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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ハムギ帝  「フエの待ち伏せ」
ハムギ帝  「フエの待ち伏せ」

<背景>
1883年8月20日トゥアンアン(Thuận An)の戦いで勝
利をおさめたフランス軍は脅迫に近い強行態度でにアン
ナン(中部ベトナム)とトンキン(北部ベトナム)をフランス
の保護国とするよう迫り、フエ宮廷はほぼフランスの言う
なりにフエ条約を締結させられます。

多くのベトナム人はフランスの保護を振り払うことを切望
し、フランス統治に反対する勢力が1884年、1885年
と次第に増加していきます。

1884年8月からトンキンのフランス軍はベトナムの宗主
権を主張する中国、清朝との戦争に突入していったため
に(清仏戦争 1884年8月~1885年4月)、フエ宮廷
内の対フランス強硬派はこの間にフランスに対する反乱
の準備を整えて生きます。
1885年6月、フランスとの戦争に負けた清国は「天津
条約」を結び、ベトナムに対する宗主権を放棄します。
この時ベトナム人の憤慨はピーックに達します。

1885年7月
11
Léon-Frédéric-Hubert Metzinger大隊長
(1842年~1914年)

12
フエ宮殿と右下のフランス公使館

フランス軍に対する武装反乱はクールシー提督
(Courcy)率いるトンキン遠征部隊の先遣隊が7月2日
に信任状奉呈儀式のためフエを訪れた時に起こりました。
フエ宮廷の権臣トン・タット・トゥエットとグエン・ヴァン・トゥ
オンを司令官とした数千の宮廷軍は突然、対岸のフラン
ス軍に対して計画的な夜襲を強行し、フランス兵が傷つ
きました。。

この夜はフランス軍がフエ宮廷の官僚を招いて夜会を開
いた夜でした。フランスは宮廷軍の夜襲に驚くと共にフエ
宮廷の裏切り行為として憤りを露にします。

クールシー提督は彼自身を警護する兵士に加えてフラン
ス軍の他の軍隊の兵士を呼び集め、反撃を開始します。
フランス軍は宮城の東西両方向から攻撃します。
その後、Metzinger将軍の指揮で宮城西側からの反撃
に成功し、宮殿中庭を通って宮殿を占拠していきます。

13
夜明けにはフランス軍は統制を取り戻し、王宮を完全に
制圧していました。フランス軍はこの攻撃を「フエの待ち
伏せ」と呼び、王宮内の宝物を略奪していきます。

「フエの待ち伏せ」は一夜にしてすぐに制圧され、ハムギ
帝と「三宮」を初めとする皇族はフエ宮廷の西門から逃
れ、クワンチ省タンソに向かいます。

タンソで権臣トンタットトゥエットはハムギ帝に「勤皇の激」
を宣布するよう進言します。勤皇運動の始まりです

アンナン地区では数千のベトナム愛国者たちがすぐに
「勤皇の激」に反応し、フランス植民地支配に対する抵
抗運動はトンキンにも拡大していきます。

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