力は高く評価していたトン・
タット・テュエットはハムギ帝に奏上し、ファン・ディン・フン
を軍事司令官に任命します。

ファン・ディン・フンはハティン省の文紳(バンタン)、会試
合格者Phan Trọng Mưuや郷試合格者 Phan Quảng
らの知識人を糾合し,当時のゲティン省、省都ヴィン市
の南方山地の要衝フオンソン(Hương Sơn)やフオンケ
(Hương Khê)に要塞を築きます。

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ファン・ディン・フンの銅像
ホーチミン市5区チョロン郵便局前

ファン・ディン・フンの決起にCao Thắng, Cao Nữu,
Lê Ninh, Nguyễn Chanh, Nguyễn Trạch, Lê Văn
Tạc, Phan Đình Phong, Phan Đình Canら多くの
グループが集まり、勤皇運動は一挙に拡大し、クアンビン、
ハティン、ゲアン、タインホアでフランス軍に対してゲリラ
活動を開始し始めます。

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フォンケの要塞

ファンディンフンの抵抗勢力(義勇軍)は自然の地形を
利用して3重の要塞を築きました。各要塞は食料、武器
の輸送がしやすいように川の近くに建設されています。

義勇軍の本部はヴ・クワン(Vụ Quang)に置かれ
約500の義勇防衛軍が駐在していました。本部の外側
で暮らしていた村人達も、いつでもファンディンフンの指
令の下で蜂起できるよう準備していました。

さらに抵抗戦を支援するためTrùng Khê - Trí Khêにも
要塞を構築させ、義勇軍を派遣します。

1886年
フランス主導のフエ宮廷軍はファン・ディン・フンの兄を逮
捕したり、父親の墓を暴いたりして圧力をかけますが、
ファン・ディン・フンの信念に影響を与えることはありませ
んでした。

1887年の初期
ファン・ディン・フンは同郷の優秀な若き軍事指導者
カオ・タン(Cao Thắng)に出会います。

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カオ・タン(右)との出会いー絵画

カオ・タンはフォンケ要塞の管理を任命されていましたが、
各地の義勇軍の勢力が弱まってくるとファンディンフンは
カオタンをソンタイ、ハイズオン、バクニン省へ向かわせ、
義勇軍の支援と再編成を命じます。

その後、ハティンに戻ったカオタンは他の指導者と軍事
訓練、要塞の建設に力を注ぎ、レドン村で(Lê Động)部
隊を再編成します。要塞にはラオスに抜ける逃げ道も造
られました。

最大の課題は武器の鍛造でした。カオ・タンはヴ・クワン
の戦区で西欧式の武器鋳造工場をつくり、フランス軍か
ら奪った17丁のライフルを参考にしてハティン省のVân
ChàngとTrung Lương村に持ち込み数ヵ月後には
350丁の銃が出来上がってきます。
これがベトナムで初めてのライフルの鋳造で義勇軍はゲ
リラ戦でフランス軍を大いに悩まします。

15

1889年9月末
ファンディンフンが北部の基地からハティンに戻ってくると、
カオタンや同僚の努力で約1000人の兵士とフランス式
の銃500丁と大量のマスカット銃が準備されていました。
戦いの準備が整った義勇軍は支配地をタインホア、
ゲアン、ハティン、クアンビンの 4省に拡大していきます。
カオタンはファンディンフンの第一の支援者となり、フラ
ンス軍との幾多の戦いの指導者となります。

ファンディンフンは檄文をばら撒き、フランスに抵抗するよ
う求めます。多くのクアンビン、ゲアン、タインホアの多くの
指導者がファンディンフンの抵抗の旗の下に戦うことを
誓い、活動を開始します。

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ファンディンフンの自筆

急激に強力になってきたのを基礎にファンディンフンは
15軍団を構成しました。1軍団には100人から500人
いました。

ファンディンフン自身は20人の兵士に守られながら各省
を巡回して指導者と連絡を取り、主導的な役割を果た
します。

1890年~1894年
この期間は4省でのゲリラ攻撃が頻繁に発生し、フラン
ス軍はその鎮圧に手間取っていました。

1892年
義勇軍はフランス軍のフォンケ要塞への進軍をHói
Trùng と Ngàn Sâu地区で撃退します。

8月
フランスの手先である巡撫官ディン・ニョー・クアン(Dinh
Nho Quang)を生け捕りにして、ゲティン省の人々から大
きな支持を得ます。

1893年11月
ゲアン省ヴィン市への義勇軍からの大攻勢の際、カオ・
タンがフランス主導のフエ政府軍の罠にはまり包囲され
てしまい、負傷を負いながら、根拠地に戻りますが死亡
してしまいます。29歳でした。
後日、遺体は義勇軍によりハティン省フオンケの
ヴ・クワン山の麓、ケトゥオン村(Khê Thượng)埋葬され、
彼を祀った寺院がハフオンソン(Hương Sơn)県のソンレ
(Sơn Lễ)村に造られました。

1894年
3月29日
カオタン死去の復讐としてランロイ(Lãnh Lợi)はヴァン
ソン(Vạn Sơn)で待伏せ部隊を編成し、義勇軍の
兵士が敵のリーダーNguyễn Bảoを殺害します。

10月17日
義勇軍はヴ・クワン山での待ち伏せ作戦で大勝利をおさ
めますが、カオタンの死後、中部での抵抗運動は次第に
力を失っていきます。

1895年
7月から10月  ヴ・クワン山の戦い
フランス軍は3000人の兵士を組織してグエン・タン
(Nguyen Than 阮紳)を指揮官にファン・ディン・フンの
根拠地フオンケ要塞の総攻撃に踏み切ります。
8月15日
フランス軍の手下であったフエ政府軍はフォンケ要塞の
ヴ・クワン要塞を包囲し、供給ラインを遮断した後、猛攻
撃を開始します。義勇軍の武器弾薬、兵士、食料が底
をつき、ヴ・クワン要塞を放棄して山奥に次第に追い詰
められていきます。
多くの義勇兵が犠牲になりましたが、フランス軍の犠牲
は将校3名を含む100人余りでした。

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山奥に追い詰められた義勇兵

11月11日
そしてファンディンフンもクワット山(núi Quạt)のジャング
ルで重傷を負い、死去します。(享年49歳)

辞世の句
戎場奉命十更冬,
武略依然未奏功。
窮戶嗷天難宅雁,
匪徒遍地尚屯蜂。
九重車駕關山外,
四海人民水火中。
責望愈隆憂愈重,
將門深自愧英雄

フォンケでの抵抗は1896年まで続きましたが、実態は
ファン・ディン・フンの死をもって中部ベトナムでの抵抗は
鎮圧されたとされています。

戦い終了後、グエン・タンは山のふもとに建てられた
ファンディンフンの墓を掘り起こし、油で骨を焼き粉砕し、
火薬に混ぜて撃ちはなったと言います。

ファンディンフンが指導者となったフォンケ蜂起は勤皇運
動のなかで、最もスケールが大きく、最も長期間にわたる
抵抗運動で、平野部、山岳地方、両方の人々の支援を
受けたものでした。

その抵抗はまたベトナムの封建制度を支えるエリート集
団である儒学者達の最後の抵抗でもありました。

フランスに10年に渡って抵抗したファンディンフンの信念
はベトナム人に大きな影響を与え、その後のベトナム革
命運動の石杖になっていきました。しかし革命の主役は
労働者や小作農の人々に代わっていきます。


コラム   ファン・ディン・フン 

18

Phan Dinh Hung (潘廷逢) 
生没年  1847年~1895年11月11日
生誕地  ハティン省ドンタイ村(Đông Thái, Hà Tĩnh)

ハムギ帝の勤皇運動に共鳴してゲアンを中心に反仏抵
抗闘争を展開した、フランス植民地時代初期の反仏運
動の指導者。

教育一家の家に生れ、父は学校の副校長で祖父は新
聞社に勤めていました。幼少時代は兄、ファン・ディン・
トゥァット(Phan Dinh Thuat)に養われます。

1876年(29歳)
科挙の郷士の試験に合格。

1877年
フエで会試に合格し、フエ宮廷に勤務します。

1883年7月
トゥドゥック帝が死去した際、後継者をめぐってフエ宮廷
は一時混乱し、実権を握っていた反仏強硬派の2人の
摂政、グエン・ヴァン・トゥオンとトン・タト・テュエットが新
帝を廃した時、ファン・ディン・フンは廃立に反対したため
捕縛され監獄に繋がれたあと生誕地ドンタイ村に追い返
されました。

1884年
罪を取り消され、ハティン省の地方行政官として任命さ
れます。

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ハムギ帝 勤王運動1
勤王運動

Phong Trào Cần Vương

「勤皇運動」とは1885年7月13日ハムギー帝の名で
宣布された「勤皇の詔」に応じて1885年から1889年
にかけて主にベトナム中部から北部地方にかけ、文伸
(バンタン 地方の儒学者や知識人)が中心となって発
生したフランス植民地支配に対する蜂起です。

勤皇運動の経緯
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<背景>
1883年8月20日
フランス軍はフエの河口トゥアンアン(順安)の戦いで勝
利したフランス軍は、8月25日には「アルマン仮条約」の
締結を強行に迫りベトナム全土を事実上、植民地にし
てしまいます。
フエ宮廷内ではフランスに屈する穏健派と武力抵抗も
辞さない強硬派がいました。しかし官僚のトップであった
権臣トン・タット・トゥエット(武官)とグエン・ヴァン・トゥオ
ン(文官)は強硬派で「アルマン仮条約」の前後からフラ
ンスに対する武力抵抗の準備を始め、フエ宮殿が陥落
した時に備えてクワンチ省にタンソ要塞を建設していまし
た。

1884年5月11日
フランスは清仏戦争にも勝利し、中国清朝はベトナムの
宗主権を放棄します。

1884年6月6日
フエ宮廷はベトナム全土がフランスの植民地になる本条
約「パルノートル」条約を締結させられ、強硬派の怒りは
頂点に達します。

1.フエ宮廷のフランス軍に対する奇襲攻撃(フエの待ち伏せ)
1885年7月4日
フランス軍はフエ宮廷に参内して信任状奉呈の打ち合
わせの為、フエ宮廷の官僚を招いて夜会を開きました。
その席でフランス軍はフエ宮廷内に参内する際には、正
面玄関である「午門」を開けること、そして宮廷内に駐留
することを要求します。
フエ宮廷の官僚はフランス軍が「午門」を通って宮廷内
に参内することを認めることができませんでした。「午門」
はグエン朝建国以来のしきたりで皇帝しか通ることが出
来ないと定められていたからです。

この話を聞いた権臣のトン・タット・トゥエット(Tôn Thất Thuyết)
とチャン・スオン・ソアン(Trần Xuân Soạn)、ト
ン・タット・レ(Tôn Thất Lệ)らはついに反乱蜂起を決意
します。

7月5日午前1時頃
フランスの官僚や兵士が寝静まった頃を見計らって、突
然、トン・タット・トゥエットはフエ宮廷軍に対岸のフランス
軍駐屯地や公使館へ奇襲砲撃を開始するよう命じま
す。

フエ宮殿から砲弾が打ち込まれ、数千人のフエ宮廷軍
がわずか1400名のフランス駐屯地の兵士に襲い掛か
りましたが、善戦したのは当初のみで、武器の違いは大
きく、体勢を整えたクールシ将軍率いるフランス軍にはか
なわず、フエ宮廷が陥落するのは時間の問題でした。

2.フエ宮廷からの逃亡
1885年7月6日
敗北を知ったトン・タット・テュエットは6日の明け方、兵
士を集め、皇太后やハムギ帝、宮廷に住む一族や官僚
を連れて、宮廷西門からキムロン地域にあるティエンム
ー寺(Thiên Mụ)に集合しクワンチに向けて逃亡してい
きます。(失守京都)その数は1000人近くになりました。

フエ宮廷を占拠したフランス軍は武器や財宝を略奪した
との記述があります。

3.「勤皇の詔の発布」
1885年7月8日
一行はクワンチに入り、休憩を取り会議が開かれます。

皇太后トゥズーの意見に従って、女性や子供、老人など
約半数がフエに戻りますが、500人はクワンチ省カムロ
県のタンソ(Tân Sở )要塞に向けて行進します。

7月13日
タンソ要塞は避難用の要塞として権臣グエン・ヴァン・ト
ゥオンとトン・タット・トゥエットが2年前から建築を始めて
いた要塞です。
ハムギ帝はここで、「勤皇の詔」を宣布します。

4.ベトナムキリスト教徒への攻撃
勤皇運動の攻撃標的はフランス軍でしたが、フランス軍
はトンキンに35000人、コーチシナには数千人の兵士が
配置されていましたが、アンナンにはわずか数百人しかい
ませんでした。しかもアンナンの部隊はフエ、トゥアンアン、
ヴィン、クイニョンに分散していました。

抵抗勢力はフランス軍に対する有効な攻撃が出来ず、
怒りはフランス軍に友好的なベトナム人カトリック教徒に
向けられていきます。

正確な数字ではありませんが、1885年7月から9月の
間に抵抗勢力はベトナムのクリスチャン人口の約3分の
1にあたる40000人のクリスチャンを殺害したとされてい
ます。
特にクワンガイやビンディンでは男女、子供を問わず24
000人、クワンチでも7500人が殺害されています。

クリスチャン達はフランス人やスペイン人の神父の呼びか
けに応じて自分を守るためにあらゆる手段をつかって抵
抗し、劣勢であったにもかかわらずクリスチャンは少なか
らず抵抗勢力に損害をあたえました。

5.トンキンからのフランス軍の介入
当初フランスは勤皇運動への反応が鈍く、数週間
アンナムから聞こえてくる噂を信じていませんで
したが、最終的にはキリスト教徒の虐殺が明らか
になった時点で行動を起こしました。

7月
フエ宮殿のあるアンナム地域への本格侵略はフランス本
国によって禁止されていましたが、カトリック教徒の虐殺
をきっかけにアンナムへの侵略が35000人に強化され
ていたトンキン遠征隊の軍隊によって行われます。

クールシ提督は脆弱なベトナム中部の海岸線に沿って
上陸し、戦略的に重要な地点を確保し、クアンガイとビ
ンディンでの虐殺により四面楚歌になっていたベトナム人
カトリック教徒のコミュニティを保護します。

8月
ショーモン中佐はヴィンの砦を占領するためにゲアン、
ハティン海兵隊を南下させます。

大虐殺を逃れたビンディン省にいた7000人のキリスト
教生存者はクイニョンの小さなフランス租界に避難しま
す。

8月末
Léon Prud'homme提督の指揮の下、600人のフラン
ス兵とベトナム人傭兵は戦艦 La Cocheterie,
Brandon, Lutin 、 Comèteに分乗してフエから出航し
クイニョンに上陸し、9月1日にはビンディン省へと行進し
ていきます。

ベトナムの武装勢力は、フランス軍の前進を阻止
しようとしましたが、槍と時代遅れの火器で武装
しただけのベトナム武装勢力はフランスの大砲の
格好な餌食でした。

9月3日
武装勢力は一掃され、9月3日にはフランス軍は
ビンディン省に進軍し、3人のベトナム人官僚がキリ
スト教徒大虐殺の共犯として処刑されました。
勤皇運動がすべてのベトナム人の意思ではないと考えて
いたため、フランスはアンナムとトンキンの保護領化を推
し進め、勤皇運動に対しては政治的な決着を図ろうと企
てます。

皇太后のトゥズー(Từ Dũ)を始めとする3宮はハムギ帝
を諦め、勤皇運動が始まった直後からフエに戻りました。

9月
クールシ提督はハムギ帝(咸宜帝)の支援を断ち切り、
兄のドンカイン帝(同慶帝)を皇位に就けます。

11月
Mignot中佐もトンキン地方の南部、ニンビンからベトナ
ム武装勢力を蹴散らしながら、中部ベトナムに南下して
きます。

6.勤皇運動の本格化
多くのベトナム人は同慶帝をフランスの傀儡王とみなして
いましたが、
トンキンで数年前からフランスと戦っていたベトナム宮廷
軍の指導者であったホアン・ケ・ヴィン(Hoàng Kế Viêm)
はベトナム人民の疲弊を目の辺りにして、フランスへの抵
抗をやめ同慶帝への忠誠を誓います。

しかし中部や北部ベトナムでは「勤王の檄文」によって武
装蜂起したグループの抵抗が各地で続いていました。

代表的な蜂起は以下のようなものでした。
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7. フランスのコーチシナからの軍事介入
1886年7月
コーチシナのフランス軍は隣国カンボジアの反乱鎮圧に
忙しく、勤王運動の鎮圧に軍隊を編成できないでいまし
たが、Trần Bá Lộcの指揮下にフランス正規軍とベトナ
ム人傭兵400人で編成された軍隊が本格的に勤王運
動の鎮圧に投入されます。

8. バーディンでの反乱を鎮圧(ターニングポイント)
1887年1月
フランス軍はバーディンでの反乱を鎮圧します。この戦い
が勤皇運動による反乱のターニングポイントでした。

1887年前半
コーチシナのフランス軍はビンディン省、フーイェン省に進
軍していきます。勤王運動の指導者が寝返りを打ったこ
ともあり、抵抗は崩壊していきます。そして6月にはフエの
南部までを制圧します。

9. ハムギ帝の逮捕・流刑
1888年10月30日
ハムギ帝が逮捕され、フランスに協力するように説得され
ますが、ハムギ帝が断固として拒んだため、アルジェリア
に流刑になってしまいます。その後も抵抗運動は続けら
れましたが、悉くフランス軍に鎮圧されていきます。

10.ファン・ディン・フンの死去
1895年7月  
フランス軍はファン・ディン・フンの根拠地であるフオンケ
要塞の総攻撃に踏み切り、ファン・ディン・フンがジャング
ルの中で死去します。(享年49歳) 。この総攻撃をもっ
て勤皇運動は終焉したと見なされています。

<結果と失敗の原因>
勤皇運動と呼ばれた武装蜂起はおよそ10年継続しまし
たが、結果はフランス軍にすべて鎮圧されました。

1.鎮圧されたのはフランス軍との武力の差が歴然として
いることが主因ですが、そもそも勤皇運動は地方の愛国
的な文伸がリーダーとなり個別的に蜂起したもので、運
動は各地に広がったものの、中部、北部ベトナム全体を
統括する全国的組織が無かったため、リーダーが倒れる
と運動が終焉してしまうという側面がありました。

2.この国内の混乱に乗じて悪行を働く輩もいて、勤皇
運動は必ずしも農民の支持を受けていませんでした。

3.勤皇運動の初期にはベトナム人カトリック教徒が迫
害されたため、カトリック教徒からフランス軍に抵抗勢力
の動向が逐次報告されていたこと。

4.勤皇運動はハムギ帝を擁立してフランス軍を追放す
る運動だったので少数民族の自治権はないがしろにされ、
彼らを味方につけることが出来ませんでした。

この運動の鎮圧によりベトナムの封建制度を支えてきた
文伸たちの抵抗は終焉し、その後のフランス支配に対す
る抵抗運動は民族運動に変化していきます。span>
2015年ベトナムの法定祝日と公務員の休日
2015年ベトナムの法定祝日と公務員の休日

<法定の祝日>
1月1日  新年
2月19日 旧正月(テト)
4月28日 フン王の命日 
4月30日 南部解放記念日
5月1日  メーデー
9月2日  建国記念日

<公務員の休日―政府発表2015年1月1日>
1月1日~4日    新年4連休
2月15日~23日  テト9連休
4月28日~5月3日 フン王の命日等6連休
9月2日       建国記念日
公務員でも休業日が異なる職種があります。

<民間の休日>
民間企業の休日は公務員の休業を目安に独自に決められますが、テト休日は従業員が有給休暇を合わせて取ることが多く、小さな商店では2週間ぐらい休業する場合もあります。



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