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ホーチミン市を中心にベトナムの歴史や町の様子をお送りします。
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タインタイ帝
タインタイ帝
11

Thành Thái (成泰帝)
Nguyễn Phúc Chiêu(阮福昭)
幼名 Bửu Lân (ブーラン 第5代ズクドゥク帝の子)
生没年  1879年3月14日 –1954年3月24日
       (75歳) サイゴンで死亡
グエン朝第10代皇帝
在位: 1889年2月1日 – 1907年9月2日(退位)

1.皇帝選定の手続き
先帝のドンカイン帝死去に伴い、フエ宮廷官僚は次期
皇帝を誰にするかフランス理事官の意向を聞きに行き
ました。しかし通訳Diệp Văn Cương(ブーランの叔父)
はフエ宮廷は次期皇帝に「ブーランを推挙することに
決定しました」と通訳してしまいます。フランス理事官は
ブーランが幼少時から聡明であることに気付いていまし
たので同意しましたが、通訳はこの同意を「ブーランを
選定すべきだ」と訳しました。

ズクドゥク帝がわずか3日で廃位された後、妻子は故
郷に帰り貧困な生活をしていましたが、その後ズクドゥ
ク帝の墓が完成すると墓守のために宮廷内に戻って
生活していました。

宮廷からの使者がブーランの皇帝就任を伝達に来た
時、母親のトゥミン(Từ Minh)は留守でした。10歳だ
ったブーランは驚き慄いて、母親が帰ってくるのを待つ
ように返答するのがやっとでした。帰ったトゥミンは近々
の皇帝も皆、無残な死や廃位されているのを知ってい
たため、最初は子供の皇帝即位を拒否していましたが、
官僚はこの就任はフランス理事官の推薦である旨伝
え、宮廷内に誰も反対者はいないとして説得します。

そして戴冠式を旧正月の1889年2月1日と決めま
す。

2.戴冠式典

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戴冠式の日、フランスは正式にブーランがアンナン国
の第10代皇帝タインタイになることを承認したことを伝
達するためにアンナン理事官Rheinartとアンナン行政
府首長Boullocheがフエ宮廷にきます。

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Rheinart

紺の衣装と黄色の髪飾りをしたタインタイ帝は玉座に
座り、官僚や親族がその周りに起立しています。フラン
スの使者が来るとタインタイ帝は玉座から降りて
Rheinart、Boullocheと握手を交わし、Rheinartが祝
辞を述べます。タインタイ帝は答礼を述べた後、使節
団を宮廷内の茶会に招きました。

翌日、正式な戴冠式が大和殿で開かれました。
宮廷内は美しく装飾され、午門前の橋から大和殿の
前庭まで臣下や親族が並んでいます。
3列のドラム隊の演奏に合わせてフラッグタワーにグエ
ン王朝の国旗が掲揚されます。

9匹の龍をあしらった帽子、黄色の衣装にヒスイのベル
トを締め、手にシナモンスティックを持ったタインタイ帝
がCần Chánh 宮殿(皇帝の私邸)から文官、武官に
守られた籠に乗って大和殿に向かいます。ドラムと鐘
が一斉にならされます。

タインタイ帝は大和殿に到着すると、フランスの使節団
と握手をかわし、戴冠し玉座に座ります。21発の祝砲
が轟きます。

式典のメイン部分の始まりです。
フランス理事官の祝辞を聞いた後、皇帝はアイボリー
の箱から漢文で書かれた宣言書を取り出し、力強く透
き通った声で自分の治世が始まることを読み上げま
す。
その後、臣下は皇帝の前に階級別に一列に並び、5
回の低頭を繰り返してからひざまづき「Gold Book」と
呼ばれている詔勅を文官が読み上げます。

「天の声と民の要請に従って王座はタインタイ帝に与
えられた・・・・・・・・・・・・・」

詔勅の朗読が終わると、もう一度5回の低頭を繰り返
します。9発の祝砲と共に皇帝が籠に乗ってCần
Chánh宮殿に引き揚げると式典が終了します。
その後、前例に倣って恩赦などの恩典が発表されま
す。

即位後,フランスはタインタイ帝がフランスに反抗心を
持たないよう教育に努めますが、タインタイ帝は聡明で
フランス人の前では政治に関心がないかのように見せ
る一方、民情を探るべく度々王宮から外出します。

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タインタイ帝の官僚達 1890年

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タインタイ帝の兄弟と教師達

3.行幸
タインタイ帝は在任中、庶民の生活実情を把握するた
めにハノイやサイゴンにも行幸しましたが、しばしば訪れ
たのは宮廷の西門から広がるKim Long 村でした。
娯楽もかねて、時には変装して出かけました。

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行幸

1897年 サイゴン行幸

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アンナン皇帝とカンボジア国王がインドシナ総督に就
任したドゥーメールを表敬訪問します。

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右側がドゥーメール総督

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1902年 ハノイ行幸
 
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1902年 ハノイに建設された展示会会場の建物を訪
れるタインタイ皇帝と夫人。

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1904年のタインタイ帝

タインタイ帝は西洋文化に多大な興味を持ち、ベトナ
ムの君主では初めて自ら自動車を運転し、髪型も西
洋風に改めました。

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自転車の乗るタインタイ帝

その後、トンキン地方で大凶作が起こり、庶民が貧困
に喘いでいるという噂が耳に入ると、何らかの支援をし
ようとトンキン地方に行幸する希望を官僚に告げます
が、フランスの子分になっていた官僚たちは予算が無
いという理由で拒否してきました。
当時はポール・ドゥメールの強行な植民地政策が始まっており、
専売事業はすべてフランスが管理し、宮廷費もフランス
から支払われるように変更させられていました。

タインタイ帝は自らの費用でも視察に行くと譲らなかっ
たため、タインホアまでの行幸が認められます。

人々の貧困状態を視察したタインタイ帝はその思いを
詩に残しています。
詩の英訳文は次の通りです。
All mandarins, civil and military alike, wear brocade robes proudly
Three cups of sweet wine combined with blood are presented
A grass of wine tea diluted with water is given to me now two
Like tears from the Heaven, rains make a lot of people wet
Songs from somewhere can not softened the people’s hoarse cries
Is there anybody who loves his country and people?
It is difficult to say yes or no in the war time

この詩は北部ベトナムの人々に広く読まれ、また刊行
もされ、人々は皇帝を敬愛するようになります。しかし
その一方でこの詩はフランスとその手下達に対する
反抗の灯明にもなっていきました。

4.フランスへの反抗と退位

1907年
タインタイ帝は生来、実権を握るフランスに対しては
好意を持っていませんでしたが、各地の実情視察を通
じて反抗心を持つようになり、フランスとその子分になっ
ている官僚達に対して反抗するために秘密裏に50人
の女性からなる部隊を作り、タインタイ帝が自費で宿
泊や食事の世話をします。訓練を終えた女性兵士は
それぞれの故郷に帰り、同志を募って蜂起の時期を
待っていましたが、この件が宮廷の護衛隊長であった
Trương Ngư Cươngに知られてしまいます。彼はフラ
ンス理事官に密通し、タインタイ帝を廃位して自分の
親族であるBủu Đảo (後に12代皇帝カイディン帝にな
ります)を皇帝に推薦します。
フランスとそのゴマすり連中達はタインタイ帝を追放す
ることを企み、皇帝は気が狂ってしまったと言う噂を広
めます。

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New Zealand Herald 1906年12月8日

7月12日
皇帝は数人のゴマすり官僚の任命を承認することを拒
否します。フランスの理事官Lévecqueは宮廷に来て、
Trương Ngư Cươngと協議した上で、タインタイ帝に
話します。
「皇帝はフランスの保護国として協力することに真剣で
はない。今日からは閣僚協議会が諸問題を解決する
全権限を持ちます。皇帝にはもはや何の権限も無く、
宮廷外に外出することも許されません」

そしてTrương Ngư Cươngを首班とする内閣が組織
され、タインタイ帝は監視下に置かれ、フランスとの共
同コミュニケが発表されます。
「皇帝は精神錯乱状態に落入ってしまったので、国民
の利益と皇帝の安全を確保するために、このような処
置をとりました。」

9月2日
Ngô Đình Khảを除く高級官僚はタインタイ帝が住む
宮殿(Càn Thành Palace)に出向き,「退位の勅令」原
稿と一緒に「退位請願書」を渡します。皇帝は請願書
を読み終わると口を少しあけて笑い、勅令証書に署名
し、部屋に戻ります。

9月11日
フランスはタインタイをサイゴンのブンタオ岬(Cape
Saint Jacques)の丘陵に連れて行き、監視下に置き
ます。

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Cape Saint Jacques(ブンタオ岬)

1919年
タインタイ帝は皇位を息子(第11代ズイタン帝)に譲
位しますが、12年後、息子もフランスに反抗したため
息子と共にレ・ユニオン島に追放になります。

25 )
レ・ユニオン島

1950年
レ・ユニオン島に追放されて31年後、ベトナムへの帰
国が認められブンタウに戻りますが、依然軟禁されたま
まの状態でした。
この間、ベトナム国の元首になっていたグエン朝の最
後の皇帝バオダイ帝とも会見しています。
バオダイは贈り物と多額の金を用意して来ましたが、
タインタイは贈り物だけ受け取り、金は国家のものだか
らといって受け取りませんでした。

1953年
故郷のフエを訪問することが認められ、約1カ月間、
兄や子孫を尋ね、またブンタウに戻ります。

1954年3月24日
第一次インドシナ戦争終結直前の年にブンタウにて
75歳で死去しました。遺体は一族により父親である
ズックドゥック帝の傍に埋葬されました。

5.墓所
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左がタインタイ帝、右がズイタン帝の墓
父親ズックドゥック帝の陵墓(An Lang)の敷地内に
親子3代が眠っています。

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タインタイ帝の子供(1891年)

28
タインタイ帝の妻

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