べトナム ホーチミン 情報 日常生活
ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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ナムフーン皇后  更新
ナムフーン皇后
 
11_201408291325317be.jpg
南芳皇后(Nam Phương Hoàng Hậu)
本名   Marie Thérèse Nguyễn Hữu Thị Lan 
フランス国籍
      最初の2単語はカトリック名です
生誕 1914年12月4日 
没年 1963年9月15日 
父親  Pierre Nguyễn Hữu Hào
母親  Marie Lê Thị Binh
母方の祖父  Huyện Sỹ Lê Phát Đạt
祖父の孫も南部ベトナムの高級官僚で20世紀初めの
ベトナムの4大資産家の一人です。
1914年12月4日(旧暦10月17日水曜日)
ティラン(後のナムフーン皇后)は当時フランスの植
民地であったメコンデルタのロンアン省ゴーコン(Gò
Công)という町で代々裕福で敬虔なカトリック家族
の家に生まれました。

ティランの父親Pierre Nguyễn Hữu Hàoは元来は
ゴーコンの貧乏なカトリック教徒でしたが、フランス人
大富豪Lê Phát Đạtの娘、Marie Lê Thị Binhと
結婚していたため父親は地域一帯の大地主となり、
ダラットのラムドン地域でもコーヒーと紅茶の多くのプ
ランテーションを保有し、広大な敷地の別荘を持って
いました。

12
祖父Huyện Sỹ Lê Phát Đạt
祖父の寄付で建設されたHuyện Sỹ教会がサイゴンの
レライ通りに残っおり、敷地内には祖父、祖母が眠って
います。

1928年
彼女は14歳の時から叔父のLê Phát Anに連れられフラ
ンスの親族の下に送られ、フランスのパリ郊外
Neuilly-sur-Seineにある修道女が運営する貴族のカト
リック学校クーボン•デ•ワゾー(Couvent des Oiseaux)
で教育を受けることになります。

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叔父のLê Phát An

14 (400x250)
クーボン•デ•ワゾーの正門

15
クーボン•デ•ワゾー

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現在のクーボン•デ•ワゾー全景

1930年
16歳、17歳、18歳の3回、学園祭でティラン
はミス フルムーンに選ばれました。バオダイ帝も16歳の
時の学園祭を見学にいっているのですが、その時は
ティランに気付きませんでした。

1932年
バカロレアに合格し、留学を終えたティランはフランスの
船会社マリタイム社のD'Artagnan号で帰国の途に着き
ます。

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D'Artagnan号

偶然にもこの船にバオダイ帝も乗っていました。ティラン
がバオダイ帝に初めて出会ったのは船のダイニングルー
ムでした。
18
ダイニングルーム

船の中でダンスパーティーが開かれます。ティランに付き
添っていた叔父のLê Phát Anはバオダイ帝を知ってい
ました。ティランはバオダイ帝に近づいていって学校で習
ったように礼儀正しく会談をしました。
バオダイ帝はティランの身上と美しさにいたく感動し、
この日以降ティランと話ができる機会を見つけていまし
た。

実はこの出会いはバオダイ帝の養父であったCharles
夫妻とティランに付き添っていた叔父のLê Phát Anが
密かに手配したとの記事もあります。

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D'Artagnan号はブンタウ岬(当時はCap St Jacques
 キャップサンジャックと呼ばれていました)でドックに入る
ので2人は再会を約して別れます。バオダイは戦艦デュ
モンデュルヴィル(Dumont D'Urville)に乗り換えダナン
(トゥーラン)へ向かいます。

1933年
ティランとバオダイ帝が再会します。
この年の夏、インドシナ総督パスキエは部下のDarles
に命じてバオダイ帝の為にグエン朝の夏の離宮ダラット
宮殿で南部の有名人を招待して夜会を開催しました。
Lê Phát Anに連れられてティランが少し遅れて会場に現
れると、バオダイはすぐにティランと話し始めます。

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その後バオダイ帝とティランはダラットで共に夏の休暇を
過ごします。しかし結婚するにはティランがフランス国籍で
カトリック信者であったことから、いろいろと困難な条件を
乗り越えなければなりませんでした。

フエ宮廷内ではバオダイの母を筆頭にこの結婚に反対
するカイディン帝の未亡人達が多くいました。

さらにティランの家族からも結婚の条件として4項目を申し
入れられます。その要旨は
1.ティランにはHoàng hậu(皇后)の名称を与え、先帝
の未亡人達の叙階よりも上位とすること。
2.結婚式には特別に2名のカトリック司教の同席を認
めること。
3.結婚後もティランはカトリック信者であり、女の子供が
生れた場合には教会に差し出すこと。
4.バオダイ帝は仏教徒を維持すること。
と言うものでした。

1934年
3月9日
バオダイ帝とティランの婚約がプレスリリースされ、婚約
の式はダラットにあるグエン王朝の夏の離宮で行われま
した。

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祝福を受けるティラン

3月16~20日
結婚式はフエの宮殿でインドシナ総督や高級官僚の出
席の下、フエの宮廷内の勤正殿でグエン王朝伝統の儀
式に則っとって行われました。

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式典が行われる勤正殿に向かうティラン

23
式典が行われる勤正殿に向かうバオダイ


24
結婚時の衣装

結婚式には宮廷女性が黄色の絨毯に沿って並び、皇
帝には赤の絨毯が用意されました。皇帝を出迎えるのに
女性が並び、皇帝用に赤の絨毯が使われるのは古来
のグエン王朝の慣習には無いことでした。ティランもバオ
ダイもフランスで教育を受けた人ですので気にすることは
無かったそうです。

ティランはフランス国籍のカトリック教徒でした。しかし結
婚による改宗を拒みましたので国民やニュース機関
(ニューヨークタイムズ)などで物議をかもし出し、一部の
人はフランスが仕組んだ政略結婚ではないかと疑う人も
少なからずいました。

しかしティランは異教徒と結婚することに付き、事前に
ローマ法王に相談しています。ローマ法王は彼女に女の
子が生まれた時には、その子を教会に与え、カトリック信
者とすることを条件に改宗せずに結婚を認めました。

結婚式は4日間に渡り盛大に行われ、タイム誌は1934
年4月2日号でグエン王朝の盛大な結婚式を詳細を伝
えています。

3月21日

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3月21日の写真

3月24日
ティランはナムフンという称号を与えられ、皇后「Majesty
の紋章を授けられます。ナムは南、フンは香りを意味しま
す。
そして皇帝にだけ許されていた黄色のドレスを着ることが
特別に許されました。
「Majesty」の上には最高位の「Imperial Majesty」があ
り、皇帝と同じ権限を持つようになります。ナムフンは
1945年に「Imperial Majesty」に昇格します。

結婚して皇后の位「Majesty=Hoàng Hậu(ベトナム語)」
が与えられたのは、グエン王朝始まって以来の事でした。
ナムフン以前は皇帝の妻になっても「Vương Phi(ベトナ
ム語)」と言う叙階で「Hoàng Hậu」より1ランク下の叙階
でした。日本語に訳すときはどちらも「皇后」と翻訳され
ていることが多いようです。

結婚後、2人は紫禁城内の建中楼に住みます。

26
宮廷博物館に出かけるバオダイ夫婦

バオダイは大変ナムフンを愛していました。よく車を自分
で運転して国内の景観地や遠くプノンペンまでにもナムフン
を連れて行きました。

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宮廷内をシクロで移動するナムフン

1936年1月4日
この日の夜、7時間に渡り、フエ宮城の大砲が鳴り響き
ました。長男バオロンの誕生です。(9時間の時は公主
(女子)の誕生)

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長男バオロン

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長男バオロン誕生記念写真

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長男バオロンと長女フンマイ

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長男バオロンの記念写真

1939年
バオダイ夫婦は3人の子供を連れて、フランスを中心にヨ
ーロッパの国々を公式訪問し、その際、カトリック教徒と
して異教徒との結婚を認めてくれたローマ法王も訪問し
ています。

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1月1日
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ローマ法王にお礼の訪問

35
同上

当時バチカンで法王に拝謁する時は黒を基調とした服
装が一般的だったので、ナムフンが皇帝だけに認められ
ていた黄色のローブ着て拝謁した姿は、当時の新聞を
賑わせました。

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同上 7月21日

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7月22日 ローマを訪問

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母校のクーボン•デ•ワゾーを訪れるナムフン

結婚後ナムフンは子供を5人育てましたが、多くはフラン
スの学校で教育させています。

1.皇太子 Bao Long
1936年1月4日生~2007年7月28日
2.Princess Phương Mai 1937年 8月1日生
3.Princess Phương Liên 1938年11月3日生
4.Princess Phương Dung 1942年 2月5日生
5.皇子Prince Bao Thang 1943年12月9日生

1939年~1941年
ナムフンは外国からの使節団、蒋介石元帥、カンボジア
のシアヌーク国王、ラオスのヴァンヴォン国王などをバオ
ダイ皇帝と共に迎え、皇帝を助けます。このような行為
は過去のグエン王朝には無いことでした。

彼女はまた、グエン王朝とカトリック教徒間の平和共存
にも努力しています。

1942年
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宮廷内寺院のお祭りを見学するバオダイとナムフン

1945年

40
1945年のナムフン

6月18日
バオダイ帝が「ベトナム帝国」の皇帝を名乗ったのに伴い、
ナムフンも「Majesty」から「Imperial Majesty」に昇格し、
皇帝と同じ権限を与えられます。

41
1945年、「ベトナム帝国」から発行予定だった切手。
日本の敗戦により未発行。

8月30日
ベトナム8月革命を受けてバオダイ帝が退位します。

ナムフンはバオダイの側近だった Pham Khac Hoeと何
度も話し合っており、バオダイの退位の決意に影響を与
えています。そして革命政府の提唱した「ゴールデンウィ
ーク」に自分の身に着けていた財宝を寄付しています。
「ゴールデンウィーク」とはまったくの財政難だったホーチ
ミン率いる革命政府が国民に金の拠出を求めたキャン
ペーンを言います。

9月
一家はフエ宮殿を後にし、カイディン帝が建設したフエ宮
殿近くのアンディン離宮に移り住みます。

42
アンディン離宮

バオダイはベトナム民主共和国の最高顧問に迎えられ、
ハノイに向かいます。

第2次世界大戦後、ナムフンはベトナムの復興のた
めの活動を始め、ベトナム復興委員会の南のメ
ンバーとなり、べトナム赤十字社への支援も行っ
ています。


しかし、フランスがベトナムに再侵略してくると、ナムフン
はアジアの友人達に手紙を書いています。
「1945年3月以来、ベトナムはフランスの支配から逃れ
たが、しかしまた欲のつっぱた少数派のフランス人達が
貧困なベトナムの土地にベトナム人の血を流し続けよう
としている。フランス軍の行動は明らかに連合国の政策
に反している。だから私は真剣に戦争を終わらせる行動
を要求する。戦争は私の国を壊滅的な状態にしてしま
う。」

1946年
バオダイは中国に亡命しますが、その後すぐに香港に移
り住みます。

1947年
時が経つにつれ、ベトナム共産党が台頭しグエン家が衰
退していく状況や国内の政情不安からナムフンと子供
達は祖父が買っていたフランス、カンヌ郊外のソレンツ城
(Thorenc)に引っ越していきます。

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Eugène Larouche司祭、ナムフンと子供達

1949年6月14日
バオダイが「ベトナム国」(フランスの傀儡政権)の国長と
して復活します。

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1949年のナムフン

1950年
45
ヨーロッパスタイルのナムフン

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フランスのソレンツ城(Thorenc)で暮らす子供達


1952年

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1952年発行されたナムフンの切手

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1952年に発行されたバオダイとナムフンの切手

1954年
49
フランス大統領René Coty婦人と談笑するナムフン

1955年
バオダイが国長として支配していたベトナム国は、国民
選挙により廃止され、ベトナムは共和国となり、バオダイ
はフランスに正式に亡命します。
バオダイは落胆し、ナムフンとも別居するようになります。
離婚したとの記述もあります。

1957年
ベトナム共和国(南ベトナム)政府はベトナム国内のバオ
ダイ家族の個人財産の没収を宣言、接収しましたが、ナ
ムフンによって所有されていた不動産はすべて除外され
ました。除外された不動産にはダラットにあるナムフンの
父の別荘も含まれており、現在ではLam Dong
Museumとして使用されています。

50
ラムドン博物館 敷地は3ヘクタールもあります

1958年から1960年
1958年、ナムフンはCorrèze地方の田園地帯
Chabrignac村の丘の中腹にある農場(ペルケ農場
 Perche)つきの大邸宅を購入します。この農園の土
地は160マウ*もありました。
*1マウは北部ベトナムでは3600平米、南部では470
0平米を表します。

この農園は、城を持っていませんが、一つだけ非常に大
きくて長い大邸宅があり(室数32、浴室7、リビング5)、
庭園はリンゴやブドウ畑などの果樹に囲まれていました。
勿論メイドも執事もいました。

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パリから約400KmにあるChabrignac

52 (400x300)
購入した大邸宅

現在この建物はChabrignac地方の文化的遺産として
保存されています。


以降、ナムフンがベトナムに戻ることは無く、死去するま
での人生の後半をフランスで静かに隠遁暮らしをするこ
とになります。
村の人々はナムフーンは資産家だけど幸せ薄い人と噂
していました。

ナムフンはパリに行き、ハムギ帝の次女Như Lýを訪れ
たり、バオダイと一緒に働いていた数人の官僚達と会っ
たりしていました。

53 (400x252)

ナムフンはパリに2つの大きなアパートを、モロッコやコン
ゴにも土地を所有しています。

1962年
次女のPhương Liênがボルドー地方のフランス人銀行
家Bernard Soulainと結婚。結婚式はナムフンの住む
Chabrignac村で行われました。

1963年
ナムフンはこの年、肺結核を発病し治療を受けましたが、
回復したため、子供達の夏休みにパリに行き過ごしま
す。
9月14日
突然、ナムフンは喉が苦しいと訴えます。

9月15日 
医者が来て診察しますが、喉に異常はありませんでし
た。
医者は処方薬を置いて引き揚げますが、以前彼女が
肺結核にかかって治療したことに気付きませんでした。
数時間後、彼女は呼吸困難となり、メイドは隣村や10
km離れたPompadourの町に電話をして医者の派遣を
要請しました。
しかし、医者が来た時は遅すぎました。ナムフーンは窒息
死で49歳の生涯を閉じてしまいました。

子供達は皆パリで仕事や学校に行っていたので、家に
は2人のメイドと執事しかいませんでした。

葬儀はChabrignac教会で厳粛に行われましたが、あま
りに突然の死に泣き声も無く、弔辞もなく、会葬者は5
人の子供達、元ハムギ帝の次女Như Lý夫妻、フランス
政府からはBrive La Gaillarde知事と Chabrignac
の総務マネージャーが参加した質素なものでした。

子供のPhương Liênがバオダイに電報を打ちましたが
バオダイは側室のモンディエップと遠くに出かけていて連
絡がすぐに取れず、葬儀には出席できませんでした。地
元の人達は、その後もバオダイがナムフンの墓参りに来
たのを見たことが無いといいます。

遺体は翌日フランス、Chabrignac地方の教会墓地に
埋葬されました。(Chabrignac, tỉnh Corrèze, vùng
Limousin  リムーザン地方 コレーズ県Chabrignac)
ナムフンは生前からフランスに抵抗してアルジェリアに流
刑になったハムギ帝の次女Như Lýの一家も
Chabrignac地方に住んでいたため生前から親交があり、
この墓地のオーナーもNhư Lýの夫(伯爵)の土地です。

54 (400x313)
墓地の門

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ナムフンの墓

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「大南南芳皇后之陵」と刻まれています。

2013年
ナムフンの記念切手が現在のベトナム政権「ベトナム
社会主義共和国」から発行されました。

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ナムフン死後50周年記念切手

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バオ・ダイ帝  更新 その1
バオ・ダイ帝

11
第13代皇帝に即位したバオダイ

Bảo Đại(保大帝)   
姓・字  Nguyễn Phúc Vĩnh Thụy(グエン・フック・ヴィン・トゥイ
      阮福永瑞)
姓・諱 Nguyễn Phúc Thiển(グエン・フク・ティエン 阮福晪)
出生   1913年10月22日    ベトナム フエ宮殿内
死去   1997年 7月31日    フランス パリ
父   12代皇帝カイディン帝   
母  Từ Cung Hoàng Thị Cúc(端熙宣皇后胡氏)とされています。

1. グエン朝第13代皇帝(ベトナム最後の皇帝)
在位  1926年1月8日-1945年3月11日
     (フランスの傀儡政権)
2. ベトナム帝国皇帝   
在位  1945年3月11日-1945年8月30日
     (日本の傀儡政権)
3. ベトナム国国長
在位  1949年6月14日-1955年4月30日
     (フランスの傀儡政権)

<主要項目>
1.出生の秘密(本稿)
2.歴史(本稿)
3.ナムフン皇后
4.家族
5.別荘

1.出生の秘密

1.カイディン帝は女性を好まず、宮廷劇場では男性が変装して女性
役を演じていた。
2.カイディン帝には側室が12人いましたが、子供を身ごもった側室は
誰もいませんでした。
3.宮廷の側室はカイディン帝に呼ばれることが無く、嘆きの詩を作っ
ていること。
などから、カイディン帝は性的不能者であったとの噂が絶えません。
 
カイディン帝はこの噂を消し去るために、フランスの理事官ピエール・
マリ・アントワーヌ・パスキエ(Pierre Marie Antoine Pasquier 後に
インドシナ総督になります)にヴィントゥイが皇太子であることを認識す
るように請願書を書き、さらに1年後にはインドシナ総督に報告書を送
っています。

12
パスキエ

カイディン帝いわく、「先に2人の皇帝(タインタイ帝とズイタン帝)が
フランスにより退位させられた家族を支持する宮廷官僚たちの陰謀
である」

フランスはカイディン帝の報告内容を認め、ヴィントゥイを東宮皇太子
と認めます。

1.宮廷官僚たちはヴィントゥイは宮廷内で働いていたThừ Quang
(夫)とThị Útの子供であると噂していました。

2.さらに信憑性ある噂として、ヴィントゥイはカイディン帝の母親の
兄弟であるDương Quang Lượcの子供であり、子供の無かった
カイディン帝が孫が出来たと母親を喜ばせようとして内閣府に自分
の子供として登録したのだと言う。

3.Phạm Khắc Hòeという歴史学者は、ヴィントゥイが9歳でCharles
夫妻の養子になり、10年間フランスで教育し、その後フエ戻ってからも
12年間もバックアップを続け、結婚の世話までしているのはフランスの
傀儡政権の皇帝としてヴィントゥイを育てようとしたのであって、とても
カイディン帝の子供とは思えないと断言しています。


2.歴史

13
カイディン帝の母Dương Thị Thụcとカイディン帝(左)、ヴントゥイ(右)

14
王宮近くのカイディン帝の離宮、アンディン殿 (Cung An Định)での
ヴィントゥイ(椅子に座っている)

1922年(9歳)
4月28日
ヴィントゥイに皇太子の称号が与えられます。

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16

6月15日
ヴィントゥイはカイディン帝のマルセイユ植民博覧会に随行します。

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マルセイユ植民博覧会場に向かうカイディン帝と皇太子ヴィントゥイ

6月末
パスキエの助言により、ヴィントゥイは元インドシナ総督代理を務めてい
たジャン・ウジェーヌ・シャルル(Jean François Eugène Charles)夫妻の
養子となり、そのままパリのシャルル邸に居残り教育を受けます。
シャルル夫妻は後に皇后となるナムフンの家族とは長年の友人でし
た。

1924年2月(11歳)
父親のカイディン帝40歳の大慶祝典の為、一時帰国し、11月に
フランスに戻ります。

1925年(12歳)
11月6日
カイディン帝が崩御したため、即位のためフランスより帰国します。

1926年(13歳)
1月8日
戴冠式が行われます。

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バオダイの警備兵とポーター

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戴冠のため勤政殿から大和殿に向かうバオダイ

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戴冠式

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同上

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同上

23 (400x255)
同上

ヴィントゥイは皇帝に即位し年号を「保大」とし、バオダイ帝(保大帝)
と名乗ります。
改革のための委員会を作りますが、皇帝の司法権もフランスに帰属
することになって、皇帝とは名ばかりの存在にされてしまいます。

3月
バオダイ帝は即位後、パリのLycée Condorcet学校で勉学を続ける
ため再びフランス船“Azay le Rideau”号で渡仏します。
その間、フエ宮廷の仕事はカトリック教徒のNguyễn Hữu Bài や
Tôn Thất Hânが取り仕切ります。

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Azay le Rideau号

25 (400x389) (400x389)
フランスへ戻るバオダイ帝

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Nguyễn Hữu Bài

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Tôn Thất Hân

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Lycée Condorcet学校

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机の上にはカイディン帝のミニチュアの胸像が置かれています。

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バオダイと従兄弟のヴィンカン(Vĩnh Cẩn)

1928年(15歳)
31
1928年のバオダイ帝

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同上

1930年(17歳)
パリ政治学院(École libre des sciences politiques)へ進学します。 

パリ政治学院は現在では大学組織になっていますが、フランスの超
エリート校で現職、前、元フランス大統領はすべてこの学校の卒業生
です。
33
パリ政治学院

34
パリ政治学院の玄関ホール

35
パリ政治学院時代のバオダイ帝(右端)

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同上

1931年(18歳)

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1月1日 フランス

38
インドシナ総督パスキエの案内でパリで開催された植民地フェアの
開会式に出席(右側はパスキエ)

39 (400x255)
皇帝が留守のフエ宮廷。政治実権はすべてフランスの手中にありま
した。

1932年(19歳)
9月6日
パリ政治学院を卒業した後、Charles夫妻と共に ” D artagnan号“
でベトナムに帰国します。パリで10年に渡り教育を受けました。

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エリゼ宮を訪れたバオダイ帝と元インドシナ総督サロー(Albert Pierre Sarraut)

41
帰国の途に着くバオダイと見送りの人

D artagnan号には後に皇后となるティラン(Nguyễn Hữu Thị Lan)
とティラン叔父のLê Phát Anも乗船していました。
船はブンタオでドックに入るため、二人は再会を約して別れます。
このめぐり合わせはCharles夫妻とLê Phát Anが仕組んだとする噂
が絶えません。

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D'Artagnan号

43 (400x254)
帰国途上、モロッコの首都ラバトでエジプト皇帝の側近アブドル
ラーマン( Abd Al Rahman Barjach)と会見するバオダイ帝と
従兄弟のヴィンカン

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帰国途上、エジプトの首都カイロでのバオダイ帝とヴィンカン(白い
帽子)

9月10日
ベトナムの改革に大きな希望を抱いていた若きバオダイ帝は帰国する
とすぐに親政を開始します。

勅令第1号を発して、皇帝に対する三跪九叩の儀礼を廃止し、握手
をする形式に改めたのを皮切りに宮廷内の封建的習慣を廃止してい
きます。

9歳から19歳まで10年に渡りフランス文化の中で教育を受けた
バオダイにとっては何でも無いことでしたが、宮廷の官僚たちにとって
は戸惑いでした。

その後、ハノイ、サイゴン、中央高原をはじめとする各地の視察を
行い、ベトナムの封建的な悪習を改めていきます。

しかし民衆は悪習の除去よりも国の独立を求めていました。

1933年(20歳)

45
1933年。ヨーロッパの服を着るバオダイ帝

フランスからの自立の為、政治機構改革を実施し、日本のように独立
国で富国強兵に努める国づくりを目指します。

4月8日
バオダイ帝はインドシナ総督パスキエの承認の下、Nguyễn Hữu Bài
首相をはじめ、Tôn Thất Đàn、Phạm Liệu、Vương Tứ Đạiの各大臣
を更迭し、新たに当時のベトナムの知識人を閣僚に任命します。

Ngô Đình Diệm 首相
Thái Vǎn Toản     儀典大臣
Hồ Đắc Khải 国務大臣
Bùi Bằng Đoàn 司法大臣
Phạm Quỳnh  教育大臣

この改革は「新安南改革」と新聞紙上を賑わせ、バオダイ帝の王党派
の賛同を得たものの、バオダイ帝自身の強力なリーダーシップが無く、
保守派やフランス政府官僚の抵抗により改革は頓挫してしまい、7月
にはNgô Đình Diệm首相が突然、辞任してしまいます。辞任の原因
には諸説があります。

この時代は1930年のベトナム国民党のイェンバイ蜂起やゲティン
ソビエトによる蜂起がフランスの武力の前にすべて鎮圧され、フエ宮廷
の政治力はまったく無力化していました。

12月
バオダイ帝は保護領となっている北部ベトナムの視察に行きます。

46
12月1日 ハイフォン

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同上

48 (400x229)
12月2日 ハノイ

この年、歴代皇帝の例に倣って治世の年号、保大を冠した銅銭を
発行します。

フランスの植民地であったこの時代、皇帝の地位は名目的なものでし
たが、銅銭を発行する権限は保持していてフランスの公式通貨たる
インドシナ銀行発行のピアストル通貨と2種の通貨が流通しました。
保大通宝(Bảo Đại thông bảo)をフランス人はサペックと呼び、安南
の土民はドン(đồng、銅)またはティンドン(tiền đồng、銭銅)と呼んで
いました。この銅銭は東アジア諸国において2000年以上にわたって
作られ続けた円形方孔通貨の最後のものです。

49
保大通宝十文銭

50
保大通宝小平銭

1934年(21歳)
2月
バオダイ帝は勅諭を発して従来変動していたグエン朝発行の穴あき銭
とピアストル貨との交換率を固定し、1ピアストルにつき、十文銭は1繦
30枚で6繦半(195枚)、六文銭は1繦50枚で6繦半(325枚)と
定めました。

3月20日
フランスから帰国する船上で出会ったカトリック教徒でコーチシナ出身
のMariette Jeanne Nguyen Huu Thi Lan(阮友蘭 当時19歳 
フランス国籍)と結婚し、グエン王朝の建国後初めて皇后名
「ナムフン」と皇后の紋章を与えます。(実際に皇后を名乗るのは
1945年からです。)
それ以前は皇帝の妻であっても、ナイトの称号が最高でした。

ナムフンがフランス国籍のカトリック教徒であったことから、この結婚に
反対する市民がたくさんいて、一時は政略結婚ではないかとの噂も
広がりました。

51 (336x391) (336x391)

ナムフン皇后は当時、「世界で最も美しい皇后5人」のうちの1人と
いわれました。
 
1936年(23歳)

53
1936年1月1日

52 (400x266)
1936年1月1日

54 (400x282)
1936年2月3日
長男バオロンの誕生セレモニー

55 (298x320)
1936年11月20日発行されたバオダイの肖像切手

1938年
バオダイはバンメトートに行った時、狩猟中に足の骨を折る事故に
あいます。
56
駆けつけるナムフン

57

58
飛行機でサイゴンに送られます。(現在のタンソンニャット空港)

1939年(26歳)
3月7日
長男バオロンの東宮皇太子への叙階式が挙行されます。

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大和殿に向かうバオロン

60 (400x300)
大和殿に向かうバオダイ皇帝

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祝賀に参加するフランス高官

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叙階式典

9月3日
フランスがドイツに宣戦布告します。その10日後、バオダイは4大
改革案を植民地政府に提出しますが、戦争を理由に取り合っては
もらえませんでした。

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12月14日 パリ

1940年

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1940年代のバオダイ

1941年(28歳)
日中戦争の激化に伴い、日本軍はベトナムからの中国国民政府に対
する物資輸送ルートを遮断すべく北部仏印に進駐し、ベトナムは
フランスと日本による二重統治下に置かれます。保大帝はフランスと
敵対する日本軍に協力しています。

1943年(30歳)
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1943年のバオダイ帝

1945年(32歳)
3月9日
日本軍は明号作戦を発動してフランス植民地軍に対して攻撃を開始。約3万の
日本軍は、9万と言われたフランス軍に勝利し、フランス軍を武装解除し、
インドシナ植民地政府を打倒します(仏印処理)。

3月11日
当時の日本軍人の中には、日本へ亡命中のクォンデ侯をベトナム
帝国の皇帝に推す者も少なくなかったのですが日本軍の南方総軍
や第38軍がベトナム新政権へ不干渉の方針で、「軍政も敷かない」
「親日政権への改編もしない」ことを既に決定していたためバオダイ帝
は日本軍がフランス軍を制圧したのを機に六部尚書と皇族を集め
独立宣言を発布し、「ベトナム帝国」(Đế quốc Việt Nam)を樹立します。
バオダイ帝はフランスによる植民地支配から独立すると共に日本への
恭順を宣言し、植民地時代(1884年)に締結されたフランスとの
不平等条約である甲申条約(第二次フエ条約、パトノートル条約)を
破棄します。
領土についても、コーチシナを含むベトナム全土の主権回復を宣言
します。

4月17日
ベトナム帝国の首相に著名な文人であったチャン・チョン・キムに内閣
を組織させます。
Trần Trọng Kim:  首相
Trần Vǎn Chương:  外務省
Lưu Vǎn Lang:  交通通信省
Vũ Ngọc Anh:  厚生省
Hồ Tá Khanh:  経済企画省
Nguyễn Hữu Thí:  供給省
Trịnh Đình Thảo:  司法省
Trần Đình Nam :  総務省
Hoàng Xuân Hãn:  教育省
Phan Anh:  青少年担当省
Vũ Vǎn Hiền:  財務省

新内閣はフランス式の町名をアンナンの町名に戻し、フランス人の
官僚を免官して、フランス人の銅像を次々と撤去しました。

また、中等教育における教授言語をフランス語からベトナム語に改定し、
その後の教育制度に大きな影響を与えています。

6月18日
バオダイ帝は「ベトナム帝国」の皇帝を名乗ります。

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1945年発行のベトナム帝国の記念切手

8月中旬
日本のポツダム宣言受諾は近いとの情報を得たホー・チ・ミンは、8月
13日夜、総蜂起の指令を発し、8月17日には、ハノイでバオダイ帝
によって指名されたチャン・チョン・キム首相を擁護する集会がベトミン
の扇動によって乗っ取られ、ベトナム完全独立を叫ぶ大衆デモに移り、
ベトナム8月革命が始まります。

8月18日
バオダイ帝もまた外務大臣の進めに従って、アメリカ大統領トルーマン、 イ
ギリス国王、蒋介石総統、フランスのドゴール将軍に日本の降伏後
も「ベトナム帝国」の独立を認めるように手紙を送ります。
しかし連合軍のインドシナに対する取り扱いは既に決められており、
各国からの返事は無かったようです。

8月19日
ベトミンがハノイの警察署など政府機関の接収に成功したのを契機に
ベトミン側に迎合する者が増えていきます。既に降伏を命令されている
日本軍は、ただ事態を傍観するばかりでした。

8月23日
フエでも人民蜂起によってベトミンが権力を奪取します。

ホーチミン率いる臨時革命政府はバオダイ帝に退位を要求する最後
通牒の電報を打ちます。
「すべての武器、弾薬を革命政府側に引き渡すことを主要条件として、 
皇帝の財産の安全を保障するという内容でした。」 

日本の横山大使は日本の軍隊を使えば、簡単にベトミンを殲滅
できるとバオダイ帝に建議しますが、バオダイ帝は外国軍隊を使って
ベトナム人が殺害されることを拒絶し、この建議を拒否し、退位を決意
します。

フランス革命やロシア革命後の皇帝や皇族がどうなったかも頭をよぎったと
言われています。ましてグエンアイコックはバオダイ帝の父親の
カイディン帝がマルセイユ植民地博覧会に出かけた時には、批判の
戯曲まで書いているのです。

しかしバオダイ帝自身はグエンアイコックの活動を知っていたらしく
「もし、ベトミンのリーダーがグエンアイコックなのなら、すぐにでも退位す
ると語ったと言われています。」

この時期、バオダイ帝に刻々と革命勢力の情勢を知らせていたのは
Phạm Khắc Hoèという側近でした。Phạm Khắc Hoèはフエ宮廷の資金
管理を担当していた官僚でバオダイの退位勅令の原稿を作成してい
ます。

8月25日
サイゴンでも人民蜂起によってベトミンが権力を奪取します。
この日、バオダイ帝は退位勅令に署名します。

8月30日午後
バオダイ帝はフエ宮殿の午門で、集まった50000人の市民の前で
「退位勅書」を発して退位を宣言します。
"Thà làm dân một nước độc lập hơn làm vua một nước nô lệ".

「奴隷の国の国王よりも、むしろ独立国の一市民となる」

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位式典

退位式典には臨時革命政府側からNguyễn Lương Bằng、
Cù Huy Cận 、Trần Huy Liệu (左端,代表)の3人が派遣され、
皇帝の象徴である王剣と金の玉璽が引き渡されます。

ここに143年続いたグエン王朝が崩壊し、939年から続いてきた
ベトナムの王朝制度、封建時代が終了しました。

王剣と金の玉璽がその後どうなったかについては後日談があり、
現在はバオダイの直系子孫が保管しています。(別掲)

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1945年に印刷されたものの退位によって発行されなかった幻の切手

8月31日
午前10時、バオダイの側近だったPhạm Khắc Hoèがフエ宮殿を去る
荷造りをしている時に
「革命政府の最高顧問の職についてもらうため、できるだけ早くハノイ
に来てもらいたい」
グエン・アイ・コック発信の公式電報を革命政府人民委員会の最初
の委員長になったTôn Quang Phiệtが宮殿に届けに来ます。

「最高顧問に迎える」、Phạm Khắc Hoèは信じられず電報を3回も読
みなおしました。市民革命が成功すれば、それまで君臨していた皇帝
は処刑されているのに。フランス革命のルイ16世もロシア革命の
ニコルス2世も。
5分後、Phạm Khắc Hoèは勤政殿に行き、バオダイに報告し、
Tôn Quang Phiệtから詳細の説明を聞くように促します。

バオダイは感謝し、ハノイに行くことを了解します。

9月1日
バオダイ一家はフエ宮殿を去り、カイディン帝が離宮として改築した
近くのアンディン宮殿へと移住します。

9月2日
日本が降伏文書に調印した日にホー・チ・ミンがハノイのバーディン
広場でベトナムの独立宣言を読み上げ、「ベトナム民主共和国」が
樹立されます。

朝5時55分、バオダイはナムフンや子供達に別れを告げて、迎えの車に向かいます。
同行を許されたのは側近のPhạm Khắc Hoè、従兄弟のヴィンカンと2人の侍従だけでした。
バオダイもナムフンも目が潤んでいました。

ホー・チ・ミンはバオダイを丁寧に向かい入れ、その後バオダイの家族
を訪れ、何も心配は要らないと安心させています。
バオダイは感激し、バオダイの母Hoàng Thị Cúcもホー・チ・ミンは非常に親切であったと
回想しています。

バオダイの「最高顧問」としての仕事は、憲法草案作成のアドバイスでした。法律家
でもあったPhạm Khắc Hoèもホー・チ・ミンの法律担当の側近Hoàng Minh Giám
の秘書となり国務省で働きます。

しかしバオダイの本心は立憲君主制の国家を築きあげたかったようで、
だんだんとホー・チ・ミンの政治体制についていけなくなり、個人的な
生活の面でも妻子と別れて住む寂しさからギャンブルや女性に浪費
をし、放蕩生活に溺れていきます。

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最高顧問と言ってもホー・チ・ミンが主役ですから、前皇帝としては耐え
られなかったでしょう。(ホー・チ・ミンの後方がバオダイ)

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ハノイでの集会

ハノイ在住時代にバオダイは2人のダンサーに出会い、愛人にします。(別稿)

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ブイ・モン・ディエップ(Bùi Mộng Điệp)

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リ・レ・ハ(Lý Lệ Hà)

1946年(33歳)
1月6日
バオダイはベトナム民主共和国の最初の国会議員に選ばれます。

3月16日
ホー・チ・ミンとは意見が合わなくなったバオダイは、中国への公式訪問
団のアドバイザーとして重慶を訪問した時に中国に亡命します。
面識のある蒋介石を頼ったと思われますが、中国では国民党と共産
党の間で内戦が始まっており、バオダイは昆明からイギリスの植民地
だった香港へ移り住みます。

昆明では多くの政治家と出会い、そのなかにトルーマン大統領から
中国における全権特使に任命されていたジョージ・C・マーシャル将軍
(George Marshall)がトルーマン大統領との連絡を取り持ってくれま
した。

バオダイはベトナム民主共和国の最高顧問の辞職届けを書きます。

12月19日
フランスは、完全独立を目指すベトナム民主共和国との全面的な戦争
(インドシナ戦争)に直面し、それが長期化する状況に置かれます。

フランスはベトナム民主共和国のホー・チ・ミン(胡志明)が北部の山岳
地方に退却したので、ホー・チ・ミン政府を認めないフランス政府は
ホー・チ・ミンの代わりとなるベトナム人の交渉相手を求め、最終的に
グエン朝最後の皇帝バオダイを、「ベトナム国」の元首として擁立する
ことを意図します。

1947年(34歳)
元フランス秘密警察長のCousseauが香港のリパルス・ベイ(浅水湾)
でバオダイを発見し、ベトミンの勢力に対抗するための新たな建国を促
し、バオダイにベトナムへの帰国を要請します。

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バオダイが帰国することに反対するサイゴン市民の大規模デモ

南部ベトナムではカオダイ教、ホアハオ、ベトナム革命連合軍評議会、
大学ベトナム、ベトナム国民党などの政治勢力やベトナム民主共和国
に反感を持つ反共知識人、グエン朝時代の官人はバオダイを支持し
ていました。

バオダイ帝の皇后だったナムフンと5人の子供達は政情不安の
ベトナムを離れフランスのカンヌ郊外にあるソレンツ城へ移住します。

1948年(35歳)
4月24日
フランス軍の少将であったベトナム人Nguyễn Văn XuânとTrần Văn
Hữuが香港に来てバオダイに会い、ベトナム臨時中央政府の設立
構想の相談をします。

5月15日
バオダイは了解した旨のメッセージをNguyễn Văn Xuânに発信してい
ます。

6月5日
フランス高等弁務官エミール・ボルー(Emile Bollaert)がハロン湾
に浮かぶフランス軍艦Duguay Trouin内でバオダイに会い「ベトナム国」 の
建国につき説明します。

フランスはこの会議でいわゆるドミノ理論を説明し、共産主義勢力の
脅威から東南アジアの同盟国を支援する用意があると明言します。

バオダイとボルーは将来、フランス連合内のベトナムの独立を厳粛に
受け止めることで合意し「ハロン湾協定」にサインしますが、外交関係
と軍事に関する管轄権はフランスに属し、その他の国家機能を徐々に
ベトナムに委譲していくという内容で、独立の正確な意味や新政府の
権限については曖昧なままでした。

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ハロン湾会議

75 (400x275)
同上

76 (312x400) (2)
同上

77 (400x266)
同上

6月20日
香港在住中のバオダイ
78 (392x400) (392x400)

79 (341x400)
同上

80 (335x400)
同上

1949年(36歳)
1月
フランスとベトナムの共同宣言が発表されます。この宣言により、
フランスはベトナムの独立と統一を認識します。

3月8日
しかし、本心ではベトナムの再植民地化を目論むフランスのオリオール
大統領(Jules-Vincent Auriol )はバオダイとエリーゼ宮で会談し、
「ハロン湾協定」の内容を確認した「エリーゼ協定」(Élysée Accords)
が締結されます。
●フランス軍の支援の下、コーチシナ共和国を吸収してフランス連合国
として「ベトナム国」を建国し、元首にバオダイが着任すること。
●外交権、軍事管轄権はフランスに属すること。
●フランス軍はコーチシナに撤収すること。フランス側は表面的にこれを
受け入れます。

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オリオール大統領と会談

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ナムフンとミシェル・オクチュリエ大統領夫人

3月14日
フランス議会は「エリーゼ協定」を批准します。

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フランス, ウェストミンスターホテルで寛ぐバオダイとナムフン

84
ウェストミンスターホテル

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ウェストミンスターホテルの位置(Touquet France)

4月6日
フランス議会はベトナム統一のためのコーチシナ法案を通過させます。

4月24日
バオダイがベトナムに帰国します。

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帰国するバオダイ

87 (400x317)
同上

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同上。ナムフンと長男バオロンが見送ります

89 (400x288)

4月28日
バオダイはサイゴンにもフエに行かず、ダラットの離宮に向かいます。
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ダラット空港でのバオダイ。左はバオダイの側近Phan Văn Giáo

4月29日
バオダイはエリーゼ協定によりベトナム国の国家元首となることが約束
されていましたが、当面は離宮で狩猟や釣りをして過ごしていました。
しばらくするとフランスの高等弁務官であるピグノ(Léon Marie
Adolphe Pascal Pignon )が組閣の相談にやってきます。

6月6日

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ラジオを通じて「ベトナム国」の成立を宣言するバオダイ

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べトナム国の成立を知らせる掲示ビラ

6月13日
バオダイがサイゴンにやってきます。

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バオダイがダラットからサイゴンにやってくるとの掲示ビラ

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サイゴン市民から歓迎を受けます。
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6月14日
選挙が行われるまでの「ベトナム国」の暫定政府が成立し、ベトナム
は、「ベトナム国」によって全土が形式的に統一されることとなります。

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ベトナム国第1次内閣閣僚の外務省前での記念撮影。
女性はナムフン

ただしベトナム国は南部しか実効支配しておらず、ベトナム民主共和国
はフランスの傀儡政権だとして「ベトナム国」を認めていません。実質
ベトナム国の実権はフランスの高等弁務官の手中にありました。
従ってベトナムにはホーチミン率いる「ベトナム民主共和国」とバオダイ
率いるフランスの傀儡政権「ベトナム国」という2つの国が並存すること
になります。

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ホーチミンとバオダイ

ベトナム国政府は暫定憲法を定め国旗と国歌「青少年行進」を制定
します。
またベトナム国軍が編成され、後にベトナム共和国軍に再編成されま
す。

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3本の線は、トンキン(東京)、アンナン (安南)、コーチシナ
(交趾支那)の3地方を表わしています。

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ベトナム国国家

バオダイは対外的な法律関係を処理するために臨時に皇帝を名乗る
ことを宣言します。

6月21日
「エリーゼ協定」が国民に発表されます。

7月14日
ベトナムが正式に「ベトナム国」の管理化におかれ、バオダイが国長
(元首)と首相を兼任し、グエン•ヴァン•スアンは、副首相兼国防長官
になります。
フランスもゆっくりと外国貿易、税関、金融などの管理機能を
「ベトナム国」へ移行していきます。


102
サイゴンのシティーホール(現在のホーチミン市人民委員会)には
バオダイの肖像が飾られ、祝賀モードが醸し出されます。

103
「ベトナム国」誕生を祝うサイゴン市民

104
ハイフォン市民劇場前で歓迎を受ける国長バオダイ一行

105
同上

10月1日
中華人民共和国が成立します。その後のソ連と中国の武器援助によ
りホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国の軍事力が飛躍的に増強さ
れます。

1950年(37歳)

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タイム誌のカバーとなったバオダイ国長 1950年5月29日号

Thứ tự Tên Tư Đến
臨時 Nguyễn Văn Xuân 27 tháng 5, 1948 14 tháng 7, 1949

1 Bảo Đại 4 tháng 7, 1949 21 tháng 1, 1950

2 Nguyễn Phan Long 21 tháng 1, 1950 27 tháng 4, 1950

3 Trần Văn Hữu 6 tháng 5, 1950 3 tháng 6, 1952

4 Nguyễn Văn Tâm 23 tháng 6, 1952 7 tháng 12, 1953

5 Nguyễn Phúc Bửu Lộc 11 tháng 1, 1954 16 tháng 6, 1954

6 Ngô Đình Diệm 16 tháng 6, 1954 23 tháng 10, 1955

「ベトナム国」首相の推移

バオダイは首相の座を辞し、ダラットの離宮に住むようになります。
離宮には銃兵連隊、バオダイが個人で使用する車列部隊、フランス人
パイロットが常駐する飛行部隊がフランス軍によって配備され、
「地方の特別部隊」(công xa biệt điện)と呼ばれていました。

それでも国家の管理機能が次々とベトナムに戻されて来る現状に
首相のTrần Văn Hữuは「現在の状況は素晴らしい」と満足していまし
たが、フランスの官僚たちは、バオダイは国民の支持を得るために権限
の委譲を性急に要求しすぎると不満をもらしていました。

しかしフランスはフランス連合に関連する事項に介入する権利や政府
情報へアクセスする権利を持っており、政府のあらゆる決定に参加しま
す。

8月12日
ベトナムとフランスはベトナム国軍を合同で創設する協定に署名します。
いくつかのフランス軍部隊がベトナム司令官のもとに加わり、
兵士120000人と5000人の将校から構成され、将校はすべて
ベトナム人とされました。
フランス正規部隊の将校はベトナム国軍の育成や支援に責任をもち
ます。
ベトナム国軍はその後、アメリカの支援を受けながらベトナム共和国軍
に改組され、1975年のサイゴン陥落まで存在します。

1952年(39歳)
3月3日

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バオダイ国長はベトナム国軍の栄誉礼を受けます。

4月20日
Trần Văn Hữu首相、退任したばかりのサァラン高等弁務官(Raoul
Albin Louis Salan)、フランス遠征部隊の士官らとダラットのベトナム
国軍士官養成学校(à l'école des Cadres de Dalat)の卒業式に出席
します。

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閲兵するバオダイ国長

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同上

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指揮官のサーベルを渡すバオダイ国長


6月23日
首相がNguyễn Văn Tâmに変わり、閣僚のほとんどがフランスで教育
を受けた人々に代わります。

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フランスで豪遊生活をするバオダイとナムフン

1953年(40歳)
9月5日
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パリで発行されていた雑誌「PARIS MATCH」の表紙を飾ります

11月20日
バオダイの従兄弟のNguyễn Phúc Bửu Lộcがフランスからサイゴンに
戻り、1954年1月11日に首相に就任します。
この時、バオダイはまだダラットの離宮に住んでいました。

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40歳を迎えたバオダイ国長

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5ピアストル紙幣に描かれたバオダイの肖像

1954年(41歳)
3月
ディエン・ビエン・フーの決戦を前にハノイのヤーラム飛行場を訪れま
す。

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ハノイのヤーラム飛行場。フランスのRene Cogny将軍と。

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同上


4月17日

117
バオダイ帝はハノイでベトナム国家軍をはじめ、フランス、べトナム官僚
から忠誠の誓いを受けます。

5月7日
しかしディエン・ビエン・フーの戦いでフランス軍が不覚にも大敗を帰し、
インドシナから徐々に撤退していきます。

6月16日
フランスの支援が危うくなったと感じたバオダイは首相のNguyễn Phúc Bửu Lộcを
退任させ、アメリカの支持を受けているゴ・ディン・ジェム
(Ngo Dinh Diem)を首相に招きます。

その後、バオダイ本人はフランス人で射撃のオリンピック選手
旧ベトナム国の議員でもあったジャン•ド•ボーモン(Jean de Beaumont)
と一緒に狩猟に明け暮れ、果てはパリで豪遊生活をしていた為、
ベトナム国民の離反を招きます。

7月21日
「ジュネーブ和平協定」によりベトナムの領土は、ホー・チ・ミン主席率い
るベトナム民主共和国(北ベトナム)とフランス傀儡政権のバオダイ率
いるベトナム国(南ベトナム)という分断国家になってしまいます。
しかしベトナム国とアメリカの代表団は「ジュネーブ和平協定」への署名
を拒否したことから、これが後のベトナム戦争の引き金となります。

9月24日
ゴ・ディン・ジェムは最初の内閣改造を行います。

バオダイによってベトナム国軍の将軍になったグエンヴァンヒン(Nguyen
Van Hinh)はゴ・ディン・ジェム首相がバオダイの追放を意図している
とフランスのカンヌに住んでいたバオダイに注進にやってきます。

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内閣改造について討議するゴ・ディン・ジェム(左から3番目)
グエンヴァンヒンは(後向き)

ゴ・ディン・ジェムをカンヌに呼び出し内閣改造について説明させるべき
だと忠告しますが、ゴ・ディン・ジェムは来ませんでした。

1955年(42歳)
5月10日
ゴ・ディン・ジェムは2回目の内閣改造を行ないます。

5月19日

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サイゴンでバオダイに反対するデモ

10月4日
バオダイ国長を解任してゴ・ディン・ジェム首相を国長にするかの住民
投票委員会が設立 されます。住民投票委員会のメンバーはすべて
ゴ・ディン・ジェムの支持者で構成されていました。

10月23日

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ベトナム国の選挙の前にパリのアパートで報道陣の前に姿を現した
国長バオダイと妻のナムフン。国長でありながら母国を離れて暮らして
いる夫妻に国民の関心は薄れていきました。

10月26日
本国を不在にする国長バオダイに対してゴ・ディン・ジェム首相は
アメリカの支援の下、国長を決める国民投票を実施します。

赤表と緑表が用意され、赤表がバオダイを解任し、ゴ・ディン・ジェムの
国長賛成を意味していました。投票所はすべてゴ・ディン・ジェム首相
支持派の支配地域で、信じられないことに赤表を入れる投票箱しか置
いてありませんでした。まったくのデタラメ投票だったのです。

投票結果は5,721,735票で98%の人がバオダイの解任に賛成したと
発表されています。

このデタラメ投票結果を受けてゴ・ディン・ジェム首相はベトナム国を
共和制へと移行させ、「ベトナム共和国」が成立すると大統領に就任
します。

「ベトナム共和国」は王制を廃止しますが、現王族は王族としての権利
を保証し、子孫には一切の権限を与えない」事にしました。

バオダイは退任を余儀なくされ、家族のいるフランスへ正式に亡命、
その後死去するまでの約40年間、ベトナムへ一度も帰国せずにパリ
で余生を送ります。

しかしフランスはバオダイへの支援金を払い続けました。


亡命生活 1955年~1997年

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フランスに亡命したバオダイ


バオダイは亡命当初はカンヌに住み、その後Alsace 地方に移ります
が、時期が明確ではありません。

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Alsace地方

1957年
「ベトナム共和国」はバオダイのベトナムにある財産をすべて没収しま
す。

1963年(50歳)
9月16日
ナムフン皇后は9月16日、フランスの自宅で肺結核が原因で、呼吸
困難に陥り、医師の到着が間に合わず49歳の生涯を閉じます。

バオダイはハノイで知り合った、側室のモン・ディエップと遠出をしていて
連絡が取れずナムフンの葬儀には間に合いませんでした。

1971年
フランスでバオダイはヴィッキーとクレメントというダンサーを愛人にした
後、30歳以上年下のMonique Baudotと同棲するようになります。

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Monique Baudot

フランスの税務当局がバオダイに税金の支払いを求めた時、現金が
無くフランス政府が支援しました。
次第に彼は資産を売るようになり、1972年2月にはほとんどの資産
が売却されてしまいました。

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パリのコーヒーショップでのバオダイ

1982年
Monique Baudotと結婚式を挙げます。

この年、バオダイは個人的に始めてアメリカを3週間に渡って訪れま
す。
それはアメリカでグエン王朝の皇族クラブの開設式があり、アメリカに住
んでいる側室だったLê Thị Phi Ánhの息子バオアンと香港で知り合っ
た側室Hoàng Tiểu Lanがバオダイを招いたものでした。

バオダイはカリフォルニア州ヤテキサス州で暮らすベトナム人やベトナム
系アメリカ人と懇談し、国民和解を訴えます。

バオダイの子孫たちは自分の父と母の名を記した出生証明をバオダイ
が発行することを要請します。

1988年
晩年バオダイは カトリック教会で洗礼を受けます。カトリック名はJean-Robertです。

1995年(82歳)
バオダイの老後の生活は決して楽なものではありませんでした。
莫大な財産、地位、名誉を失いフランス政府からの援助や支持者の
援助に頼って生活していました。何よりも辛かったのはナムフンが死去
し、子供達もバオダイと一緒に住むことはなかったことでした。

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晩年のバオダイ  1995年12月パリ

1997年7月31日(84歳)
パリのヴァル•ド•グレース 陸軍病院(Quân y viện Val de Grace)で数
年の入退院を繰り返していましたが、31日の朝5時に肝疾患のため
84歳で死去します。廟号,諡号,陵号はありません。

死の数日前、バオダイはひそかに隠されているグエン王朝の財宝を
しきりに見たがりました。

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バオダイと金の玉璽(手前に少し写っています)

しかし子供達は敢えて拒否しました。それはバオダイが財宝を売って
浪費してしまうことや結婚したMonique Baudotの手に渡るのを防ぐ
ためでした。
子供達はMonique Baudotをあまり好きではありませんでした。

彼は死の2ヶ月後にハノイで開催されるフランス語諸国のサミット会議
に招待されていましたが、出席はかないませんでした。

ベトナム最後の皇帝バオダイは実に人生の後半40年をフランス
での亡命生活で過ごしました。

1997年8月6日午前11時 <葬儀>
バオダイは晩年、洗礼を受けていたため、葬儀はしめやかにパリ16区
にあるセントピエール教会(Saint-Pierre de chaillot)で行われました。

フランス政府はフランス国旗を贈り、ベトナム外務省はベトナム祖国
戦線からのお悔やみの花輪と、遺族にお悔やみのメッセージを送って
います。
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セントピエール教会

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バオロン・バオタン兄弟

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Monique Baudot、バオダイ死後は泰芳皇后(Hoàng hậu Thai Phương)と呼ばれます。

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第一正妻ナムフン皇后が生んだ子供5人

<墓>
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パリのエッフェル塔近くのパッシー墓地に眠るバオダイ
ナムフン皇后の隣に埋葬されることはありませんでした。

<バオダイが残した言葉>
“我不希望外國軍隊殺死我的人民”
Ta không muốn một quân đội nước ngoài làm đổ máu thần dân ta

“願為獨立國之民,不作奴隸帝王”
Làm dân một nước độc lập hơn làm vua một nước nô lệ.

“所謂的保大方案只不過是一個法國方案”
Cái được gọi là giải pháp Bảo Đại hóa ra là giải pháp của người
Pháp.

“是時候結束這場兄弟相殘的戰爭,恢復最終的和平與和諧了”
Đã đến lúc kết thúc cuộc chiến huynh đệ tương tàn và ít nhất là
phục hồi hòa bình cùng sự hòa hợp.

“請讓我的生活和死亡的和平”
Xin cho tôi được sống và chết trong bình yên.






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