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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ハムギ帝  更新1
ハムギ帝

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Hàm Nghi (咸宜帝)
生没年 1871年8月3日~1944年1月14日
グエン朝の第8代皇帝
在位 1884年月8月2日~1885年7月15日
       (廃位)
父親  Kiên Thái 王(Nguyễn Phúc Cai)の第5子
母親  Phan Thị Nhàn 

<トピックス>
1.戴冠
2.勤皇の激
3.追放
4.アルジェリアでの生活
5.結婚式
6.墓
 
1.戴冠

1884年
キエンフック帝が死去したあと、皇太子であったウン・ドゥオン
(Ưng Đường 後の第9代ドンカイン帝)が皇位を継
承する予定でしたが,権臣グエン・ヴァン・トゥオンとトン・
タット・トゥエットは自分達がコントロールしやすいように幼
少のウンリック(Ưng Lịch ハムギ帝の幼名)を選びまし
た。
当時ウンリックは13歳でしたから、ベトナムの国情につい
ては何もわかってはいませんでした。

アンナンのフランス理事官レナード(Renard)はハムギの
戴冠について知らされなかった為、当初は認めようとは
せずフエ宮廷との間で緊張感が生じていました。特にク
ールシ将軍は皇帝を拘束すると脅していました。

8月2日
ハムギ帝の戴冠式が行われます

8月17日
わだかまりはあったもののハムギ帝の戴冠の祝いにフラ
ンスからRheinart大使, Guerrier大佐、Wallarmé船
長 と185人の文官、武官が参列しました。

戴冠式の2カ月前の6月6日にはフランスとの間でパルノ
ートル条約が結ばれ、ベトナム全土は3分割され、コーチ
シナ(南部)は直轄植民地、アンナン(中部)は保護国、
トンキン(北部)は保護領となり、アンナン、トンキンでもフ
ランス理事官が実質的な支配権を握り、ベトナム全土は
実質的にフランスの植民地になってしまっていました。

フエ宮廷の2人の権臣はフランスとパルノートル条約をし
ぶしぶ締結したものの遵守するつもりはなく、以前からフ
ランスの強圧的な態度に反抗する準備を進めていまし
た。

1885年
フランスは信任状奉呈の為フエ宮廷に参内し、宮廷内
に駐留することを要求します。フエ宮廷の権臣はフランス
軍が「午門」を通って宮廷内に参内することを認めること
ができませんでした。
フエ宮廷の正面玄関である「午門」はグエン朝建国以来
のしきたりで皇帝しか通ることが出来ないと定められてい
たからです。
権臣のトン・タット・トゥエット(Tôn Thất Thuyết)、チャ
ン・スオン・ソアン(Trần Xuân Soạn)、トン・タット・レ
(Tôn Thất Lệ)らは反乱蜂起を決行します。

7月4日午前1時頃
この日はフランス公使がフエ宮廷の官僚を招いて夜会を
開催していました。フランスの官僚や兵士が寝静まった
頃を見計らって、突然、トン・タット・トゥエットはフエ宮廷
軍に対岸のフランス軍駐屯地や公使館へ奇襲砲撃を
開始するよう命じます。
フエ宮殿から砲弾が打ち込まれ、10000人以上のフエ
宮廷軍がわずか1400名のフランス駐屯地の兵士に襲
い掛かりましたが、善戦したのは当初のみで、武器の違
いは大きく、体勢を整えたクールシ将軍率いるフランス軍
にはかなわず、フエ宮廷が陥落するのは時間の問題でし
た。

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(右上)フランス駐屯地 (左下)ティエンムー寺

7月6日
敗北を知ったトン・タット・テュエットは6日の明け方、兵
士を集め、皇太后やハムギ帝、宮廷に住む一族や官僚
を連れて、宮廷西門からキムロン地域にあるティエンム
ー寺(Thiên Mụ)に集合しクワンチに向けて逃亡してい
きます。(失守京都)その数は1000人近くになりました。

フエ宮廷を占拠したフランス軍は武器や財宝を略奪した
との記述があります。

2.勤皇の激
1885年7月8日
一行はクワンチに入り、休憩を取り会議が開かれます。

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(右下)フエ (左上)クワンチ市

皇太后トゥズーの意見に従って、女性や子供、老人など
約半数がフエに戻りますが、500人はクワンチ省カムロ
県のタンソ(Tân Sở )要塞に向けて行進します。

7月13日
タンソ要塞は避難用の要塞として権臣グエン・ヴァン・ト
ゥオンとトン・タット・トゥエットが2年前から建築を始めて
いた要塞です。
ハムギ帝はここで、「勤皇の詔」を宣布します。

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カムロ

15 (400x238)
タンソ要塞の復元図

16 (400x268)
勤皇の詔

7月18日、19日
トン・タット・トゥエットは1000人の兵士と共にタンソ要塞
を離れ、クワンビン地方に向かいます。

7月23日
トン・タット・トゥエットと皇族は再びタンソ要塞に戻りま
す。

7月26日
トン・タット・トゥエットは兵士を募集するために国境を越
えてラオスに向かいました。数日後、500人の兵士がハ
ティンに終結し、ムオン族もリクルートされました。

「勤皇の詔」宣布に応じて中部ベトナムや北部ベトナム
で次々と蜂起が起こります。この蜂起は「勤皇運動」(別
項)と呼ばれます。
代表的な蜂起には
1.バソン蜂起
2.フォンケ蜂起
3.バーディン蜂起
4.フンリン蜂起
5.イェンテ蜂起   
があります。(別項)

7月30日
1884年に締結されたパルノートル条約の追加条項が
署名されましたが、内容はわかりません。

7月31日
ハムギ帝はクワンビン省(?)のBạn Cạn⇒Hàm Trảo
の農村を転々とします。

9月6日
グエン・ヴァン・トゥオンはグエン・フウ・ドウ(Nguyễn Hưu
Độ) 、 ファン・ディン・ビン(Phan Đình Bình)らとフラン
ス軍に捕らえられてフエに連行され、タヒチに追放される
ことになります。

9月14日
ウンキー(Ưng Kỹ ドンカイン帝)がフランス理事官の宿
舎にボートで移送されて来ます。

9月19日
フランスはハムギ帝の廃位を宣言し、親仏派の兄ウンキ
ーをドンカイン帝として即位させます。

フランスの指示下、ドンカン帝はハムギ帝に帰順を呼び
掛けましたが、ハムギ帝は農村を転々として抵抗をつづ
け応じませんでした。

11月
ハムギ帝はクワンビン省を北上し、山奥のQui Đạtに居
を構えます。

1886年
2月頃
トン・タト・トゥエットは清国の支援を求めるため、2人の
息子、長男トン・タット・ティエップと次男トン・タット・ダム
とにハムギ帝の警護を命じてチャン・スオン・ソン(Trần
Xuân Soân)と共に清国へと向かいます。

1887年、1888年
この2年間、逮捕されるまでハムギ帝はトン・タット・ダム、
トン・タット・リット(Tôn Thất Liệt)、レ・チュック(Lê
Trực)、グエン・ファム・トゥオン(Nguyễn Phạm Tuân)ら
に加えて3000人の人々とクワンビン省を流れるザイン
川の上流地域のタバオ(Tá Bảo)川にあるトゥエンホア
(Tuyen Hoa 現在はĐong Lê)で過ごします。
この間、勤皇運動による抵抗活動が中部、北部ベトナ
ムで活発に行われます。

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トゥエンホア

1888年
ハムギ帝の居場所がつかめないフランスは賄賂による買
収作戦にでます。
ハムギ帝の警護を担当していた部下のチュン・クワン・ゴ
ック(Truong Quang Ngọc)にフランス軍キャプテン
Mulotは賄賂を渡し、ハムギ帝を殺害せず、生け捕りに
することを依頼します。

9月26日夜
チュン・クワン・ゴックはムオン族100人を引き連れ、タバ
オ川のほとりにあるハムギ帝のコテージを取り囲みます。
外の雑音に気付いたグエン・トゥイ(Nguyên Thúy)将軍
とその弟は飛び起きましたがチュン・クワン・ゴックに刺し
殺されました。
トン・タット・ティエップもハムギ帝もまた飛び起きて剣を手
にしましたがトン・タット・ティエップはハムギ帝の目前でム
オン族の兵士に胸を突き刺され即死してしまいます。18
歳でした。

18 (388x225)
イメージ図

ハムギ帝は裏切り者に向き合い、叫びます。
「フランスに私を引き渡すならば、この場で殺せ」
ムオン族の兵士が飛びかかろうとした時、チュン・クワン・
ゴックは非常に混乱し,咄嗟にハムキ帝を引き寄せ自分
の剣を落としました。
ハムギ帝は敵の手に落ちます。

チュン・クワン・ゴックは逮捕した男がハムギ帝であること
を証明するために金貨や銀貨、ダイヤモンドなど皇帝を
示す書類を押収してから
ハミギ帝をハンモックの中に入れボートに乗せザイン川
(クワンビン省)下流沿岸のフランス軍のトゥアンバイ砦
(Thuân Bài)に連れて行きました。
フランス軍は敬礼で迎えましたがハムギ帝は無視しまし
た。

フランス軍はハムギ帝の取り扱いについてインドシナ総
督の指示を待ちます。

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(右下)トゥアンバイ砦

ハムギ帝の逮捕は勤皇運動に大きな影響を与え、この
後、勤皇運動は収束していきます。

3.追放
1888年
11月14日
ハムギ帝はChà-mac⇒Thanh Lạnh⇒Đồng Cả⇒
Quảng Khêと移送されフエ宮殿に戻されると、フランスに
抵抗することなくフエ宮殿に戻った皇族やフランス官僚
にフランスに協力するよう説得されましたが、ハムギは断
固として拒否しました。

11月16日
フランス政府は会議を開き、ハムギ帝をアルジェリアに流
刑することを決定します。「流刑」と言っても日本の「島
流し」とはイメージが違って、ベトナム本土に戻って来れ
ない遠隔地に移送するという意味です。

11月24日
ハムギ帝はフエの外港であるThuận Anからダナンの
Lăng CôへBonnefoy号で移動し、28日にコメット
(Comète)号に乗り換えてサイゴンに向かいます。
ハムギ帝に付き添っていたのは通訳のTrần Bình
Thanhと2人執事だけでした。

1889年1月13日
フランスはBiên Hòa号にハムギ帝を乗せ、サイゴン近郊
のビエンホアからアフリカ北部のフランス植民地アルジェ
リアへ向かいます。

4.アルジェリアでの生活
アルジェに到着したハムギ帝は最初の10日間をホテル
Régenceで過ごしましたが、多くの学生が訪問に来たそ
うです。
その後、Villa des Pinsに移ります。

「流刑」でフランスの監視下にあったものの、フエ宮廷は
宿泊と食事代として年間25000フランを与え、召使を
一人つけました。召使は3年毎に変更されています。

1889年11月
当初旧ハムギ帝はフランス語を強盗の言語だとして習い
ませんでしたが、自分を尊敬してくれるフランス人との交
流を通じ、1889年11月頃からフランス語を習い始めま
す。そしてフランス文学やフランスの画家ゴーギャンの絵
画を勉強し、さらに自転車に乗ることも覚え、写真撮影、
粘土細工など多くの事をも学びます。
年末にはパリに行きゴーギャン(Paul Gauguin)の展覧
会場を訪れます。

時が経つに連れて追放という痛みも薄れ、旧ハムギ帝の
心も平穏になっていきます。しかし彼は一生、ベトナムの
伝統的な髪型を崩さず、伝統的な服を着て過ごしました。

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ハムギが描いた油絵「サンセット」
35 x 46 cm。2010年11月24日、パリでオークショ
ンにかけられ、初値8800ユーロでしたが落札価格は10
0000ユーロでした。

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題名「田舎」 ハムギ作

5.結婚式
1904年
アルジェリアに追放になった元皇帝ハムギは生涯アルジ
ェリアで過ごします。首都アルジェでは「アンナンの皇太
子」と呼ばれていました。旧ハムギはアルジェ最高裁判
所長官の娘Marcelle Aimee Leonie Laloeと結婚しま
す。

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結婚式場

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アルジェのカトリック教会から出で来るハムギ夫妻

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式後ホテルに戻るハムギ夫妻とLaloe 夫妻

ハムギは3人の子供に恵まれ、居心地のよい家庭を築きます。
長女    Như Mai
生没年  1905年8月17日~1999年11月1日(94歳)
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次女    Như Lý 
生没年  1908年~2005年7月9日(97歳)
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長男 Minh Đức 
生没年  1910年~1990年8月7日(80歳) 
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現在、子供達は3人とも両親の近くに眠っています。

1918年
ハムギ帝はモロッコを訪れます。

1929年
インドシナ総督パスキエ(Pasquier)はハムギ帝の子供達に
各10000フランを支給します。

1931年11月1日
さらにパスキエはハムギ帝の子供達の養育のために年間
200000フランを支給します。

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晩年のハムギ

ハムギはグエン・アイ・コック(後のホーチミン大統領)の噂
を聞いており、書棚にはグエン・アイ・コックが1925年出版
した「フランス植民地主義の実態」が置かれていました。

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フランス植民地主義の実態

5.墓 

1944年1月14日
旧ハムギ帝は家族と共に住んでいたアルジェの小さな
田舎町であるThonac村の自宅で死去します。胃癌と
いわれています。(72歳)旧ハムギ帝の遺体はThonac村
から約2Kmの墓所に埋葬されました。

葬儀はベトナムの古式に則って行われ、喪主はフランス
政府代表者でした。
未亡人となったLaloeにはフランス政府から補助金が
年間225000フラン支払われることになりました。

1965年
1962年アルジェリアの独立に伴い、旧ハムギ帝の
子供達はハムギ帝の遺骨をきれいに洗浄してアルジェの
Thonac村からフランスの中央西部の県ドルドーニュ
(Dordogne)へ改葬します。

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ドルドーニュ県

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ハムギの墓

墓石には十字架があしらわれていますので、改宗したもの
と思われます。

墓の石碑には2つの言葉が添えられています。
「時はすべてを消し去る。しかし思い出は消し去ることができない。」
「我々は決してあなたにことを忘れることは無いでしょう。」

1974年
妻のLaloeがThonac村で死去します。葬儀はThonac村
で行われましたが、遺体はフランスに眠るハムギ帝の傍に
埋葬されました。

2007年
フランス政府により、ハムギ帝の墓をベストな場所(=フエ)
に移動させてあげたいとの計画がありましたが遺族の反対
にあって取りやめになっています。

2008年3月25日
フエの建造物保護センターは最高責任者のNguyễn
Phước Tộcにハムギ帝の遺骨をフランスから改葬する
ための報告書を送っていますが、未だ実現していません

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