べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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皇帝・后の一日
皇帝・后の一日
皇帝と后の日常生活を第4代皇帝トゥドゥック帝を例にとって記述してみます。

4:00AM
后が起床し、身支度をしてから配膳所に皇帝の朝食のチュックに向かいます。
そして多くの宦官とメイドサービスの女性を引き連れて食事を皇帝に運びます。

5:00AM
皇帝が起床し、后からご機嫌伺いを受け、朝食をとります。

6:00AM
皇帝は執務宮殿である勤政殿から文明殿(Điện Văn Minh)に行き、毎日の朝会を開きます。
宦官が皇帝が入殿したことを告げると、官僚が一人づつ文明殿に入ってきます。
全国から内閣に送られてきた申請書の内容を読み上げるのを聞き終わると、申請書はボックスに入れられ、宦官によって皇帝のデスクに届けられます。
皇帝はすぐに裁可できる申請書にコメントを付けさせ、内閣に戻します。
申請書のコピーが作られ各部署に配布されます。

后は6:00AMから食事を取り、その後皇太后のご機嫌伺いに行きます。

7:00AM
后は後宮に戻り、子供や宦官、メイドの話を聞きます。

8:00AM
宦官の主任から前夜の状況、今日の議題、財政状態などもろもろの話題の報告を受けます。

9:00AM
側室たちの苦言を聞き、アドバイスをします。

皇帝の朝会は9:00から10:00AMごろに終わるのが通常ですが、皇帝はさらに11:00頃まで執務を続けることがあります。

11:00AM
后は子供達の部屋を訪れた後、朝会を終えた皇帝から后が行うべき行動のアドバイスを受けます。

皇帝は疲れを感じると、”đầu hồ”と呼ばれていたゲーム(輪投げのようなゲーム)に興じたり、宮廷内の庭園、幾暇園に散歩に行きます。
無論、執務が終われば3~4人のメイドが皇帝につきっきりでサービスをします。

12:00AM
后は皇帝と一緒に昼食を取ります。その後、後宮に引き上げ昼寝をしたりしてリラックスします。

午後
皇帝は再度申請書に対する執務を続けます。皇帝が申請書に赤インクで書き入れるコメントは申請書よりも美しい文字で、時には申請書よりも長文でした。(トゥドゥック帝は詩人として有名人であった)

2:00PM
后は皇帝のために軽食やフルーツを用意します。

4:00PM
后は子供達と遊んだり、皇帝と一緒に皇太后を訪れたりします。その後、后は紫禁城を見回ります。

皇帝は余暇ができると、文官と文学談義や詩を読むことを楽しみにしており、時には孝行息子と評判の高かった皇帝は母親の皇太后トゥズーを宮廷劇場に招き、オペラや雅楽を鑑賞し、母親を喜ばせていました。

さらに余暇時間があるときには、香河を隔てた離宮(後、墓所となります)へ行幸し、船遊びを楽しみ、詩を作ったりしていました。

6:00PM
后は皇帝の夕食を準備した後、自分も夕食をとります。その後、宮廷内の寺院へ行き、仏陀に王朝の繁栄を祈ります。

夕食後、皇帝は読書や詩の作成にふけります。
中国語で書かれた詩集やベトナム語(チュノム)で書かれた教育書は、彼の政治的な業績をはるかに超えて有名です。

8:00PM~9:00PM
子供達と少し遊び寝付かせた後、図書館で読書をします。その後、后は皇帝の食事状況をチェックし、就寝の挨拶をした後、後宮へ引き揚げます。

10:00PM~11:00PM
軽食をとった後、就寝します。

このスケジュールはグエン王朝がフランスの侵略を受ける前のものですが、后の仕事は激務であったことがわかります。

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宮廷の役者・楽団
宮廷の役者・楽団


フエ宮廷の紫禁城の中には1826年(明命7年)に建築された宮廷劇場「閲是堂」(Duyệt Thị Đường)があります。
歴代皇帝が宮廷舞踊や宮廷音楽を楽しんだ場所です。

閲是堂は戦争の惨禍で失われましたが、後に再建され、現在では観光用に宮廷舞踊や宮廷音楽が催されています。

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閲是堂(2011年)

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閲是堂内部


グエン王朝時代の宮廷オペラ役者 (Nghề biểu diễn)

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サイゴンの演劇一座

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Nam Định(北部ベトナム)の歌手グループ

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1922年マルセイユ植民地博覧会に派遣されたベトナムの雅楽団

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皇帝の象徴
皇帝の象徴
グエン王朝の歴代皇帝が、皇帝を象徴するものとして代々引き継いできたのは、建国時に清朝から冊封を受けた時に授かった玉璽と初代皇帝のザーロン帝の使用していた王剣でした。

王朝滅亡時には王剣は軍の指揮官に授与するために数百、玉璽は使用目的に応じて9つありました。

1945年8月30日
王剣と玉璽はバオダイ皇帝の退位式の際、ホーチミン率いる臨時革命政府の代表Trần Huy Liệu引き渡され、ハノイに運ばれ、9月2日の独立宣言の日に一般に公開されました。
その後はホーチミンが住むハドン省の家の床下に油付けにして保管されていました。

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1946年12月
フランスのハノイ侵攻に伴って、ハドン省のホーチミンの官邸が急襲されると、ホーチミンは「徹底抗戦の檄文」を発表して北部の山岳地帯へと一旦退却して行きます。

1951年~
フランスがハドンの家を修理するため床下を掘っていると、フランス兵士がグエン王朝の財宝を偶然にも発見したのです。

フランスは当時皇帝の特別行政区をされていた中部山岳地方の本部機能が置かれていたバンメトートとまで兵士の護衛をつけて空輸しました。

しかしこの時、バオダイ国長はフランスに滞在していたため、フエ宮廷に連絡を取り引取りに来るよう連絡します。

財宝の返還を受けるためにバオダイの代理人として愛人モンディエップが指名され、皇太后Thái hậu Từ Cungに指名された 証人と共にバンメトートに向かいます。

フランス兵士によって運ばれた玉璽は清国の乾隆帝から授けられたもので、銀でできており満州と中国の文字があり、玉璽のトップにはラクダの姿がありました。10~13Kgあったそうです。
王剣は箱に入るように半分に折られていました。

バンメトートからダラット離宮へは像によって運ばれたようです。

ダラットに到着すると皇太后トゥークンは5回低頭してからモンディエップに言いました。
「あなたは幸運な人だ。私は皇太后だけれどもすべての儀式に出席できなかったので今までにこれを見たことが無い。」

財宝は皇帝が帰ってきたら見せるように赤いシルクにこれを包みダラット宮殿応接間に保管され、折れた剣は修復されました。

バオダイ国長が帰ってきて布を解いて言いました。「この王剣はホーチミンに渡された剣だ。我々の首を助けたものだ。そして自嘲しながら、今戻ってきたということは、それは我々がすべて死ぬ時かもしれない。」 モンディエップは彼が何を考えているのかわからなかった。

バオダイ国長は玉璽、王剣、皇帝の服、ザーロン帝がかぶった9つの金のドラゴンを模した王冠を再び得ました。

1953年
フランスとのインドシナ戦争で「ベトナム国」の形勢が次第に悪化してくると、バオダイ国長は愛人モンディエップに玉璽と王剣、その他600点の財宝をフランスに運ぶように依頼します。

財宝はカンヌ郊外のソレンツ城にいるナムフンにグエン王朝の大臣のいる前で手渡たされます。ナムフンが正妻であったし、モンディエップはナムフンにグエン王朝の王冠が欲しいとは考えて欲しくなかったから。

ナムフンは長男バオロンに言います。この2つは分離しないように保管しなさい。

バオダイの晩年
バオダイが「アンナム皇帝 バオダイ」(Bao Dai of Annam Dragon)を書き終えたとき、著作に箔をつけるために玉璽を借りることを求めましたが、バオロンは断りました。

この件は訴訟沙汰になってしまい、裁判所は玉璽はバオダイが王剣はバオロンが保持するよう裁定しました。

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手前に少し写っているのが玉璽

その後のこの財宝の行方はわかりません。

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バオダイ宮殿
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バオダイ宮殿
バオダイ皇帝がフエ宮殿以外に避暑地の別荘として使用した宮殿は3カ所ありバオダイ皇帝の「ビエット・ディエン」(特別な宮殿)と呼ばれています。

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1.ダラット (パレスⅢ)
2.ニャチャン(パレスⅡ)
3.バンメトート(パレスⅠ)

バオダイが皇帝になった時には、フエ宮廷には徴税権を始めすべての政治権限がインドシナ総督に属していましたので、フエ宮廷はインドシナ総督から支払われる宮廷費で生活していました。

いずれの宮殿もフランスの力を借りて建設されたものです。現在ではバオダイが実際に使用したヴィラ以外はホテルとして利用されています。


1.ダラット (パレスⅢ)

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ラムドン省ダラット市のチエウ・ビィエト・ヴォン通りの行き止まりにはラムビエン高原があり、その小高い丘の上にロマンチックで、エレガント、ヨーロッパの革新風潮の建築様式をしている古い御殿が
ベトナム最後のグエン王朝( 1802 年~1945 年)のラストエンペラー、バオダイ皇帝の夏の離宮「ビエット・ディエン」(特別な宮殿)です。

夏の離宮は「バオダイ宮殿」とも「パレスIII」とも呼ばれ1933年~1938年にかけて5年の歳月を費やして建設されました。設計者はフランス人の建築士とベトナムの建築士フイン・タン・ファットで、公園の小風景、トォンウィエン庭、アイアン森に関連付けられた松森と調和を取った建築と小さなロマンチックな池で、ダラットでの最も美しい建築物の一つと評価されています。

建築面積は2階建てで1000㎡あり、26部屋があるという大豪邸です。

1949年バオダイが「ベトナム国」の国長になってからは、ベトナムの中部山岳地域は皇帝の特別行政区に指定されたため離宮には警護部隊と国長専用の車両団や専属のフランス人パイロットが管理する航空部隊も配備されていました。

<1階>
一階は会議、宴会、外国からの客や政府高官の応接に使われました。

その他にはバオダイ皇帝の執務室、事務所、図書館、エンターテインメントルームと大きなダイニングルームもあります。

特に、執務室は小風景と関連付けられ、内外の空間がドアを通して繋がり、窓がガラスとスチールフレームで作られたので、建築と自然との調和空間を作り出しています。

宮殿で展示されている三枚の虎の皮と象の牙もバオダイ皇帝が自分で狩った貴重なメモリアルです。

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展示室
三枚の虎の皮と象の牙も展示されていっます。

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応接室

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祝典室
シハヌーク殿下(カンボジア)が贈ったアンコールワットの絵画が飾られています。

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各廊下が交差するのが宮殿の特徴の一つ。

<2階>
二階は家族全員の生活と休憩のスペースで寝室や居間があります。
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ナムフン皇后の部屋

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皇太子バオロンの寝室
バオロンの部屋は後継者して帝位に就く予定があるので、黄色が基調にされています。

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フォンリエン女王とバオタン王子の寝室。

<宮廷外>
宮殿の外では入り口の右側と宮殿の奥にフランスの宮殿の庭園様式の花園があり、幾何モデルでレイアウトされています。
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この花園には全部木の枝がきれいに刈り取られて、貴重なバラの花群が二つの軸を対称に、一年中咲いています。

宮殿の前の大花壇もよく手入れされており、すべては宮殿を歩き回る小さな通路を構成して、その小道が常にささやく松葉の中に隠されています。


2.ニャチャン(パレスⅡ)

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ヴィラ正面玄関

ニャチャンのバオダイヴィラはは市中心部から約6Km、海洋公園近くにあります。

1923年
フランス人が東南アジアの海洋研究学院設立の為、ニャチャンのチュート山の山頂に別荘を建設して住み始めます。別荘は5つ建てられ、それぞれスオンロン、ボンス、ボンジャイ、フォンヴィ、バンと名付けられました。

1925年
海洋学院の建設が完了しました。

1940年~1945年
バオダイ皇帝とナムフン皇后がスオンロン別荘によく泊まって、ニャチャンの海釣りを楽しんでいました。そしてスオンロン別荘をバオダイ別荘と名付けます。



1956年
1955年末、バオダイがフランスへ追放されると、ゴ・ジン・ジェム大統領一家がこれらの別荘の主人となり、チャン・レ・スアン(ゴ・ジン・ジェムの弟の妻)のよってスオンロン別荘はギンフォン(風迎)、ボンス別荘はヴォングエット(月望)と名付けられました。

1975年
サイゴン陥落後、ヴィラはBao Dai Villa Hotelとして活用されています。

ヴィラは、緑豊かな120000平方メートル敷地を持ち、岬の上に建っていて3方が海に面しています。沿岸の島々を南シナ海に見落とし、一年中そよ風を受けることができます。

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ホテル概観

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ヴィラから見るニャチャン海岸

3.バンメトート(パレスⅠ)

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バオダイが宿泊したヴィラ

1926年
ダックラック地方の司法大臣を勤めていたフランス人ポールギラン(Paul Giran)がこの地域におけるフランス植民地当局の本部とするため、この高原で入手可能な材料(レンガと木材)で建築しましたが、基礎工事の材料はフランスから輸入したセメントが使われました。

敷地面積は6ヘクタール、建築総面積は2300m2もあります。周囲は樹齢の古い木々で囲まれている美しい高原地帯です。
この地域はエディ族( người Êđê)の居留地で建物もエディ族の伝統的家屋様式を取り入れています。

1949年
第2時世界大戦後、フランスがベトナムを再侵略し、1949年傀儡政権である「ベトナム国」を建国してバオダイが国長となると、この地域は再び皇帝を名乗ったバオダイの直轄統治区となり、建物は改装され、宿泊施設も追加されてバオダイ皇帝のダラック地方視察の玄関口となります。

それ以来、地元の人々はこの建物一体のヴィラを「バオダイ特別宮殿」(Biệt Điện Bảo Đại)と呼ぶようになりました。

1949年~1954年
毎年雨季になるとバオダイはこのヴィラで休養と狩猟を楽しんでいました。

1955年~1975年
バオダイが失脚し、フランスに亡命した後は、ベトナム戦争の激戦地となります。

1977年以降
ヴィラはホテルやダックラック省の民族博物館として使用されています。

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ヴィラホテル

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民族博物館の入口

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ガーデン

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周囲

バオダイの正妻・愛人・子供 その7
バオダイの正妻・愛人・子供 その7


8. 泰芳皇后 (Hoàng hậu Thai Phương)

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本名     Monique Marie Eugene Baudot
(モニーク・マリー・ユージン・ボドー)
国籍 フランス人

1946年4月30日  
フランスのロレーヌ(Lorraine)生まれ.。

1969年  
パリで在フランス現コンゴ大使館の新聞部に勤務してい
た時にバオダイと出会う。


1971年  
パリで同棲生活始まる

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1982年 
パリでImperial Princessとして婚姻。バオダイ69歳、
Baudot36歳

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1983年1月18日  
パリ16区で結婚式

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1997年
7月31日、バオダイが死去し、8月6日、葬儀がおこなわ
れます。
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BBCのインタビューでMonique Baudotは答えています。
「今日、私は非常に悲しいです。
なぜならば、何よりもまず私の夫が死亡したのです。
そして今日はベトナムのグエン王朝の歴史が終了した日
でもあるのです。
私は夫のために祈ります。」

バオダイの死後は泰芳皇后(Hoàng hậu Thai Phương)
と呼ばれています。

バオダイの正妻・愛人・子供 その6
バオダイの正妻・愛人・子供 その6

6.Vicky
フランス人ダンサーの愛人

1955年
バオダイはインチキな国民投票によって「ベトナム国」
の国長を追われ、フランスに亡命します。
気落ちしたバオダイはVickyというフランス人ダンサーと
恋に陥りAlsace地方に移住していきます。
子供はすぐにできましたが、結婚生活は数年しか続かず、
財産と家を放棄してAlsace地方を離れ、パリに戻ります
がバオダイの財産は極端に減少しました。

<庶子>
阮福芳慈(Nguyễn Phúc Phương Từ) 1955年生ま
れ。フランス在住

7.Clément  

Vickyとの破局後、パリに戻ったバオダイはフランス人
ダンサーClémentを愛人とします。

バオダイの正妻・愛人・子供 その5
バオダイの正妻・愛人・子供 その5

5. Hoàng Tiểu Lan(黄小蘭 , Jenny Woong)

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生没年 ?~
中国人ダンサー

1946年 
香港に亡命していたバオダイは愛人Lý Lệ Hàと別れ、中国人ダンサー
のHoàng Tiểu Lanと出会い愛人にします。
Tiểu Lanは 後にダラットに連れて行かれ大邸宅を与えられています。

1982年
バオダイ夫妻をアメリカのベトナム人コミュニティーに招待しています。

<庶子>
Nguyễn Phúc Phương Ân  1955年生まれ

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ハワイ在住

バオダイの正妻・愛人・子供 その4
バオダイの正妻・愛人・子供 その4

Lý Lệ Hà(李麗霞)
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生没年  不明
タイビン省ハイフォンの貧しい農村で生れたと言われてい
ます。

1932年
魅惑的な美貌を作り出す香料パウダーの卸売りを始め
て生計を維持します。

1934年か1935年
ハイフォン港近くのQuán Bà Mau地域にできた劇場に
住み込みで働きます。

1936年から1938
ハノイのKham Thien 通りには6件のダンスホールがあ
り、Lý Lệ Hàはダンシングガールとして働き、ダンサーと
しての名声を得ていきます。

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1938年か1939年
ベトナムで最初の美人コンテストがハノイのHà Đông開
かれました。シルクドレスを着用することが条件でした。
Lý Lệ Hàは年齢をごまかして出場し優勝してしまいまし
た。

Lý Lệ Hàは多くの男性から求婚されたり、贈り物が届く
ようになります。

1946年
バオダイは退位後、ベトナム民主共和国の最高顧問と
してハノイで職務をしていましたが、愛人のモンディエップ
が妊娠していることもあり、Lý Lệ Hàの天使のような美し
さと真珠のような歯はバオダイもまた虜にしていきます。
人生経験豊かなLý Lệ Hàは積極的にバオダイにアタッ
クし、バオダイはしばしばLý Lệ Hàの言いなりになってい
きます。
その後しばしば2人で出かけるようになりLý Lệ Hàは
バオダイの愛人になります。

バオダイとLý Lệ Hàの愛はナムフォン皇后と愛人の
モンディエップに大きな動揺を与えました。

その後、バオダイは中国に亡命し、香港で暮らすことに
なりますが、香港在住の当初はLý Lệ Hàと共に亡命
生活を送っています。

しかしバオダイとLý Lệ Hàの恋はすぐに破局を迎えま
す。
ハンサムで知的、そして何よりも多情なバオダイは次の
新しいロマンスを探し始めたのです。

破局後のLy Le Haは香港で働いていましたが、その後
フランスに渡りフランス人と結婚して、パリ郊外の軍事地
区の村で生活しているそうです。

バオダイの正妻・愛人・子供 その3
バオダイの正妻・愛人・子供 その3

3.Bùi Mộng Điệp(裴夢蝶)

生没年 1924年~2011年6月26日
モンディエップは凋落していくグエン家に対して、バオダイ
の愛人として古来のグエン王朝のしきたりを守り通しまし
た。

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1924年 
バクニン省の貧しい家庭に生まれました。

1940年
16歳の時、Phạm Văn Phánという医師を愛して、子供
ができましたが、その後別れてハノイでダンサーをしていま
した。

1945年 

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「ベトナムニュース」の表紙を飾ったモンディエップ

バオダイ皇帝が退位後、ハノイでベトナム民主共和国の
最高顧問をしていた時に出会い、北部ベトナムでの愛人
となります。
バオダイはモンディエップの美しさのあまりナムフン皇后と
約束した「一夫一婦制」をすぐに忘れてしまいました。

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ハノイでの2人

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ハノイ時代, バオダイとモンディエップが住んだ住居
(Tràn Hưng Đạo 51番地)

1946年
ホーチミンとは次第に意見が合わなくなったバオダイは
中国に亡命し、香港に移り住みます。モンディエップは
ハノイで長女Nguyễn Phúc Phương Thảoを生みます。

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その後モンディエップは北ベトナムのスパイだとしてフラン
ス官憲に逮捕されますが、バオダイが香港からフランス
政庁に手紙を送り抗議し、釈放されます。

1949年
バオダイが「ベトナム国」の国長(元首)として復権し、
ダラットやバンメトートのある中央高原は皇帝の管理する
直轄地とされます。
バオダイはダラットの離宮に戻ると、ハノイからモンディエ
ップを呼びます。

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1949年旧正月のモンディエップ

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当初バオダイ帝が買い与えたモンディエップのヴィラ
(Hùng Vương 14, ダラット)

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現在は改築されています

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ダラットでのモンディエップ

1950年
バンメトートには皇帝特別行政区(Hoàng Triều Cương
Thổ)が置かれ、50Km郊外にはバオダイの狩猟のた
めの施設と休憩場が用意されます。この施設が現在の
「バオダイヴィラホテル バンメトート」です。

モンディップはダラットやバンメトートでのバオダイ国長の
生活を助けます。
フエ宮廷から皇族のTôn Thất Hốiを連絡係として呼び
寄せ、バオダイが何処にでも行けるようにバンメトートから
ハノイ、フエ、ダラット、ニャチャン、ハノイへの航空路を整
備させました。

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バンメトートでの狩猟
(中央)バオダイ (右)ブイ・モン・ディエップ

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バオダイが仕留めた寅

モンディエップは学問はそれほどではありませんでしたが、
仏教徒でバオダイの母の言うことも良く聞き、とても信用
されていました。
グエン王朝の繁栄を祈る儀式は儒教に則っとって行わ
れていたので、カトリック信者のナムフン皇后ではかなわ
ず、バオダイの母Từ Cungはモンディエップに依頼したほ
どでした。

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バオダイの母Từ Cungが モンディエップにプレセントした
宮廷服 

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バオダイの母との外出

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バオダイの母との外出(バンメトート)

結婚式は挙げていませんが、モンディップは第2婦人とし
ての待遇をされます。

1953年 
共産主義勢力が台頭してきて政情不安が増してきたた
め、バオダイはグエン王朝の王剣と金の玉璽をはじめと
する財宝をフランス、カンヌ郊外のソレンツ城に住んでい
るナムフンに運ぶように依頼します。

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フランスへ出発するモンディエップ

その後もモンディエップはしばしばフランスとベトナムを往
復し、600点以上のグエン王朝の財宝をフランスに運び
込み、その後、子供を連れてフランスに居住するようにな
ります。
最初はナムフン皇后が住んでいるカンヌ郊外のソレンツ
城近くに部屋を借りていましたが、その後パリに移りま
す。

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フランスでの2人(モンディエップは右端)

モン・ディエップにはフランス政府から補助金が支給され
ましたが、彼女はそれに満足することなく、看護学校に
就職して猛烈に働きました。

1954年、1957年
フランスでバオダイとの間に男の子、Bảo HoàngとBảo
Sơnを出産します。
モンディエップはパリで不動産事業を始めます。それは古
い家屋を買って、一流のデザイナーに改築させ付加価
値をつけて再販する商売で事業は順調に拡大し、数年
後にはモンディエップは富裕層の一人となります。子供
の教育のために彼女は必死に働いたのです。

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60 The1ophile Gautier, 16地区、パリ

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当時のモンディエップ

1971年
バオダイが30歳年下のMonique Baudotと同棲し始め
ます。

1987年
息子のBảo Sơnが30歳で事故死してしまいます。
この時期以来、モンディップはパリのアパート(パリ12地
区Rueilly通り24番街)に引きこもるようになります。

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晩年はパリ12区のアパートで一人暮らしをしていました。

1996年
フエ市を訪問

1997年
バオダイが死去します。

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祭壇にはバオダイ、バオダイの母、2人の息子が祭られ
ています。

2008年
ハノイを訪れます。

2011年6月 
転倒して首に痛みがあるので入院していましたが、医師
は心臓疾患を発見し、手術を試みましたが失敗し、26
日午前12時、フランスSaint Antoine 病院で逝世(87
歳)します。
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2011年7月1日
本人はフエでバオダイの母親の墓の傍に埋葬されること
を希望していましたが、現在墓地はパリのThiais 墓地
で2人の息子の傍に埋葬されています。

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2011年7月2日 
フエ市でも追悼式が行われました。 

<新聞記事引用>
[グエン朝最後の皇帝バオダイ帝の第2夫人だったブイ・
モン・ディエップ元王妃 (87歳)が2011年6月26日、
パリの病院で死去した。

ディエップ元王妃の追悼式は7月1日にフエ市 キエンタ
イブオン府及びパリ市のチュックラム(竹林)寺院で行わ
れました。

ディエップ元王妃とバオダイ帝との出会いは1945年、
バオダイ帝がベトナム民主共和国政府の顧問を務めて
いた時代にハノイ市で出会った。

ディエップ元王妃は1953年に、バオダイ帝は1955年
にフランスに移り住んだ。 その後バオダイ帝は1997年
にパリで死去し、一度も帰国することはなかった。

ディエップ元王妃は1996年に帰国した際、グエン朝の
都が置かれたフエ市を訪れている。元王妃は当時、自ら
が保有していたグエン朝に関する全ての資料を寄付する
意向を表明したが、その願いは今のところ叶えられてい
ない。 ]

ディエップ妃は皇后の名称はありませんが、実質的には
第2夫人とされています。


<庶子>
阮福芳桃(Nguyễn Phúc Phương Thảo) 1946年
       フランス在住ですが最近の足取りは不明
です。
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1952年、バンメトートでの写真

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左からBảo Sơn、Phương Thảo、バオダイ

阮福保隍(Nguyễn Phúc Bảo Hoàng) 
1954年~1955年

阮福保山(Nguyễn Phúc Bảo Sơn) 
1957年~1987年
       フランスの技術系大学を卒業し、後、工学博
士となりますが、不幸にも30歳で自身が運転する飛行
機でイギリスの南海岸を飛行中事故死。モンディエップ
の自慢の息子でした。span>
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バオダイの正妻・愛人・子供 その2
バオダイの正妻・愛人・子供 その2

2.Lê Thị Phi Ánh(暎妃胡氏)

11 phi-anh

1922年  
フエで生誕。名声も地位もお金もある良家で誕生し、
バオダイ帝の従姉妹、母親の姪にあたります。

1935年  
フエで愛人になる。
子供を生むまではダラットのクワンチュン(Quang Trung)
通りにあるヴィラに住んでいました。

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中央はバオダイの母Hoàng Thị Cúc

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1953年
バオダイ国長はフランスへ行っていましたが、子供を連れ
てサイゴンPhùng Khắc Khoan通りのヴィラに移住しま
す。

1957年
ゴジンジェムが「ベトナム国」を廃止し、「ベトナム共和国」
を建国し大統領になると、1957年に一家は24時間以
内に家を退去するように命令され、サイゴン、ダラットなど
の多くのヴィラを没収されました。

その後、死去するまでグエン王朝の皇族だったために、
迫害され転々と住居を変え、苦しい生活を送ったようで
す。

1984年  
サイゴンで死去(62歳)

<庶子>
Nguyễn Phúc Phương Minh(阮福芳明) 
生没年  1950年~2012年
結婚しフランスに渡ったが、その後離婚し、1975年以
前にサイゴンに戻り、母を訪ねた。その後アメリカでビジ
ネスをしている途中で死去。

Nguyễn Phúc Bảo Ân(阮福保恩)
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生没年  1951年~     ダラットで生れる。
サイゴンのセンポール学校、Taberd学校を卒業。
米国 カリフォルニア州オレンジ郡ウェストミンスター
在住。

現在生存するバオダイ帝の最年少で、2児の父親。
ナムフン皇后が生んだ長男、次男は双方とも子供がい
ないので、グエン家の次期当主になるものと思われます。

1975年
Phương MinhとBảo Ânの子供達は213 Công Lý
Quận 1の家から追放されます。この屋敷には南ベトナ
ム国家警察のNguyễn Ngọc Loanも住んでいたためで
した。現在の南ベトナム婦人博物館です。

1976年、1977年
長男Nguyễn Phước Thụy Sĩ、次男Nguyễn Phước
Quý Khangが生れます。
バオアンはフリーマーケットで商品の転売をして生計を立
てます。
その後、醤油の販売や音楽CD販売を手がけます。
 
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1978年
Lê Phi Ánh親子は身内であったPhan Văn Giáoの
妻Phi Hoaの家に住みます。
親子は3回、国外脱出を試みましたが失敗しました。

1992年
1984年、母親の死後、バオアン一家は米国カリフォル
ニア州オレンジ郡ウェストミンスターに亡命します。

1997年7月31日
バオダイがパリで死去した時、バオアンは米国の市民権
がなかったため、フランスに渡航することが出来ず、葬儀
には出席できませんでした。


2004年 
パリでバオダイの愛人Mộng Ðiệpを訪問しています。
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2005年
バオアンはバオダイの墓を訪ねます。墓はとても質素で
死去後8年間、誰も訪れる人がいなかった様でした。
バオアンは墓の前で涙し、新しい墓を立てようと決心しま
す。

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当初のバオダイの墓

2008年
バオアンは墓を立てるために寄付を募り、50%を寄付し
てくれる企業が現れてくれたため、父親の新しい墓を建
設します。建設総額は25000ユーロでした。

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現在のバオダイの墓です。左は次男 Quý Khang

2012年
双子の孫、Nguyễn Phước Ðịnh LaiとNguyễn Phước
Ðịnh Lai が生れる。
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ナムフン皇后との子供 
ナムフン皇后との子供達

1.バオ・ロン

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Nguyễn Phúc Bảo Long(グエン・フク・バオ・ロン 阮福保隆)
生没年 1936年1月4日~2007年7月28日

グエン朝最後の皇帝バオダイ(保大帝)の長男で、
旧帝室となったグエン氏の当主であった。

1936年1月4日
バオ・ロンは、グエン朝のバオダイ皇帝とナムフン皇后を
両親として、フエの建中殿で生まれました。

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バオロンと侍従

1937年

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1月4日

1939年3月7日
フエの勤政殿にて、儒教の儀礼に則って皇太子としての
地位を附与・宣言されます。

1947年
ナムフン皇后とバオ・ロン皇太子及びその兄弟はベトナ
ムを離れ、フランスのカンヌ郊外にあるソレンツ城へ移住
します。
そこで彼は敬虔なカトリック教徒として成長し、ノルマン
ディーのエコール・デ・ロッシュ(L'École des Roches)の
Maslacq, Clères校で教育を受け、その後国事の遂行能
力を身に付けるため、パリに赴いて法学と政治学の研
究に従事しました。


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エコール・デ・ロッシュ

1953年
バオ・ロン皇太子はベトナム皇族の代表として、イギリス
王室のエリザベス2世の戴冠式に招待されます。

1954年
ソーミュール騎兵学校の中にあるサンシール軍事専門
学校に入学し、中尉のランクを得ます。

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サンシール軍事専門学校

1955年
父親のバオ・ダイがベトナム国元首の地位を追われ、
フランスに亡命します。

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バオ・ロンは、アルジェリア戦争(1954年から1962年)
時にフランス外人部隊で職務を務め、戦闘における勇
気を示す三つ星と、戦功十字章(Croix de Guerre)を
授与されたことにより、関係者間で著名になりました。

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彼は他にも、
●国家功労大十字章(Grand Cross of the National
Order of Merit)
●二等勲章金章(decoration of the Golden Gong 2nd
Class)
●カンボジア王室大十字章(Grand Cross of the Royal
Order of Cambodia)
●Order of the Million Elephants and White Parasol
of Laos
●イギリス女王エリザベス2世の戴冠式出席記念メダル
を授与されている。

彼はフランス外人部隊で10年間職務を務め、除隊後
はフランスに戻り銀行で働きました。

1960年代後半~1970年代初頭
パリの彼のアパートでインテリアデザイナーとして働いてい
たIsabelle Hebeyと親しい間柄でHebeyの離婚後、
1969年6月に結婚する予定でしたが、実際には結婚
式は行われませんでした。

1997年7月31日
バオ・ダイの死去に伴い、バオ・ロンは旧帝室である
グエン氏当主としての地位を受け継ぎます。

20

ベトナム大阮君主立憲連盟
(Vietnamese Constitutional Monarchist League
 VCML)などの政治団体は、カンボジアやタイのような立
憲君主制によってベトナムにおけるグエン氏の権威を復
活させようと活動していましたが、バオ・ロン自身は政治
の世界に身を置くことなく、そうした活動から一線を画し
パリで静かに余生を送りました。

彼は、大南龍星院勲章授与の長としてズクドゥック帝の
公子バオ・バン(Bảo Vang)と共に、ベトナム人に対し人
道、教育、文化的な面での活動を行ないました。

2007年7月28日
フランスブルゴーニュ地方セン市のガストンラモン中央病
院(Le Centre Hospitalier Gaston Ramon, Sens,
Burgundy)で静かに息を引き取ります。
葬儀は8月2日に行われました。

未婚であったため、死後は実弟であるバオ・タンがグエン
氏の次代当主の座に就くこととなりました。

Thérèse Marie Delanneが事実上の妻と言われて
います。


2.バオ・タン

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1997年の写真(54歳)

Nguyễn Phúc Bảo Thắng (グエン・フク・バオ・タン 阮福保陞) 
生没年 1943年9月30日~

バオ・ダイ帝の次男であり、2007年7月28日、長男
バオ・ロンの死去に伴い、旧皇族となったグエン氏の
当主を引き継ぎます。

バオタンはダラットで生まれ、1947年に、ナムフン皇后と
子供達はフランスのカンヌ郊外にあるソレンツ城へ移住
します。

フランス・パリのヌイイ・シュル・セーヌ
(Neuilly-sur-Seine)にあるschools of Convent
des Oiseaux、及びダラットのCollege d'Adranに通い
ます。

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schools of Convent des Oiseaux

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College d'Adran

現在はフランスに住んでいます。


3.フンマイ

Nguyễn Phúc Phương Mai
1937年8月1日  
生誕 ダラット

1947年 
フランス、カンヌ郊外のカンヌ郊外にあるソレンツ城へ
移住

1949年~1953年
フランスで教育を受けた後、ダラットのConvent des
Oiseauxで教育を受けます。

1971年8月5日
イタリア人Pietro Badoglio(1939年–1992年)、 2nd Duke of Addis Abeba
and Marquess of Sabotinoと結婚

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2人の子供をもうけます。
1. Flavio Badoglio
2. Manuela


4.フン・リン

Nguyễn Phúc Phương Liên

1938年11月3日
誕生

1962年
ボルドー地方のフランス人銀行家Bernard Soulainと
結婚。
結婚式はナムフンの住む Chabrignac村で行われました。
この結婚式がフランスに移住したナムフン皇后の最大の
楽しい出来事であったと言われています。

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5.フン・ユン

Nguyễn Phúc Phương Dung

1943年生れ







バオダイの正妻・愛人・子供
バオダイの正妻・愛人・子供

バオダイ帝には8人の妻と13人の子供がいたといわれています。わかる範囲で
まとめると下記のようになります。

1. Nguyễn Hữu Thị Lan    誕生1914,  出会1932,  結婚1934,  死去1963
南芳皇后 (正妻), フランス人
子供
Nguyễn Phúc Bảo Long      誕生1936,  死去2007
Nguyễn Phúc Phương Mai     誕生1937
Nguyễn Phúc Phương Liên    誕生1938
Nguyễn Phúc Phương Dung    誕生1942
Nguyễn Phúc Bảo Thắng     誕生1943


2. Lê Thị Phi Ánh    誕生1922, 出会1935, 死去1984
(愛人) ベトナム人
子供
Nguyễn Phúc Phương Minh   誕生1950,  死去2012
Nguyễn Phúc Bảo Ân   誕生1951


3. Bùi Mộng Điệp    誕生1924,  出会1945,  死去2011
(愛人) ベトナム人
子供
Nguyễn Phúc Phương Thảo     誕生1946
Nguyễn Phúc Bảo Hoàng     誕生1954,  死去1955
Nguyễn Phúc Bảo Sơn     誕生1957,  死去 1987


4. Lý Lệ Hà     誕生?,  出会1945
(愛人) ベトナム人
子供なし


5. Hoàng Tiểu Lan     誕生?,  出会1946
(愛人) 中国人
子供
Nguyễn Phúc Phương Ân      誕生1955


6. Vicky     誕生?,  出会?
(愛人) フランス人
子供
Nguyễn Phúc Phương Từ     誕生 1955


7. Clément         誕生?,  出会?
(愛人) フランス人
子供なし

8. Monique Baudot     誕生1946,  出会1971,  結婚1982
泰芳皇后(正妻)  フランス人
子供なし




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